◆9 思い出の味<上>
おはよう世界。
ぐっすり眠れたのもあり、案の定昼過ぎに起きた。
久しぶりに充実した睡眠だったのもあり、脳の活性化も凄まじい。
目覚めたばかりなのに情報を求める力がすごいのだ。
もはや情報ジャンキーと言っても差し支えないだろう。
インプットの場を日常で行い、アウトプットの場をゲームで発散するのが僕のスタイルだ。
と、いうかこれからそうしていきたい。
ここ数日は近況報告で終わってるからね。
ログイン初日からスタートダッシュ!
みたいなのは僕のスタイルではないのでどうでも良いが。
テレビをつけると事業縮小で小型化すると某貿易会社の多数のリストラを問題視する情報番組が映った。なんか既視感があると思ったら、ここ僕の勤務していた会社じゃないか。
まさかそんな事態になっていただなんて知らなかったな。
耳に入ってくる情報はエリートコースに入った後輩の出世の話くらいで、穴を掘って埋める日々。
そのくせやることだけは多くて、やったところでお給料に一切響かない自主退職をさせる為の窓際だっていうんだから笑えない。
それでも漸く手に入れた仕事先だったので頑張ったんだけどなぁ。
上司に恵まれなかったのか、はたまた職業に僕のスタイルが合わなかったのか。
お客さんからは評判が良くても売り上げの成績が悪ければ仕事を干されるのはどこの業界でも同じか。
要は上司の顔を立て過ぎた結果だよなぁ。
自業自得と取られても仕方ないか。
既に終わった話だ。あれこれ考えても意味はないか。
手元でゴリゴリと回していたコーヒーミルから芳しい良い匂いがしてくる。
そろそろ1杯分挽き終わる頃かな?
僕はこの作業がたまらなく好きだ。コーヒーを飲まない時でもゴリゴリしてしまう時がある。
コーヒーカップにドリップ用の紙をセットして、湯を注ぐ。
回すようにぐるぐると、膨らんでいく粉末を見守りながら、やがて抽出されたコーヒーがカップに満たされた。
しかし急いではいけない。コーヒーは香りも楽しむ余裕を忘れてはならない。
勤務中は一分一秒を争っていたのもあって、自宅で楽しむ余裕はなかったからね。
昨日買い置きしていたもう一つのモンブランも食べてしまおう。
ケーキ皿とフォークも用意して。寝起きから優雅な時間を味わってしまう。
こんな贅沢ができるのは今ぐらいだろう。
寝起きの頭にコーヒーの苦味とモンブランの甘味が溶け合い、なんか今日も一日幸せになれる気分になった。
相変わらずコストパフォーマンスの安い僕である。
玄関に新聞を取りにいく。
ネット社会の昨今、安易に手に入る情報は信用してはならないというのが僕の信条である。
とはいえ、新聞なら安心して狙った情報が手に入るというわけでもない。
ただし、情報を限定すればそこからでもいろんなものが見えてくるのだ。例えばネットに疎い高齢の技術者はネットに疎いのもあって人伝で新聞に頼む。時代はネット社会に移り変わるが、世代によっては時代に取り残されることもあるからね。
僕はそんな人たちにも声をかけるようにしていた。
要は仕事がらみの顧客だね。
会社の需要には合わない顧客だったけど、ノルマ達成のためには仕方なかったのだ。今思うとどれだけ必死だったんだって思うけどね。
そこで勤続時代に懇意にしていた花屋さんの広告が目についた。
パーラーTSUBAKI。オーナーは70代の女性で、近所の商店街でも情報通として有名だ。
駆け出し時代はよくお世話になったし、そのツテでいろんな顧客を開拓させてもらったっけ。
娘さんと折り合いがつかないことを嘆いていたけど、そのお孫さんと一致団結して室内の一角に喫茶室を作って共同経営してるんだ。
僕もその当時お手伝いしたなぁ。主に資材の調達とかね。
お花屋さんだから花をモチーフにした飲料をできるといいんじゃないかと提案して、今では繁盛しているらしい。
問題は後を継いでくれる人がいないことくらいか。
お孫さんは喫茶に進みたいのでお花のことはちんぷんかんぷん。
店を畳むかどうかの瀬戸際と聞いていたが、告知には閉店のお知らせとあった。
そんなきっかけもあって僕はそのお花屋さんに足を運んでいた。
目的もなく外に出ると大概散財するので、夕食を仕入れる程度の軍資金を持って出発。
閉店セールも兼ねてか、喫茶室は賑わっていた。
来客はせめて喫茶室だけでも残して欲しいと懇願していたが、お孫さんの都合でそれは無理だった。
