恋愛中症候群
**甘い涙**
左半身を下にして泣いていると、右目からこぼれた涙が左目にするすると入っていって、その冷たさにわたしは驚く。涙は熱いものだとばかり思っていたのに、それは泣いている自分を嘲笑うように冷えていて、結局その悲しみに血は通っていたりするのかしら、自己満足のくせに、泣ける自分が可愛いだけのくせに、と見透かしたように温度をなくしてわたしの心を痛いほど怖くさせる。
彼と寝た後はいつもそうだ。
傍にいると息もできないほど幸せでその幸せが怖くてひとりで早く深呼吸がしたくて、逃げるように曖昧な笑顔をさらにぎこちなくさせて帰りたい帰りたいと呪文のように胸の内で繰り返すくせに、ひとりになると彼の体温を思い出して世界の終わりのようにぞっとする。寂しくてたまらなくて、彼と寝た後は散々泣くはめになる。そして彼を振り切って帰ってきた――さよならのキスもそこそこに。彼はわたしを引きとめたくて仕方ないという動物の目をしていた――のに、ここに彼がいないことを恨んでしまう。どうしてここにいてわたしを背中から抱き締めないの、髪を撫でないの、切なくさせて悪かったと甘い口調で謝らないの、と、ひどく理不尽なことを思う。
彼と寝た後でわたしは自分のお布団の中で静かに静かにひたすら長い時間の中で眠りのやってこないまま泣いている。眠りの尻尾は一度つかみそこねると綺麗に霧散してもう二度とつかめないような感じになる。それで午前四時だとかまでわたしはめそめそと泣き続けるのだ。合間合間に彼のすべらかな小麦色の肌だとか世界で一番美しい背中だとか、太い腕だとか器用な指だとかを思い出す。それはわたしを信じられないほど幸せにしてしまい、たじろいでしまうほどの圧倒さで空気の色を変えてしまう。わたしの呼吸は彼に抱かれるたびピンク色に染まる。それは持続して、わたしの世界は薄桃色に染まってゆく。
右の目からこぼれた涙は左目に入り、そのふたつの目の分の涙は頬骨の上を横切って枕に沈む。眠る姿勢の涙は口に入らない、だからそれは塩辛いのではなく甘いのだろうと決めつける。お砂糖よりも甘くて、ケーキよりもやわらかくて、どうして恋は。どうして恋はこんなに幸せな切なさを与えるのだろう、息もできないくらいに好きな人がいるなんて、それはなんて素晴らしく苦しいことなのだろう。
いつかわたしは彼を殺して食べてしまうかもしれない。でもできるのならば本当は、彼がわたしを殺して食べてくれるといいのに。わたしの肉は彼の白い歯――彼はタバコを吸わない、わたしはタバコの匂いを嫌悪している――に引きちぎられて咀嚼されて食道を通り胃に落ちて消化され、彼の栄養になる。この恋心ごと。
わたしは恋人のことを思う。彼はわたしのもので、わたしはそれよりももっと彼のもので、死にたいくらいの幸せに包まれる。涙は冷たくて、恋は甘いだけのものではないと言いたそうだけれどわたしは耳を塞ぐ。
彼がわたしのもので良かった、他の誰のものでもなくて、わたしのもので良かった、もしも彼が他の誰かのものだったら、わたしは戦わなくてはならなかっただろうから。その、誰かと。血みどろになって、命をかけて、勝っても死んでしまったなら意味がない。悲しくない涙があることを彼と出会ってはじめて知った、静かに夜が明けてしまうまでに涙が乾くのかは分からないけれど、わたしはまた彼の肌の匂いを思い出しながら幸せで窒息しそうになっている。
**犬歯の誘惑**
だいたい原田さんの肌は健康的に小麦色過ぎていけない。あたしがついつい噛んでみたくなっちゃうのは、どうしても仕方のないことだと思うけれど、何故か彼はあたしが口を開けた瞬間をいつも見ている。
「ダメだってば」
笑いの含まれた声は楽しそうで、本当は『噛んでみなよ』って誘ってるんじゃないの、と勘ぐってしまうのだけどそれは違うらしい。
