29話 断絶の雨
——絶対に死なないで、瑞穂。
廃工場に着く前と同じ日とは思えないくらい厚い雲が璃乃の頭上を覆い始める。
昼も過ぎたばかりなのに、薄暗くなり始めている道を息を切らしながら疾走する。
瑞穂の足を引っ張り、一人勝手に諦めかけてしまったことに自己嫌悪しながらも、アスファルトを蹴り上げる。
アクイラスが向かう可能性が高いのは廃工場から見て、2時の方角か4時の方角。
璃乃は手のひらに残る瑞穂の血を見つめ、握りしめる。
スマホを取り出し、時刻を確認し、すぐさま救急車へ連絡を入れた。
「13時45分」
璃乃は2時の方角へ目標を定めて、己の力の限り進んだ。
何度も通ったことのある道を辿るように、足を進めるが、心臓が張り裂けそうになる。
近いだけで絶対に違う。
そう思い込み、最後の力を振り絞り目的地に到着する。
璃乃のほんの小さな望みすら嘲笑うように、その建物がマップと重なった。
「どうして……!?そんなことって——」
璃乃は絶望する。
——時計が差す2時の地点は琴宮邸だった。
時刻は14時20分。
何か事件が起きている雰囲気は感じられないが、急ぎインターホンを鳴らす。
「はい。琴宮ですが、璃乃ちゃん?」
インターホン越しに聞こえる声は執事・恭平のものだった。
「……ハァ……ハァ……恭平さんですか?……明日香ちゃんの家で何か変なことが起きたりしませんでしたか?」
胸が苦しい。何も考えずに走ったからなのか、自分の不甲斐なさなのか、分からないまま無力感が胸を余計に締め付ける。
「今すぐに開けるから少し待っててください」
すぐに門が開き、震える足で玄関の方へ一歩一歩、歩みを進める。
玄関にたどり着く前にドアが開き、おぼつかない璃乃の姿に恭平が駆け寄る。
「こんなに血塗れで一体何があったのですか!?」
「……ひっく……ひっ、こ、これは瑞穂の血です……瑞穂が私に——」
呼吸が上手くできない。
低い段差に躓き、恭平に抱きかかえられる。
足が痺れてしまい、踏ん張りが利かない。
「璃乃ちゃん!?」
「……ハァ……ひっ……ごめ——」
視界が黒く暗転し始める。
——嫌だ!今倒れたら、私は自分を許せなくなる。
心がいくら叫んでも身体は言うことを聞いてくれなかった。
時計の音が聞こえる。
「事件は工場跡地で——」
——工場跡地ってまさか瑞穂!?
目を開け、体を起こす璃乃。
「ここは?」
血塗れだったはずの手が綺麗になっている。
制服までも血が拭き取られていた。
それでも小さく残っている染みと、鼻を突く鉄のような匂い。
自分の家ではないが、ここを知っている。
カチャンと食器を置く音。
「もう大丈夫ですか?」
心配そうに璃乃を見つめる恭平が立っていた。
「そっか。明日香ちゃんのお家」
辺りを見渡すと何度か泊ったことのあるゲストルームであることが分かった。
「はい……大丈夫です」
璃乃はすぐに廃工場で起きたことを思い出し、テレビを見る。
「こちらは現場の工場跡地です。解体工事の計画の最中にクレーン車の暴走により鉄球が現場に落下した模様で、中にいた少年が重症で発見されており、緊急搬送されております」
その少年は間違いなく瑞穂を指していた。
璃乃は口を閉じることができないままニュースは続く。
「時刻は4時20分です。最新のニュースがもう一件。神無月町で起きている野犬と思われる動物が人々を襲う事件が本日も起きてしまいました」
スマホを取り出し、時間を確認する。
16時21分。
「何もできなかった……誰も助けられなかった。私が瑞穂を止めなかったらこんなことには……」
また自然と大粒の涙が流れる。
自分だけ怪我もしなくて、呑気に寝ていた。
璃乃はそんな自分を許せるはずがなかった。
自然と強く握られた拳は自分の弱い足を叩いていた。
「璃乃ちゃん。止めてください」
恭平が璃乃に駆け寄り、制止を促すが止められない。
「この弱虫!いくじなし!!」
鈍い音が璃乃の足から響く。
「止めなさい!」
初めて聞いた恭平の怒鳴り声を無視して、叩き続けようとするも手を抑えらる。
それでも振り払おうと、体を震えさせて抵抗をする。
「離してください!私は……何もしないで周りの人を傷つけたんです!だから——」
璃乃の拳はさらに固くなり、無理やり恭平を振り払う。
己を慰めるために情けなくも、腕を頭上に掲げる。
「私の目の前で自分を傷つけることなんて絶対に許しませんよ!!」
空気が軋む。
恭平は顔を紅潮させ震わせていた。
璃乃は我に返り、拳をゆっくりと膝の上に置くが、次第に深い悲しみを呼んだ。
涙は大きくなり、止めようとするも零れる。
「何があったか話してくれませんか?」
璃乃の手を握り、いつもの優しい恭平は温かい眼差しで彼女を見つめる。
しかし、璃乃は首を横に振る。
「すみません。話せないんです」
「でも、血が付いてたなんて普通ではありません。もし私で——」
「恭平さん。ありがとうございました。今日は帰ります」
彼の話を遮り、深くお辞儀をして逃げるように玄関の方へ向かう。
「璃乃ちゃん、待って下さい」と言われるも、靴を履き玄関を飛び出していく。
恭平の声に後ろ髪を引かれながら、門をガチャリと閉める。
「明後日の誕生会も無理しないで下さい!」
門を閉めた時に聞こえた言葉が璃乃の息を止めた。
曇天の空から小さな雨粒が、まばらに地面へ落ち始めていた。
傘を持っていない璃乃は足早に家への道を進む。
今日は4時の方角が襲われた。
残るは2時の方角の琴宮邸のみ。
鼓動につられ、彼女は自然と走り出していた。
「私にできることは、明日香ちゃんの家を守ること」
——今の私にできることは、それしかないんだ。それでも、やらなきゃ。
琴宮邸から直線の道を曲がり、さらに走る速度を速めようとした時。
「璃乃ちゃん!?」
明日香に出会った。
「明日香ちゃん!?」
驚いたように目を見開く明日香だが、疑念を表すように璃乃を睨みつけるような表情へ変わる。
「午後の授業出ないで、こんな所で何してるの?」
冷めた言葉が璃乃の胸に刺さるが、今はそれどころではなかった。
大勢が集まる誕生会は敵の侵入を容易にさせる。
少しでも可能性を下げなければ明日香の命も危険になる。
「色々あって……」
「また……それなんだね。じゃあね」
明日香は璃乃の横を通り過ぎていく。
「待って!」
明日香の腕を掴み、無理やり振り向かせる。
それはまるで先ほど瑞穂を止めた時と同じようだった。
思わず手が強張る。
「痛いんだけど。何?」
明日香の目の奥にはもう昔の親友はいなかった。
——それでも助けたい、大好きな親友を。
「明後日の誕生会、一回中止にしてほし——」
——パーンッ
乾いた音が璃乃の頬で弾け、次第に痛みが顔全体に広がる。
「もう私に話しかけないで!!」
手を繋いで帰った日々——
笑い合った日々——
全て、粉々に割れていく。
雨は強くなり、明日香の頬を濡らしていた。
明日香が走り過ぎていく姿を見届けた璃乃は空を見上げて、子供のように大声で泣き叫んだ。




