婚約を解消したいのはこちらの方ですが。
初投稿です。
習作の為、読み辛さ等あれば申し訳ございません。
いきなり頭からかけられたものが何だか、咄嗟には分からなかった。
マイヤが丁寧に梳かして結んでくれた髪も、新調したばかりの服も冷たく濡れてしまった事に一拍遅れて気がついた。酷く濡れた左肩はべっとりと肌に布地か張り付き、気持ち悪い。
未だに何があったか理解できないエレオノーラを正面に立つ少年は酷薄な表情で薄笑った。
「お前がここに来るなんて厚かましい。溝鼠色の髪と同じくそうやってみすぼらしくしているのが似合いだ」
エレオノーラとは対照的に黄金を削り出したかの様にきらきらと輝く髪を顔周りに流す少年の顔には隠しようのない嫌悪の表情が浮かんでいる。しかしエレオノーラには初対面の少年にここまで露骨な悪意を持たれる理由が分からなかった。分かっているのは彼が己より高位の貴族であり、仕返しなんて以ての外ということ。
しばし固まった後にエレオノーラは深く頭を垂れ、少年の不興を買った事を詫びた。
「次期ハウゼン伯のお目を汚しまして大変失礼を致しました。これ以上のご無礼は致しかねます故、この場を下がらせて頂きます」
そのまま数歩後退し、改めて頭を下げた後、踵を返して少年に背を向けた。
背中に目などあるはず無いのに、少年が己を憎々しく睨む視線を感じ足早にその視界から姿を消す。
とはいってもここは初めて招かれた屋敷であり、エレオノーラには何処をどう行けばよいかなど分からない。それでもおおよその見当をつけ、裏門へ向かって進む。
誰かを呼び、体を拭くものを貰う事も出来たが事を穏便に済ませたいエレオノーラにその選択肢はなかった。一体どの様な理由でこの有り様となってしまったと言えばいいのか。皆目見当もつかない。
しかし問題は何が次期ハウゼン伯、リヒャルトの不興を買ったかである。
エレオノーラがここ、ハウゼン伯のタウンハウスを訪れたのは他でもない自分の婚約の顔合わせの為であった。
複雑怪奇という程でもないが、家同士の思惑で決まったこの婚約に当事者の意見が入っているはずもなかったが、少なくとも同年代の相手であることにエレオノーラは安堵していた。
が、蓋をあけてみればこの様である。
「リヒャルト、庭をエレオノーラ嬢に案内して差し上げなさい」というハウゼン伯の言葉で始まった若い二人の時間は、応接間から繋がるテラスを下りる迄はぎこちなくはあるものの、少なくとも剣呑なものではなかった。
テラスから庭へ続く石段を下りる際には、恭しく左手を差し出してくれたのだから。
にしても自らにかけられた液体は予め庭に準備していたという事だろうか。だとすれば用意周到な事である。
少し動揺が落ち着き、衣服の匂いを嗅いでみると、掛けられた液体はただの水の様である。少し早い春の陽気漂うこの気候で、既に乾き始めている部分もある。
そこまで冷静になると裏門から馬車に乗って先に帰るという己の浅はかな考えを思い留まった。もうしばらくこの陽気の中にいれば、衣装はある程度乾くだろう。それを待って、サロンに戻り、両親と共に屋敷を辞すことがどう考えても得策だ。
しばし逡巡した後、東屋のベンチに腰を下ろし服が乾くのを待つ事にする。
見るともなしに濡れた布地を眺めていると、徐々に乾いていく様がぼんやりとした視界に映っている。
乾き終わった部分はよく目を凝らせば少し色が変わり水染みが僅かに残ってしまった。
その程度の被害で済んだのであれば幸いと思わねばなるまい。
そのまま暫く待ち、服が完全に乾き終わったのを確かめるとエレオノーラはサロンに戻ろうと立ち上がった。
が、どこをどう行けば良いのか分からない。建物はすぐ側にあるというのに、行き止まりに辿り着いたり何故か目的地から遠ざかる。タウンハウスだというのに何と立派な庭なのか。さすが並み居る諸侯の中でも王の信任の厚い辺境伯の屋敷である。
そして今日の為に新調した靴がエレオノーラの足に痛みを与え始めるのにそれほど時間は掛からなかった。
そんな時、近くに足音が聞こえた。
「どなたかいらっしゃいますか」
相手が誰か分からぬが、ままよ、と声をあげる。すると繁る木の脇から1人の少年が現れた。実際にはエレオノーラが木陰から飛び出したという方が正確か。
歳はエレオノーラとそれほど変わらない様に見える。そして髪色はリヒャルトと同じ削り出したばかりの黄金。
「お声がけ致しまして申し訳ございません。私はアインホルン伯爵の娘、エレオノーラと申します」
社交デビューを済ませた場合、女性が自ら名乗りをあげる事ははしたないとされるが、エレオノーラはまだデビュー前の上、この状況ではやむを得ない。
「エレオノーラ様は私の義姉上となられる方。敬語はお止めください」
リヒャルトと似た顔だが彼よりよほど愛想の良い少年は、一瞬浮かべた訝しげな表情をすぐに消すと己をリヒャルトの弟であるクリストフであると名乗りそう告げる。
「エレオノーラ様は何故こちらに」
もっともな質問である。許嫁との顔合わせに訪れた彼女が何故1人でここにいるのか。むしろエレオノーラの方が何故と聞きたい。
