裏庭係の私、いつの間にか偉い人に気に入られていたようです
短編です。こういうあっさりめの恋愛が好きです。
ここはとある王城——のはずれの裏庭。
裏庭とはいえ相応に広く、朝露きらめく草花が元気に快晴を喜び、木々は剪定されて新緑の季節を迎える準備ができていた。
——のだが、かんかんにお怒りの紳士の声が響く。
「一体全体何をしているのだ! お前はクビだ!」
「すみません、すみません!」
必死に謝るのは私、宮廷メイドのエイダ・ルイスだ。十八歳の花も恥じらう乙女なのだが、その格好は宮廷メイドでも乙女でもない。
今の私の格好は、土のついた男性用の長袖シャツとズボン、長靴にエプロン、赤毛の髪はまとめて頭を覆う綿のスカーフの中へ。首からは汗臭いタオルも下げている。そんな格好の宮廷メイドなど、この世にはまたといないだろう。
私は怒りに怒った壮年の執事長へ、現状を何とか釈明する。
「先輩のネルさんから、執事長から裏庭の掃除をしてほしいと頼まれて、それで」
「メイドにそのようなことを頼むか! 頼むなら庭師に頼むわ!」
「えぇ、あぅ、その、そう思ったのですが、懇願されて引き受けまして、その」
「それで裏庭をこうも……薬草を一つ残らず抜くばかりか、貴重な香木まで切って……」
「申し訳ございません! まったく知らず」
何とも申し訳なく、私はひたすら頭を下げるしかない。
宮廷メイドの先輩であるネルから「裏庭の掃除をお願いできる? 執事長から言われたんだけど、私は忙しくて無理なの、お願い!」と頼まれたのは昨日の朝のことだ。私はそれまで王城の裏庭になど足を踏み入れたこともなく、掃除なら落ち葉を拾って雑草を抜いて終わりだろう、と思って二つ返事で引き受けてしまった。
ところが、王城の裏庭は、城壁内にあるとはいえ背の高い草が足の踏み場もなく生い茂り、好き放題に伸びた木々が大きく影を作っているという、まさしく荒地と化していた。
それを見た私は、こう思ったのだ。
「これはお淑やかなネルさんには無理ね。私も、まあ、おばあちゃんの庭の手入れくらいしかしたことないけど、頑張ろう!」
私はまず、城壁内にある飼育舎へ行き、借りられるだけの山羊と羊を借りてきて、裏庭に放った。するとどうだろう、あっという間に彼らは背の高い草もクローバーも何もかも食べ尽くしてしまった。食欲旺盛な山羊たちに助けられ、見晴らしがよくなったところで私はノコギリを庭師の小屋から借りてきて、影を作る木の枝を片っ端から剪定した。木に登ってノコをゴリゴリ、箒の持ち手の先にくくりつけてゴリゴリ、大して太い枝がなかったことも幸いして、裏庭はそれだけでも見違えるほど日当たりがよくなった。
あとは、細かい雑草を抜いて一つにまとめ、木の枝を細かく折って焚き火にした。ちょうどいい古ぼけた石畳があったので、その上で夕暮れどきの寒くなるころ盛大に燃やしたのだ。
そして次の日、つまり今日。意気揚々と裏庭の掃除の仕上げに取り掛かろうとやってきたところ、私は執事長に見つかり、綺麗になった裏庭を褒められるのかと思いきや、お叱りを受けている。
「この裏庭はな、本来我が国では手に入らない貴重な薬草や香木を育てるための場所だ」
「でも、手入れも何もされていなくて」
「育ちやすい環境を整えていただけだ! 日当たりを好まない植物もいるだろう!」
「あぅ、確かに」
「おまけに焚き火までして! どれもこれも残らず焼けてしまったではないか!」
執事長はああ、と胃を温めるように手を当てて、天を仰いだ。
雑草として抜いただけならまだよかったが、燃やしてしまったとなれば根も種も何も残らない。香木、道理でいい香りの焚き火だったわけだ。今も何となく濃厚な甘い香りが裏庭に残っている。
やってしまった。これはやってしまいましたね、私。執事長の胃にダイレクトアタックしてしまいました。
「あのぅ、どうにか復元のお手伝いを」
「一介のメイドごときに何ができるというのだ。ここにあった薬草一つに金塊がどれほど積まれるか、知ってのことか?」
「いえ、申し訳ございません……」
「しかも、その薬草はリュドミラ王太后に処方されていたのだぞ……」
「ひえっ!?」
執事長がお怒りになったわけである。病に伏せられている王様のお母上、リュドミラ王太后のお薬だった薬草を、私は燃やしてマシュマロを焼いていたのだから——マシュマロの件は黙っていよう——もうどうすることもできない。金塊など平民の我が家にはない、いるのは病気がちな弟マークだけだ。
どうしよう、クビになってしまう。
そこへ、裏庭によろよろと現れた一人の老人が、執事長をなだめてくれた。
「まあまあ、やらかしたのなら償いをしてもらえばいいだけのこと。執事長、草むしりの上手な彼女には、わしの監督下で裏庭の管理を任せても? メイドとして華々しい仕事には戻れませんが、これなら償いになるでしょう」
「デ・ヴァレス殿」
「こちらの方は……?」
「宮廷薬師のギィ・デ・ヴァレス殿だ。お前が燃やした薬草を使って薬を調合しておられる方だ」
執事長は刺々しく私を責めつつ説明する。しかし燃やした私も大概だ、耐えねば。
こうして、薬師のデ・ヴァレスのおかげで私はクビにはならず、何とか裏庭の管理人見習いとして王城に残ることとなった。
裏庭の管理人見習いの朝は早い。
日が昇る前に薬師のデ・ヴァレスとともに薬草を探す。私が抜きまくったからもうないのでは、と思うが、もしかすると根っこや種が残っているかもしれないということで、まだまだ暗い裏庭へやってきた。
「あのぅ、暗いのに根っこやタネなんて見つかるんですか?」
弱々しいランプを持つ薬師のデ・ヴァレスは、気を悪くすることもなく答えてくれた。
「うむ、薬草の中には光るものもあってな。一部でも残っていれば、どこかしら光っているはずだ。それを探しておくれ」
「分かりました、やってみます」
私は本当にそんなものがあるのか、と半信半疑ながらも、竹のザルを片手に光る薬草を探す。
すっかり草がなくなって、粒まじりの土道と植物を育てる赤土が広がる裏庭は、星明かりだけでは手元さえまともに見えない。それでも地面に這いつくばって、光るものがないかじっと目を凝らし、進んでいく。つい先日まで私は宮廷メイドとして華やかな世界に関わる高給のお仕事に就いていたのに、今私は地面の冷たさを肌で感じて、草むらを手でかき分けている。どうしてこうなったのだろう、ため息が出てしまう。
