9 イベントの成功報酬
お茶を注ぎ終えたエルナが穏やかに微笑むと、待ちきれないと言わんばかりに、ハンカチのことをせっついてきた。
「完成した刺繍をぜひ見たいですわ」
「私の刺繍はエルナのものに比べると見劣りするから嫌だわ」
「またまたご謙遜を仰るんですから。聡明なアンドレアお嬢様の手にかかれば、刺繍なんてたやすいことだったのでしょうね」
は⁉ 何を言っている……。私を過大評価しすぎだ。
聡明でもなければ、不器用を極めている自負がある。
侍女ならば、ご主人を正しく理解しなさい!
と、真顔でツッコミを入れたいところだが、それは必死に堪えた。
お嬢様としての保身のため、隠したハンカチを見せるつもりのない私は、涼しげにお茶をすすると話題を変えた。
「エルナに教えて欲しいことがあるんだけど」
「どのようなことでしょうか?」
「露店街って王都には多いのかしら?」
「いいえ。王都にはリーファンという露店街しかありませんね。それが、どうかしましたか?」
「別に深い意味はないのよ。昨日、馬車の中から見えていたから、気になっただけなの」
「今度、お時間のあるときに行ってみましょうか?」
ここは異論を唱えるよりも、「そうね」と素直に頷き、早々に部屋から出ていくよう促した。
「エルナは今日、メイド長から呼ばれているんじゃなかったかしら? そろそろ訪ねた方がいいと思うわよ」
私が時計を見ると、釣られるように彼女も時計に視線を向けた。
「まあ、大変ですわ。屋敷の中の説明をいただくことになっていますので、行ってきますね」
勢いよく立ち上がったエルナに笑顔で手を振ると、私も急いで屋敷を出発する。
◇◇◇
昨日、屋敷から馬車に乗ってすぐ目についた露店街。隠れるように歩いて来てみたが、やはり遠くない。
こうなれば目当てのお店を探すだけである。
ゲームでは、骨董品を売っている店の横に併設された雑貨屋だ。
特徴的だから見逃すはずはないと考え、一軒ずつ丁寧に確認しながら進む。
そうすれば、露店外の角を曲がってすぐの所に、記憶通りの店舗が並んでいた。
アクセサリーを並べている台の前には、店の人と思しき人はいない。
繋がっている骨董屋と合わせて、若い男が1人で商売しているみたいだ。
壺の値引き交渉が盛り上がっているため、しばらくこちら側には来ないだろう。
それならゆっくり見させてもらおうと、腰を据えた。
ずらりと並んだ商品の前に立てば、どれが翻訳ブレスレットなのか判断できると思っていたが、考えが甘かったようだ。
見た目では判別ができない。
わかりやすくゲームウィンドウが出てくることも期待したが、一向に現れない。
そうか……駄目なのか……。
従属の秘薬は、ハードモードのヒロインがヘイゼルの部屋に入ったときに出現する、入室ボーナスである。無条件にもらえるものだ。
一方で翻訳ブレスレットはイベントの成功報酬という違いがある。
やはりイベントに成功しないと、与えてくれないアイテムなのか……。
半信半疑の気持ちはあったが、最悪な結果で的中してしまった。
肩を落とし、うつむき加減で歩いていたが、異変に気づき顔を上げたあとから、少しずつ不安が高まってくる。
景色に見覚えがない気がしてならない。
人の姿が消え去り、古びた建物が軒を連ねている。
露店街特有の店から立つ香りは消え去り、澱んだ空気が辺りを占める。
これ以上進むのは危険と感じ、足を止めた。
「あれ? ここって、どこだっけ……?」
360度見渡すようにぐるりと周囲を確認して、再び前を向くと、恐怖で息をのんだ。
低い唸り声を出し、牙を剥き出しにしている大きな犬がいる。
視線だけで左右を確認したが、この犬の視界には、私しかいないようだ。狩猟犬が敵意剥き出しで威嚇している。
首輪に切れた鎖が着いているが、この犬を制御する人間はいない。野犬か。
私が隙を見せれば、今にも襲いかかろうとしている気がする。
危険を感じ、ゆっくりと後退したいのに、足がすくんで動かない。小刻みにプルプルと足が震えてきた。
怖い……。
その感情が野犬に伝わったのだろう。
喉の奥から響かせる声が、はっきりとした鳴き声に変わった直後、大きく跳ね上がった野犬は、私に襲い掛かってきた。
危ない──……。
襲われるのを覚悟し身を固くすると、背後から聞き馴染みのある声が響く。
「伯爵令嬢、そのまま動くな!」
恐怖で硬直して動けない私は、彼を信じることにして目を瞑った──。
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