「オレはマゾじゃないから」
痛いのはダメだとか言う。じゃああたしを噛んでもいいよ、というと、ちょっとだけ困った顔をしてから、やめとく、と首を振る。
「キスマークでもいいけど」
「オレがつけたらダメでしょう」
「あたし、キスマーク大好きだけど?」
あれはマーキングだから、と彼は言う。マーキング。マーキング上等じゃない、この女はオレのもんですから、っていうマークな訳で、セックスしてキスマークをつけられたらもうそれは女として最高の幸せだとあたしは思うんだけど。
「人のものに、オレの、って印つけちゃならんでしょ」
彼は笑うと目が細くなる。糸みたいになって、目尻には皺が細かく寄るので、いい人みたいな顔になる。でも彼が意地悪なのをあたしはちゃんと、というより嫌ってくらい知っていて、入れて、って頼んでも焦らしてばかりだとか、くすぐったいから止めて、とお願いしても太ももや脛にくちづけたりだとか、恥ずかしいから、と言っても電気を消してくれないところとか、あたしの背中やお腹の肉をつまんで悪い顔して笑うところとか、そういうのを全部分かっているのに、誤魔化しちゃうように、包み込んじゃうように笑う彼のその顔をずるいと思う。詐欺師だ。
「今は、原田さんの、もの、よ?」
嘘にしか響かない言葉はチープで、自分でも分かっているから笑ってしまう。
「今は、ね。でも噛んだ痕は長く残るから、」
ダメ、と甘く言われてもあたしは納得しない。キスマークが、噛んだ痕が、長く残らないなんてそれならば意味はない。あれは身体に残る余韻なのだから。そのあと眠ってしまったとしても、あああたしはあの人と交わったんだわ、とぼんやり、だけど幸せに――時には不幸に――思い出すための大事なものだから。
「意気地なし」
「そういうコトを言わない」
「弱虫」
「ひどい言われようだ」
言葉で攻め立てて苛立たせて、そこまで言うならつけられて困ればいい、と原田さんが怒ってあたしを噛むのを期待して言葉を重ねても、彼はちっとも思惑通りには動かない。
「だいたい、」
人のものになったのはあなたが先のくせに。原田さんはあたしと出会う前から、人のものだったのに。
鼻をつままれて、それは痛くなかったけれどいつも鼻呼吸のあたしは息が止まってびっくりする。空気を吸うのってどうだったっけ、と焦ったら、心臓がばかばかと忙しく鳴って、頬に血が集中した。胸のところが痛い。それは原田さんを想うときにすごくよく似ていて、悔しいから絶対に認めない。
「君の彼氏に悪いよ」
「じゃああたしと寝てるとき、原田さんは奥さんに悪いなーって思ってるわけ?」
「なかなか意地悪な質問だな」
意地悪はあなたの存在だよ。
「あたしは彼氏に悪いなんて、ちっとも思わない」
「思えよ」
「彼氏が浮気したら殺すけど、あたしが原田さんとセックスするのは違うもん」
「勝手だな、浮気したら殺す、か。でもそれって愛してるってことだよな」
違うよ、全然違う。
原田さんは、男の人は、どうして物事をロマンチックに考え過ぎたがるんだろう、そんなの全然違うのに。あたしは彼氏より原田さんを大事に想ってるってことを言外に言おうと思っただけなのに。
「オレは奥さんから殺されたりしないな」
「なにそれ、愛がないとかっていうの?」
笑い声は不自然に高くなってしまった。自分から言い出したくせに、『奥さん』という単語がすごく違和感のあるものとして転がる。あたしじゃない立場の女の人。原田さんが帰る場所。あたしはこの人のなにが好きなんだろう、と見つめてしまう。まじまじと。
「バレないからだよ、バレさせないから。浮気、なんて」
あたしはこの人の浮気なのだ。
浮ついた気持ち。
嫌な言葉。
