この世の美味を失うことになるんだよ!?
本は意思を持っているかのように、パラパラとひとりでにページを捲り、【白澤】という文字が書いてあるところで止まった。
現実的ではない光景に、隣で冬長官があ然としているのが空気から伝わってくる。
そう言えば、彼の前でこの力を見せるのは初めてだったか。
「白澤、召喚」
ページから黄金色の光が放たれ、何もなかった空間がぐにゃりとねじれた。
ねじれた空間から、白い丸っこいものがころんと出て来る。
現れた白いものを胸に抱き留めた。小さな角にピコンと立った耳、そして額に描かれた朱色の目。
白ちゃんだ。
「どうした、冬花。お主ならば呼んだだけでも来てやるというのに、わざわざ白澤図なんぞ用いてワシを喚び出すとは珍しい」
「うん。白ちゃんの力を貸してほしいの」
地面に手を突いたまま瞠目している梅花精さんを、白ちゃんが一瞥する。
「なるほど。古い呪いが掛けられておるな」
「そうなの。いけそう、白ちゃん?」
「ワシを誰だと思っておる。万物の知識を司る神だぞ」
白ちゃんは鼻先をツンと上向けてフーと鼻息を荒くした。胸を張っているのだろうが、丸っこすぎて張っているかどうか分からない。
本当、このただのぬいぐるみのような子牛が、とっても偉い神様だなんて信じられない。
「は、白澤様であられますでしょうか!」
しばらく呆然としてこちらを見ていた梅花精さんが、ハッと気付いたように地面に顔を伏せる。
「面を上げよ。そのように畏まらなくても良い。ここではだだの白ちゃんだ」
「は、はい! かしこまりました」
こういうのを見ると、偉い神様なんだと信じざるを得ない。
神様界の皇帝みたいな雰囲気だ。
「この呪いのせいで梅花精さんが苦しんでて。しかも、国中の梅の花が咲かないらしいの」
「うむ。少々ややこしい術式が使われておるが……この程度ならすぐだな」
「ただし」と、梅花精さんを見ていた白ちゃんの目が、じとりと湿度を増してこちらへと向けられた。
「ワシは人間を救うために力は使わないと決めておる。人間がかけた術ならば、人間で解決するのが筋だろう。梅が咲かなかろうがワシは困らんからな」
「むー……」
ぷいっとそっぽを向かれてしまった。
自分が後宮にいることもバレたくないと言っていたし、私以外には態度が素っ気ないし(主に冬長官に対して)、余程人間が嫌いなのかもしれない。
(もしかして、神に見捨てられたって……こういうこと? 神様の人間嫌い?)
この国で一体なにがあったというのか。
しかし、過去のことなど自分が知るよしもないし、特に知りたいとも思わない。
それよりも、梅が咲かないことで一番困るのは……。
「梅干しが食べられなくなるんだよ、白ちゃん!」
「な、なんじゃ!?」
いきなり肩(?)を掴んで声を上げたことに驚いたのか、白ちゃんは丸い目をさらに丸くしていた。
「梅の花が咲かないってことは、梅の実がならないってことなんだよ! 梅の実がならないってことは、梅干しがこの世界には存在し得ないってことになるんだよ! それがどれだけの損失か分かってる!? あぁ……キュッと口の中を切なくする酸味とほどよい塩味の梅干しは、そのまま食べてももちろん美味しいけど、サラダのドレッシングにしたり、煮物にいれるとさっぱりした仕上がりになるし、ささみの梅しそ巻きなんて食べ出したら止まらないのよね」
思い出した味に、思わずうっとりとしてしまう。
「梅干しとやらは、そ、それほどに美味いのか?」
興味をそそられはじめたようだ。
私は、前のめりになった白ちゃんの顔の前で、チッチッチと指を振る。
「梅干しだけじゃないのよね~これが。芳醇な香りの梅酒や梅シロップは、とろっとしてまろやかで口当たりも香りも良いし、甘酸っぱい梅ジャムはお菓子だけじゃなく料理にも使えるし、最高の食材なんだから」
白ちゃんの目は輝きだし口元からは涎が溢れ、猫のように何度も手で口を拭っていた。
「し、仕方ない! 今回は困っているのが同胞――人間ではないし、力を貸してやろうかのう」
(勝った……!)
私は小さくガッツポーズした。
なぜか隣で冬長官も口元をこそっと拭っていた。