彼女はまだ高校生で、学校帰りにお婆さんのお店に寄って紅茶などを出していた。
当然素人が出してるので料金が発生してない。
それでも種類豊富のフレーバーティーが味わえる場所として花屋にしては人気だったようだ。
店から出て行く人を見計らって入店。
「一人だけど大丈夫かな?」
「あ、向井さん! おばあちゃーん、向井さん来てくれたよー?」
「本当かい? 随分と久しぶりだねぇ?」
わざわざ僕なんかのために接客の手を止めてきてくれた。
空いてる席に案内してもらい、一緒に座る。
こうやって対面で向かうと緊張するな。
何せオーナーは僕の母親以上のお年なのだから。
「ご無沙汰してます。こちらに伺うのは二年くらいぶりでしたか。寂しいですね、ここがなくなってしまうなんて」
「こればっかりは自分の体のことだからねぇ。同年代は滅んで施設で世話になってるっていうし、あたしもそろそろお世話になろうと思ってさ」
「そんな、まだまだお若いじゃないですか!」
「自分の体のことくらい自分が一番わかるんだよ。ああ、これは先がないなって。次会う時は葬式だなんて嫌だろう? だからこれがあたしがこの店にしてあげられる最後のお勤めなのさ」
そう言われてしまえば、僕からは何も返す言葉がない。
喫茶店のマスターだって、今でこそ若いがいつかこんな日を迎えてしまうかもしれない。ケーキ屋さんだってそうだ。
僕の好きなお店がなくなってしまうのは寂しいし悔しい。
でも僕がこの店にしてあげられることなんて数えるほどもない。
お店から見れば僕は他人なのだ。
ただそれが悲しくてならない。
「美沙、例のやつ向井さんに出してやんな」
「例のやつ、とは?」
「実はお婆ちゃんと一緒に発明したとっておきのフレーバーティーがあるんです。みんなからも好評で、お店を出したらどうかって誘われてるんですけど、私は学校あるしで答えを出せないままでいるんですけど……」
ある意味でこれが最後のレシピとして人々の心に刻まれるやつなのだろう。
僕は美沙ちゃんの入れてくれた紅茶に手を伸ばし、いただきますとつぶやいてから一口いただいた。
「あっ」
口の中に広がるのはクセの強いベルガモットの香りが付加されたアールグレイ。
しかし口内で転がすとふわりと鼻腔を突き抜ける蜂蜜の香り。
本来ならクセの強いもの同士喧嘩し合うのだけど、不思議と調和が取れていた。
原因は分からない。
探るようにもう一口飲み、そこで漸く原因となるフレーバーを見つけ出した。
「これは面白いね。蜂蜜の他に香辛料の味がした。でも不思議とその味そのものは主張してなくて、うまくフレーバーとして混ざり合っている。確かにこれはお金を出してもいいと思えるね」
僕なりの評価を並べると美沙ちゃんはガッツポーズを取り、オーナーさんとハイタッチをした。
その香辛料の正体は生姜だと聞いた。
「生姜……全然想像できない」
「実は一切水を使わずに生姜のエキスを絞った生姜エキスが美容にもいいらしいんです。問題は入手が限られてて、たくさんのお客さんに来られてもあまりお出しできない点なんです。蜂蜜もひまわりの花の蜜を吸って育った蜂蜜を使っていて、こっちも品薄で。だからお店を出すとしたら品揃えをよくしてから開きたいなーって」
だれか出資者になってくれないかなーと語る美沙ちゃん。
僕も協力してあげたいけど、流石に店を構えるほどの経済力はない。お店は構えるだけでも莫大な費用がかかる上、維持費もかかる。
そして売り上げだって出さなきゃいけない。
商品一本でやっていけるほど甘くないのだ。
ここのお店の常連さんはこれを無料で飲んでるからこそコストを見ない。
もし値段が設定されたそれが商品として並べられた時、手に取ってくれるかどうか。こればかりは運だからね。
学生だからというのはさておき、本気で商売するなら色々勉強しないとね、とアドバイスした。
お店が閉店するのは残念でならないが、僕がしてあげられることは何もないんだ。
そんな事もあって、僕は帰宅するなりNAFの情報を漁っていた。
僕ができることといったら再現くらいだ。
リアルで飲めなくなったあのレシピを、NAFで再現する事で思い出を取り置きしておこうと、そう思った。
そう言えば彼女もNAFのプレイできる年齢だったな。
僕も参加していると伝えておけばよかった。
けど同時に伝えれば面倒ごとに巻き込むなと思い、伝えなくて正解だったとも思う。