13話 廻天の力
少年は少し錆びついている扉を開け、二人は屋上にいる男と対面する。
屋上の緑色のフェンスを抜ける風は微風で、本来ならば心地が良いはずだが、今は妙に温く感じる。
「神よ、神よ、どうして貴方は私にこれだけの試練をお与えになるのですか?」
両手で頭を抱えたまま二人の方を見ているが、男の焦点が合っていない。
「これで終わりだ、クソ野郎。お前が張った結界は、もう全部ぶっ壊した」
少年は刃を男に向け、警告をする。
「余計な動きをしたら殺すからな」
言葉、声色、表情全てが固く、重い。
璃乃はアイアンを握りしめており、その眼差しから強い決意を感じ取れる。
「あぁぁああーー!神はまだ私の罪をお許しにならないのですか!だからこのような賊を悪魔の使いとして私に……」
断末魔のような咆哮の後、男は上半身を脱力させ、静かに殺気を出し始める。
「殺す!」
先に動いたのは少年だった。
屋上の入り口から、錬金術師まで僅か数十メートル。
少年の俊足ならものの数秒で男に切りかかれる。
——しかし、戦いの中の数秒は永遠に近いほど遠くて遅い。
男のローブがふわりと浮き始め、円形の光が足元から禍々しく浮かび始める。
【——神とは祝福。力の核に在りて、その在り様を満たせ。鼓動せよ——《増勢拡環陣》】
少年が男との間合いを半分も詰められていない状態で、錬金術が発動してしまった。
波打つローブから一つの赤い球を空へと投げる。
すると、フェンスが続々とコンクリートから抜け始め、球を抱きしめるかのように集まり、鼓動する。
折り重なり、編み込まれるように呼応する。
「さぁ、奴らを殺せぇー!!」
錬金術師の号令と共に、赤い球から弾けるような光が四散し、二人は目を瞑ってしまう。
手を翳し、ようやく視界が戻った時には——
宙へ浮かぶ緑色の大蛇が睨みを利かせるように、身体の中心から漏れ出す彩度を失った赤い光を零していた。
鈍い光が擦り切れるように薄れ消えていくと同時に、屋上の真上をまさに蛇が木を伝うように昇る。
そして、全長20mはある大蛇が少年に向かい猛スピードで襲い掛かってくる。
「クッソ——」
横へ飛び込み、辛うじて大蛇の攻撃を躱す少年。
尾が掠ったコンクリートは抉れ、殺傷能力の高さをその目に焼け付けてしまった。
息をつく暇などなく、鋼の大蛇は屋上を所狭しと縦横無尽に飛び回り、再び頭から少年に向かい急降下し始める。
速度は初撃より早く、彼の身体能力では着いていけないほどになっていた。
「グッハ——」
腹部に突き刺さるように激痛と内臓が潰されるような鈍痛が同時に彼を襲う。
少年はなすすべもなく屋上の入り口まで突き飛ばされ、受け身を取ることもなくコンクリートに背中を強く打ち付けて、力なく地面へ沈んだ。
日本刀が彼の横から転がり落ち、掴もうとするも力が入らない。
大蛇は何もなかったかように、屋上の上を飛び回り、錬金術師の前に戻った。
すぐに次の攻撃が来る。
地面を叩き、無理やり立ち上がろうとするが足に力が入らない。
歯を食いしばり、無理やり体を起こそうと奮起する。
そこに少女の影が覆いかぶさる。
「私が守るんだ!」
体が痺れるほどの激痛が少年を襲い、呼吸もままならない。
視線の先には璃乃がアイアンを構える。
その横顔を覗くと顎から滴り落ちる程の汗が流れていた。
彼女は恐怖を感じているのかと目を見開き、その素顔を凝視した。
だが、璃乃のアイアンを持つ手は力強く握られており、弱さを一切感じさせなかった。
しかし、敵は錬金術師だけではなく、鋼の大蛇もいる。
命の危険が彼女に迫っている。
僅かに力が漲り、震える手で刀を握る。
「お前は逃げろ……」
痛みが体中を駆け巡る。
よろめきながら一歩前へ出る。
少女の隣に立って伝えたいからだ。
「えっ……」
喉から漏れたであろうか細い声。
「お前が言ってくれた、“君が私の夢を叶えて“って我儘。嬉しかった。俺にも明日を見ても良いと思わせてくれて、少しだけでも希望を見せてくれてありがとう。もう少し早く……お前に会えていたら俺の人生は違っていたのかもな……」
ここで死ぬ。彼女を守るために。
「これで終わりだ!死ね!悪魔ども!神の祝福を受けるのは私だ!」
錬金術師の咆哮を道筋に、鋼の大蛇は体勢を立て直し、二人に向かって加速する。
コンクリートはひび割れ、波紋のように巡り上がった。
大蛇が二人に突進する瞬間——
「死なないで!!」
璃乃は少年を突き飛ばした。
「お前っ!?」
手を伸ばしても届かない。
一瞬が途方もなく感じる感覚。
少年の時間が整合性を失う。
少女の笑顔が少年の瞳に映り、遠ざかる。
鋼の大蛇が彼女を天高く弾き飛ばしたのだ。
彼女の手から鉄の棒が悲劇の音として地面へ落ちた。
——ドッッカーーン!!
大蛇は屋上の壁に突っ込み、大量のコンクリート片を吹き飛ばす。
それは衝撃でバランスを崩している少年の体中に降り注ぐが、コンクリートの雨など痛くなかった。
彼の瞳は逃さなかった。
錬金術師でもない、鋼の大蛇でもない。
彼を救ってくれた少女を映しているのだ。
彼女は地面に影のみを残し、星を見るかのように髪をなびかせる。
身体は上を向いたまま宙に放り出され、力なく脱落する腕を支点に回転を始めた。
「俺がお前を絶対に死なせやしない!」
少年は諦めることを忘れていた。
壁にめり込み、動けない大蛇を踏み台にして、屋上の出入口の上へ跳び上がり、璃乃に向かって高く跳んだ。
月に照らされている彼女は夢幻的で、空そのものを舞っているようだった。
その顔を覗き込むと目は閉じており、意識を失っていた。
彼は顔に手を伸ばそうとするも、彼女はすり抜けるように地面へ身を返す。
「死ぬな!!」
少年は腕を伸ばし、璃乃を手繰り寄せようとする。
彼女の腕は力なく、風になびき手が掴めない。
千切れてもよいと限界まで伸ばすも僅かに届かない。
——諦めない。絶対に助ける!
「魔法使いになるんだろ!?なぁ!答えろ!この我儘女!!」
轟く彼の言葉は廻天の力となり璃乃の身体を回す。
そして、彼女の顔を再び少年へ向けた。
瞼が動き、夢から覚めたような澄んだ瞳でこちらに笑みを見せた。
「うん!なりたい!」
璃乃と少年は共に手を伸ばし、お互いを引き寄せ——
少年は少女をしっかりと抱きとめた。
「ありがとう!私はいつも君に助けてもらってばっかりだね」
「えへへ」と笑みを零す璃乃を少年は見ることができなかった。
「助けられたのは俺の方だよ。ありがとう」
それは誰にも聞こえないようにそっと呟くためだった。