しかし、木の根元の隙間にぽわんと光る葉っぱを見つければ、そんな気分も吹き飛ぶ。
「ありました! 光ってます!」
私はほんの葉っぱ一切れを取り、やってきた薬師のデ・ヴァレスへ見せた。
「おお、よかったよかった。庭師に頼んで、何とか生かせないか頼んでみるよ」
「お願いします! もっと探しますね!」
「ああ、日が昇るまで探してみよう」
何だか宝探しみたい、と私はすっかりしでかしたことを忘れ、光るものを探して地面に這いつくばること二時間。
私の竹のザルには、根っこ、葉っぱ、殻付きの種がずらりと揃った。山羊にも食べられず意外と残っているものだ、と本当に安心した。薬師のデ・ヴァレスは喜び、上機嫌だ。
「見つかってよかったよ。お嬢さんもそれほど深刻に捉えなくていい、何とかなるさ。日も昇ったし、一旦朝食を食べておいで」
「はい!」
薬師のデ・ヴァレスの許可を得て、私は建物の裏手を回って城壁内の宿舎へ戻る。さすがにこの土いじりの格好のまま王城内を歩くわけにはいかない、着替えて食堂にパンとスープをもらいに行こうと決めた。
しかし、宮廷メイドを辞めさせられ、王城から追放されるかと思いきや、何とか首の皮一枚繋がった。裏庭の管理人見習いという裏方仕事、それも肉体労働系の仕事に転職してしまったが、とりあえず実家の弟への仕送りは維持できる。すでに父母はおらず、弟のマークは病弱で外の仕事はできないから、近所のおばさんに世話を任せて私は給料から仕送りを続けていた。
私は宿舎への道を歩いていると、前方にメイド服の集団を見つけた。悪いことをしたわけではないが、建物の影に隠れる。
集団の中には、私の先輩だったネルもいた。みんな眠たそうにあくびをしながら、今から仕事だ。
私もあそこにいたはずなのに、運命のいたずらとはひどいものだ——そう思っているところに、話し声が聞こえてきた。
「せっかくあのどんくさいのを追い払えたんだから、今日はいい日よきっと」
「そうよそうよ。エイダの指導係なんてよくやれたわよね、ネル」
「本当よ、もう。でもクビじゃなくて、裏庭係になってさ」
「何それ? 裏庭係って、マジウケる」
「そこまでして王城に残りたいなんて、意地汚いったらありゃしないわ」
メイドたちは、甲高い声で笑いながら、歩いていく。
完全に通りすぎ、いなくなるまで、私は動けなかった。
——そっか。そういうことか。
ネルは私を辞めさせようと、ありもしない裏庭の掃除という仕事を私にやらせて、執事長に言いつけた、というわけだ。なるほど、知ってしまって後悔する。知らなければよかった、知りたくなかった。みんな、気のいいメイド仲間だと思っていたのに。
私は少しの間だけ、建物の影に小さくなってうずくまり、目を閉じて泣くのを我慢した。
☆
役職の変わった私は宿舎の部屋を移り、庭師たちと同じ区画の部屋で寝起きすることになった。
メイド時代と違って、食堂ではご飯は食べない。庭師にはそれぞれ作業小屋があって、ご飯を食堂でもらってきてそこで食べる。ただ、私には作業小屋なんてないから、裏庭で一人食べることが日課になった。
幸い、薬師のデ・ヴァレスは優しい人で、雑草と薬草の見分け方を教えてくれたおかげで、私は雑草駆除と落ち葉掃除という重大な任務をこなせるようになった。一週間もすれば薬師のデ・ヴァレスは熟練の庭師を連れてきて、薬草の生育に適した場所の作り方を教わり、裏庭の一角を習ったとおりの土地に作り変えるよう命じられた。
しかし、これが意外と楽しい。飼育舎から厩肥を運び、庭師の管理している倉庫からも腐葉土や石灰をもらってきて混ぜる。日陰を作るために藁の屋根を木に設置し、水やりを欠かさない。初夏になって雑草があちこちに生えてきては抜き、堆肥置き場に持っていく。
日々、肉体労働は確かに疲れるが、メイド時代と違って充実感はとてもあり、薬師のデ・ヴァレスや庭師たちから習うことも多い。特に、薬師のデ・ヴァレスは薬草学の知識を惜しげもなく私へ伝授してくれた。
「いいかい、エイダ。こっちのシダはタカワラビと言って、根や茎を乾燥させて薬にするんだ。主に肝臓や腎臓に効果がある。これは南の高温多湿な場所でしか育たないから、本当は温室を作るべきなんだが、ここは条件が合ったらしくうまく育っている。大切にしてやってくれ」
「はい、分かりました! こっちの草も、シダですか?」
「ああ、それはコモチシダだ。これも南のほうでよく育つ種類で、根茎は腰や膝など関節によく効く。同じシダだが、タカワラビの茎は黄褐色の毛で覆われていてだね」
そんなふうに、毎日が勉強で、毎日が楽しい。薬師のデ・ヴァレスや庭師はときどきお茶会を催してくれるし、そのお茶も薬草茶が多くてどうやって作るのかを尋ねて自分でも作ってみる、というのは今までにない経験で、いいものができたら弟にも送るようになった。
そろそろ私にも作業小屋が必要だろう、なんて話が持ち上がってきたころ。
裏庭に、小さな来客があった。
最近は裏庭に丸太を持ち込み、座ってご飯を食べる。昼食を食べ終えた私は、トレイを食堂へ返そうと立ち上がった。
そのとき、裏庭へ腰ほどの高さの影がにょっと侵入してきた。私は身構え、影の正体を確かめようと目を凝らした。
とはいえ、そんなにジロジロ見るまでもなく、その影が子供であることはすぐに分かった。青いエプロンドレスを着た、十歳くらいの小さな女の子だ。青い目はくりっと丸くて、金髪はくるくる巻いていてリボンがとてもよく似合っている、まるでお姫様のように可愛い——いや、お姫様だ。エリヴィラ王女殿下だわ、この方。
ニコッと笑ってやってきたエリヴィラ王女は、私へ話しかけてきた。
「あなたが裏庭係のエイダね。ねえ、お花はないかしら。おばあさまのところへお見舞いに行くの」
「お花、ですか? それならここではなく、表の庭師が管理している花壇へ行かれたほうがよろしいかと」
すると、エリヴィラ王女は、ふるふると首を横に振った。
「違うの。珍しいお花がいいの。おばあさまは外に出られないし、メイドたちは決まったお花ばかり持ってくるの。だから、おばあさまが喜ぶような珍しいお花が裏庭ならあると思って」
なるほど、と私は頷く。エリヴィラ王女は祖母思いのいい子だ、となれば力になってあげたい。
