十五年来の天敵
四月の朝、桜並木の通学路で、私は神様と取引をしていた。
内容──今日のクラス分け発表で、桐谷結衣を、別クラスにしてください。
対価。中三の冬、駅前で拾って三日間こっそり飼って、結局飼い主が見つかって泣きながら返した、あの三毛猫の三日分の幸福。返上します。それでいいので、お願いします。
これくらいで、足りますか。神様。
「ともちゃーん!」
神様は聞いていなかったらしい。
昇降口で、その声を聞いた瞬間、肩がびくっと跳ねた。跳ねたあと、跳ねた自分にイラついた。
跳ねるな七瀬朋花。十五年も同じ声に毎朝跳ねるな。慣れろ。
慣れない。
声の主は、廊下の向こうから手を振りながら駆けてきた。明るい茶色のセミロング、毛先がちょっと跳ねていて、笑うと目が三日月になる、桐谷結衣。私の幼馴染、家が徒歩五分、十五年来の天敵。
好きだから、天敵なのである。
「ともちゃん、見た? クラス分け、見た?」
「まだ」
「行こ行こ」
結衣に腕を引かれて、私は二階の掲示板まで連行された。
貼り出された紙に、二年生のクラス分けが書かれている。私の指が、自分の名前を探す。
──七瀬朋花。A組。
──桐谷結衣。C組。
別クラスだ。
神よ。
神よ、ありがとうございます。三毛猫の三日分、確かに、徴収してください。
平穏。
平穏が訪れたのだ。
「あー……、別になっちゃったね」
平穏は二秒で終わった。
結衣の声が、いつもより一段、低い。
私は結衣を見上げた。結衣は掲示板を見つめたまま、ほんの少し唇を噛んでいた。右耳の上の髪を、人差し指で一房だけ撫でていた。考え事をするときの、結衣の癖。十五年来、私だけが知っている、結衣の癖。
えっ、結ちゃん、なんで残念そうなんですか。落ち込むの、いま私のターンですけど。
「で、でも、休み時間とか、あるし……」
なんで私が慰めているのか。
「……うんっ」
結衣はすぐ笑顔に戻った。戻ったのに、戻るまでの〇.五秒くらいのあいだに、私は何かを見た気がした。何を見たのかは、言語化できなかった。
その日から、結衣の距離感が一段おかしくなった。
もともと結衣は、人との物理的距離をミリ単位でしか考えない人間である。手をつなぐ、腕を組む、肩に頭を乗せる、寝顔を覗き込む、これを十五年やっている。それが、別クラスになった四月から、もう一段、濃くなった。
たとえば、移動教室。
二年A組と二年C組の教室は廊下の反対側で、本来は休み時間ごとに顔を合わせる距離ではない。それなのに、私が音楽室に向かおうとして教室を出た瞬間、結衣が廊下にいる。
「ともちゃん、音楽でしょ? 一緒に行こ」
結衣の教室から音楽室までの動線、私の教室を経由する必然性はない。
ないんですけど。
その瞬間、結衣は私の手をつないできた。指を絡める、いわゆる「恋人つなぎ」というやつだ。
私の心臓に一発、強烈なジャブが入る。
いつもの幼馴染ムーブ。たぶんそう。たぶんそうなんだけれど、今日のは指の力が強い。痛いほどではないが、確実に「離さない」と伝えてくる強さだった。
そして気づいた。
結衣の手のひらが、汗ばんでいる。
いつも結衣の手はクーラー、私の手はサウナ。これは私の中の宇宙の常識である。なのに今日は、結衣の手のほうが湿っている。
私の中で、ざわっと、何かが立ち上がった。
音楽室の手前で、結衣はふと、思い出したようにこちらを向いた。
「そういえば、ともちゃん。春休み、どこか出かけてた?」
「えっ」
「私が誘っても、何回か用事って断ったでしょ。なにしてたのかなって」
声のトーンは、いつもどおり。
いつもどおりなのに、結衣の指は、私の手の中でもう一段、力を込めていた。
「あ、いや、本屋とか」
「海外マンガ置いてる、あそこ?」
止まりかけた。
海外マンガ目当てで通ってるなんて、私は結衣に言ったことがあるだろうか。あるかもしれない。でも、ないかもしれない。少なくとも、即答で言い当てられるほど頻繁には話していない。
「……うん」
「ふーん」
「ふーん、って」
「ううん、なんでもない」
結衣はそれだけ言うと、私の手をもう一度だけ、強く握り直した。
その日の昼休み。
私は自分の教室で、購買のメロンパンと牛乳という最高のコンビを開封しようとしていた。
そのとき、スマホが震えた。
>ともちゃーん
>お昼なに食べてる?
>私はおにぎり
>ふふ
……結ちゃん、最後の「ふふ」とは何ですか。
>お昼一緒に食べないの?
と打って、消した。なんで私から誘っているのか。送らなくてよかった、本当に。
>そっち行っていい?
と来た。返事を考えているうちに、続けて、
>あ、やっぱりいい!