真剣過ぎない分だけどこか安心して、切なくなるけど気が楽な関係。
「あたし、いつか原田さんの子供産んであげたい」
「え、いらないよ」
浮気なオレの遺伝子なんて残しても迷惑だよ、と彼は笑う。知ってるよ、とあたしは言って、嘘だもん、と唇の端を持ち上げてとびっきりの笑顔を作って――今度は成功した――、したい、っていう誘い文句なだけだよ、と付け足す。あたしの本当の気持ちなんて、浮ついた気持ちの人には分からなくていいんだもの。
「しようしよう、二回戦!」
「元気だな、おじさんはもう何も出ないよ」
嫌だするの、しようしよう、とあたしはベッドの中で裸の腕を振り回す。原田さんに当たる。不意に泣きそうになったから、彼の手を取って指に思い切り噛み付いた、痛い、と彼が声を上げて、後で気付いてそれが左の薬指だったから、あたしって思ってるより悲しい女、と切なく笑えた。
**妄想炸裂**
三十四歳、メガネで高めのシニヨン、濃い肌色のエプロンはダサイの一言に尽きるのにそれは良く似合ってしまっていて、化粧っ気はなく、膝下の紺色スカートと薄い水色のブラウスを自分の制服と決めている図書館勤務の女、なんていうと、誰でも簡単に「処女か」と思うらしい。
処女ではないけれど、結婚をほのめかしてくれるような恋人はいないし、過去に大恋愛をした訳でもなく、家と職場の往復な毎日で週に一度だけ唱歌のサークルに出かける、なんていう女は、自分でもそう異性の気を引くものではないだろう、と分かっている。でも苦手なんですもの。化粧をした時の、肌の窒息感が。ひらひらとした洋服を着て、足元のスカスカ感を味わっていつでもお尻が見えているんじゃないかと振り返り振り返り歩くのが。美容院でのおしゃべりも苦手だし、そもそもどうして美容師というのはあんなにもうるさいほど人の趣味嗜好に口出しをしたがるものなのかしら、どうせ聞いたって端から忘れるでしょうに、特に私のような地味な女のプロフィールなんか。
ところで結婚ってどんなものなのかしらね、と、カウンターに座りながら私は思う。貸し出しはこちら、返却はこちら、とプレートの出ている席の、返却カウンターにいるから今日の仕事はいつもよりずっと楽だ。結婚。私には未婚の恋人がいたことがない。過去にふたりお付き合いをしたことがあるけれど、どちらも既婚者だった。不倫、というよりは、ひたすら性欲の迸っているだけのような関係だったと思う。どこも似ていない、まったく違うタイプの男ふたりとそれぞれ四年ずつ付き合って、私の身体はいろいろを覚えた。ここ一年ほど誰とも触れ合っておらず、そうすると胸の奥の方で最初はくずくずとしていた性的欲求も今ではほとんど身を潜め、状況によって人は淫乱にもなれるし貞淑にもなれるものなのね、と感心する。年のせいでなければ。
職場の若い子達――市役所の嘱託の子達で、いつでも可愛らしい淡い色の服を着ていたりする。最近の子、と言われる部類の若い人達からは若干ズレていてもっとうぶな感じがする――も、館長も他の男性職員も私の淫乱な部分は誰も知らないし、結婚の話は私の前でタブーとされているようだ。してくれても構わないのに。別にしたくてもできない、という訳では、少なくとも今のところはないのだから。
カウンターの中で私はぼんやりと――もちろん傍目にはきりりとしているように映るだろう姿勢は崩さない――目の前にある新刊雑誌の棚に目を向ける。他の書架の本と違い、新刊雑誌だけは次の号が出るまでは貸し出しをしないことになっている、誰もが読みたいものだろうから。それは厚いビニールのカバーがかけられていて、閉じ込みのハガキやクーポン券を盗む人がいるということで、それらはあらかじめ切り取られていた。