私はトレイを置いて、エリヴィラ王女を手招きしてある日当たりのいい場所へ連れていく。
そこには、背の低い植物が雑多に植えられ、ある一角では細い葉っぱを伸ばす白い花が間を縫うように咲いていた。その白い花を茎ごと四、五本、花瓶に生けられるよう長さを残して取る。
それをエリヴィラ王女へ見せると、エリヴィラ王女はわあっと顔を明るくした。
「これは何? 素敵ね、小さいわ!」
「カミツレです。薬草で、薬草茶にもよく使われるリンゴのような香りをしたお花ですよ」
エリヴィラ王女は満足そうに、カミツレの花束を抱きしめて花の香りを堪能する。
「ありがとう、エイダ!」
「どういたしまして。リュドミラ王太后陛下がお喜びになるといいですね」
「うん! またね!」
精一杯手を振りながら、エリヴィラ王女は帰っていった。
というか、私は「裏庭係のエイダ」と王城内で認識されるようになっているらしい。しかもエリヴィラ王女までその呼称を知っている。
「……まあ、いっか。裏庭係も悪くないし」
そう、さして悪い呼び名でもない。
私は食堂へトレイを返しにいく。
その日の午後はさらにもう一件、来客があった。
薬師のデ・ヴァレスが、仲間の老薬師たちを連れてやってきたのだ。
「エイダ、今から薬を調合するから、一緒に見ないかい?」
そう誘われ、私は逡巡した。
「しかし、無学な私では見せていただいても何も分からないでしょう。お邪魔になってしまいますから」
「何の何の。初めは誰だってそうだ、いい機会だから見学していきなさい。何か今後の役に立つかもしれないよ」
そこまで言われては、断るのも悪い。私は薬師のデ・ヴァレスと老薬師たちについて、まずは裏庭で薬の調合に使う薬草を集めることにした。
薬師のデ・ヴァレスに見本となる薬草を見せられ、それと同じものをザルいっぱいに集める、というだけだから、あっという間だ。しかし、それが老薬師たちを驚かせたらしい。
「ほお、手が早いもんだ! しかも、一目見ただけで憶えてしまうとはなぁ!」
「優秀な助手ではないか、デ・ヴァレス。お前さんの後継として文句ないだろう」
「いやいや、後継ではないよ。しかし、エイダは薬草探しが上手くてね。よく頼んでいるんだ」
老薬師たちは歓談しながら、テキパキとそのへんにある草花の中から目当てのものを摘んでいく。ひととおり集まったら、平たい場所ですり鉢を使って薬草を煎じ、布で絞ってエキスを抽出する。さすがに手慣れたもので、薬草ごとのエキスのビーカーが五つできあがり、それぞれ違う緑色をしていた。
「いいかいエイダ、これは布に浸して湿布にすることもできる。そっちの濃い緑色のエキスは強力な鎮痛剤になるが、分量を間違えると心臓に悪影響が出てしまう。緊急時は噛んで痛み止めにしてもいいが、あまり頼らないように」
「はい、分かりました。これは混ぜるんですか?」
「そうだね、基本的にはこれらは混ぜて、経口薬にする。医師に処方を頼まれる薬の八割くらいは、これら五つの薬草の分量を調節する薬ばかりだ。だが、我が国は寒いし雨が少ないから薬草が育ちにくく、どうしても大部分を輸入に頼らざるをえない。だから裏庭で殖やしておいてくれるとすぐに使えて助かるよ」
「なるほど! 分かりました、これからは気をつけて見ておきます!」
「ははは、素直ないい子だ。頼んだよ、エイダ」
そんな調子で、私はエリヴィラ王女だったり薬師のデ・ヴァレスや老薬師たちだったり、頻繁に裏庭へやってくる人々と交流を深めていった。
裏庭係に就任して半年くらいして、私は弟へこんな手紙を書いていた。
「マークへ。姉さんは元気です、まだ仕送りを増やせないのでもらった薬草を送っておきます。大丈夫、真面目にやっているから執事長も少しは認めてくれるようになりました。裏庭係にしたのは正解だったかもしれない、なんて嫌味だか何だか分からない褒め方をされました。それに、土いじりは何かと楽しいです。草花に触れ合って、虫を捕まえたり土に放したり、この間なんて蛇を捕まえました。マークにもやらせてあげたいのですが、土は病弱なマークにとっては危ないですから……残念です。でも、なぜ危ないのかは薬師のデ・ヴァレスさんが説明してくれてやっと理解できました。土の中にはたくさんの目に見えない小さな生き物がいて、抵抗力の弱い体は彼らに負けてしまう。だから清潔に保つことが大事だ、とも。送った薬草は綺麗に洗って干していますから、あなたが触っても大丈夫です。好きなように使ってください。それでは、マークを愛するエイダ姉さんより」
すっかり私は、宮廷メイドであったことなど忘れ、無意識のうちに毎日の天気と温度によって水やりの分量を加減することまで憶えてしまっていた。もうどこからどう見ても立派な裏庭の管理人であり、一年近く経っていつの間にか見習いの文字は消えていたことが分かったのは、お給金が増えていたからだ。薬師のデ・ヴァレスの口添えで、執事長が経理に掛け合ってくれたらしい。
裏庭は元どおり、とはならないものの、以前よりも整然と薬草たちが生えて、新しい希少な薬草もやってきて、私のお手製ミニ温室が三つ並ぶようになった。
そんないつもと変わらないある日のことだ。
朝、薬師のデ・ヴァレスが仕事前に裏庭へやってきて、こう言った。
「ちょっと顔を貸してくれるかね。大丈夫、取って食いやしないよ」
「あはは、分かりました。土で汚れる前でよかったです」
「うむうむ、そうだね。こっちにおいで」
「はーい」
私は何も疑わず、いつもの男性用シャツとズボンにエプロン姿で薬師のデ・ヴァレスのあとをついていく。
ところが、王城内を歩いているうちに、さすがに私も自分が場違いなところに来てしまっていると分かってきた。
「あのぅ、ここは王族方の居住区画ですよね……?」
「ああ、そうだね」
「この格好で来てはいけないところでは」
「大丈夫、叱られたりはしないよ」
そうは言われても、執事長のような人に見つかったら大目玉だ。
薬師のデ・ヴァレスはどんどん奥へ進んでいく。いいのかなぁ、と心配しながらついていくと、とある観音開きの扉の前にやってきた。
薬師のデ・ヴァレスは扉をノックし、こう言った。
「失礼いたします。薬師のデ・ヴァレスでございます、お目通りを」
まもなく観音開きの扉が開き、中から年嵩のいったメイドが現れた。見たことのある人だ、確か——国王の乳母を務めたメイド長では?
