修行編 第64話 スコータイへ その1(90)
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大畑健一は、原澤夫妻の結婚式に出席後、居酒屋源次に行ったが、中に入ると様子がいつもと違っていた。
店内では、天田弘久がカウンターで気難しく顔をしかめながら静かに酒を飲んでいて、席3つ奥には、見慣れぬ派手な服装をした観光客らしき男が、これも一人で静かに飲んでいる。
居酒屋というよりバーのような面持ちで、城山源次郎の声のトーンも低めであった。
健一は、そのちょうど真ん中の席に座り、ビールを注文した。「おう、大畑君か」とても話しかけにくい雰囲気だったが、運良く天田の方から声をかけてくれた。だが、表情は暗く声にもいつものような張りが無い。
「どうしたんですか?天田さん。なんとなく元気が無いようですけど」
天田はタバコに火をつけると、眼鏡越しの目がやや虚ろな状態で、「はあ~もう嫌になったなあ。俺も会社辞めちゃおうかなあ」相当精神的に参っているようであった。
「何があったのか、これ以上あえて聞きませんが、酒でも飲んで忘れましょうよ。私がお付き合いしますよ」と健一が声をかけると、天田の目が厳しく光り、「ああ!お気遣い無用!結構飲んでますので。実はチェンマイの国沢さんが会社辞めるっていうんだよ」
源次郎が健一に、「余計な事を言うな」と言わんばかりに目配せをする。
「チェンマイでの後釜が決まるまで、私が来月からチェンマイに行かないと行けなくなった。彼は来月一杯で会社を辞めて東京で居酒屋始めるとか言い出して、あの負け犬め!」と言いながら、頭を抱えだした。
「チェンマイは、私も料理人として滞在しましたけど、結構のどかなところでよかったですよ」と言いながら健一がなだめたつもりであったが、結果は見事に逆効果。
「何だと!場所の良し悪しではない!!何でなんだ。今、世界的にバーツが暴落してしまい、わが社にどんな影響が起こるのか解からないというのに。
今こそ社員が一致団結せねばならない時に!途中に逃げ出すとは、負け犬め!企業戦士にあるまじき行為だ!」と大声でわめく天田。
健一も源次郎もこんな理性の無くした天田を始めてみるので、唯唖然と見つめるほか無かった。
「そうそう、今年の夏から急にバーツが暴落して、それまでの好景気が一気に悪化するのではと駐在員のお客さんがみんな心配しているんだよ。健一君の会社は大丈夫?料理学校なんて始めて・・・」
源次郎が心配そうな表情をするのとは対照的に、表情に余裕のある健一。
「源さん、僕のところは今のところ大きな影響は出ていないみたい。料理学校も借金して作ったんじゃなくて、
ウイチャイ社長が自腹で作ったらしいんだ。
それにあの物件も、モンディ先生のルートで格安の家賃だったらしい。
ターベチェンマイは、どちらかと言えば大衆的な食堂なので、
店長の話では、今回の件で、逆に今まで来なかった客層の人が来るようになったらしい。
恐らく高級店は大変でしょうね」
「そうなんだ。そりゃ良かった。俺のところも今のところ、影響は少ない。けどこの先は不安だね」
「あっでも、ひょっとするとこれでバンコクへの出店もしばらく抑えられるから、僕、又チェンマイに戻されるかもしれない。
社長が言うには、チェンマイよりさらに北にあるチェンラーイあたりにも店を出し始めているらしいから」