「リヒャルト様に庭園を案内頂いている最中にはぐれてしまったのです。クリストフ様、申し訳ございませんが、サロンにご案内頂けませんか」
クリストフは一瞬怪訝な表情を浮かべたものの、すぐに人好きのする笑顔を浮かべ、喜んでと応じてくれた。
リヒャルトとは全く異なる彼は、道すがら庭の花の紹介やたわいもない話でエレオノーラを楽しませてくれる。お陰で見覚えのあるテラスの近くまで来た時、エレオノーラは先程の事も忘れ顔には笑顔すら浮かんでいた。
「クリストフ」
その時、同伴者の名を呼ばわる声が聞こえ、エレオノーラの表情は固まった。
「兄上、お義姉様が庭で迷っておられたのでご案内致しましたよ」
クリストフはエレオノーラに向ける声と同じ調子で兄に説明する。
「手間をかけたな。後は私がサロン迄お連れしよう」
そう言ってエレオノーラをクリストフからエレオノーラを引き取ったリヒャルトは弟に向かって何らの問題も感じさせない様にそう言った。
内心思うところは沢山あるが、ここでそれを言うほどエレオノーラは幼くなかった。
「リヒャルト様、はぐれてしまい申し訳ございません。ですが、クリストフ様のお陰で素晴らしい庭を堪能させて頂きました」
笑顔を湛えつつそう言い切り、クリストフに向かって一礼すると、リヒャルトの動きを一切見ることなくサロンへと早足で向かう。既に第三者の目があるため、リヒャルトが何らかの行動に出る事はないだろうが、2人で並んで歩きたいはずもなかった。
そんな事があったエレオノーラとリヒャルトの婚約は、果たして4年が経った今も続いていたのである。エレオノーラにとっては全く不幸な事に。
不機嫌な表情を隠す努力すら惜しいと、しかめっ面も露に自室の長椅子に身を投げ出す彼女の姿はお世辞にも伯爵令嬢の姿とは言いにくい。
鈍色の髪は結われる事もなくほつれたまま天鵞絨の長椅子の上に広がっており、装飾のない簡素なワンピースはしわくちゃになっていた。が、誰も見ていないのだからいいではないか、というのがエレオノーラの主張である。
幸か不幸か既に4年が経過したリヒャルトとエレオノーラの婚約期間に、エレオノーラも彼の事をある程度知った。
破滅的に悪い奴ではないのである、たぶん。少なくとも、あの日、エレオノーラにぶっかけたのはただの水であり、有害なものではなかった。今のエレオノーラからすれば中途半端なマネをしてくれやがって、という気持ちですらある。目も当てられない程に被害を加えてくれれば、エレオノーラも両親に明かし、破談を訴えられたかもしれないが、所詮は水であった。乾いてしまえば、あら不思議。何事もなかった事になってしまうではありませんか。証拠の残っていない被害を主張するほど、エレオノーラは馬鹿ではない。
リヒャルトはエレオノーラが騒ぎ立て破談を望むように仕向けるつもりであった様だが、それにしてはお粗末なものである。何の非もない伯爵令嬢に水を掛けたのだから、それなりの覚悟はあった様だが。
「やんなるわー」
声に出すとますます気が滅入る。
そもそも何故にリヒャルトがあの様な愚行に出たのか。それを教えてくれたのは誰あろうリヒャルト本人である。
彼には、正確にはリヒャルトとクリストフには幼なじみのルイーゼという少女がいるらしい。リヒャルトより一歳上だというルイーゼは、幼少期におままごとの様な淡い結婚の約束を彼としたという。その純情を胸に抱いて青年期を迎えつつあったリヒャルト少年は、利欲に絡んだ婚約を掲げて乗り込んだアインホルン家令嬢エレオノーラを完全な悪者に仕立て上げて、神官憎けりゃ錫杖まで憎いの心持ちであの婚約の場に望んだ様である。
いい迷惑である。
大体、利欲に絡んだと言ってもアインホルン伯爵領の鉱山から産出される鉱物をハウゼン伯に10年程他よりちょっとお安く売ってあげるから、エレオノーラを嫡男夫人に、と言う程度のショボい利欲なのである。今では両家で精錬事業の立ち上げまで話が拡大しているが。
それなりに子煩悩なアインホルン伯爵が愛娘エレオノーラに安泰な生活を、と考えた事から始まったこの縁談。確かに最初はエレオノーラも歳の近い裕福な次期伯爵が己の婚約者と聞いて喜んだ事は否定しない。
が、法的効力もない子供の口約束を胸に暖め、伯爵令嬢に無礼な行いをする様な馬鹿はこちらからお断りというのが内心である。
向こうもこの縁談を解消したいだろうが、エレオノーラとて更に強く解消を望んでいる。が、縁談を持ちかけたのはこちらなのだから、解消を申し入れたいとも言えない事も理解していた。
「愛だの恋だの、馬鹿みたい。それなりに平穏に暮らせたら十分じゃないの」
エレオノーラからすれば、リヒャルトは摩訶不思議な存在である。空想の恋愛小説ならいざ知らず、愛や恋だの現実味があるはずもない。そんな感情を抱く程に親しい異性などいたこともなければ、欲しいと思ったこともない。
親が決めた結婚相手と結婚し、婚姻を契機に親睦を深め家族としての情を持つのであって、その前に恋情を抱く事など想像も出来ない。エレオノーラの両親とてそのように家庭を育んできたのだから。
己の知り得ぬ感情と理で動くリヒャルトという存在はエレオノーラにとっては理解し難く、その行動が読めない。そんな彼と時間を過ごすことは苦痛以外のなにものでもなかった。