「どうぞ、お待ちしておりました。さ、中へ」
メイド長は私をちらりと見はしたものの、薬師のデ・ヴァレスとともにあっさりと通してくれた。王城広しといえども土いじりを仕事とする格好の女性は私以外いないから、素性は分かっているということだろうか。
扉の中は、私の入ったことのない部屋だ。とても広く、半円形のバルコニーもある。調度品はどれも一流品で揃えられ、花瓶一つでも私の給料何年分とするだろうと思う。
その花瓶に、見慣れた花が生けられていた。カミツレの花だ。昨日、エリヴィラ王女に渡した憶えがある。
となれば、衝立の向こうにおわすのは——リュドミラ王太后陛下では?
私の推測と同時に、薬師のデ・ヴァレスがその答えを出してくれた。
「ご機嫌麗しゅう、リュドミラ様。お約束どおり、エイダを連れてまいりましたぞ」
私を連れてくる約束? なおさら訳が分からない。リュドミラ王太后陛下なんて、平民の私がお会いできるような方ではないのに?
混乱する私は、薬師のデ・ヴァレスとともに衝立の向こうへ行き、ベッドで上体を起こしている一人の老婆とついに遭遇した。
シルクのパジャマを着て、長い三つ編みを垂らした彼女は、頬が痩せこけているが上品なおばあさんだ。思わず私が見惚れてしまうほどに。
私は薬師のデ・ヴァレスの紹介で、やっと我に返った。
「こちらが、エイダです。裏庭の管理人をやっております」
「は、はい! お初にお目にかかります、エイダ・ルイスと申します!」
リュドミラ王太后は、わずかに微笑んでくれた。
「初めまして、エイダ。お話はかねがね、世話になっているデ・ヴァレスからも孫のエリヴィラからも聞いておりますわ」
「お、畏れ多いことでございます」
「このような姿をお見せしてしまってごめんなさいね。歳を取ると体が言うことを聞かないものだから、このまま失礼するわ」
「どうかお気遣いなく! 私ごとき、陛下のお声を聞かせていただけるだけで十二分に幸運でございます」
このとき、私はものすごく緊張していた。国母であるリュドミラ王太后と顔を合わせ、ましてやお声をかけていただけるなんて、一介の宮廷メイドにも裏庭の管理人にも分不相応だ。
だが、リュドミラ王太后はなぜ私を呼んだのか。その疑問は、すぐに明らかにされた。
リュドミラ王太后がさっそく本題に入ったのだ。
「お時間を取らせると申し訳ないから、手短にお伝えするわね。エイダ、あなたにお願いがあるの」
「私に、ですか?」
「ええ。あなた、結婚はしていないわね?」
「はい、独身でございます」
「では、ちょうどよかったわ。私の主治医であるトゥルトゥラ博士の嫡男、カレヴィとお見合いをしてほしいの」
あまりにも突然の話に、私は一瞬思考が停止して、それから復唱してやっと話を理解できた。
「お見合い、お見合い……私が?」
「ええ。草花の扱いに長けた女性を探していたのよ。とりあえず、会うだけ会ってみてくれないかしら」
言いたいことはいろいろあるが、リュドミラ王太后に口答えは許されないし、畏れ多い。
私はすぐに了承した。
「か、かしこまりました。では、カレヴィ様と会ってまいります」
お見合いしてすぐに結婚というわけではない、会うだけなら問題ないだろう。軽い気持ちでそう思って、私はカレヴィ・トゥルトゥラという男性と会うことになった。
☆
前日にお風呂に入って、とっておきのブラウスと流行りの巻きスカートを着て、まとまりの悪い赤毛を高価なバラ水の入ったトリートメントで何とかして、ゆるく一つに結ぶ。一つだけ持っている革の手提げ鞄を持ち、私は早朝の宿舎から出発した。
送ってもらった案内状によれば、トゥルトゥラ家の屋敷は城下町の高級住宅地にあり、王城からはほど近い。ゆっくり歩いていける距離だ。
久しぶりの化粧が上手くいって浮かれていた私は、周囲をよく見ていなかった。曲がり角から現れた見覚えのあるメイドとぶつかりそうになり、慌てて避ける。
「きゃ!?」
「ちょっと!」
ギリギリ互いにぶつからず、立ち止まって相手を見ると、やはり宮廷メイドのネルだった。メイド服姿のネルは不機嫌そうだ。
「もう、どこ見てるのよ!」
「ご、ごめんなさい」
「って、ああ、エイダか。どうしたの? そんなお洒落して」
咄嗟に、私はお見合いという言葉を飲み込んだ。言ってしまえば、どこでどんな噂を立てられるか分からない。私を陥れたネルとこれ以上諍いを起こしたくもなく、私は無難に答える。
「き、今日はお休みをもらったので、街へ」
「ふぅん……いいわねぇ、裏庭なんか放っておいていいんだから」
ネルのその言葉に、羨ましいという気持ちは微塵もないことくらい、私にも分かる。
どうにか逃げ出そうとしていると、ネルの背後から別の宮廷メイドたちが服を整えながら現れた。私をすげなく一瞥し、ネルを呼ぶ。
「ネル、早く来なさいよ。裏庭係にいつまでも突っかかるんじゃないわよ」
「今行くわ! じゃ、忙しいからこれで。今日は舞踏会の日だから準備が大変なのよ」
「あ、はい……」
私は連れ立って王城内へ向かう宮廷メイドたちを見送り、自分の目的を思い出して歩きはじめる。
急いで王城から出ようとして、早足だったにもかかわらず、聞きたくない罵り言葉は私の背中を追いかけてくる。
「裏庭係、まだいたの?」
「なかなか辞めないわねぇ」
「見た? あんな頑張ったって男はあんたのことなんか見ないっての」
「言えてる」
私は走り出した。宿舎を抜け、城門まで一直線に駆けていく。
