修行編 第44話 バンコクへ凱旋 その2(71)
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全ての予定が終わり、健一たちが退出した後、
部屋に残ったのは、モンディとウイチャイの2人。
「先生、今年もありがとうございました。それにしても、日本人は器用で努力家だと、
私の父から教えられましたが、大畑の事を見ると、やっぱりその通りだったようです」
「ウイチャイ社長。2年前からターベチェンマイがバンコクへの進出してから、
出店の勢いは衰えることなく中々のものですね。
まあ私の指導を、みんなに忠実に守らせているあなたの功績でしょう。
で、私からの要望ですが、彼をそろそろバンコクに移してみるのはいかがでしょうか?
彼はまだ、磨きの足りないダイヤの原石のようなところがありますが、
私が直接彼を磨く事が出来れば、立派に光り輝くダイヤになりますよ。
それはあなたにとってもプラスになるはず」
口を半開きの状態になりながら、にこやかな表情のウイチャイに対して、
モンディのほうは終始真剣なまなざしのままであった。
緊張して完璧ではなかったものの、モンディ師から一定の評価を貰った健一は、
今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ、いつも以上に緩やかな表情になった。
「国沢さん。久しぶりに夜つき合いますよ」
そういって、久しぶりに国沢と武士王で美酒を飲みながら健一は、
モンディ師から指導受け、評価を貰った“武勇伝”を熱く語るのだった。
カウンターの前では、健一の日本料理の師匠とも言える大塚信長が、
国沢に語る健一の生き生きした表情をうれしそうに見つめていた。
4月になると、タイ正月の季節。
年々派手になる水掛祭りにの期間中は、
健一たちも巻き込まれ、服が何枚あっても、すぐに水をかけられ、
やたらと洗濯物が増えるのだが、健一は存分にこの祭りを楽しむのだった。
それらもようやく落ち着き、再び雨期が近づこうとした頃、
健一は、ウイチャイに社長室に来るように呼ばれた。
健一が中に入ると、ウイチャイは、ゆっくりとした口調で、
「大畑、今度バンコクに行ってくれないか」との指示。
健一は突然の事に最初良く分からず
「はあ」と頼りの無い返事をした。
「実は、バンコクのレストランに料理人が足りないので、
今度はお前に言ってきて欲しいのだ。もちろん青木貿易とは話がついてある」
ウィチャイの言う事が、人事異動である事がようやく理解できた健一は、
「わかりました」とタイ語で答えた。
実は、このターベチェンマイは、チェンマイ旧市街には、本店が1店しかないものの、
新市街や北部の他の町に10軒ほどの支店を持っており、
首都バンコクにも7店舗展開している“チェーン店 ”だった。
特にバンコクへの出店は、2年前からであり、
北部料理が作れる優秀なシェフは次々とバンコクへ転勤となっていった。
健一が働き出してからも4、5人のシェフがバンコクに転勤となり、
その都度、健一の仕事のレベルが上がって行ったのだが、
この頃には、副料理長に次ぐクラスの立場でもあった。
健一には、心当たりがあった。
ちょうどソンクラーンの期間中、夢で千恵子が水鉄砲を持って現われ、
笑顔で健一に水をかけてくるのだった。
「おい、止めてくれ、昼間嫌と言うほど水をかけられるのに何で夢までお前に水をかけられるんだ」
と逃げながらも、夢の中で楽しんでいたが、バックの風景が、チェンマイと比べて余りにも都会。
たくさんの車で渋滞と排気ガスがたちこめる“バンコク”のようであったのが気になっていた。
今まで、千恵子が出てくる夢でバックの風景で出てくるものは、健一の次に行くところを予知している事が多い。
夢から目覚めて起きた時も、「あそこはバンコクだなあ。ひょっとすると近々転勤の可能性もあるぞ」
と感じていたからであった。
実際にその通りになったので、健一は「やっぱりかあ。まるで予言者のようだ」と一人自己満足に陥っていたが、社長のウイチャイは別の意味で健一をバンコクに転勤させる事を決断していた。
2月にモンディ師が来た時に、直接健一を指導つまり“弟子”として育ててみたいと言っていたが、
先日正式に手紙が届けられたからであった。
ウイチャイにしても、今やタイ料理界の第一人者であるだけでなく、
タイ料理界の“神”と言われているシーダマン大師の一番弟子として、
実質的に“神”の一門を引っ張っているモンディ師から自らの従業員の一人を弟子として育てたいという話には、健一以上の嬉しさを感じていたからであった。