平日のお昼休みが終ったばかりのような時間に不釣合いな、スーツ姿の男がひとり、新刊雑誌コーナーで立ち読みをしている。斜めになっているので顔がはっきり分からないが、四十前後くらいだろうか。ああいう感じの肩が結構好きなんだよな、と私は男を眺める。いかり肩過ぎないけれど、がっちりした骨格で。背はそう高くないけれど、低すぎもしない。ヒールを履いた女と歩いても困らない程度の。
私は男のスーツを脱がせている自分を想像する。上着は自分で脱ぐだろう――前の男達はふたりともそうだった――、ハンガーにそれをかけたら、わたしは手を伸ばしてベルトに手をかける。ベルトはよく使い込まれているけれど剥がれがあったりはせず、やわらかい。これで叩かれたら痛いかしら、と呟いたら、叩かれたいんだ、と少し意地悪に返してくれるといい。留め金をガチャガチャと音させて、不器用に見えるようにベルトをはずし、チャックに手をかける。その間に男はネクタイを緩めているだろう。ワイシャツのボタンを上ふたつくらいまでは自分ではずしていてくれると助かる。チャックをはずす時に私は男の硬くなったものを指先に感じて、我慢できなくなってるんだ、と微笑むから、男は我慢できないのはどっちだよ、と私のお尻をスカート越しにぎゅっと掴む。私は声を上げる。痛いのと、気持ちがいいのとで。それから――
「あの、」
「えっ、あっ、はいぃ?」
ばさ、と目の前に雑誌が置かれた。私が今、頭の中で服を脱がしていた男なのでひどく焦る。
「これ、借りたいんですけど」
「あっ、の、こちらは返却カウンターで、あっ、違う、その、こちらは新刊で、雑誌で、前号のものならあの、借りられるんですけど、その、新しいのはダメで、その、」
「あ、借りられない本ですか、失礼」
カウンターから雑誌が拾い上げられる。書架に本を戻し終わり、カウンターの中に帰ってきた嘱託の女の子が、びっくりした目で私を見る。
「園田さん?」
どうしたんですか、と。
知り合いですか、と聞かれて、私は否定する。首と頬のところが熱い。
「園田さんが焦ってるっぽい口調なのって、」
初めて聞きましたよ、と女の子はひそひそと、でもまだびっくりしたように言った。痰が絡んだのよ、と私は苦しい嘘を吐く。頭の中で裸にさせようとしていた男が声をかけてきたので焦った、なんて、言えない。
「なにしてんだか、」
呟いたら、女の子が聞き返してきた。それを無視して、私はもう新刊雑誌のコーナーから離れてしまった男を捜そうとしたけれど、もう彼はどこにもいなかった。
**幸せかしら**
飲み会を早めに抜け出して、夫は帰ってきた。子供をお風呂に入れなくてはならないからだ。社宅である我が家の風呂場はとても狭い。そして脱衣場がないので、赤ん坊は夫婦の共同作業でしか風呂に入れられない。少なくとも冬場は。まだ五ヶ月になったばかりの女の子で、名前は夫の母から一文字と、私の名前から一文字を取った。
夫が四十四で、私が三十八で。ふたりとも自分は結婚はしない人間だと思っていたので、一緒になったのは子供ができたからだった。そんな年で子供ができたから結婚だなんて恥ずかしい、と嘆いた両親も本当は嬉しかったらしく、毎週のように赤ん坊への貢物が宅配便で届く。どこでも買えるような離乳食の瓶詰めだったり、よだれかけだったり、まだ履けもしない小さな可愛らしい靴だったり。
「六時五十分からの飲み会で、七時半にもう抜けるってのは結構顰蹙ものなんですけど」
十時近くなったところで赤ん坊はおっぱいを飲んで眠ってしまった。寝起きはぐずるけれど寝付きは良い子で、最近では四時間おきに目を覚ます。前は三時間おきだった。
「仕方ないじゃない、私達の子供のためだもの」
