可愛くても、瑞獣哮天犬
次の瞬間――。
「――――っっ!」
ビリビリと鼓膜を殴るような遠吠えに、私達は皆耳を塞いだ。
驚きに冬長官は「うっ」と小さく声を漏らし、菜明は「キャッ」と悲鳴を上げてしゃがんでいた。白ちゃんはわかっていたのか、動じた様子はない。
遠吠えというと細く長く、澄んだ声を想像するかもしれないが、とんでもない。
さっきまであんなに愛らしく喋っていたのに、哮ちゃんの吠える声は威嚇そのものだった。喉を全て解放したかのような太く、低く、でも決して不快ではない、圧倒的な声量の咆哮。
部屋全体が震えていた。
おそらくこの声は、玉衡宮全体にも聞こえているに違いない。
「出たぞ、哮天犬!」
白ちゃんの声で、再び注意を皇后様に向ければ、ちょうど彼女の身体から何かが飛び出してきた。
大きな翼を持った赤黒い鳥。ただし首はにょきにょきと九つある。そして、本来もう一本の首だった場所は、根元からだらだらと血を垂らし続けていた。
間違いない、これが皇后様の精気を食べていた鬼車という妖魔だ。
なんとおぞましい姿か。
「お願い、哮くん! 逃がさないで!」
「わかった! ぼく、やる!」
寝台からばたばたと飛び出し、私達がいる入り口へと向かってくる鬼車。扉の正面にいた菜明へと、鬼車が遠慮無く突進する。
「キャアァァッ!」
「菜明っ!?」
哮くんの咆哮でしゃがみ込んでいた菜明は、咄嗟に逃げることができず、私は手を伸ばした。視界の端で、冬長官が剣の柄に手を掛けたのが見えた。
わかってしまった。鬼車の嘴のほうが、私が菜明へと伸ばした手より届くのが早い。スローモーションの景色の中で、どうか彼の剣が怪鳥を斬ってくれるようにと、私は唇を噛んだ。
全ての音が遠くなる中で、その声はひどく明瞭に聞こえた。
「その子はダメ」
哮くんだった。
その声が引き金となって、全ての音が世界に戻ってくる。
と、同時に鬼車の汚らしい「ギャアアアアアアアア――ッ」という断末魔が響いた。
一瞬で追いついた哮くんが、鬼車の首に噛みついていた。哮くんの口から飛び出た九本の首が苦しそうに蠢いている。
「みこのお友達だよ? ぼく、ゆるさないよ」
バキバキと骨が折れる嫌な音がした後、哮くんはペッと床に吐き捨てた。鬼車は床でしばらく痙攣していたが、黒い霧となって跡形もなく消えてしまった。
「菜明、大丈夫!?」
私は床で震えていた菜明の元へ駆け寄った。
「と、冬花様、大丈夫です。こ、哮天犬様ぁ、ありがとうございます……っ助かりました」
半泣きになりながら、菜明は哮くんに頭を下げていた。
「…………ん、あぁ…………」
寝台から声がした。
全員がハッとした。
そうだった。ここはまだ皇后様の寝室だ。
「しっ、白ちゃん早く寝台から下りて」
まだ寝台に乗っていた白ちゃんを、私は小声で早く早くと手招きする。
目を覚まして自分の寝台に子牛が乗っていたら、高貴な人はどう思うだろうか。
『畜生が私の寝台に……!』とか騒がれたら困る。
いや、本当は白ちゃんはとってもすごい神様だし、むしろ乗ってもらえて感謝して、とも思うが、事情を知らない人にしてみれば、ただの子牛でしかない。
白ちゃんも、そこは重々承知しているのだろう。アワアワとたたらを踏みながら、ぴょんと私の元へと飛び降りた。




