修行編 第43話 バンコクへ凱旋 その1(70)
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年が明け、1996年1月。
大畑健一は、やけに気持ちにゆとりがなくなっていた。
何を隠そう、来月には、バンコクからモンディ師が、
1年ぶりに料理のチェックと指導に来られるからであった。
当然、日本人で頑張っている健一の事を、モンディも非常に気にしているらしく、
余計に大きなプレッシャーが健一を襲ってくるのを日々感じるのだった。
健一は、不安を少しでも紛らわせようと、モンディ師から貰った料理本を一から読み直した。
仕事の合間も、終わってからも本を読み続ける。
それまでは、週1回くらいのペースで、武士王などで飲み歩いた国沢も、
急に健一が飲みの誘いに乗ってこないので、
心配しつつも健一に会うために、ターベチェンマイでごはんを食べに来ているのだった。
「大畑さん、急にどうしたのだろう?」
「う~ん。暇さえあれば本をひたすら読んでいるようですけどね」
アーム二村も気になりつつ、ただ見守っているのだった。
日々が流れ、ついにモンディ師が料理指導にやってきた日を迎えた。
健一も当然のように呼び出される。
「さて、1年に一度の料理指導の日である。
モンディ師がわざわざバンコクからみんなの料理のチェックに来たので、頑張るように」
ウイチャイ社長の簡単な挨拶の後、モンディ師が見つめる中、
昨年同様に各料理人が作る料理が言い渡されていった。
健一は、予想通り“パッタイ”を作るように言い渡された。
健一は、1ヶ月ほど前から、モンディ師から頂いた本を読み直すだけでなく、
合間の時間に何度かパッタイを作り続けていたが、
やればやるほど納得が出来ず、前の日までうまく作ることが出来なかった。
本番の日。健一は大きく深呼吸をした後、あえて考えないように作り始めたが、
逆に余計に意識してしまい、かえって気が焦ってしまった。
どうに完成したものの、やはり健一の納得の出来る代物ではなかった。
各料理人が作った料理を、一品一品モンディが試食。
その都度、料理への指摘とアドバイスをしていくのは、やはり昨年と同じ光景であった。
いよいよ健一の番がやってきた。
「おっ日本人ね」モンディが軽く会釈をしながら、一口食べる。
「この料理は、あなたの自信作ですか?」先ほどとは違い、真剣な鋭いまなざしで健一を見る。
健一は一瞬戸惑いながらも、「あっいえ、先生の前で緊張して・・・」と、
自信の無い表情で相手に聞こえるかどうかわからないような小さな声で答えた。
するとモンディは、急に笑顔になり、
「うん、あなたは正直ね。味はまあ良かったけど、麺が細かく切れているわね。
例えばここにある木のヘラで、ゆっくり炒めなさい。
そうすれば、麺が切れることなく、きれいに仕上がるわよ」
横でモンディの説明を聞いていたウイチャイも他の料理人も驚きの表情に変った。
「先生から味が良かったといわれる事は、めったに無いんだ。大畑凄いぞ」
ウイチャイが嬉しそうに声を発した。
「あっありがとうございます。去年頂いた本で日々勉強したのが良かったと思います」
事情が飲み込めた健一も、声が上ずりながら、何度も頭を下げる。
モンディは、大変満足げな顔で、
「1年間本当に努力しましたね。あなたは一人前のタイ料理シェフになったと思います。
後は、緊張して実力が出ないのを直す努力をしなさいね」
その瞬間、室内に大きな笑い声が響き渡るのだった。