夫は目を細める。私達、という言葉に不思議そうな表情を一瞬したけれど、それを打ち消すように笑顔になった。男の人は結局自分で産まないから、最後までこれが自分の子である、という確信は持てないのだと聞いたことがある。ただ、育てていく過程の愛情を積み重ねて子供を愛していくしかないのだと。そんな寂しい、と私は思ってしまう。だいたい、信じてもらうももらわないも、夫以外の子供を誰が好き好んで産むというのだろう。あんな痛みに耐えて、というよりも、子供がお腹の中にいた何ヶ月かが苦痛でならなかった。足の爪も切れない、頭を洗うのも大変、もともとずっとマラソンをやっていて体脂肪が一桁の女だったのだ――今は悔しいことに二桁ある、けれどそれは一般の女性から見ればずっと少ないだろう――、私は。細い自分しか知らなかった、お腹が大きいということがあんなにも不便だとは想像もしていなかった。生理も三ヶ月に一度くらいしか来なかった、そんな女でも妊娠はする。
「お酒、飲む?」
夫は毎晩ラム酒入りのホットミルクを飲む。私はミルクだけを。一杯ずつ、それを飲んでいる間はふたりが夫婦や子供の親ではなく、ただ一緒にいるだけの男女になってしまう気がする。
それがいいことなのか悪いことなのか、私には分からない。
ミルクパンはないので、味噌汁を作るときに使う片手鍋で牛乳を沸かす。牛乳の白さと、日焼け止めも塗ったことのない自分の手の黒さに笑って、私は思い出す。結婚する前、夫がずっと付き合っていた女の子のことを。色が白くて胸と目の大きい、甘ったれた子だと言っていた。私は直接彼女を知らない、名前も知らない。ただ、夫が語ったことのあるその子をほんの少し知っているだけだ。
甘えん坊でどこを触ってもふわふわしていて、でも結婚は考えられなかった、そういうタイプの女だった、まあ年も十八離れていたしね、顔は別に大して可愛いってほどでもないけど、懐かれれば可愛く見えるよそれは。犬みたいだった、ああ、あとよく泣いてたな、オレが泣かせてたんだけど。うん、何で別れたんだろう、やっぱり結婚出来ないと思ったからかな、オレはいいとしても向こうは……結婚が幸せ、みたいに思う女の子だったんだよ、そういう子だった、オレが縛りつけとくのも可哀想じゃないか、まあ、追いかけ続けてたのはあっちなんだけどさ、うん。
まだ私達の間で、結婚と言う単語が出るどころかこれから始まるのかな、というときに、初デートと称して入った居酒屋で彼は一度だけそう話した。あのとき彼はひどく酔っ払っていて、泣きそうな声で笑いながら話した。それから彼女の話は一度も出ていない。私がせがんでも、とぼけたり、昔のことだよ、と曖昧に濁すばかりで語られることはない。
夫が、結婚することのなかった女の子。
その子は今どこで暮しているのだろう。新しい誰かを見つけているのだろうか。まだ、夫のことを引きずって泣いて暮しているのだろうか。私が気にすることではないのに、たまに顔も知らないその人を思ってしまったりする。
「おい、鍋」
「えっ、あっ」
気がつけば牛乳が吹きこぼれていた。隣の部屋にいたはずの夫が来ていてガスコンロのスイッチを切る。
「疲れてんの?」
「ううん、まあ、疲れてないわけじゃないけど、考えごとしてた、あはは」
「まあ、気をつけてよ」
吹きこぼれた牛乳の上に台ふきを乗せる。夫は少なくなってしまったミルクをカップに注いで、多い方を私に渡してくれる。
「どうせなら隣の部屋まで運んでくれればいいのに」
気が利かないな、と笑いながら、多い方をくれた夫を好きだと思った。名前も知らないあの子と、夫が別れてくれて良かった。そうでなければ、わたしは彼の妻になれなかった。
「ラム酒、また買ってこないとな」
残りが少ない、と夫は言って、カップにそれを注いでいる。やわらかなアルコールの匂いが満ちて、住み慣れた家の台所なのに、どこか違うところにいるような気が少しだけ、した。
