スゥゥゥゥ(深呼吸)
厨房の扉を閉めるなり、菜明は勢いよく腰を直角に折った。
「本当に厄介な方を連れてきてしまって、申し訳ありません!」
菜明が言うには、鵬充媛という人は姫様気質なのだとか。
本当に地方豪族の姫で蝶よ花よと育てられ、自分のためなら周りが損を被ろうと構わないという性格らしい。
宮女の間でも、あまり近付きたくないと噂の妃なのだとか。
「菜明が謝ることじゃないよ。宮女の菜明は、妃の彼女に命令されたら断れないでしょ」
「それはそうですが……私が友人に冬花様の飴を分けなければ……」
「それは菜明の優しさだから間違ってないよ。私の作ったもので笑顔になる人が増える方が、私は嬉しいし本望だって。むしろ、ありがとうね」
「冬花様……」
菜明は眉を下げて情けない顔をしていた。
「それで、どうなさるおつもりなんですか。やはりのど飴を作られるのですか」
「いや、普通の料理を作るよ」
「え……普通の料理ですか。鵬姜様は満足なさるでしょうか」
「させるよ」
自信満々に頷けば、菜明はその方法を聞きたそうに首を傾げた。
しかし、私は菜明の肩を掴んでクルリと反転させる。
「さあ、鵬姜様をひとりにしとくわけにはいかないから、悪いけど菜明は戻って相手してて」
背中をポンと押した。
菜明は、チラチラとこちらを気にしていたが、鵬姜様をひとりで待たせるのはまずいと分かっているようで、小走りで厨房を出て行った。
閉じられた扉の向こう、足音が遠ざかったのを見計らって私は控えめに声を掛けた。
「月兎いるー?」
「イリュー」
間を置かずに返事があったのとほぼ同時に、月兎が天井から落ちてきた。
見事に着地した月兎は呼ばれた理由が分かっていたようで、こちらが何か言う前に背負っていた籠を下ろした。
見つめてくる丸い瞳が『何出す?』と言っている。そんな目で見つめないで。籠に入れて持ち歩きたくなっちゃう。
「えっと、ネギとセリ、生姜それと加蜜列もらえるかな」
「モラエルー」
「はぅあッ!」
まねっこお上手ね!
人間、可愛いすぎるものを目の前にすると震えるということを、身をもって知った。
白ちゃんも可愛いけど、あれはなんか達観しているというか……フォルムだけが可愛いというか……中身は老人みたいというか……。神様なんだから当たり前だけど。
そんな白ちゃんは、鵬姜様(外部の人間)が来たのに気付いてすぐに逃げた。おそらく、裏庭か使っていない部屋で寝てると思う。
月兎は必要な材料を調理台に置くと、そのまま絶妙に邪魔にならない位置――まな板の奥に座った。
「……ナニコレ、幸せ珍百景……っ」
赤ちゃん座りでまな板を見守る小さな兎は、可愛いの供給過多だと思う。
本当なら、このままずっと眺めていたいのだが、そんなわけにはいかない。料理好きとして、私には彼女の曲がった努力の方向を正すという使命があるのだから。
「さて、じゃあ料理を作っていきましょう!」
「ショー」
「……っつ…………っ」
不意打ちだよ。
出汁に卵をパカパカパカッと割り入れる。出汁は、どうせ毎日何かしらに使うから、前日から仕込んだりして自分でとっている。椎茸に煮干し、昆布にかつおと色々あるが、今使っているのは、鰹と昆布の出汁を合わせたもの。
出汁と卵をよく混ぜて、ひとつまみ塩を入れて、目がちょっとだけ粗い布で漉す。
「ギュー」
効果音付きとか、助かります。
「具材は、好き嫌い分からないしクセがないのが良いよね」
魚のすり身を蒸したやつ――かまぼこと、出汁に使った椎茸というシンプルさ。それらを陶器の椀に入れ、上から先ほど漉した出汁卵を注ぐ。
「見た目も綺麗に……っと」
竈の火を細い枝に灯し、カスタード色した表面にできた気泡に近づける。泡が次々に消えていく。
「『す』が入ると見た目が悪くなっちゃうからね。鵬姜様って、見た目絶対気にするタイプだろうし」
「スー?」
「泡があるまま固まると、仕上がりが穴だらけになっちゃうの。それを『すが入る』って言うの」
「スー!」
「……スゥゥゥゥ(深呼吸)……」
おかしいな。子供産んでないのに母性が止まらない。それ以前に、お付き合いしている男性もいなかった気がする。
気泡が消え、表面が滑らかになったら、月兎にもらったセリを小さく切って乗せる。
こっちのセリは、春の七草のセリというより、香りも強くなく三つ葉に近い。
「これを蒸籠に入れて、蒸し上がるまでの間にもう一品」
もうひとつも、同じように卵を使うもの。
器に卵を割り入れ、たっぷりと空気を混ぜ込むようにして溶く。
「焼く前に、餡の準備をしようか」
黒酢、醤油、砂糖、出汁を混ぜ合わせる。
こちらの酢は、もっぱら黒酢のようだ。白い酢がないか菜明に聞いたが、酢は黒いものという認識だった。醤油は、醤の上澄みをとったもので、いわゆるたまり醤油。コクが醤油よりも強いから、多く入れすぎないように注意が必要。