このまま行けばそう遠くない未来に、婚約が婚姻に変わる。ぎくしゃくした関係の当事者2人を尻目にハウゼン伯とアインホルン伯は馬が合うようで、共同の事業を立ち上げにとどまらず、商談抜きでも顔を合わせる程に親密な交流を続けている。
当初はリヒャルトさえ軟化すれば、己はそれなりに取り繕えるかと思っていたが、あの水晶の様に真っ直ぐで透明な純情は己には荷が重すぎる。
何とはなしに窓の外に目をやれば冬の気配を残した憂鬱そうな空がどんよりとした気分を加速させた。明日はいま都で一番招待状の入手が難しいとされる格式高い夜会が開催される。エレオノーラも招待を受けているが、如何せん気分が乗らない。
「明日はもう少しマシな天気だといいのだけれど」
そう呟いた時、扉を叩く音が聞こえた。
瞬時に身を起こすとエレオノーラは慌てて乱れた髪を手櫛で整える。マイヤに小言を言われては叶わない、と思ったのだ。だが予想に反して聞こえてきたのは兄の声であった。
「エレオノーラ、入っていいか?」
「お兄さま、もちろんよ」
兄であるなら話は別だ。取り繕う必要もない。知らずに伸びていた背が緩むが気にせず兄の入室を許可する。
入ってきたのはエレオノーラによく似た顔立ちの兄である。
「またお前はそんな格好をして」
小言は口から放たれるが、それはエレオノーラを責める類の色を帯びていない。エレオノーラと兄のヘンリックはそれなりに仲の良い兄妹であった。
「いいじゃない、誰かに会うわけではないし。お兄さまもお好きな効率性の追及の結果よ」
「相変わらずの口達者だな。弟に産まれてくれていたらと何度思ったことか」
「書類仕事にお疲れのご様子で。私も手伝えたら良かったのに」
「お前の仕事はお坊ちゃんとの関係改善だ」
揶揄する要に核心を突かれる。
「父上はハウゼン伯にべったりだぞ。逃げ道はないと思った方が良さそうだ」
「私に言われても仕方ないわ。逃げたいのはお坊ちゃんなんだから。これ以上、お子様の相手なんてごめん被りたいのは否定しないけれど」
はぁ、とため息をつく。
「いっそ駆け落ちでもしてくれないかしら」
死ぬかいなくなるかしてくれればエレオノーラとしては万々歳だが、流石に前者の選択肢は兄の前でも口に出すことが憚られた。
「それは望み薄い事だな。望みと言えば明日の付添はクリストフだそうだな」
そうなのである。事もあろうかリヒャルトは婚約者であるエレオノーラの付添を弟のクリストフに押し付けたのである。
昨日、ハウゼン家の使用人が封筒1枚を慇懃に持参した際にはマイヤですら失礼だと文句をつけていた。曰く、所用のため定刻に迎えに参上出来ない云々。続いて届けられたクリストフの手紙の方がよほど丁寧に兄の非礼を詫びていた。
「クリストフが望み?そうね、いっそのことクリストフとの婚約にしては駄目かしらね。確かまだ婚約者はいなかったし」
「それもありだな。ハウゼン伯はバルツァー伯爵位をクリストフにお譲りになるつもりらしいだろうから。ハウゼン伯領に比べれば見劣りするが羊毛産業が盛んで気楽に領地経営できるだろうさ。少なくとも外交面ではハウゼン伯領より気楽な事は間違いない」
投げやりなエレオノーラの発言に対し、ヘンリックの返答は肯定的なものだった。
「なんだ、意外そうだな」
「てっきり冗談を言うなって返されるかと。まぁでも本当に冗談よ。クリストフと婚姻を結べばリヒャルトをお兄様って呼ばないといけないのよ、堪えられないわ。にしても伯爵位を2つも持ってるなんて羨ましいわよね」
「その分、仕事も2倍だぞ」
それはそうだ。遠くを見つめるしかない。領地運営なんて1つでも十分大変なのに。
「現実って辛いわねー」
「それでエレオノーラ、本当にクリストフはどうだ?」
「やけに押すのね」
終わったと思った話題を再び始めた兄の真意は何だろう。それはさておき、エレオノーラのクリストフに対する心証はリヒャルトと比べると天と地ほどの差がある。勿論、クリストフが天である。
よく言えば純粋な兄を見て育ったからか、次男である彼の方が余程分別というものが備わっている。常に相手を慮った言動は同年代の中では際立つものがある。
「あいつはあいつで苦労人だからな」
「そりゃあ、リヒャルトが身内にいたら苦労もするでしょうよ。可哀想に。でもリヒャルトって私以外にはまだマシでしょう?」
「お前は特別憎まれているからな」
哀れみの視線を向けられるが、エレオノーラとて己を哀れみたい。
「...リヒャルトは真っ直ぐ過ぎる。悪い事を躊躇なく悪いと指摘できるのを美徳と見るか青臭いと見るか、評価が別れるな」
そんな話をヘンリックと続ける内に夜が近づき、マイヤの晩餐の声かけあってからはあっという間であった。
気が付けば日付が変わり、エレオノーラはマイヤに髪を結われ、補装具を胴に巻き付けられながら、一端の伯爵令嬢に変身していた。
常は鈍色の輝きのない髪も、香油をつけて梳ったマイヤの努力のかいあり、銀の光を湛えている。露出の少ない控えめな濃紺の衣装を選び、首元にも青の宝飾品をつける。