**途切れる**
十分おきに滑り込んでくる電車の、七本目を見送って。
小さな小さな駅のホーム、小さな小さなベンチの前でわたしは放心したまま立っている。隣で座り、膝の上に肘を突いて手を顎の前で組み合わせて無言でいる彼は横浜方面に、わたしは東京方面にゆく電車に乗らないといけないので、ここでお別れしなければならないのに。
「……ダメよ」
この声はどうしてこんなにも震えていてかすれているのだろう。
「あなたはわたしのことが世界で一番好きじゃないの」
彼の無言はわたしの言葉を否定もしないし肯定もしない。
わたし達は今日、ここで別れる。
彼に新しい恋人ができて。
永遠に一緒にいると信じていたのに、たったひとりの、顔も知らないような女の人がわたし達の間を簡単に裂いてしまった。
「帰る、」
何度目の「帰る」なんだろう、呪文のように繰り返すその言葉は、けれどもホームにやってきた電車へ乗せるために背を押すまではしてくれない。立っているための、呪文。今にも膝から崩れてしまいそうなわたしに、ようやく一本だけ通っている神経のような。
泣くのは簡単だったから泣かなかった。
涙はどこからやってくるのか、わたしは知らない。
胸の奥に涙のタンクでもあるのだろうか、それは誰が補充するのだろう、永遠と言う言葉はやはり嘘だったのだ、嘘吐き、とつぶやいたら唇が勝手に笑みの形を作った。
愛が。
目に見えるものだったのならば。
今すぐここで壊してみせればいいのに。
そうしたら、諦めがつくだろうに。そうすれば、彼もわたしもそれぞれの電車に乗って帰れるのに。
「……ごめんな」
お前といてやれなくて、という彼の言葉は本物だと知っている、彼は本当に悪いと思っているのが。わたしと彼はずっと一緒にいたのだ、数え切れないほどのケンカをして仲直りをして愛の言葉をささやいて、バターを薄く塗るようにふたりの時間を重ねたのだ、わたしには彼の本当が分かる、彼にはわたしの愛が分かる、それなのに一緒にいられないのはどうしてだろう。
「……次の電車に、オレは乗るよ。お前が帰れなくなる」
だけどわたし達の間に、新しい女の人はちっとも関係がなかった。その影はとても薄かった。変な話だけれど。負け惜しみではなく、わたし達の間の愛情は何も変わらずに、それでも終りにしなくてはならなかった。
泣ければ良かったのに。
彼のいない電車に乗って、マスカラをにじませるのがどうしても嫌で、泣けなかった。
こんな醜い女の恋人は誰なのだろうと、一瞬でも他人に思われるのが嫌だった。
別れてしまっても、彼の女であるわたしは他人から見られてもそれなりでいたかった。
彼の為に。
彼への愛の為に。
手を、握りたかった。
キスをして、別れ話など溶かしてしまえれば良かった。
あなたはわたしの身体が世界で一番好きじゃないの、と、ここで服を脱げれば良かった。
そしてそれはすべて、過去形だった。
一度決めたことを曲げることができない人だと、わたしは諦めに近い形で知っている。
「……でも好きでいて」
「……うん」
「わたしをずっと好きでいて、傍にいられなくても好きでいて、ずっと」
「分かった」
「死んじゃえばいい」
「……うん」
嘘よ。
死なないで、一生傷付いたままでいて、わたしを捨てたことに。わたしの手を離したことに。わたしがこの先他の誰かと幸せになったとしても、あなたはずっと罪悪感を抱いていて。それが、愛の証になるのだから。
さよならと言わないでいるうちに彼の電車が不器用にホームへ入ってくる。そのままさよならを言わなかった。またね、は、ずるいから、ただ手を振った。彼がベンチから立ち上がる前にわたしは背を向ける、彼を見ないようにしてホームの端へ歩く。
