20話 野犬事件
透花の殺気という魔力は吹き飛ばされ、彼女は唖然としていた。
「透花。俺たちの負けだ。ありがとうな」
烈火が透花をなだめるように彼女を見上げる。
しかし、透花は璃乃を見つめたまま立ち尽くしていた。
澪は、あまりの衝撃に金魚のように口をパクパクさせながら、璃乃の方へ歩み寄る。
「わ、私、魔法使いの本気の殺気を一般人が耐えられたところなんて見たことない。もしかして璃乃ちゃんって天才?」
「澪さんでしたっけ?九条璃乃です。よろしくお願いします!」
突拍子もなく自己紹介をしてしまう璃乃にさらに面を食い、澪は固まってしまった。
パチパチと何度も瞬きをして、ようやく思考が追いついたように口が綻ぶ。
「っぷ、あはは!瑞穂の言った通りの子だね!最高だよ璃乃ちゃん!」
璃乃の両手をぎゅっと握り締める澪。
ほんのり暖かく、なによりも身近にいそうな優しいお姉さんのような澪の笑顔に璃乃は安心をしてしまい——
「おっと、しょうがないね」
気を失ってしまった。
「だから瑞穂は——」
落ち着いてる男性の声が聞こえる。
「うるせぇ!昔のことを何度も掘り返すな!」
いつもより幼い相棒の恥じらいが聞こえる。
「それより昴はどのくらいいれらるんだ?」
「明日にはもう行くつもりだよ。みんなが待ってるからね。拓斗にもよろしく言っといて」
みんなの声が聞こえる。
全身が疲れている。重く鈍い鉄ようなの芯がとれない。
もう少し休んでいたいけど、みんなが——
「お、起きたね。随分早いね」
目を開けると璃乃の顔を覗き込む澪の顔があった。
「澪さん!?私もしかして……寝ちゃってました?」
包み込まれるような低反発のマットレスと、触り心地の良いタオルケット。
璃乃に触れている物からは柔軟剤のいい香りが、また瞼を重たくさせる。
「寝てたねぇ~かわいい寝顔で1時間くらいぐっすりしてたよ。もう体は大丈夫?動ける?」
「恥ずかしすぎます……」
顔から火が出る思いに、微睡みは吹き飛んだ。
顔を手で覆う璃乃は澪にベッドから出るのを手伝ってもらい、なんとか先ほどのソファーのある部屋に戻る。
そこには烈火と透花も変わらずにおり、恥ずかしいやら不安やらで胸が落ち着かない。
璃乃が会釈をしながらソファーに座ると、すかさず透花が口を開く。
「璃乃、先ほどは悪かった。お前が魔法使いの歴史を知らないのに感情的になってしまった。許してほしい」
静かに頭を下げる透花。
璃乃はすぐに首を振った。
「気にしないでください!私も何も知らなくって、前に余計のこと言って瑞穂に怒られたことありますし」
璃乃は両手を振り、透花に頭を上げるようにお願いをする。
透花は頭を上げ、その透き通る瞳を再び璃乃へ向けた。
「失礼ついでに一つ聞いてもいいか?」
「はい、いいですよ」
「ご両親の出身はどこなんだ?」
脈絡もない質問に肩透かしを食らいつつも璃乃は答える。
「二人ともずっと神無月町みたいですよ?それがなにか?」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ」
質問の意図が理解できずに首を傾げる。
「璃乃も戻ったし、本格的なことを話しませんか?」
痺れを切らせた昴が促す。
烈火は静かに頷き、語り出した。
「璃乃。まずは今後の君についてだ。君は澪の弟子としてこの神無月町陣営に入ってもらう。そこで同じく澪の弟子である瑞穂と共に、一刻も早く魔法使いとして覚醒をするように修行を行いつつ、ある事件を調査してもらう」
璃乃と瑞穂の視線が交わる。
「テレビで報道されてる野犬の事件ですか?」
「その通りだ。これが澪が集めた今日までに野犬に襲われた人たちのリストだ」
A4サイズの用紙を一枚渡される。
そこには3人の氏名、性別、年齢、住所、襲われた場所と時間、怪我の部位が記載されていた。
用紙を持つ手に力が入る。
「どうしてこれが錬金術師と関係があるんですか?」
この情報だけでは凶暴な野良犬が人を襲っていると解釈することの方が自然だ。
璃乃の疑問に、烈火は目の下まで垂れる前髪を掻き上げ、用紙を持ち直す。
「ニュースでは“野犬らしき動物“に襲われたと被害者は訴えているが、誰一人としてその動物を見ていないとも言っている。これは記憶改変が上手く行われていない事例でよくあるパターンだ」
記憶改変——
怪物に襲われたはずの記憶が、いつの間にか“強盗に襲われた”という偽りの記憶へ書き換えられていた。
“記憶改変”を経験した璃乃は、自分の意思を無理やり捻じ曲げられたと感じていた。
「相手の練度が低いことで怪物が上手くコントロールできていないから中途半端な記憶改変しかできてないと俺は睨んでる」
烈火は用紙をテーブルに置き、腕を組む。
「この程度の事件に澪や昴を出す訳にはいかない。ここから先は瑞穂と璃乃だけで調査及び解決をしろ。これは命令だ」
二人から視線を外し目を閉じる烈火。
「前回の事件と同じってことだろ?絶対に解決させてやる」
瑞穂は大きく目を見開いて、烈火と透花を凝視する。
「少し待ってください!私は反対です!前回も瑞穂一人に事件を追わせて危険な場面もありました。瑞穂と“璃乃“の師匠として私も同行させて下さい!」
澪が手を上げ訴える。
烈火は瞼を開き、口を開きかけると、透花が彼の前に手を出す。
「ダメだ。この程度の事件すら解決できないようだったら二人は私たちの邪魔になる」
割り込むように透花が澪に向かって静かに、そして冷淡に伝える。
「ですが……」
口ごもる澪を横目に昴は微笑む。
「僕にも弟子がいるけど信じることも大切だよ」
澪の肩を優しく叩き、「ねっ?」と言わんばかりに片目を瞑る昴。
しかし、澪はどこか落ち着かないように瑞穂と璃乃の方へ振り向く。
彼女は悲しげに遠い過去を見ているようだった。
「大丈夫だ澪。“俺と璃乃は絶対に死なない“。お前の弟子はそんなヤワじゃないだろ?」
昴の真似をして片目を瞑る瑞穂に澪はくすっと笑みを零す。
「澪さん。私、頑張って事件を解決させます!だから安心して待っててください!」
璃乃は澪の両手をぎゅっと包み、彼女の方へ倒れる勢いで前のめりになる。
案の定バランスを崩し、澪の胸に顔を埋めてしまった。
「あぁ、頼んだよ。私の可愛い弟子たち」
初対面の璃乃を彼女は優しく包み込んでくれる。
それは璃乃の全身に染み渡り、明日への活力になった。
ソファーから立ち上がる烈火は大きく息を吸う。
「期限は5月末までだ!何が何でもお前たち二人でこの事件を解決させろ!この事件、魔法や錬金術については他言を禁止とする——」
璃乃と瑞穂の熱いまなざしに烈火は檄を飛ばす。
「——戦ってこい!!」
「おう!」「はい!」
二人は4人に背を向け、扉を開けた。