婚約者の瞳の色を纏う、などという流行もあるのだが、如何せんエレオノーラにはリヒャルトの瞳の鳶色は似合わない。似合わないものを身につけてまでリヒャルトに媚びを売りたくはない。エレオノーラはあっさりとリヒャルトの瞳の色に近いと差し出された琥珀を脇に追いやったのだった。
さて、あとはクリストフの訪れを待つだけである。今夜の夜会は仕事の挨拶があるからとアインホルン伯爵夫妻と兄は既に出立している。次期ハウゼン伯爵夫人となるエレオノーラは部外者なので置いてきぼりというわけだ。
応接間で1人待つ時間のお供にと小説を読み進めてしばらくした頃、従僕の案内でクリストフがやってきた。
見知った顔に挨拶をして椅子を進めながら、従僕に飲み物の準備を言いつけると、心得ていたと言わんばかりにマイヤが茶道具一式を準備してくれる。
果実酒を落とした茶を一口飲むとクリストフはようやく一息ついたようであった。
「震えていたからありがたい」
「毎回煩わせて申し訳ないわ。昨日に比べたらマシな天気かと思ったんだけど、やっぱり寒いわよね」
「冷え込んでいますよ。外套の準備は?」
「勿論よ」
兄と似ているはずのクリストフの顔は、その穏やかな表情のせいかエレオノーラにはあまり似ている様には思えない。顔の造作自体は2人共に同じく整ったものだが、浮かべる表情で印象はここまで違うものなのだ。
「クリスには迷惑ばかりかけてしまって」
エレオノーラが、ではなくリヒャルトが、だが。そんな彼女の心中での付け足しを知ってか知らずか、クリストフは困った様な顔で謝罪の言葉を口にする。
「それは我が家の台詞です。兄がいつも申し訳ない」
そう本当に申し訳なさそうに謝罪した後、クリストフは微笑を浮かべ続ける。
「でも私にとっては嬉しいことですよ、義姉上とこうして2人の時間を持てるのですから」
美麗なお顔で世辞も上手い。最初に出会った頃の少年期を知っているだけに、エレオノーラは時の流れを感じてしまう。既に気持ちは姉である。1歳しか違わないが。
「クリスは立派になって...!感慨深いわ。まるで我が子の成長を見守っているようよ」
「義姉上、我々は年齢がさほど変わらないかと」
「そうね。私達ももういい歳よね。にもかかわらず貴方のお兄様は相変わらずよ。本当に困るわ」
「申し訳ありません」
「クリスを責めているわけでは。...私は会うなと言っているわけじゃないんだから、もう少し上手く繕う事が出来ないものかしらね」
エレオノーラは恋だの愛だのは求めていない。婚約者として尊重し、結婚後は共に家を守る仲間としての夫しか求めていないのだから。本命が外にいるくらいは問題なく受け入れられる。
「我が兄ながら愚かです。義姉上ほどの方を手に入れられるという僥倖に気付いていないとは」
「リヒャルト様の話はやめましょう。って私が口火を切ったのね。...クリスは最近何かあって?」
「そうですね、タウンハウスに来て1月程たちましたが、仕事関係の顔繋ぎばかりです」
「仕事関係と言うと...?」
「羊毛の新しい卸先を探しているんですよ。製法を見直して品質を上げた製品をもう少し高価格で取引出来ないかと思いまして」
「もうバルツァー伯爵を継ぐのね」
「父が兄に専念する為、バルツァーを早々に肩から下ろしたいと」
そんな風に近況を報告しあっていると、仕事の出来る執事が現れ、出立の時刻だと促される。クリストフの体も十分に暖まった様なので、2人は今宵の夜会を主催する公爵邸に向かったのであった。
***
会場は既に宴もたけなわ。
既に主賓のダンスも終わり、若いカップルが踊っている。主だった面々への挨拶に回った後、その中に紛れてエレオノーラとクリストフもファーストダンスを終えたが、格別ダンスをこのむ2人でもない。
踊りを続ける人々を避け、壁際に向かおうとしたところで、声が掛けられた。馴染みの薄い声に振り替えると、主催の公爵夫人である。公爵夫人の側にはエレオノーラより幾分年若い、幼さを顔に残した少女が控えており、用件を推測することはエレオノーラでなくとも容易かっただろう。
「エレオノーラ嬢、クリストフ卿、紹介させて頂きたい方がいるのよ」
ゆったりとした微笑を浮かべた公爵夫人は、一歩下がって控えた少女に前に出るように促す。
「私の姪でアデリナ・フォン・エーデルシュタインといいますの。今年デビューしたばかりで、物馴れない所が多いのですが、可愛い姪を壁の花にするのはしのびなくて。ぜひ一曲踊って頂けないかしら。エレオノーラ様はぜひ私のお喋りにお付き合い頂きたいわ」
そう公爵夫人に紹介された少女は、多少ぎこちないものの美しい所作でエレオノーラとクリストフに向かって挨拶をした。
「初めてお目にかかります。アデリナとお呼びください。エレオノーラ嬢、クリストフ卿、以後お見知り置きを」
「愛らしい方ね。お知り合いになれて嬉しいわ。クリストフ様も嬉しそうですわね」
いまだ婚約者のいないクリストフは嫡男ではないとはいえ、バルツァー伯爵位を継ぐ見込みが高い事から、引く手数多である。エレオノーラの相手ばかりさせて婚期を逃したと恨まれたくはない。目で己に構うなと告げると一歩下がって若いカップルの誕生を見守る事とする。