ホームから線路に落ちてしまうことは楽だったからしなかった、そういう終わりを軽蔑していたし、彼と別れる時点でわたしは死んでいるのだから、これ以上死ぬことには何の意味もなかった。
さようならは言わなかった。
またどこかで会えるとも思っていなかった。
でも、さよならは告げなかった。
その代わり、あんなに泣きたくなかったのに、泣かないと決めていたのに、頬へは涙が伝う。気付かない振りをしてもそれはどんどんと溢れる。泣きやむまでわたしは帰れない、けれどもうそのわたしの隣に彼はいてくれない。
振り向かなくても分かった、音を立てて彼を乗せた電車はドアを閉め。
わたしの気持ちを轢き殺して、電車は走り出す。
**甘い言葉**
やっぱあなたの子供産みたいな、と言ったら、いつでも会ってはあげられるけど子供は勘弁、と言われた。
原田さんはひどい嘘吐きだ。
「いつでも、ですって聞きました? 奥さん」
「どこの奥さんだよ、うちの奥さんか?」
例えばベッドに入る前までは石のように冷えていた足が、血液の循環が素晴らしく良くなったおかげで火照るまでになっているだとか、手が伸ばされる度に全部の神経がその部分に集中するから、信じられないほど感度が良くなるだとか、あたしの身体は原田さんに素早く対応している。愛のなせる業だ、愛ってバカで寂しい、でもなくなったらきっとあたしは息ができなくなって酸欠の金魚よろしくそのまま死んでしまうと思う。
「嘘に決まってんじゃん、原田さんの子供なんか産まないよ」
「なんだ、実は半分期待してたのに。血液型だけならバレないのにな、彼氏Bじゃなかったっけ?」
「……よく覚えてんね、そんなことまで」
でも産みたくない、と、あたしは嘘を言う。最初のが本音なのに、それを嘘だと言って。あたしは原田さんといると嘘だらけになる。本当のことを言い当てて欲しくて、でも関係自体が嘘だから全部も嘘になる。
嘘が楽しい時期もあったんだけどな。
嘘だからラクチンだと思ってたときも、あったんだけどな。
恋は切なくなった方が負けで、泣いた方が退場だ。クールな人が勝ち。でもそれだと恋の醍醐味は知らないまま。結局、恋に関してだけは誰も勝てないし、誰もが負けるしかない。早く気付いて賢くなる振りをするか、後で気付いて傷つくのを少なくするか。
「でも、どっかでバレるからいいや、原田さんの子供はいらない」
二時間三千円の安いホテルは有線が最初からつまんないキーに設定されている。電球はひとつ切れていて、お風呂は家庭用の小さいのみたいだし、冷蔵庫にはサービスドリンクなんて一応は書かれているものの、しけたペットボトルのお茶が一本だけ。あたし達にぴったりな空間。チープで記憶にも残らない、そんな感じの。
どこからこんなに好きになっちゃったんだろう、と原田さんの脚に自分の足を絡めながらこっそり過去を手繰る。過去のあたし。原田さんの脛はそう多くはないけれど毛が生えていて、女の人のすべすべなそれとは全然違う。適度な運動と正しい筋肉。ごつごつとしたラインの脚。
なんでこんな男が好きなんだろう。
意地悪で嘘吐きで、奥さんを裏切っても平気な人で。同じだけあたしとだってただの遊びなのに、自分だけは違うんじゃないかって思いたがってる、あたしのバカ。女の子は幾つになっても『女の子』で、特別扱いが大好きで。意地悪だって、あたしにだけ、のオプションが付けばたちまち幸せの材料のひとつになる。単純なおバカさん。甘いお砂糖だけ食べていたら生きていけそうな気がしてしまう、恋をしていると。切ない恋をしていると。ずるい恋をしていると。帰る場所があるふたり。バースディケーキの、チョコレートでできたお家だけを齧っているような恋。
「何ぼんやりしてんだよ」
