皇帝陛下の頼み事
いつもの冬長官なら、とっくに扉を開けているはずなのに……。もしや、冬長官じゃない可能性もある? でも、そうしたら声を掛けると思うけど。
すると、扉の向こうの影がもうひとつ増えた。
「えっ!?」
しかも、冬長官と思われる影と遜色ないくらい大きい。
「巫女殿、失礼するよ」
(どこかで聞いたことある声……)
渋みがまざったほどよく低く太い声だ。
いや、どこかっていうか……後宮でこんな『いかにも』な声をした人は、冬長官以外にはひとりしかいない。
開いた扉から姿を現したのは――。
「こ、皇帝陛下……!」
隣で、菜明が床に額をついていた。
◆
迅速に格好を整えて、私は卓を挟んで陛下と向き合う。
私が足を拭いて靴を履いている間も、陛下は「ははっ、慌てなくていいから」と、好々爺のような微笑を浮かべて待っていてくれた。
いつも皆で囲む卓とは別の、屏風奥にある小さな円卓。椅子も円卓も装飾豊かで、普段使いには気を遣うため、来客があった時にしか使わない場所だ。応接セットみたいなもの。
椅子も二脚しかないし、人(神含む)が増えてきた白瑞宮ではなかなか使う機会もない。冬長官は本来こっちを使うべきだけど、やって来るなり卓のほうにつくから、最初は応接セットに促していた菜明も今では何も言わず、卓へと茶を運んでくる。
そんな、一卓二椅なところで、座っているのは私と陛下のみ。
それぞれの後ろには菜明と冬長官が起立している。
「すまないな、いきなり訪ねてしまって」
「いえ……それで、どのようなご用件でしょう」
椅子の背にもたれていた陛下の身体が、前方に傾いだ。一緒に、彼の大黒様のような穏やかな表情が急に曇った。
「実は、皇后が病で伏せっている」
私は驚いた。病気ならそれは私に言うことではなく、医官が対処することなのではと。だが、すぐに意識を変える。そんなこと陛下も分かっている。それでも私に話を持ってきたのは、《《医官では無理な病気》》だからだろう。
「人ならざるものが関わっていると……?」
陛下は「さすがは巫女殿」と、肯定するように肩をすくめた。
随分と茶目っ気のある返事の仕方だった。
最初に陛下とまみえた時、彼はとてつもなく大きな御殿の高い場所にいて、煌びやかな衣装を纏い、豪奢な椅子に座っていた。『威厳』という言葉が服を着ているような、見る者を圧倒する凄みのある人だった。これが一国を統べる王様かぁ、なんて呆気にとられていた覚えがある。
二度目は万灯祭の時。その時は、美々しい后妃様達に囲まれ、美味しそうに食事や酒を交わす様子に優しさを感じた。
そして、三度目の今日。先の二度の時と違い、服装は随分と飾り気が落ちている(それでも、素人の私が見てもわかるくららいには、高級そうな帯とかで飾られているけど)。冠も目の前で玉すだれが揺れるようなもの――冕冠って言うみたい――ではなく、髪を纏めただけの小さいもの。そして、先ほどの返事。なんだか、とても今日は親しみを感じる。
そんなことを、陛下が菜明が出した茶をすする様子を見ながら思っていた。
茶器を置いた彼は、皇后様の様子について教えてくれた。
「はじめは、ただの熱病かと思っていた。侍医もそうだとして処方していた。しかし、いくら薬を飲んでも顔色はどんどんと白くなり、脈は弱まるばかりでな」
「それは……っ」
陛下の顔を見たら、何と答えて良いかわからなかった。
耐えるようにキュッと眉間に皺を寄せ、腹の前で重ねられていた手は、爪が食い込んでいる。
「気丈な女人だ。後宮では大なり小なり毎日どこかで問題が噴出している。それを正し、綱紀粛正していくのが、後宮の主人である皇后の役目だ。あれも、私の皇后になってから長い。色々とあったが……それでもあれは私が宮を訪ねると、必ず笑顔で迎えてくれていた。どんな時でも……子が流れた時ですら、赤くなった目元を白粉で隠して、慰めに来た私を宮の入り口で……」
ふいと顔を背けた陛下は唇を噛んでいた。下瞼が持ち上がり細められた目は、どこか遠くを見つめている。
「なのに今日……私が訪ねても宮の入り口には……」
陛下は大きく息を吸い、ふーと長い息を吐き出した。
陛下のことも皇后様のこともよくは知らない。だけど、吐き出されたため息に乗った感情の複雑さは、しっかりと伝わってきた。
「おそらく妖魔の仕業だと陛下はお考えだ」
背後にいた冬長官が言葉を引き継いだ。