早く忘れてしまえ。あんな人たちのことなんか忘れてしまえ。自分へそう思い込ませながら、私は城下町へと飛び出した。
私は高級住宅街に足を踏み入れたことはない。弟マークのいる実家は王都ではなく郊外にある小さな村で、長い休みをもらったときには帰るようにしてきたが、裏庭の管理人になってからは日々忙しくて遠のいていた。そろそろマークにも会いたいし、お見合いの話が解決したら執事長に掛け合って休暇をもらおうと決めて、私は整った大理石とコンクリートの石畳の高級住宅街をうろうろ、そうしてやっとトゥルトゥラ家の屋敷を見つけた。同じような赤煉瓦の屋敷が立ち並ぶ中、蔦に覆われた屋敷は一つしかなく、しっかり門柱に「トゥルトゥラ医院」の表札も掲げられていた。
私が門前に立った瞬間、待ち構えていたらしきおばさんメイドが庭の茂みから飛び出してきた。
「お嬢さんがエイダかい?」
「ひえ!? そ、そうです、そうです!」
「怖がることはないよ。坊ちゃんのお見合い相手だろう? さ、入って入って。旦那様ー、エイダ嬢がお見えですよー!」
エプロンにもヘッドセットにも葉っぱをつけたまま、おばさんメイドは屋敷の中へずんずん入っていく。何とも豪快な人だ。
とはいえ対応に殊更無礼なことがあるわけもなく、私は応接間に通され、お茶を用意して待っていた白衣を着た太っちょなトゥルトゥラ家当主ネストリ氏の歓待を受けた。
「ようこそ、歓迎するよ、エイダ嬢。私はリュドミラ様の主治医を務めているネストリ・トゥルトゥラだ、今息子のカレヴィを呼びにいかせているから、ここで少し待っていてくれたまえ。お茶はいかがかね?」
「ありがとうございます、いただきます」
ネストリ氏は医師という身分ながらも気さくで、手ずからコーヒーを差し出してくれた。ミルクと蜂蜜を入れて、美味しくいただく。
「さて、エイダ嬢。我が家のことはどのくらい知っている?」
「トゥルトゥラ家は宮廷医師の家系だと伺っております」
「左様。ただ、我が家は貴族ではない。それなりに財産はあるし、医学の分野では名声も権威もあるが、身分は平民だ。もっともこの国で一番古い貴族と同じくらいの年月だけ、王家に尽くしてきているが」
それはとてもすごいことでは、私にだってそのくらいは分かる。同じ平民といっても、トゥルトゥラ家と私の家とでは雲泥の差だ。
「何にせよ、血統書よりも実力がものを言う。医師も薬師も、一度でもその実力を疑われてしまえば職を追われる厳しい現実がある。そんな中を生き延びていけるだけの結婚相手を求め、我が子や孫にさらなる知識や技術を残していくことがトゥルトゥラ家当主の務めだ。無論、エイダ嬢はあのデ・ヴァレス先生に認められているほどだし、心配はしていないよ」
「あ、ありがとうございます」
私は褒められ慣れてなくて、照れくさかった。薬師のデ・ヴァレスはリュドミラ王太后と面会できるくらいだし、実はすごい人だったのだろう。今更ながら、私は驚くばかりだ。
そこへ、さっきの豪快なおばさんメイドがやってきた。
「旦那様、坊ちゃんがお見えですよ」
「おお、そうか。では、親は下がっておこう。エイダ嬢、あとはよろしく頼むよ」
「はい、お任せくださいませ」
太っちょネストリ氏とおばさんメイドが姿を消して、入れ替わりにやってきたのはこげ茶色の髪をした青年だ。利発そうで、眼光鋭く、白衣を着ている。間違いなく、私のお見合い相手、カレヴィ・トゥルトゥラだ。
カレヴィは入り口で足を止め、ぶっきらぼうに尋ねてきた。
「君がエイダ・ルイスか?」
私は立ち上がり、会釈をする。
「は、はい、初めまして、カレヴィ様」
「さっそくだが、見てほしいものがある。こちらに来てくれ」
手招きされて、私は飲みかけのコーヒーを残して応接間から出る。早足のカレヴィについていく最中、こんなことを言われた。
「今度、ここに薬草園を作ろうと思っているんだ。ガラス張りの専用温室を建てて、今は室内で育てている貴重な薬草を移すつもりだ」
ふむふむ、なるほど。王城の裏庭のようなものを増やすと。
それはどう考えてもお見合いの話ではなく、仕事の延長上の話だが、とりあえず私は聞いておく。
「薬師のデ・ヴァレス先生も、そろそろ退任の時期だ。いつまでも王城内でだけ薬草を育てられるわけじゃないし、株分けしてもらうにも設備が必要だ。だからうちが名乗りを上げたんだが」
「えっと……それで、私とお見合いを?」
「ああ。薬草を見分けられると聞いて」
なんだ、そういうことか、と私は納得した。そうでもなければ、宮廷医師の跡取りであるカレヴィが私なんかとお見合いするわけがない。
屋敷の庭の一角に、仮設のガラス張りの温室があった。私が裏庭に手作りで建てたものを大きくした感じだ。
中に入ると、見慣れた南方産の薬草が所狭しと並んでいた。カレヴィはそれを指差し、私へその名を尋ねる。
「これは何だ?」
「ジギタリスです」
「ふむ。このくらいは分かるか……」
「そっちの小さい花が咲いた背の高い草はキナノキです。たくさん実がついたあの低木はキョウチクトウの仲間ですね」
「おお、それも知っているのか!」
「デ・ヴァレス先生に教わりました。それから」
私は次々と、薬草の名前を当てていく。毎日見ているものもあれば、一度だけ育ったものもある。薬師のデ・ヴァレスから教わった薬草の種類はとっくに百を超えていて、その効用や煎じ方もうっすらとだが覚えている。
大体目につく薬草の名前を言い終えると、カレヴィは興奮気味に褒めてくれた。
