えっ、犬じゃないの???
『妖魔かどうかは分からんが、つまりお前は不審者ということだな』
『いや、不審者というか迷子というかですね。とりあえず、川への行き方を教えてもらえれば、自分で出て行きますんで……』
『不審者を大人しく逃がすと思ったか。陛下の後宮を騒がすことは許されん。俺直々に捕らえて、牢に入れてやるとしよう』
『だから不審者じゃないってば!』
にやりと男は愉しそうに笑った。
(ひぃぃいいいいいッ! 話が全っ然通じない!)
しかも嗜虐趣味まである。絶対、部下にネチネチいやみを言って、忘れた頃にもう一度釘刺してくるタイプだ。捕まったら最後、ねちっこい尋問とかされるに決まってる。地獄怖い!
長い足を大きく動かし、男は足早にこちらへと向かってくる。
逃げなければと分かっていても、混乱と動揺と恐怖で足が竦んで動けない。
もうだめだ、と私はその場で頭を抱えてしゃがみこんだ。
しかし、男の手はいつまでも襲ってくることはなく……。
そろりと目を開けたら、視界は白で埋め尽くされていた。体を柔らかく包む白は、毛足の長い毛布のようで心地好い。
『そこな人間、ワシの巫女を怖がらせるでない』
頭上から声がした。
見上げると、助けた犬とよく似た犬が私を腹に抱えているではないか。
体を包んでいたのはこの犬の尻尾だったようだ。
(……ていうか、なんか……大きすぎない?)
助けた犬は確かに大型犬でちょっと大きめだったが、それでも私の膝丈くらいの大きさだったはず。なのに、今私を守るように抱える犬は、私どころか、目の前で瞠目している男よりもはるかに大きい。
違う犬かとも思ったが、額に朱色の模様がある犬などそうそういないだろう。というより、これは犬のくくりにしてオッケーなのか?
『この娘は、ワシの大切な巫女なのだからな』
『ちょっと待って。ワンちゃんが喋ってる』
いや、犬じゃないかもしれないが。
『ワシは犬ではないが……』
やっぱり。しかも、空から現れたように思うのだが。
『じゃあ、妖怪? 幽霊?』
『……ちょっと黙っておれ』
なんだか呆れられたみたい。
何者だろうなと思いつつも、言われたとおり大人しくする。
そして、視線を向かいに戻すと、男がこれでもかというほど瞠目していた。
『そのお姿……っまさか、あなた様は瑞獣の白澤様では……!』
『いかにも。神妖諧王白澤とはワシのことだが』
たちどころに、男は地面に膝を突ついて叩頭した。翻った袖が仰々しい音を立てる。
『失礼いたしました。私は清槐皇国で内侍省長官の役を賜っております、冬雷宗と申します。まさか……この国にお戻りになられていたとは……っ』
『勘違いするでない、雷宗。戻るかどうかはワシが決める。この娘はその試金石だ。言っている意味は分かるな?』
『はっ!』
いや、私はまったく何も分からないんですが。
ただ、牢に入れられる心配はない、ということだけは分かった。
それから、白ちゃんと冬長官との間で勝手に話は進み、ひとまず私は、後宮の中にある白瑞宮に住むようにと言われた。
どうやらここは地獄でも三途の川近辺でもなく、私が住んでいた世界とは全く違う世界らしい。
異世界というやつだ、多分。
そして、なぜひとりで後宮にいたかという理由も分かった。
元の世界で事故にあう瞬間、白ちゃんが私を抱えて世界線を飛び越えたのだが、その途中でうっかり落としてしまったらしい。
うっかりで人を落とさないでほしい。死ななくて良かった。
それで、私が落ちた先が、偶然にも目的地である清槐皇国の後宮だったようで、ちょうどいいからそのまま住めと言われたのだ。適当すぎやしない?
私は全然何もオーライじゃないけど、まあ、これが一週間前の出来事。
それからは特に何か命令されることもなく、私は白ちゃんが連れてきたってことで『白瑞の巫女』なんて呼ばれて、白瑞宮の中で自由に過ごさせてもらっている。
(安定的な衣食住があるなら、別に異世界でもいっか)
むしろ、後宮でこんなにスローライフさせてもらえて良いのだろうかと心配になるほど、平穏な日々を過ごしている。