兄の事でエレオノーラに負い目があるクリストフは一瞬逡巡したようだが、そもそも主催の公爵夫人からの紹介である。断る事などできようはずもない。
「このように可憐な方とお話し出来、嬉しく思うのは当然でしょう。アデリナ嬢、ぜひ私と一曲踊って頂けませんか」
「喜んで」
そう言い、手を取り合った2人は広間中央に向かい曲の変わり目に合わせて一瞬で踊る人々に溶け込んだ。
「お似合いですね」
「そう思いまして?良かったわ、クリストフ卿であれば、安心してアデリナを任せられますわ。...リヒャルト卿にも困ったものですわね」
「至らず申し訳ございません」
エレオノーラとリヒャルトののっぴきならない不仲は社交界において噂される程の公然のものではなかったが、公爵夫人の耳には届いていたようだ。
婚約者であるリヒャルトがかった不興はエレオノーラにも謝罪の義務がある。脳内でリヒャルトへの往復平手打ちを数回重ねながら、それをおくびにも出さず、殊勝に謝罪した。
「エレオノーラ嬢を責めているつもりはなくてよ。クリストフ卿をお可哀想には思いますけれど。して、リヒャルト卿は本日はいかがされまして?」
「仕事の都合とのみ聞いております」
「本当に殿方は仕事の話ばかり。主人も仕事の挨拶ばかりで、可愛い姪に気遣い1つないのよ」
夫人は主人である公爵へのちょっとした言い分をつらつらと喋りだす。あくまでも建前であり、これが共通の話題の少ないエレオノーラとの時間を作る為であることは明白であった。付添なしでエレオノーラを放り出さないあたり、夫人の気立ての良さが伝わってくる。
ありがたくその気遣いに甘えながら、取り留めのない談笑をしていると、賑やかな一団が近づいてきた。間違いなく公爵夫人への用件であろう。どう考えてもエレオノーラが夫人を独占していてよいはずがない。この場を辞そうと考えたが、既に機を逸してしまった為、やむなく留まる。
「夫人、本日はお招き頂き光栄です」
一団の中心とおぼしき壮年の男性が恭しく挨拶をした。他の面々は既に挨拶を終えていたのか、その後に続くことはなかったが、1人の少女が夫人の正面に押し出される。
「こちらは私の遠縁で、偶々、隣国から来ていたので、是非とも帝都一と言われる夫人の夜会を見せたいと連れて参りました。ご紹介させて頂いても?」
「まぁ、遠い所を遙々と。ぜひご紹介頂きたいわ」
異国からの訪問者に興味をひかれたのであろう、夫人は好奇心で目を輝かせている。
「ルイーゼ・フォン・ベルガーと申します。お話に聞いていた通りの素晴らしい夜会ですわ。とても楽しませて頂いております」
「そう言って頂けて嬉しいわ。隣国からのお客様は久々ですの。ルイーゼ嬢のお話やお国のことを色々と伺いたいわ」
なごやかな雰囲気の会話を聞きながら、しかしエレオノーラはその名前に引っかかりを覚えた。
ルイーゼ・フォン・ベルガー?
ハウゼン領と国境を面する隣国の領地の名はベルガーではなかったか?
ルイーゼという名を彼はよく口にしていなかったか?
話に弾む周囲をそっと観察し、ルイーゼ嬢の様子を確認するが、何かの含みは感じない。しかし、エレオノーラは自分の勘が正しいことを確信していた。
目立たぬ様に、徐々に一団の輪の後ろに下がり、誰も自分に注目していない事を確認した上、自然な振る舞いで抜け出す。
これだったのだ、リヒャルトの仕事とは。
今晩の格式高い夜会をすっぽかすなど、流石にリヒャルトでもやらないと踏んでいたのに、クリストフに付添を押し付けた理由がわかった。
心を捧げた幼友達が来ていたのだ。エレオノーラに付添う自分を見られたくなかったに違いない。
「本当に幼稚な人」
ため息の1つや2つ、つきたくもなるというものだ。脳内でリヒャルトに往復平手打ちを更に10回程食らわせておく。
さて一団から抜け出したはいいが、このあと何としよう。クリストフを待つのは無粋というものだし、そもそもルイーゼとクリストフも知った仲なのであるから一緒にいるとルイーゼとの挨拶は避けられない。ルイーゼはエレオノーラという恋敵の存在は知っているだろうが、それが誰なのかは知らないはずであり、先程の公爵夫人への挨拶の際に見えたのは偶然に過ぎないはずである。もしこの場で互いを知れば、とんだ醜聞であろう。
ここは1人で早く帰るべきだ。クリストフには侍従に伝言を頼んでおこう。
そう判断し、回廊に向かおうと舞踏室の入口に目を向けた所で、ふと視線に気がついた。今到着したばかりと思われる男性が広い会場の片隅で、飲み物を受け取っていたのだ。心なしか襟元が乱れている。
誰であろう、エレオノーラの婚約者、リヒャルトその人である。
エレオノーラが自分の視線に気付いたことを悟ったのか、慌てて視線を外される。
きっと大した考えがあっての事ではない。エレオノーラの予想では、出席を見送ったもののルイーゼの様子が気になり、気付かれないよう様子を見に来たというところだろう。
アインホルン家の領地の屋敷とほぼ同規模の公爵邸はタウンハウスと言えど舞踏室は広い。大勢が集まるこの夜会であれば、ルイーゼにもエレオノーラにも気付かれないと思ったのだろう。確かに、エレオノーラが早々に退出しようとしなければ舞踏室の入口脇でひっそり立つリヒャルトに気付く事などなかっただろう。