「エイダ、お前、賢いな。見直したぞ、宮廷メイドなんて頭が空っぽで貴族に見初められたいだけの女たちだと思っていた」
「そ、そうですか? えへへ、賢いだなんて初めて褒められました」
何だかすごい悪口を聞いた気がするものの、気のせいだと受け流した。カレヴィは私を褒めてくれている、それは確かだからそれでいい。
その後、私はカレヴィの医務室に連れていってもらった。たくさんの革張りの本が並び、箔押しされたタイトルが輝いている。そのうちの一冊をカレヴィは取り出して、私へ手渡した。
分厚い本の表紙には、植物、と書いてあることは分かるが、その次の単語が私には読めなかった。日常生活に不便がないくらいには読み書きができても、難しい単語は分からない。しょうがないので、素直にカレヴィへ聞く。
「カレヴィ様、この本は何と書いているんですか?」
「植物図鑑だ。うちの国だけじゃなくて、他の国の薬師や植物ハンターたちが競って出している、世界各国の植物について記された本だな。この棚は全部そうだ」
「全部!」
はあ、とため息が漏れる。一面のたくさんの本は、すべて植物について書いている。本を開けると、緻密な薬草の線画がずらりと並んでいて、細かな文字で解説が記載されている。見覚えのある名前、文字、それから葉っぱや根の形はああ、あれだ、と文字が読めなくても何の草のことか何となく分かった。
私があまりにも一生懸命読もうとしているものだからか、カレヴィは椅子を持ってきて座らせてくれた。小さなテーブルを引っ張ってきて、その上に植物図鑑を広げる。
「気に入ったか、よかった。文字は読めるか?」
「少しだけなら」
「うん、じゃあ、一緒に読めば覚えるだろ。もういっそ、うちに来い。うちでならお前の気が済むまでここにある本が読めるし、王城の裏庭の管理の仕事だってうちからなら歩いて通える」
うちに来い。
あまりにも飾り気のない言葉だから、一瞬何のことを言っているのか思いつかなかったが——この状況、お見合い、ということを思い出して、私は思ったことをそのまま口に出した。
「それってつまり、結婚!?」
「ああ。嫌か?」
「い、いいえ! わ、私でよければ、でも急すぎて、何が何だか」
しどろもどろの私に、カレヴィはこう言った。
「気にするな。教える相手ができて嬉しいし、エイダは賢いから好きだ」
その日、私はカレヴィと一緒に夕方まで植物図鑑を読み漁って、たくさんのことを教えてもらった。
根気強く、これは何と読む、これはどんな意味だ、と尋ねる私へ、カレヴィは丁寧に教えてくれた。夕食もご馳走になって、帰るまでずっと勉強と、カレヴィの広範な知識を聞いて、私は思った。
この人はいい人だ。愛ではなく尊敬できる人と結婚しなさいと言っていた母の言うとおり、私はこの人と結婚したい。
その旨をカレヴィに伝えて、私は王城の宿舎へ一旦帰った。
翌日、もはや日課のように裏庭へやってきたエリヴィラ王女へ、私はカレヴィとのお見合いについて話したところ、目を輝かせてとても食いつかれた。
「それでそれで!? エイダ、結婚しちゃうの?」
「はい、そうします」
「おめでとう! 宮廷医師の家なら社会的信用もあるし、エイダが変な貴族に見初められなくて本当によかったわ!」
「ありがとうございます、エリヴィラ様」
エリヴィラ王女とは仲良くしているとはいえ、こんなに祝福してもらえるとは思ってもみなかった。素直に嬉しく、照れ笑いを返す。
ただ、エリヴィラ王女はこのごろ何かしたいお年頃のようで、こんな提案をしてきた。
「んー、でも、毎日ここに来るのは大変でしょう? 家を空けてばかりもいられないだろうし……そうだ! 私が裏庭の管理を手伝ってあげるわ!」
「ええ!? で、でも、王女殿下に土いじりをさせるわけにはいきませんよ!」
「私だってこの一年、あなたのところに通って何もしなかったわけじゃないわ。おばあさまのためでもあるし、薬師のデ・ヴァレスだって私のことは信用してくれているのよ? 変な輩にここを任せるわけにはいかないでしょう?」
「そ、それはそうですね……あぅ、確かに、エリヴィラ様以外の人には任せられません」
「うん、そういうこと!」
そういうわけで、私はすっかり押し切られてしまった。裏庭の管理人を辞めるわけではないものの、トゥルトゥラ家の屋敷にも薬草園を作るのだから世話が大変だ。やはり、見知ったエリヴィラ王女の手を借りるというのは悪くない話だ。私はそう納得した。
「では、水やりなど毎日のお世話はエリヴィラ様にお任せします。収穫や剪定は私がやりますから」
「そうね、それがいいわ。ところで、あのすみっこの温室は何を育てているの?」
「それが」
私が裏庭の隅に置いている小さな手製の温室について説明しようとしたところ、薬師のデ・ヴァレスがやってきた。
「おおい、エイダ。やっと分かったぞ。おや、エリヴィラ様。ご機嫌麗しゅう」
「ええ、ご機嫌よう。どうぞ、話を続けて」
「お気遣い痛み入ります。エイダ、この間見せてもらった見たこともない草だが、薬師会や植物ハンター協会で見てもらったら、どうやら新種だと分かってな」
「ええ!?」
「そ、そうなんですか!?」
薬師のデ・ヴァレスは嬉しそうにしわのある顔を綻ばせている。
最近、裏庭の手製の温室の中に、見慣れない草が生えていると思い、私は薬師のデ・ヴァレスへ見せていたのだ。ところが薬師のデ・ヴァレスさえも知らない草で、ただの雑草ではないと見て取った薬師のデ・ヴァレスは専門家へ鑑定を依頼すると言って持ち出していた。
