修行編 第7話 バンコクでの苦悩 その1(34)
修行編 第7話 バンコクでの苦悩 その1(34)
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1993年4月。
31歳になった健一は、4年ぶりに無事にバンコクに到着した。
早速、下松和夫が紹介したタイレストラン
「サイアムプラス」に挨拶に向かうと、みんな笑顔も見せずに憮然とした表情。
店員の一人がすぐ近くのあまり綺麗でない寮の一室を案内してくれた。
「あまり愛想良くないけど、国が違うから雰囲気も違うな。
でも本場で働けるのは楽しみだ。僕にはこのバンコクが一番似合うような気がする。
最後に来たのが曼谷食堂の買い付けのときだからなあ。久しぶりだよこの感覚は!
今回はいつまで居るかわからないから、落ち着いたらいろいろなところを回ろう」
健一は明日からの仕事に期待を膨らませながら、最初に向かったのはやはり
あの場所“居酒屋源次”であった。
「お久しぶりです。源さん!」
「え?あっ!健一君。いやー久しぶりだったね。
青木さんからはいろいろ話を聞いたよ。一時期青木さんの会社にも居たらしいね。
で、今回はどのくらい居るの?」
「それがね」健一は源次郎にトンブリーレストランの紹介で、
タイ本国でタイ料理のシェフとして働くことを伝えた。
「ふぇーそりゃすごい。本場でタイレストランのシェフとは。本当にすごいね。
やっぱり健一君は只者じゃないね。頑張ってね」
「ええ、できるだけ顔を出すようにしようと思います。
それと今日は、再開を祝したいので源さんにビールをおごります」
「あー健一君、大人になったね。じゃあ、ありがたく頂くよ」
健一と城山源次郎の2人が久しぶりの再会を祝っている横で、
スーツ姿の背の高い銀縁のメガネをかけた大柄な男が、ビールをチェイサー代わりに、
タバコを吹かしながらウィスキーを一口飲むと、頭をゆっくり左右に振った。
「ふん、最初は楽しく感じるけど、さて実際にタイ在住を続けるとどうだろうね」
小声で、冷静に成り行きを見ているのだった。
翌朝、健一は初出勤の前に早起きをしてあるところを目指した。
それは、チャオプラヤー川のほとり。
今まで、何かあるたびに、訪れていた場所。
ここに来るのも当然ながら4年ぶりの事であった。
「前のときは、少し荒れていたけど今回の表情は、どうかな」
川の流れは、天気も良かったせいか、穏やかであった。
「千恵子、俺もう一回ここで修行をして、一流のシェフになるよ。今度こそ絶対に!」
そう心で叫びながら、しばらく川を眺め続ける健一であった。
「おう、確か大畑君では!奥さんは今回も留守なのか?」
健一が振り向くと、真新しい空手衣を身にまとった本松親子がいるのだった。
「あっ、お久しぶりです。実は妻とは死に別れまして・・」
「そうだったか。それはうかつな事を言った、許せ」と言って頭を下げる父・友和。
「まあ、でも君はまだ若い。次がある。元気を出せよ」と大声で励ます。
「いや、もうその件は大丈夫です。実は僕、明日からバンコクのレストランで働く事になった
んです!」友和に負けないほど元気一杯に答える健一。
「そうか、バンコクで働くのか!それじゃ、その店を教えてもらえるかな。
時間のあるときに顔を出すよ」
健一は、友和に、持ち合わせていたレストランのネームカードを渡す。
「これか、よしわかった。ちなみに我々も進展があってな、今年からこの和武がムエタイのジ
ムに通う事になったんだ。2、3年後のデビューを目指してな。和武!大畑君に挨拶をしろ」
友和に大声で言われ、体だけは完全な大人の体つきで、空手衣の下から筋肉が満ち溢れている
子・和武が健一に大きな声で挨拶をする。
「和武です。お久しぶりです!毎日ジムでもトレーニングを積んでいますが、
朝はここで気合を入れないと一日が始まりません。従って父と今も一緒に来ております」
「ああっあの和武君が!本当に立派になりましたね」
感心する健一をよそに、和武は「それでは訓練を始めますのでこれで失礼」と言いながら、
少し健一の元から外れると、「エイッ、ヤアー」と大声で気合を入れながら、両手の拳を交互に、前に突き出すのだった。
「本松親子は、相変わらず凄いなあ。和武君は本当に立派な大人になったなあ。
これは俺も頑張らなければ」
本松親子の横で、健一も心の中で気合を入れるのだった。