だが気付いてしまった。
一瞬、このまま知らぬふりをして帰ろうかとも考えたが、ここまで愚かな真似は流石に見過ごせないと考えを改める。
己の方に進行方向を向けたエレオノーラにリヒャルトは僅かに驚いた様子であったが、逃げることはしなかった。
「リヒャルト卿、お早いお着きで。お仕事はさぞ大変だったことでしょう。...ルイーゼ嬢に見つかりたくないのであれば、一緒に来て頂けますわね」
にっこりと笑みを浮かべつつ、リヒャルトを軽く脅すと控えの間を抜け玄関広間へ向かう。宴の最中である。思った通り人はいない。遅れて到着する者も既におらず、使用人が僅かに控えるのみである。
エレオノーラは明々と燃える煖炉の程近くに設けられた天鵞絨張りの長椅子にゆっくりと身を沈める。渋々といった様子で、リヒャルトはその斜め前に座った。顔立ち自体はクリストフと似てないわけではないが、あまり似ているという印象を与えない兄弟である。
こうしてみるとリヒャルトもそれなり整った顔立ちなのだが、嫌悪を隠さない表情は見ていて不愉快極まりない。
久々に顔を合わせたが、挨拶は省略してもいいだろう。エレオノーラは単刀直入に話を切り出した。
「リヒャルト卿、私は今まで十二分に譲歩して参りました。縁談を解消されたいのであれば、父にはっきり伝えてくださって結構です。これ以上は、弟君のクリストフ卿にも申し訳ないと思われないのですか」
「そもそも我々の縁談は君の父上から持ちかけられたもの。私は被害者の立場。何故被害者の立場である私が、悪役になり縁談の解消を申し入れなければいけない、おかしいだろう」
「ではこのまま私と婚姻を結ばれたいのですか」
おかしいのはお前の思考回路だ、と詰りたいところであったが、ぐっと堪えた。
「まさか。君から解消を申し入れてくれ」
「それこそ無理な話ですわ。仰った通り、この縁談は我が家から申し入れたもの。アインホルン家からお断りするのは道理にもとります。私としてもリヒャルト卿が私を尊重してくださるのであれば、この婚姻に否はないのですから」
「勝手な言い種だな。君さえ現れなければルイーゼと私は今頃一緒になっていたのに。どこまで私達を振り回すつもりだ?」
この男の思考は本当にどうなっているのか。政治に関わらないエレオノーラですら分かる事が何故分からないのだ。
「お言葉を返す様ですが、同盟国とはいえ、ハウゼン領とベルガー領は国境を挟んで向かい合う領地。その両家が婚姻関係を結ぶことなど、許されるとは思えませんが。辺境伯の責務をお忘れですか」
「知った口をきかないでもらえるかな。ベルガー家と我が家は友好な関係を築いている。私達の婚姻の支障はエレオノーラ、君だけだ」
エレオノーラは私的な友好関係云々の話ではなく、国と国の政治の話をしている。それすらも理解出来ないというのであれば、この嫡男に爵位を承継するハウゼン伯爵に同情の気持ちすら沸きそうだ。
「...私が邪魔と仰るのであれば、ハウゼン伯爵から父に申し入れください」
「話を聞いていたか?何故我が家から申し入れる必要がある?」
お前が破棄したいのであればお前から申し入れるのが筋だろう。喉元から飛び出しかかった言葉を何とか押し留める。
「ですから、我が家に否やがないにも関わらず、我が家からの撤回は致しかねます」
これでは堂々巡りである。これまで何度となくこの会話を繰り返してきた。エレオノーラとていい加減飽き飽きしている。
体に溜まった怒りを吐き出す様に、長く息を吐いてみる。少しは冷静さを取り戻せたかと思ったが、リヒャルトは別の受け止め方をしたようだった。
「嫌みったらしくため息をつくな。君の家に振り回されて、ため息をつきたいのは僕の方だ」
お手上げであった。エレオノーラ1人でこの男と話したところで何の成果も得られない。穏便に2人の話で収めたかったが、叶わぬことであったらしい。残された時間を考えると、もはや父に相談するしかあるまい。短いやり取りで腹を括ったエレオノーラは僅かに残っていた希望にかけた己を悔いるしかなかった。
「...失礼させて頂きます」
視線も合わせることなく、一言告げると長椅子から腰を上げた。不毛なやり取りに疲れた頭が鈍い痛みを訴え始めている。僅かでも話が通じると期待した自分が情けない。
離れた場所に控える侍従に迎えを呼ぶように伝える為に視線をやった時であった。
「愚息が迷惑をかけたね」
その声はエレオノーラの背後から突然聞こえた。驚き振り向けば、誰あろうハウゼン伯その人である。
エレオノーラは控えの間に背を向けていた為、全く気付いていなかったが、2人が座っていた暖炉前の座椅子と控えの間の間仕切りの後ろにいつの間にかハウゼン伯が控えていたのである。
舞踏室で挨拶をした際に浮かべていた穏やかで知的な光をたたえた瞳が冷たい色を浮かべている。こんなハウゼン伯を見るのはエレオノーラも初めてであった。
