馥(かおり) -pleasing aroma- 【国枝浩隆生誕祭2022】
「はい、どうぞ」
6月12日、日曜日の午後。
リビングのソファで寛いでいると、彼女がおもむろにやってきて小さな箱を差し出してきた。唐突のことで戸惑うあまり動きが止まった自分に、すべて心得たような言葉が次ぐ。
「今日はヒロの誕生日でしょう? だからプレゼントを用意したんだけど」
その言の内に、珍しくそわそわと落ち着かない様子が見える。よほど渡すのを楽しみにしていたのだろうか、向けられる密やかな高揚感と共に、手のひら大のそれを受け取った。
白い化粧箱にかけられたリボン。中身の想像ができずに視線で問うと、彼女が隣に腰を下ろしてヒントをくれた。
「ヒロのイメージで作ったのよ」
ひどく抽象的なそれに首をかしげる。
「その……前に言ってたでしょ、『染めてくれ』って」
頬を赤らめもじもじと放たれたそれに、一体何の話かとしばし記憶を探って。
「あ」
そして、在りし日の光景に至った。
『ひとおもいに、君の香りに染めてくれ』
人生の転換点。彼女にプロポーズしたあの夜に見た、普段はなかなか見せてくれない可愛いやきもち。思わず口をついて出た願望を、どうやら覚えていてくれたらしい。
「香りって……もしかして香水とか?」
あたりと答えた彼女の表情が嬉しそうに輝く。でもなぜ、と再びの問いを口にしようとしたが先手を取られた。
「けど、あたしが普段つけてる香りだと、男性には抵抗があるかもしれないじゃない?」
進む会話の齟齬に眉を寄せる。
「えっと、それは」
「あたしがヒロをイメージして作った香りなら、ほぼほぼ同じ意味になるかなって思って」
ああなるほど、とそこで合点がいく。
「それで、自分で?」
「うん。同僚の調香師に色々教えてもらってね、元々興味もあったし、市販のものを買うよりかイメージに近づけられるかなぁ、なんて」
まさか自作するなんてと行動力に改めて驚き、ありがとうと返しながらも内心しょんぼりする。どうやらあの時の言葉を誤解されてしまったらしい。そういう意味じゃないんだけどなと少々落胆しつつ、気を取り直して贈られた箱を眺めた。
「開けていい?」
「はい、どうぞ」
楽しげな面持ちから一転、出来栄えの確認だろうか、ぴりと張った空気の中リボンを外して蓋を開ける。中には手に収まる大きさのアトマイザーが一本。彼女からみた自分を知らしめる液体が中で揺れるさまに、なんとも言えない照れくささを感じつつ、取り出すとムエットにひとふき吹きかけた。
ふ、と鼻先に漂ったそれには、普段香水の類を嗜まない自分への心遣いだろうか、まるで真水のようにごく軽い、清々しい透明感がある。一般的な香水の持つ華やかさからはほど遠いが、けれども確かに存在を感じさせる絶妙な調香。彼女の嗅覚の鋭さも幸いしてか、市販品にはない香気が醸し出されていた。
「これが僕の香り?」
うん、と一度は言ったものの、直後に複雑な表情が面に浮く。続きを言い出しにくそうな雰囲気にそっと促した。
「どうしたの?」
「実はその……本当のことを言うとね」
「うん」
「ヒロの香りを再現しようって張り切ったんだけど、結局作れずに終わっちゃって」
「えっ。でも、これは?」
「誤解しないでね。これはこれで、上手く出来たなって思ってるの。でも、やっぱり完全再現は無理だって作業の途中で気付いたから」
そうしてじっとこちらを見つめてくる。不意に熱の込められた視線にどきりとしていると、彼女がおもむろに身体を寄せ、右肩に頭を載せてしなだれかかってきた。同時にムエットを持ったままの手に自分のそれを重ねて捕え、そして。
すん。
次いで首元に聞こえたかすかな呼吸音。
「わかるでしょ?」
甘だるく諭すような声で口にするや顔がふせられた。前髪に隠れ覗えない表情、けれど重ねられた彼女の手の甲に赤みが浮いているのを見つけた瞬間、言わんとしていたすべてが理解できて全身の血が沸いた。やられた、とアトマイザーを持ったままの手を額に当て、天を仰いで低く呻く。
「まったく、我が奥様はとんでもない」
本当は覚られていたのだ、真の意味も。
「とんでもない、なんて言えた口?」
仕向けた本人じゃないの、と頬を膨らませたのだろう彼女のくぐもった呟き。
「気に入らないなら返してくれてもいいのよ。自分で使うから」
むくれた様子で放たれたそれにある感情が湧いて、絡められた指を咄嗟に握り込める。
「確かに、気に入らないな」
意識せず低まった声に、え、と驚いた彼女が顔を上げる。その目を捉えて宣言した。
「でも、絶対に返すもんか」
「どうしてよ」
非難の声の内に、ほんのりと漂う期待を感じ取って愉悦を浮かべる。
「君から、本物の僕以外の香りがしたら嫌だからね」
イメージの産物にすら抱く嫉妬か。
もはやどうしようもないなと自分に呆れながらも、そうして売られた喧嘩を即座に買った。