裏・皇帝と長官
輦皇后を玉衡宮まで送ったあと、雷宗は皇帝に「少し供をしてくれ」と言われ、後宮内をあてもなく歩いていた。
後宮という場所には、后妃達が暮らす場所以外にも、皇帝だけの私的空間――執務する場や寝殿――も含まれている。
一般的に『後宮』というと、后妃達が生活する閉鎖的な場所を指すことが多いのは、混同を防ぐため、便宜的に后妃達の暮らす場所を後宮と呼び、皇帝の私的空間を宮殿の名――紫微殿――で呼び分けているためだ。
しかし、同じ後宮内といえど、皇帝の空間は許可がなければ、后妃でも立ち入りは禁じられている。
おかげで、後宮内を歩いているのに女人の目を気にしないで良いという状況は、雷宗にとってはありがたかった。
(おそらく、俺を気遣ってくださったんだろうな)
皇后から后妃嫌いだと伝わっているのかもしれない。もしくは、普段の自分の態度から気付かれたか。この皇帝は、辣腕家と評されるほど政治勘に長けているだけでなく、妙に察しの良いところがある。
「雷宗」
「はい、陛下」
「巫女殿は、実に変わった女人だな」
紫微殿にある池の畔を、ゆったりとした歩調で歩きながら、皇帝が言った。
これには雷宗も全面肯定とばかりに、何度も首を縦に振る。
「優しく、しかしその優しさに下心がない。そうするのがさも当然とばかりに、実に素直な心の持ち主だ」
「眩しいものだな」と、皇帝は水面を眺めたまま足を止めた。あわせて半歩後ろで雷宗も歩みを止める。
そう、彼女が変わっていると周囲によく言われる所以は、行動に裏がないからだ。
後宮で変わっていると言えば、普通は良い意味とはならない。大抵は、空気が読めないだの、なぜ后妃になったと首を傾げざるを得ない言動だのと、問題児を指すのがほぼだ。
『近寄らないほうが良い』の同義語とも言える。
しかし、自分も彼女の侍女も后妃も皇帝も、皆彼女が変わっていることを認知しながらも、嫌な感情はまったくと言っていいほど持っていない。多少、突拍子もない言動に呆れることもあるが、だからと言ってそれで離れたほうが……とはならない。
彼女への『変わっている』という言葉は、自分達がここで生きていく上で捨てなければならなかったものを持ったままでいれるという、羨望に近い。
それ故の、皇帝の「眩しい」という言葉なのだ。
「私共も、彼女を見習わなければなりませんね」
「それは無理だろうな。しがらみが多すぎる、私も……」
「お前もな」と振り返った皇帝とはじめて目が合った。雷宗は否定も肯定もしなかった。ただ、彼が向けてくる愛とも哀ともとれる眼差しがいたたまれず、そっと瞼を閉じた。
「まあ……だからこそ、白澤様が彼女を遣わしたような気もするのだがな」
皇帝は、返答しなかった雷宗を責めはしなかった。
さらりと流された会話に、雷宗は心中で安堵の息を吐く。そして、会話も一段落したところで、これで自分の役目は終わったのかなと気を緩めた雷宗だったのだが。
「ところで雷宗」
「は、はいっ」
改めての呼びかけに、背中を強張らせた。
「皇后が巫女殿から渡されたあの白い犬……哮と言ったか」
「はい……」
哮天犬がどうしたというのだろう。
「雷宗、お前は哮天犬様のお姿を見たことはあるか」
心臓が跳ねた。
しかし、そこはさすがに内侍省長官。おくびも動揺を表情には出さなかった。
内心で、『きっと、こういうところが彼女にはなれない理由だろうな』と自嘲した。あまりにも、この世界で生きるのが上手くなりすぎてしまった。
「いえ、私如きが神のお姿を拝むことなど畏れ多いですから」
雷宗が頭を緩く左右に振る姿を、皇帝は薄い笑みを口元において見つめる。
「ほう……私はてっきり、あの白い犬が哮天犬様かと思ったがな」
「ははっ、陛下は随分な夢想家でらっしゃる。瑞獣が呑気に王宮内を歩き回っているはずがないじゃないですか」
にやっと口角をつり上げた皇帝に、雷宗は苦笑で返した。
「……それもそうだな」
しばしの沈黙のあと、皇帝は肩をすくめて再び足を動かしはじめた。
そうだった。彼は――この皇帝は、妙に察しが良いのだ。
雷宗は口を閉ざし、大人しく彼の背中を見つめながら再び付き従う。
「……だがな、雷宗。私はいつか……神々が呑気に歩き回ってくれる国になればと、できれば私が玉座にいる間に、そういう国にできればと願っているのだよ」
雷宗は、ただ彼に付き従った。