弁解の言をと口を開きかけたリヒャルトを、ハウゼン伯は厳しい視線で制し、視線を緩めてエレオノーラに申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ハウゼン伯、いつからこちらに...」
「エレオノーラ嬢には是非とも父と呼んでもらいたかったが考えを改めねばなるまい。衆目もある、詳しい話は日を改めてまた」
「私が至らないばかりに、申し訳ございません」
「非がいずれにあるかは明白だよ。謝罪すべきはこちら。...虫のいい話だが縁談のいかんに関わらず、父上には事業を継続させて欲しいとお伝え願えないか」
「承知致しました」
エレオノーラは深々と頭を下げ、伯爵に謝意を表明する。ハウゼン伯にこの場を見られたと知ったその時、真っ先に頭を過ったのは事業の事だったからである。頭を垂れたまま安堵の息をついたエレオノーラにハウゼン伯は思いもよらぬ言葉を続けた。
「クリストフ、エレオノーラ嬢をお送りして差し上げなさい」
「言われずとも」
その声に驚き、顔をあげるとハウゼン伯の背後から、アデリナ嬢をエスコートしていたはずのクリストフが現れる。ハウゼン伯がこの場に現れた理由にエレオノーラはようやく思い至った。
そのままリヒャルトとは一言も言葉を交わさず、エレオノーラはクリストフに先導されるがまま、既に手配していたのであろうハウゼン伯爵家の馬車に乗り込み、夜会を後にしたのであった。
***
「クリスには迷惑をかけてばかりね、ごめんなさい」
用意されていたハウゼン家の馬車に乗り込み、向い合わせで座ったクリストフの喉元あたりを見つめながらエレオノーラは謝罪した。あの醜態を晒した後では、なんとなく視線を合わせ辛かった。
「余計な事をしてすみません。義姉上が穏便に進めたい事は承知していましたが、あの兄では...」
「いつからあそこに?」
「割と最初からですね。兄に話しかける貴女を見かけて、父とすぐに後を追ったので」
「そうだったの...。恥ずかしい所を見せてしまったわ」
思わず手で顔を覆ってしまう。白粉が手袋についてしまうとか、そんなことを頭の片隅で思いつつ、体がその思考に従わないのであるから、やはり動揺しているのだろう。
ハウゼン伯にあの様なやり取りを見られてしまったのは失態という他ない。
「非は兄にあります。義姉上が恥ずべき事などありませんよ」
「ありがとう。気遣いに感謝するわ」
「気遣いではありませんよ、...浮かない表情ですね。私は余計な事をしてしまいましたか?」
クリストフの声音が少し下がった。その事に気付きエレオノーラは慌ててしまう。エレオノーラの事を思っての行動であったことは理解しているし、恐れていた事業への影響もなく、結果としてはアインホルン家への不利もなかった。本当に感謝しているのだ。その彼に己を責める様なことをさせるつもりはない。
「クリスには本当に感謝しているわ、本当よ。急に話が進んで驚いているだけよ」
笑顔を心がけてクリストフと視線を合わせた。
向かい合った先から向けられるその視線が思ったよりも強く内心驚いたが、それは表には出さなかった。
が、クリストフの視線は緩むことなくエレオノーラを見つめてくる。
「クリス...?」
「であれば良かった。内心では兄を慕っていたのではないかと邪推しました」
「...まさか」
「本心ですか?」
「もちろんよ。リヒャルトの態度のどこに好意を持てる要素があるのか教えて欲しいくらいよ。...ルイーゼ嬢に向ける態度は別物なのでしょうけれど」
「昔、領地でのガーデンパーティの最中に兄が迷子になったことがあるそうです。それを偶々見つけたのがルイーゼで、それ以来、兄はルイーゼを慕い続けている様です。残念ながら、義姉上に向ける態度とでは天と地ほどの差が」
「でしょうね。その話は本人からも聞いているわ。一途な事は美点の1つでしょうけれど、彼は極端が過ぎると思うわ」
「残念ながら、同意せざるを得ませんね」
分かっていたことである。が、しかし巻き添えを食うエレオノーラからすれば堪ったものではない。
「ハウゼン伯のご様子では縁談は白紙に戻して頂けそうで有難いわ」
「...私が兄の代わりを申し込めば、受け入れてくれますか?」
クリストフの口から出た台詞が一瞬理解出来なかった。
しかし彼の性格を考えれば、その申し出の意味はすぐに理解出来た。
「...クリス。貴方が優しい人なのはよく分かっているつもり。でもこれは別よ」
「私の申し出が同情や優しさからきていると?」
「違った?...もしかして事業の事を懸念しているの?だったら我が家から打ち切る事はあり得ないわ、安心して」
「違いますよ。事業の継続は縁談如何で左右されるような段階ではない事は貴女もご存じの通り。それに私は優しくはないですよ、私は今日ほど不出来な兄に感謝したことはないし、兄と貴女の破談を心から喜んでいますから」
いつも穏やかな微笑を浮かべているクリストフの温和な顔つきが見たこともない真剣なものに変わり、視線に籠る熱が強くなる。
その変化にエレオノーラはただただ戸惑った。
「一体どうしたと言うの?」
「ハシバミの木陰から出てきた貴女を一目見たときから、ずっと貴女は私のものにすると決めていたんです」
ハシバミの木陰?いつの事だろう?