それが新種だとは、さすがに私も予想しておらず、エリヴィラ王女と手を叩いて喜び合う。
「うむ、成分分析もしてもらってな、明確に既存の草花と違うものだと証明できた。見つけたエイダのお手柄だよ、名前をつけなくてはね」
「はわわ、名前!? そんなすごいこと」
「すごいじゃない、エイダ! 友達として誇らしいわ!」
エリヴィラ王女に抱きつかれ、私は別の意味でとても焦った。友達と思われていたんだ、とじーんと感動する。
その後、その草は何も思いつかなかった私の名前を冠したエイダの薬草と名付けられ、私は大事に嫁ぎ先のトゥルトゥラ家の屋敷に持ち込んで育てはじめた。
それに、話を聞いたカレヴィは我がことのように喜んでくれた、それが私には一番嬉しいことだった。
「聞いたぞ、エイダ。新種を発見したそうじゃないか。どうやって見つけたんだ?」
「それは、じっと見ていたら違っていたので」
私は本当に正直に話したのだが、カレヴィは「よし!」と言って私の手を引っ張り、新しく仕入れた植物置き場へ連れていった。
「エイダ、ここに新種がないか見てくれ!」
「えええ!?」
「頼む! こうしちゃいられない、どんどん輸入される植物を買って新種かどうかを確かめないと!」
「カレヴィ様、ほどほどに! ほどほどにしてくださいー!」
そんなふうに、愉快だったり嬉しかったり慌てたりと、私の旦那様は面白い方だと分かって、すっごく微笑ましい。
私は王城の宿舎からトゥルトゥラ家の屋敷に引っ越しして、そこから週に何度か王城の裏庭に通うこととなった。
一方、そのころ。
王城の裏庭の管理を一部委任されたエリヴィラ王女は、手伝いとして裏庭に連れてきた八人の宮廷メイドたちを前に、お怒りだった。
「まあ、あなたたちったら草むしりもできないの!? 使えないわね!」
ネルを含めた宮廷メイドたちは誰も彼も顔を青ざめさせて、びくびくしているが、それはエリヴィラ王女の怒りに対してだけではない。
夏に近づき、裏庭を飛び回る大小の虫たちに対してだ。
「も、申し訳……ひい! 虫!」
「きゃあああ!? こっち来ないでええ!」
「バッタじゃない。こんなの無視して、箒でそこの落ち葉を掃いてちょうだい」
当然、エリヴィラ王女は虫など平気だ。
「蜂! 蜂よ!」
「ただのアブよ。えい」
「王女殿下! そのようなことをしてはいけません!」
「もう、うるさーい! 仕事しなさい、仕事! 水かけるわよ!」
結局、昼までには連れてこられた宮廷メイドたち全員が音を上げて、少しでも裏庭から逃げようと壁に張り付いている。
エリヴィラ王女は十一歳ながら、大人びた少女だった。ため息を吐き、王族らしい重々しい声で宣言する。
「もういいわ。あなたたち、クビ。使えないメイドたちがいるからこちらで働かせてやって、って執事長に言われたけれど、ここでも使えないなんて……さっさと宿舎に帰って荷物をまとめて、王城から出ていきなさい!」
大量解雇を言い渡された宮廷メイドたちは、口々に懇願や抗議の声を上げる。
「そんな、お慈悲を!」
「そうです! 虫なんてみんな嫌いですよ!」
しかし、エリヴィラ王女は冷酷に、彼女らに対して現実を突きつける。
「エイダは文句も言わず、ここを綺麗にして草花の世話をしていたわ! それも、たった一人で! あなたたちはそれだけ集まってもエイダ一人に敵わないのよ、恥を知りなさい!」
エイダ、と名前を出されて、ネルを含めた何人かの宮廷メイドたちは気まずそうな顔をする。自分たちがいじめて裏庭に追い払ったメイドにも劣る、と言われては苛立ちも募る。
そこへ、温厚そうな薬師のデ・ヴァレスがやってきた。
「おやおや、血気盛んですな、エリヴィラ様」
「あら、デ・ヴァレスじゃない」
「それほど強く当たらずとも、彼女らも新しい環境に慣れていないのですから、もう少しお手柔らかに」
宮廷メイドたちはほっとした。薬師のデ・ヴァレスならエリヴィラ王女をなだめてくれるに違いない——そう安心したのも束の間だった。
急に、薬師のデ・ヴァレスは宮廷メイドたちへ怒鳴ったのだ。
「おい。そこ、その薬草を踏むな!」
「へ!?」
「何をしている! 誰が花壇に入っていいと言った! 踏み荒らすでないわ!」
「ひいい!? 申し訳ございません!」
宮廷メイドたちを追い払い、薬師のデ・ヴァレスは足元の草を守るように手で囲う。
いかにもな悲痛な声で、薬師のデ・ヴァレスはつぶやいた。
「何ということだ、国王陛下のための薬草を植えていたというのに」
宮廷メイドたちは、もはや顔色が青を通り越して白く、口を固く閉ざし、目を泳がせる。
どうにもならない、と彼女たちは悟っただろう。
エリヴィラ王女は、ついに彼女たちを解雇するだけの理由を得て、言い渡す。
「あなたたち……覚悟はできているかしら?」
この日をもって、宮廷メイド八人が解雇された。彼女たちはその日のうちに宿舎を追われ、以後の行方は誰も知らない。
☆
今日も穏やかな一日で、日が暮れるまでトゥルトゥラ家の屋敷に作られた薬草園の整備をしていた私は、お風呂に入って屋敷の談話室にやってきた。先に風呂を済ませて仕事を終えたカレヴィが待っている。
「んー……今日もたくさん薬草の仕分けができましたよ、カレヴィ様」
今日は新しく入ってきた薬草を種類別に分けていた。湿った土地を好む、水捌けのいい日当たりのいい土地を好む、植物によってそれはすべて異なる。それと、大きなソテツの木をどこに配置したら日当たりが確保されるか、雇われた庭師たちとともにああでもないこうでもないと話し合っていた。