遠い目をしちゃってさ、と原田さんが茶化す。彼の手があたしを引き寄せる。お互いが近付くとき、いつでもはっきりと相手の顔を見ているはずなのに、あたしは時々原田さんの顔を忘れる。
好きすぎて覚えられないなんて。
そんな話を。
信じてくれなくても別にいいから。
「原田さんなんて死んじゃえ」
あたしのことをこんなに切な苦しくしてさ、って付け足す前に、彼の顔が不意に真面目なものになる。いつも笑っているように細められている目に、初めて見るような真剣な色がにじむ。
「え……、」
顔を覗き込まれて、真顔だったからあたしは動けなくなった。空気が紐状になって、ぐるぐると身体に巻きついてきたように。
「……昔、」
しばらく凍った時間に呼吸まで止めていたら、原田さんがふと口を開いた。
「同じことを言った娘が、」
彼の日に焼けた指があたしの頬を撫でる。愛しむ指先が、あたしの頬を撫でながら違う誰かを想っているのが分かった。あたたかな体温が伝えられて、それは切なさに変わる。神様、と無宗教なくせにあたしは心の中で呟いた。神様、この男をこんな表情にさせてしまうのは、誰。
「……昔、呪いをかけられたよ」
「……呪い?」
ゆっくりと原田さんの唇がほころぶように笑みを作る。舌先がちらりと顔を出し、彼のそう血色が良いわけでもない唇を静かに舐めた。言葉が、滑らかに出てきますように、というおまじないみたいに。
「忘れちゃいけない人を、忘れないための呪い」
「それは呪いじゃなくて……願望とか、そういうものなんじゃないの?」
「いや……もう一生、オレはあの言葉から逃れられないからな」
オレが傷つけた人だよ、と原田さんは遠くを見る目をする。ずるい。やっぱりこの人はずるい。自分は過去の誰かしか傷つけたことがないと思っている。記憶は美化されるものだから、それは自分の都合のいいように編集される。ずるいよ。ずるい、原田さん、あなたは過去の誰かだけじゃなくて、きっと関わる女達をすべて少しずつ傷つけているはずなのに、気付かないままでいるなんて。ずるいよ。
「それ、奥さんじゃないでしょ」
「呪いの相手? もちろん、奥さんじゃないさ」
「好きだったの?」
「……一緒にいられないけど、ずっと大切にしたいとは思っていたな」
「あたしより、好きだった?」
言って驚いたのは自分で、この唇からそんな言葉が出てきたのが想像外で、そして原田さんもあたしの頬を撫でていた手を一瞬止めた。けど、大人のずるさですぐに自然な動きを再開させる。
「お前より?」
「……聞き流して、失言」
「お前は、オレよりお前のこと愛してくれてる彼氏がいるじゃん」
「だから聞き流してってば、」
いやお前の方が、と言われたがっている気持ちにあたしはもう支配されている。知ってる、この感情は、嫉妬。胸の奥がむずむずして、顔も知らない彼の過去の女に腹を立てている、今ここで抱き合っているのはあたしなのに、どうして実体も持たない思い出の女がこの空間を邪魔するのよ、と。
泣きたいほど切ないのは。
叫びたいほど、惨めなのは。
嫉妬、が、醜いものだと知っているから、それがあたしの中で渦を作っているのが分かるから、他の誰かを想うなんて、あたしが一緒にいるときにしないで、あたしはあたしだから、あたしのふとした言葉やしぐさに誰かを勝手に想わないで、あたしだけを見て、あたしが、あたしを、あたしだけを。
「なに、泣きそうな顔して」
原田さんの目がいつものように細められる。視界がにじむのは気のせいではなかったようで、だから瞬きするのを我慢する。涙が、こぼれないように。
ずるい原田さんは呪いなんかかけられても当然なんだ、って言いかけたら、やわらかく唇が重ねられてきた。お前までオレに呪いかけるなよ、ってやさしく言われて、あたしはそれ以上何も言えないまま静かに目を閉じた。




