このチョコには惚れ薬を入れました
「このチョコには惚れ薬を入れました」
三月十四日、ホワイトデー。
僕の後輩、八宮鈴奈は、さらりと真顔でそう言ってチョコを渡してきた。
可愛らしくラッピングされた、いかにも手作りのチョコカップケーキである。ハート型の。
「………………なんて?」
「このチョコには惚れ薬を入れました。どうぞ美味しく召し上がってくださいね」
こてん、と小首をかしげて、八宮はうっすらと微笑む。
「いや怖い怖い何入れた!?」
「何回同じことを言わせるんですか?」
「僕が悪いの!? 急にわけわかんないこと言い出したおまえが悪いんじゃなく!?」
「いや、そこはわたしが悪いですけど。いいじゃないですか、何も言わず食べてくれたって。バレンタインのお返しですよ」
「そりゃ食べるけど、突っ込むしかないじゃんこんなん……」
自分の非を素直に認められるのが、この後輩の数ある美点の一つだ。しれっと認めるので、本当に悪いと思っているのかどうかはわからないが。
とりあえず、差し出されたままだったカップケーキをそっと受け取った。大事に持って、しげしげと眺める。二色のクリームでデコレーションされていて可愛い。
「ありがとう。僕ってバレンタインになんかあげてたっけ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「はい、たぶん。そうじゃなかったらホワイトデーにお返しを作ろうなんて思わないじゃないですか」
「まあ、そうだろうけど」
まったく記憶になかった。
なんもあげてない気がするんだけど、昨日の夜ごはんどころか今日の朝ごはんも覚えてない記憶力だからな……。もしかしたら本当に何かあげていたのかもしれない。
「今食べてもいい?」
「……普通に食べるんですね」
「別にほんとに変なもの入れてるわけじゃないだろ」
「わかりませんよ」
「わかるっての。おまえはそんなの入れないよ」
そもそもこいつに、惚れ薬なんてものを入れるメリットはない。僕が入れるならともかく。
八宮は食べもので遊ぶタイプでもないし、これは普通のチョコカップケーキだろう。凝り性だから、美味しさを極めているはずだ。
僕の反応が何か気に入らなかったのか、八宮はむっと小さく唇を尖らせる。
「まったく動揺してくれない」
「してたじゃん、めっちゃしてたじゃん。目節穴?」
「先輩よりはマシですね」
「うそ。節穴要素どこ?」
「そこ」
「そう……」
ふぅん、とわかったふりをしながら、ラッピングのリボンを解く。綺麗だから取っとこう。折りたたんでバッグにしまう。
あ、しまった。完全にラッピングされてる状態で写真撮っとけばよかった。
わざわざリボンをつけ直すのも気恥ずかしかったので、仕方なくそのままぱしゃりと写真を撮る。
「え、撮るんですか」
「撮りますよ。綺麗じゃん」
「…………SNSとかにあげないでくださいね」
「するわけないだろ」
なんで僕が、おまえにもらったものを他の奴に見せびらかさなきゃいけないの。
というのは胸に秘め、小さめのカップケーキを指で持つ。カップ部分を剥がして、「いただきます」と口の中に放り込んだ。
「おお、美味しい」
「……頑張りましたから」
「好きだ」
「は?」
切れ長の目が、珍しくまんまるに見開かれる。
その目を真っ直ぐに見つめ返して、もう一度繰り返す。
「好きだよ」
「…………あー、そうですか。そんなに美味しかったんですね。腕によりをかけて作った甲斐がありました、ええ、うん、ほんとに、そうですね、はい」
「カップケーキが、じゃなくて、八宮が」
「大丈夫ですか?」
「何がか知らないけど、どこもかしこもばっちり大丈夫」
もう一口、ぱくり。咀嚼して、呑み込む。
ブランデー入れてるのかな。大人っぽい味でかなり好き。
「ちゃんと、僕は八宮が好きだよ」
「……変なもの入れてないはずなんですけど」
「好きだよ」
「惚れ薬なんか入れてませんよ」
「好きだよ?」
「入れてません!」
「好き」
黙り込む八宮。その間にカップケーキを食べ進める僕。甘すぎないのでぺろっと食べられてしまう。
ごちそうさまでした、と手を合わせるまで、八宮は無言だった。途方に暮れたような表情で、僕のことを見つめている。
そんな八宮に、僕は。
「――どう? ちょっとはどきっとした?」
にやりと意地悪く笑ってみせた。
悪い顔、苦手らしいのでできてるかわからんけど。たまに悪ぶってみせるとき、八宮には大抵不評だった。
八宮曰く、僕の顔は笑顔と困り顔と泣き顔とむっとしてる顔とびっくり顔と真顔くらいしか似合わないらしい。似合う表情多すぎじゃない?