日々完成に近づく薬草園を間近で見られるだけで、楽しくなる。私は結婚してから毎日が充実していた。
「エイダのおかげでどんどん未鑑定のまま溜まっていた薬草が正しく判別されて、すごく助かっている。よし、今日はどの本を読む?」
「では、南方密林植物目録を。持ってきますね」
一日の終わりに、寝る前にカレヴィは私へ本を読んでくれる。難しい単語はまだ分からないため、一緒に植物図鑑や薬学の専門書を読んで、分からないところを教えてくれるのだ。カレヴィは頭脳明晰で、教え方も上手いため、私はできることが増えて、読める単語も着実に増えていっている。ときどきだが、カレヴィが薬草について教えてほしいと言ってくることも、頼られていて嬉しい。
いつものように、豪快なおばさんメイドが談話室にティーセットを持ってきてくれた。
「あらあら、仲睦まじいことで。はい坊ちゃん、寝る前のミルクティーですよ。エイダ様と仲良く飲んでくださいな」
「ありがとう」
「それと、今日の郵便物がさっき届いたんですよ。事故で遅くなったそうで」
そう言って、豪快なおばさんメイドはカレヴィに手紙を渡し、談話室から出ていった。
カレヴィは手紙の封を開け、素早く中身を読んだ。
「君の弟のマークから、感謝の手紙だ」
「えっ、弟の?」
「ほら、この間診察に行っただろ?」
「あ、はい、その節はわざわざご足労をおかけしました」
「他の用事のついでだったからいいんだが、虚弱体質ばかりはそう簡単に治らないから、薬以外にもできることから始めるよう指導してきたんだ。食事をバランスよく摂る、部屋を清潔に保つ、空気の入れ替えをするとか、ほんの気休めのようなことだが……それがどうやらいい気分転換になっているらしい」
それを聞いて、私はほっとした。結婚が決まってから二度ほどマークに会いに実家へ戻ったが、マークは私に迷惑をかけたくないと裁縫の仕事を始めていた。そして、少しずつ作っていたレース編みのウェディングケープを私へプレゼントしてくれたのだ。
王都から実家まではそれなりに距離があるため、裏庭や薬草園の世話がある私は何度も往復はできない。それで、話を聞いたカレヴィがマークのもとへ診察に行ってくれていた。
「そのうち、マークには空気のいい山の別荘に移住してもらって、経過を観察しよう。うちの別荘ならほとんど使っていないから自由にしてもらっていいし、必要経費はこちらが負担する」
「そんな、そこまでしていただくなんて悪いです。何か、そう、私やマークでもお手伝いできることがあれば」
「そうだな……まあ、それは追々考えるとしよう。もう家族なんだから、遠慮する必要はない」
カレヴィはミルクティーのカップを私へ差し出し、受け取ろうとした私の手を、じっと見つめた。
何だろう、私は首を傾げる。
「カレヴィ様?」
「エイダは、意外と日焼けしているな」
「あ、それは、裏庭とはいえ日差しは避けられませんでしたから」
「いや、悪いというわけじゃない。健康的でいい、健康が一番だ。化粧もしなくていい、肌に悪いし他の男に見られたくない」
それはカレヴィから初めて聞いた、惚気のような言葉だ。
愛しているとかそんな甘ったるい言葉は、私はあまり好きではない。カレヴィも同じようで、いちいち言葉にしなくてはならないほど相手を信用していないわけではない、とばかりだ。褒めるところは十分に褒める、それだけでお互いは満足なのだから。
ただ、私はちょっとだけねだってみた。
「他には?」
「他に……そうだ、言っておかないといけないことがあった」
「何でしょう?」
カレヴィは、私には予想もできなかったことを口にする。
「マシュマロは暖炉で焼くように」
危うくミルクティーを吹き出しそうになった私は、マシュマロと聞いて一年以上前のあのことを思い出していた。
そう、王城の裏庭を草むしりしすぎて怒られた、私が裏庭の管理人になったきっかけのことだ。焚き火はばれていたが、マシュマロを焼いていたことまでバレているとは思わなかった。
「どうしてそのことをご存じなのですか!?」
「薬師のデ・ヴァレス先生が見ていたそうだぞ。裏庭を掃除しまくって、香木の枝まで折ってマシュマロを刺して焚き火をしていたと」
あわわ、と私は顔を髪の毛と同じくらい真っ赤にして、両手で顔を覆う。
「もうしませんから」
「ふふっ、冗談だ。ミルクティーに蜂蜜はいるか?」
「いります、いただきます」
カレヴィは私のティーカップへ、たくさんの蜂蜜を入れた。
こうして私は、楽しい仕事と優しい夫、信頼できる友達、頼りになる先生に囲まれて、幸せな日々を過ごしていく。
毎晩のミルクティー、ときどきの焼いたマシュマロ、上手く作れたときの薬草茶。
その後、私は薬師のデ・ヴァレスの引退とともに新しい薬師に推薦されて、たくさんのことを成し遂げていく。
☆おまけ☆
エイダが結婚し、エリヴィラ王女が裏庭の草花の水やりをしている最中、薬師のデ・ヴァレスと執事長はその様子を見ながら世間話をしていた。
「執事長もお人が悪い」
「デ・ヴァレス殿には敵いませんよ」
「二人ともよ。役立たずメイドたちは解雇できて、有能な薬師候補は見つかり無事結婚してやる気が出ているんだから、すごいわ」
はっはっは、と三人は笑う。
何はともあれ、物事は落ち着くべきところに落ち着いたのだ。
「これにて一件落着、というやつね」
薬師のデ・ヴァレスと執事長は、頷いた。
よければブックマークや☆で応援してもらえると嬉しいです。