32話 5月25日
「痛ったーい!!澪さんもっと優しくしてください!」
「我儘言わないの!消毒しないと危ないでしょ?」
止血を終えたばかりの傷口に消毒液を塗りたくる澪が鬼のように見える。
あまりの痛みに泣かないと決めていたのに涙目になる。
澪は通話先での璃乃の様子から念のために応急処置セットを持ってきてくれていた。
とんでもなく気が回る彼女の優しさに母性すら感じる。
だが——
「痛すぎます!!もうやめて!!」
舌を出し、狙いを定めるようにガーゼを押し当ててくる彼女は狂気的だった。
だが、ガーゼを当ててもらった後から痛みは落ち着き普通に話せるようになった。
「アクイラスはなぜこんなことをしたんですかね……」
包帯を巻きながら謎の笑みを浮かべる澪も気になるが、璃乃はアクイラスのいた場所を辿ってしまう。
「七錬神に帰る場所がなかったから……なのかもしれないね」
澪は包帯を巻きながら、淡々と話す。
「もし仮に生きていたら、彼女はどうなっていたんですか?」
「ほぼ100%処刑されるだろうからね」
「仲間なのに処刑ですか!?」
璃乃は驚きのあまり、体を動かして澪に「こらこら」と叱られる。
「こいつは七錬神の末端だろうけど、それでも外交問題に発展する可能性があるからね。私たちの世界では一般人を巻き込むことは絶対の禁忌なんだ。こいつは巻き込むだけではなく、一般人を狙った。これを七錬神はもみ消すために殺す。もしくは造反したものとして処刑したと、公表するのが妥当だろうね」
最後の仕上げとばかりにテープで固定し、「よし!終わったよ!」と璃乃は肩を叩かれる。
「ありがとうございます!うーん、外交問題ですか……難しいですね」
テレビで聞いたことのある政治の問題が魔法使いと錬金術師の間でもあることに理解が追い付かない璃乃。
「七錬神は私たちの世界では圧倒的な力を持っている。魔法使い側の桜都、錬金術師側の七錬神。ここが緊張状態だから下手な事を起こせば戦争が起きる。それを望んでいる人たちもいる。まぁこの話はまた今度だね」
璃乃は少しの沈黙の後、ぽつりと問いかけた。
「……野犬は、もう消えたんでしょうか?」
澪は立ち上がり、アクイラスの血痕に別れを告げるように空を仰ぐ。
「どうだろうね。一応ここについてから探る魔法は使っているけど、野犬や怪物の反応はないね。あれがアクイラスの作り出したものだとすれば、力が絶たれた今、自然と消えていくはずだけど……」
「でも“もし”そうじゃなかったら?」
「その時は、また戦うしかない」
璃乃は息を呑み、視線を落とす。
「……まだ終わってないんですね」
「終わってるかどうかは、もう少し先にならないと分からない。一応私も気を付けて見るけど、事件が解決してないなら、また透花さんに止められるかもしれない。だから璃乃もまだ気を抜かずに頼むね」
澪は手を振り去っていった。
まだ事件は終わっていないかも知れない。
そう思うだけで気分がまた沈んでしまう。
璃乃はリュックをかけた木に戻り、寝ずに一晩琴宮邸の見張りを続けた。
魔力を感じ取れない璃乃はネズミ一匹見逃さないにと睨みを利かせ、明日香の安否を祈ることしかできなかった。
「まだ事件は終わってないかもしれない、私がもっと——」
夜風が吹く中、葉っぱが揺れていた。
「おい——璃乃!」
聞き馴染みのある声が璃乃の鼓膜を揺らす。
薄目を開けると、月明かりや街灯ではあり得ない燦燦とした光が瞼を貫通するようだった。
「——うぅ、あれ!?私、寝ちゃってた!?」
璃乃が最後に見た太陽は上り始めたばかりだったが、その太陽は璃乃の遥か上空へ移動していた。
ギシッ——
「きゃっ!?」
バサッ
「落ちるーーっ!!」
バッターン!
「痛ったーい!!」
打ち付けた背中の痛みが、右脇腹にまで響く。
「何やってるんだよ」
どこ冷めたような声でこちらを見てくる少年がいた。
「瑞穂!?」
激痛が一瞬で吹き飛び、瑞穂へ飛びつく。
「おまっ!?いきなりなんだよ!」
瑞穂の裏返る声を無視して璃乃は満面の笑顔になる。
「無事でよかったー!ずっと心配で夜も眠れ——」
「今、寝てただろう!」
瑞穂は璃乃を引きはがし、彼女に背を向けた。
彼は琴宮邸を見つめていた。
その首筋には包帯が巻かれており、うっすらと赤く血が滲んでいた。
「澪から聞いたよ。アクイラスを倒したんだな。璃乃だったらやってくれると信じてた」
璃乃は何かを言おうと口を開けるが、瑞穂は続けて言葉零す。
「ありがとう」
璃乃は口を閉じ、小さく頷いた。
瑞穂の顔は見えないけど、彼はきっと笑ってくれている。
そう思い、彼に見えないと分かりつつ、璃乃はもう一度小さく頷いた。
心地良い風が吹き、木から一枚の葉が落ちる。
それに璃乃が目を奪われると、丘を登り、璃乃たちに近づく足音が聞こえる。
まだ姿は見えず、璃乃は瑞穂に肩を並べた。
彼の深く、濁りのない瞳が一瞬だけ瞼に隠れた。
「俺もここからもう一度、命をかけてこの事件を解決させるため全力を尽くす」
影が見える。
その影をはっきりと認識した時には、深々と頭を下げていた。
白髪の男性——
「璃乃ちゃん。明日香様を助けて下さい」
恭平が頭を下げていた。
——5月25日——