……まあ八宮には負けるか。ぽかん顔からじわじわしかめっ面に変わっていくのが可愛かった。
「……最悪です」
「ごめんなー」
「最悪なのはわたしですけど、先輩も最悪……」
「最悪同士お似合いかもね」
「先輩にはもっと似合う人がいます」
こいつ。こんなちょっとした冗談にすら、僕がどんだけ勇気を出してると思ってるんだよ。……肯定されても困るから、別にいいんだけど。
八宮が最悪というのはよくわからないが、僕が最悪であることはまったく否定できなかった。嘘を装って本音を伝えるなんて、大概ろくなことにならない。
好きだと言ったのは、紛れもない本心。大分長いこと、僕は八宮鈴奈という女の子に片想いをしていた。
告白するでもなく、特にアピールするでもなく、ただただ一緒の時間を過ごしてきた。
……だからさっきの好き連呼、本当は今すぐその辺の床を転がり回りたいくらいには恥ずかしい。食べものとか季節とか、そういうものに対する『好き』ですら、八宮の前で口にするときにはめちゃくちゃ気を遣っていたのだ。
というわけで、今のも完全に冗談にするほかない。まだ僕には、八宮のいい先輩をやめる勇気がなかった。
引きずりそうな恥ずかしさだとか、ちょっとしたもやもやだとかは、ぽいっとどこかに放り投げておく。
「うーん、僕に似合うって、どんな人かな。詳しく聞かせて?」
八宮は「かしこまりました」と神妙にうなずいた。
「まず…………もっと可愛い? 人のほうが似合いますよね」
これ、全然明確なイメージ持ってないんだろうな。
吹き出しそうになるのを堪えて、僕は反論する。今日はもうちょっとくらい、恥ずかしいノリを続けても許されそうなので。
「僕の知り合いの中で、八宮が一番可愛いけど」
「キャラ変でもしようとしてるんですか?」
「思ったこと言っただけだろ。とりあえず続けて続けて」
「……やっぱ先輩に似合う人とかよくわかんないですけど、先輩の好きな人が一番いいんじゃないですか」
「じゃあ八宮じゃん」
固まる八宮。脈ありの反応に見えなくもないが、気持ち悪くて固まってるんだったらどうしよう。
今までこの後輩から、恋愛的意味で好かれていると感じたことは一切なかった。人として、先輩としてなら好かれているとは思う。そうじゃなかったら、こんなふうにホワイトデーにチョコなんてくれないだろうし。
……いや、律儀な奴だから、バレンタインにもらってればそりゃあお返しはするか。
さて、いつ頃冗談として笑い飛ばそう。
そうやってまたも最悪なことを考えている間に、八宮が動きを再開した。
「…………わたし」
薄い唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「わたし、先輩に何も、もらってません」
「うん?」
「バレンタインに」
「……うん?」
「バレンタイン、何も、もらってないんです」
目を瞬く。一度、二度、三度。言葉の意味を咀嚼する。
まず初めに。あげた記憶がないのは正解だったらしい。さすがに八宮に何かをあげたことすら忘れていたら、自分の記憶力をこれから先一生信じられなくなるところだったからよかった。
次に。……僕が何もあげていないのなら、カップケーキはお返しではない。純粋に、僕に贈るためだけに作られたもの。
「先輩、忘れっぽいから。バレンタインに何かもらったことにすれば、ホワイトデーにチョコ渡しても、変じゃないかな、って、それで……だから、です」
つっかえつっかえ、八宮は語る。
「惚れ薬って言ったのは……先輩の脳が、ちょっとでも勘違いしてくれたら御の字だなと。変なこと言ったって、先輩なら普通に食べてくれるだろうし……普通に食べられすぎて焦りましたけど、でも、あの、なんか……」
普段、八宮の物言いははっきりとしている。言葉を発するときにためらうこともあまりない。
その八宮が、今、こんなにも言葉を選んでいる。
「その……えっと…………もしかして、」
水中で無理やり息をしようとしているような、そんな印象を受ける息の吸い方だった。
「――先輩の脳、最初っからおかしくなってました?」
とんでもなく失礼なことを訊いてくる後輩である。
真っ赤に染まった可愛い顔をしていなかったら、一分くらい口を利いてやらなかったかもしれない。
「じゃあ八宮の脳もおかしいってこと?」
「そうです」
「そうなんだ……」
「おかしくなってなかったら、惚れ薬とか馬鹿なこと言い出しませんよ」
「馬鹿なことって自覚あったんだ……」
「大馬鹿です」
そこまでだろうか。大馬鹿と呼ばれるべきは僕のほうな気がするけど。
「……さっきす、す、……好き、って言ったの、冗談にしたけど冗談じゃないから」
「さっきはあんなにあっさり言えてたのに、なんで今はそんななんですか?」
「いや待って素直にごめん、自分でもびっくりした」
さっきはあれかな、勢いがよかったのかな。怒濤の勢いを意識したもんな。
「今度はちゃんと勢いよく言ってみる。す………………」
「……完全に止まってますけど」
「もっかいやる、待って、やれるから。す…………す、す……」
「か」
「……?」
「……」
めちゃくちゃはっきり「か」と言ったのに、八宮はだんまりを決め込む。
僕の幻聴? いや……すっっごいはっきりとした「か」だった。
「何今の」
「……か、か、蚊が飛んでて」
「今の時期に?」
「早咲きの蚊です」
「おまえ、自覚ないと思うけどめっちゃテンパってるよ。落ち着こ」
「蚊はいます」
「うん、そうだな、そうだと思う。あったかい飲みものでも買ってこよっか。何がいい?」
苦渋を飲むような顔で、八宮は「アイスティーを……」とリクエストしてきた。なんでそんな顔?
