10-1 翻訳ブレスレット
周囲の音が聞こえないくらい、自分の心臓の音が耳に響く。
動くなという言葉をただ信じた私は、次に感じるのが激痛ならば、何も考えずに身を委ねた私が悪い。
そう腹を括り、ぎゅっと瞑る瞼に一層力を入れた。
そうすると、心地よい温かさに包まれ、海を思わせる爽やかな香りが鼻腔をつく。
動揺の中で目を開けば、たくましいい腕の中で体が宙に舞っていた。
前世の記憶でも、一度も経験したことのない横抱きをされている。
それも眉目秀麗の王子の腕で……。
夢……じゃないわよね……。
ああああぁあぁぁ──‼︎
どういうこと⁉︎ この状況は!
ギルバート殿下に近づきたいとは思っていたけど、密着しようとは考えていない。パニックを起こし、身をよじると、彼がボソッと呟く。
「危ないから動くな」
「……ぁ」
てっきり最高潮だと思っていた心拍だが、もう一段上のレベルがあったらしく、全身がドクドクと煩い。
きっと今の私の顔は、とんでもなく真っ赤になっているはず。
前世では、周囲がドン引きするくらい、彼について語っていた私だ。いろんな意味で愛おしい彼が目の前にいる。
緊張と嬉しさで、どんな顔をしていいのか、わからなくなってきた。
どこかのタイミングで地面に着地したはずなのに、少しの衝撃も感じなかったのは、彼が全て吸収してくれたからだろう。
温もりに包まれたまま、ギルバート殿下と目が合う。
口を小さく開いた私は、何か伝えようとしているのに、体が追いつかない。
それまで感じていた恐怖と、このシチュエーションにドギマギしてしまい、喉の奥で張り付いた声を出す。
「あっ……ありがとうございます」
「間に合って良かった。痛いところはないか?」
「ギルバート殿下のおかげで、どこも……」
それを聞いた彼が安堵の息を漏らすと、彼の額が私のおでこにコツンと触れる。
一瞬、彼は本気で私を心配してくれたかと思ったが、そうではないようだ。ゲームにある言葉を口にした。
「私に心配をかけさせるな。寿命が縮んだかと思っただろう」
「殿下が私を心配してくださるなんて」
「まだまだ伯爵令嬢のことを知りたいからな」
なるほど。攻略キャラとヒロインの関係は、出会いのイベントに失敗しても健在のようだ。
あなたは王族で、私は偽りの伯爵令嬢だから…結ばれることはない。
それはわかっているけど、少しの間だけ夢を見てもいいだろうか。
もう少しこのままでいたい。そんな欲もあるが、自分の感情を押し殺し彼に伝えた。
「あの~」
「なんだ?」
「恥ずかしいので、そろそろ下ろしてくれませんか?」
「あ~、悪い悪い」
そう言った彼の丁寧な動きに合わせ、ゆっくりと地面に足を着ける。
好感度を上げていないのに、不思議だ。
前回よりも、ギルバート殿下が優しい気がする。
そんなことを考えていれば、彼の右頬にできた一直線の切り傷から、じわりと血がにじむ。
「も、申し訳ございません。私のせいでギルバート殿下の顔にお怪我が……」
「鎖がかすっただけだ。大したことはないから気にするな」
途中で私が動いたからだろう。申し訳ない……。
幸い、見せるには忍びないハンカチなら持っている。
赤く伝う血を見て、慌ててハンカチを取り出すと、彼の頬に優しく触れた。
「そんなことをしては、バークリー伯爵令嬢のハンカチが汚れるだろう」
彼が申し訳なさげに目を見開いた。
「汚れても構いませんよ」
「だが……」
「これは、私が練習用に刺繍したハンカチですから、このまま捨てるだけですし」
「へぇー」
それを聞いた彼は、企んだような笑みを見せる。
粗末なものを彼の顔に当てたことを怒っているのかしら?
そう思った次の瞬間──。
彼が私からハンカチを取り上げるように奪っていったかと思えば、ひらりと広げた。
「ははは、確かに子どもみたいに酷い刺繍だな」
愉快なものを見つけたと喜ぶ彼が、声に出して笑う。
馬鹿にされるくらいなら、使わなければよかったと感じた私は、拗ねるように言い訳をした。
「もう……。仕方ないじゃないですか。それは私が初めて刺繍したハンカチですから」
それを聞いたギルバート殿下が真顔になると、少し照れたように刺繍に目をやり、伝えた言葉を繰り返した。
「これは……そなたが初めて刺繍したものなのか」
未だ、ハンカチを見つめている。
「そうです。不器用なのでうまくできなくて。恥ずかしいので、返してくださいませんか」
そう言って、手を出した。
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