修行編 第6話 再び目指す道 その6(33)
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3月のある日、健一は下松和夫に呼び出された。「大畑さん、君のおかげで店の売上は順調。その上、見習いの料理人まで育ててくれました。礼を言います」「いえいえ、社長。急にかしこまってどうしたんですか?」「実は妻ウドムの知人がバンコクでレストランをやっているんだが、優秀な料理人を探しているんだ」
健一は何のことか良くわからない。「はあ」
和夫は、いつものように脂ぎった顔をタオルで拭きながら、「今、タイでは優秀な料理人は人気ですぐにどこかの店に取られてしまうらしく、日本人でもいいから誰かいないのかと言って来たんだよ。そこで大畑さん悪いけど言って来てもらえないか?」健一はあまり唐突なことで相槌を打つのも忘れてしまった。
「トンブリーレストランはもう大丈夫だ。
君の育ててくれた料理人も居るし、店も多くのお客さんがついてくれた。食材も本当によく売れるようになった。
だから優秀な君ならきっと先方も喜ぶだろう。承知してくれますね」
「ちょっと待ってください。急にそんなこと言われても。一日待ってください」
健一は考える時間をもらうため、いったん家に戻った。
健一が去った後、柱の影で一部始終を見ていたウドムが和夫のところにやってきた。
「タブンウマクイクネ」「ああ、優秀な料理人という言葉で心が動くだろう」「ジッサイトハ、オオチガイダケドネ」と笑うウドム。
「彼には申し訳ないが、私にはこの下松家を守る義務があるからなあ。
追い出す事になるが、先に謝っとくよ、大畑健一君」
両親が、健一に対する陰謀を画策した会話を
後ろで聞いていた和美。
「父さんも、母さんも、本当にわからないのね。この店が、大畑さんで持っているということを。あのバカ兄貴に何が出来るのかしらね。
そうかバンコクか・・・。多分1年もすれば、みんな大畑さんの重要性がわかって戻されるでしょうね。
その後ね。もっとたくましくなった彼にアタックするのは」
下松ファミリーの陰謀も知らずに、健一は悩んでいた。
バンコクへ最後に行ったのは、自分の店を始める直前だから約4年前。
かつて青木社長に指摘された事もあって、自身の勉強のためにも行きたかった。
それに本場で学べる絶好の機会。しかし心残りが泰男のこと。
今でも生活のずれがあるのに今度はいつ戻って来れるのか。
一時連れて行くことも考えたが、泰男には日本の友達もたくさんいるし、それよりも大切なことは日本での教育をきっちり受けて欲しいと思っていたので、連れて行くことは出来なかった。
かといってここまで福井のおばさんに迷惑をかける事は出来ないし・・・。
しかし、意外に早い段階でひらめきがあった。「そうだ、大阪の母の元に預けよう」そう思った健一は、早速母・京子に連絡した。
「そういうことなら預かるわ」と泰男をしばらく預かってもらうこととなり、下松和夫にもタイに行くことを了承した。
ただ条件として、泰男の小学校の入学式に出た後と言うことで、4月15日に日本を出国することになった。
そのことが決まってからはあわただしい日々が続いた。泰男の大阪への転出届や大串洋次ら日本の仲間にしばらくの別れを告げ、トンブリーレストランのスタッフにもお別れの挨拶をした。
タイ人の料理人の中には涙を流すものもいた。
福井真理には、誰も居なくなる家の管理をお願いし、いったん大阪に出て泰男の入学式に出席。
再び東京に戻って簡単な身支度を済ませてから、バンコクに向けて旅立った。
空港ターミナルに到着し、何気なく前を見ると、ターミナルから出て来る帰国してきた人たちの中に、真っ黒に日焼けし、大きなバックパックを背負っている、旅なれた女性の姿があった。
その眼光が怪しく光り輝き、すれ違った際、健一に、ただならぬオーラのような威圧感を感じるのだった。