その問いを返す前に思い出せたのはエレオノーラにとって僥倖であったのだろう。クリストフの視線が和らぎ見慣れた柔和な表情が戻る。
「最初に会った時の事、覚えていてくれて嬉しいです」
あの日のことは忘れ様にも忘れられない。あれがエレオノーラとリヒャルトの始まりだったのだから。エレオノーラにとっては数年続く暗黒の日々の幕開けとなった日だ。
「クリストフ。私には少しついていけないわ、一気に色々と起こってしまって」
「そうですか?話は単純で貴女の婚約者が兄から私に変わるだけですよ。家同士の付き合いもこれまで通りです」
「それはそうだけれど。......リヒャルトとの婚約を破棄したいとは思っていたけれど、本当に破棄出来た時の事を考えてなかったのよ。だから考える時間が欲しいのよ」
そうなのだ。望んでいたことが現実になったはいいものの、その先を考えた事がなかった。リヒャルトの事も結局は政も含めて考えると彼と幼馴染みの将来は認められず、エレオノーラとの結婚は避けられないものと思っていたのだ。それが貴族の結婚であり、所詮は家同士の結び付きを強める手段でしかないのだから。
が、現実はどうだろう。
リヒャルトとの話は流れる可能性が高く、おまけに、恥ずかしい自惚れでなければ、愛を囁く青年までもが現れたのだ。これは出来すぎな恋愛小説の様ではないか?もしや何かの裏があるのではないかという疑念がわく。
エレオノーラが事態を正確に理解し、受け止める為に時間が欲しいと言っても仕方ない事ではないだろうか。
「エレオノーラ。残念だけど時間はあげられないよ」
クリストフは涼しい顔で義姉上とは呼ばずエレオノーラと呼ぶ。
あまりに自然な口調にエレオノーラもあっさり流されそうになり、いやいや待て待てと心中で叫んだ。
が、そんなエレオノーラの混乱をよそにクリストフはたたみかける。
「選択肢は2つだ。兄か私か、どちらがいい?」
「選択肢はそれだけなの...!?」
「他の選択肢としてあがる様な人が居ないはずだよ。何の為に私がエレオノーラの介添を引き受けて来たと?」
「...未婚という選択肢もあるのではないかしら?」
「貴族たる義務を弁えたエレオノーラとは思えぬ台詞だね」
うーん、適当に言った事がバレている。
思っても見なかったクリストフの押しに降参するかのように手をあげ、結局は判断責任を父に押し付ける事にした。ほんの少し己の意見も添えて。
「どちらにせよ私に選択権はないわ。貴族の結婚は家の結び付きが最優先でしょう。私はお父様に従うのみよ。けれど、......貴方とリヒャルトであれば、貴方の方が私はありがたいわ」
「それは良かった。けれど、私がエレオノーラに好意を持っている事は覚えておいて。そして貴女から少しでいいので私と同じ好意を返して貰いたいと望んでいることも」
そこで一旦言葉を区切ったクリストフは徐に向かい合って座っている座席から腰を浮かせエレオノーラの隣に移るとあろうことかエレオノーラをその胸の中に抱き込んだ。
「クリストフ...!」
「エレオノーラ、私は思っていた以上に強欲な様だよ。貴女を手に入れられれば十分と思っていたのに、今は貴女から思いを向けられたいと思っている」
そう言うとクリストフの手に力がこもり抱き締められたままのエレオノーラはなすがままである。
往路の馬車の中では礼儀正しく向かいに座り、穏和な表情を浮かべていたクリストフの態度の変化に、エレオノーラは内心混乱したままであった。貴族の結婚に恋情など想定していなかったエレオノーラからすれば、クリストフの態度は完全に想像の範疇になかった。
けれど、冷やかな視線を向けられ蔑まれるようり愛情を向けられる方がはるかに居心地よいことだけは間違いなかった。
迷った末に自由になる前腕だけを動かしてクリストフの背中に手を回すと、クリストフが嬉しそうに微笑んだ。その顔には最初に会った日にエレオノーラに向けられた優しい笑顔の面影を残しており、つられてエレオノーラも笑ってしまう。
そうしてそのまま2人はアインホルン家まで笑いあいながら帰宅した。
その後の両家の話し合いの末、クリストフは辺境伯として爵位を承継しエレオノーラとの結婚が決まった。リヒャルトはバルツァー伯爵の称号を継ぎ、ハウゼンの家を離れる事となった。結果としてルイーゼとの婚姻の障害であった政治的な問題もなくなり、双方共に納得した形で収まった。
クリストフはバルツァー伯としての穏やかな立ち位置を望んでいたこともあり、辺境伯という国防の要となる立場に難色を示していたが、それがエレオノーラとの結婚の条件と言われてしまえば飲まざるを得なかった様である。
ハウゼン伯とアインホルン伯は何事もなかったかのように事業を継続し、互いに屋敷を行き来してはチェスを差す遊び仲間の関係を続けている。
兄のヘンリックは変わりゆく状況に追い付いていないエレオノーラに向かって笑いながら飄々と言った。
「言っただろう、クリストフはどうだって」
「お兄様、何かご存じでしたの?」
「色恋沙汰は外野からの方が分かりやすいんだよ」
「...そうですか。さぞや面白おかしくご覧になっておられたことでしょうね!」
「まぁまぁ怒るな。...クリストフの長年の執着を甘く見ない方がいいぞ。まぁ淡白なお前にはアイツ位があっているだろうさ」
「執着という程の事はないと思うのだけれど」
「立ち回りが上手いが、クリストフもリヒャルトと同じ血が流れていることを忘れるなよ」
そういえばこれからエレオノーラはリヒャルトを義兄と呼ばねばならぬのだろうか?ハウゼン家とバルツァー家ではハウゼン家の方が家格が上なことが唯一の救いということか。
エレオノーラは、大きな大きなため息をついた。
完