>自分のクラスでたべる
>放課後一緒に帰ろ
>ぜったいだよ♡
私はメロンパンを齧りながら、画面を無表情で見ていた。
無表情。
無表情なのに、頬は熱かった。
「ねえ、七瀬さん」
声をかけてきたのは、隣の席の橘さんだった。二日前のクラス替えで初めて喋った、新しいクラスメイト。私はまだ、彼女のことを何も知らない。
「な、なに」
「画面、見ながら笑うのやめたほうがいいよ」
「わ、笑ってない」
「笑ってる」
反論できなかった。メロンパンの袋を、少し強く握る。
「今朝、桐谷さんと下駄箱で会ってたよね」
「うん、まあ」
「幼馴染なんだって?」
「……はい」
「ふうん」
橘さんは、弁当の卵焼きを丁寧に半分に切った。切った片方を、口に運んだ。
「あのね、七瀬さん。余計なことかも、なんだけど」
「は、はい」
「あの子さ、七瀬さんのこと見てるとき、あんまり、瞬きしないね」
私はメロンパンを咥えたまま固まった。
橘さんは、それ以上は言わなかった。言うかわりに、もう半分の卵焼きを口に運んだ。
言わないほうがこわい、ということを、私はいま学んだ。
というか、瞬き、とか、橘さんはいつ、そんなところまで見ていたんですか。
私はノートの端に「冷静になれ」と書いて、その下に「無理」と書いて、消した。
放課後、駅までの帰り道。結衣の歩く速度はいつもより遅くて、私の隣をぴったりキープしてくる。肩がときどき触れる。
「ねえ、ともちゃん」
「なに」
「ともちゃんって、中学のとき、坂本さんって人と仲良かったよね」
止まった。
私の足が、止まった。
待ってください結ちゃん。
なんで結ちゃんが坂本さんの名前を知ってるんですか。中学時代の友達の話、結ちゃんにそんなにしてませんよね。たぶん、してない。してないですよね? してないと思います、私の記憶では。
坂本──美月。私の中学の同級生、今は他校。漫画の話ができる、数少ない友達。なんで結衣がその名前を知っているのか。本屋の件と合わせて、二件目だ。
「えっ、なんで」
声が震えそうになるのを必死で抑える。
「ううん、別に」
結衣が笑う。ただし、笑うまでに半拍だけ、遅れた。
「今度、紹介してよ。会ってみたい」
結衣はそれだけ言って、「電車来ちゃう、行こ」と歩き出した。
夕方の空が、いつもより少し赤かった。
数日後の昼休み。
最近、結衣はお昼を「自分の教室で食べる派」になっていた。これも私の警戒レーダーに引っかかっているが、本音としては、ちょっと寂しい。
寂しさを抱えて廊下を歩いていた私の前に、結衣が廊下の角から、気配なく現れた。
「ともちゃん」
「うえっ」
今のは人間の出す声ではない。
結衣が近づいてくる。距離五十センチ、四十、三十、二十。
止まらない。十センチ。
「ちょっと、動かないで」
結衣の手が、私の頬に伸びた。
私の視界が、結衣の睫毛で埋まる。睫毛が、長い。
息が、止まる。
結衣の親指が、私の頬を優しくなぞった。
なぞ、った。
私の脳は、たぶんその一秒だけ、四月の桜より先に散った。
「……取れた」
結衣が、自分の親指の先を私に見せた。
何もついていなかった。
「あれ、もう取れちゃったかな。桜の花びら、ついてたから」
桜の花びら。
結ちゃん。それ、四月、もう終わりますけど。
でも、結衣の親指は、私の頬から離れた瞬間に、結衣自身の制服のスカートにこっそり擦りつけられていた。
私は、見た。
花びらは、最初からなかった。
その夜、私は自分の部屋のベッドに仰向けに倒れていた。
倒れたまま、頬に手を当てていた。結衣の親指が触れたあたりに。
とっくに消えているはずの感触が、消えていない。私の脳が、勝手に再生し続けている。何度も。何度も。
ふいに、ぜんぜん関係ない記憶が浮かんだ。
小学一年の夏、私は犬に追いかけられて田んぼに落ちた。泥まみれで、ひとりで泣いていた。そのとき結衣は、何も言わずに、自分から田んぼに入ってきた。一緒に泥まみれになって、それから、にっと笑って言った。「これでおそろい」。
結衣は昔から、私を助けるとき、私より先に自分を汚す。私が泣くと、私より先に泥をかぶる。十五年、ずっとそうだった。私はそれを、あたりまえだと思って生きてきた。
あたりまえじゃ、なかったのかもしれない。
仰向けの天井に向かって、私は小さく声に出した。
「……ばか」
誰のことを言っているのか、自分でもよく分からない。たぶん、結衣でもあり、自分でもある。
布団を頭まで被って、私は、私の人生の真実と、改めて向き合った。
ようするに、これは、ようするに、好きなんだ。十五年来。
はい。
今夜、私は、認めます。
明日も結衣に会うので、ぜんぜん救いはないですけど。
布団の中で、スマホが震えた。
通知音。ヤツだ。
>ともちゃ〜ん
>起きてる?
>ねえ
>起きてる?
>返事して〜
画面を見つめている数秒のあいだに、もう一通が跳ねた。
>明日も学校で会えるの楽しみ♡
ばか。
毎日学校で会ってるでしょ。
私は返信を打って、消した。
もう一度打って、消した。
三回目、ようやく送った。
>うん
送ったあと、布団に顔を埋めて、五分くらい、無音で叫んだ。
翌週の月曜日。
六時間目の英語が終わって、私が下駄箱に向かっている途中、廊下の角から結衣が出てきて、私の腕を掴んだ。
「ともちゃん」
結衣の声が、いつもより少しだけ低かった。
「話、あるんだけど」
心の準備は、十五年やってもまだ整っていない。
「今週末さ、私の家、親いないの」
「うん」
「来ない? お泊まり、しよ」
……。
……えっ。
脳の中が、急に満ちた。波の音みたいな、何か。
四月の窓の外の、桜の最後の花びらが、廊下の床に一枚、流れてきた。誰かが踏まなければ、たぶん夕方まで、そこに残るやつ。
……いや、踏みますけど。私が、たぶん、今、踏みますけど。落ち着け七瀬朋花。桜の花びらに、罪はない。
私は、結衣の顔を見た。
結衣も、私の顔を見ていた。
結衣の目は、三日月になっていなかった。