とりあえず八宮を一人教室に放置して(我らが絵本同好会には部室がないし、会員も僕と八宮だけである)、校内の自販機でアイスティーを買う。自分用にはりんごジュースを買った。
教室に戻ると、八宮は机の上に大量のスナック菓子を並べて待っていた。
「え、何、この短時間で何があった?」
「持ってきていたお菓子をすべて並べました」
「どんだけ持ってきてんの。っていうか僕、さっきカップケーキ食べたばっかりなんだけど……」
「わたしは何も食べてないです。お腹空きました。あとこちらアイスティー代です」
「受け取りません」
突き返して椅子に座る。あ、僕の好きなじゃがいもスティックのお菓子もある。……僕の好きなやつだから用意してくれた、ってことでいいんだろうか。
いただきます、とさっそくつまんで、サクサクと食べる。
「好きです」
「…………っくりしたぁ」
危うくむせるところだった。
念押しするように、八宮は同じ言葉を繰り返す。
「好きですよ」
「僕が?」
「………………そうです」
ぶすっとした顔で肯定する八宮。
さっきと逆の立場のやりとりになることを期待していたのだろうが、応えられなくて申し訳ない。
「僕もす……」
「……また止まるんですね」
「いや、これは何かの間違いで」
「言い訳か……っこ悪すぎないです?」
「ね……」
深くうなずく。なるほど、さっきの「か」は『かっこ悪い』の「か」?
かっこ悪いところを見せるなんて今更だが、告白くらいは成功させるべきだし、失敗したとしても言い訳なんかするべきじゃない。
好き、好きだ、好き好き。
この勢いで言えばいいだけなのに、どうにも難しかった。
「まあ、もう何回も言ってもらいましたし、無理しなくても」
「おまえあれでいいの……?」
「いいですよ、十分すぎるくらいです」
「僕はやだ」
「なら頑張ってください。いつまでだって待ちますよ――あ」
チョコ菓子の袋をパーティー開けしようとした八宮は、勢い余ってチョコを机の上に撒き散らした。数個、床にも落ちる。
そろり、八宮の視線が僕のほうを窺った。
「……ふはっ、ははは! へたくそ」
「落ちたやつ全部先輩にあげます」
「いらね~。まあ机のなら……でも誰のかもわかんない机だしな……」
「潔く捨てましょうか……さよなら……ごめんね……」
悲愴な顔で、八宮は落ちたチョコ菓子を手持ちのビニール袋に突っ込んだ。
「好きだよ」
八宮の手の中で、ビニールがぐしゃりと音を立てる。視線がまた僕のほうを向いた。
「……今ですか」
「今なら言えそうな気がしたから言ってみたら言えた」
「軽く早口言葉みたいになってますね」
呆れたように、八宮は眉を下げて笑う。ほんのりと頬が赤く染まっている。可愛い。
八宮はご機嫌なご様子で、おもむろにビニールの中に手を突っ込み――
「おい待て、それゴミだから待って」
食べようとしていた八宮の手を咄嗟に掴む。彼女ははっとした顔で、「あ、そうだった」とつぶやいた。
「この一瞬で忘れるの、僕よりやばいよ」
「今のは忘れたってより動揺したんです」
「あーうん、ごめんね、僕が悪かった」
「そうです」
「す…………」
「……ふふ、また動揺させようとして失敗しました? かわいい」
ほわりと笑う八宮こそ可愛いのだが、可愛いと言うことすら失敗しそうだったので黙る。
……さっきの「か」。かっこ悪いじゃなくて、かわいいの「か」?
いやまさかな、とは思うものの、今のよくわからない「かわいい」を考えると、あながちありえないことでもなかった。
「……とりあえず僕もなんか作ってくるか。バレンタインにあげたことにしたい」
「変な順番ですね。でも嬉しいです」
「何がいい?」
「……ハート型のならなんでも」
恥ずかしい注文だが、さっきのチョコカップケーキもハート型だった。それならちゃんと、僕もハート型をお返しするべきだろう。いや、こっちが先という体になるから、お返しではないのか……?
何を作るか悩みつつ、僕は八宮とお腹がぱんぱんになるまでスナック菓子を貪った。
翌々日。ハート型のチョコクッキーを、「このチョコには惚れ薬を入れた」と大嘘をついて渡した。
八宮は「そうですか」と大真面目にうなずいて受け取った――が、手を滑らせ、慌てて拾おうとしたところ転び、クッキーを盛大に砕くこととなった。ドジっ子?
砕けたハートを見て茫然自失する八宮に、だめだと思っても笑ってしまった。ごめん。