修行編 第38話 師匠との出会い その2(65)
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いよいよ健一の番になった。自信のあるパッタイとはいえ、大先生モンディの前でどこまで通用するのか不安が顔にも出てきてしまった。
モンディは、他の料理人と同じように無表情のまま一口食べる。すると「これは何だ?」と、パッタイの中に入っているものを指差した。「あっはい、豚肉です」健一は緊張気味に答える。
「あなた!日本人なのにタイ語美味いわね。パッタイには豚肉を入れては駄目だわ。エビだけ入れなさい」
その指摘に、健一は足の太ももの裏側あたりに、ゆっくりと滴る汗を感じるのだった。
実は豚肉を入れたのは、健一のアレンジだからであった。
かつて亡き妻千恵子が「エビだけじゃちょっと寂しい」と言った事がきっかけで、豚肉を入れてみたところ、「具だくさんになってこのほうが美味しいよ」と褒めてくれてからは、健一はこの日まで、パッタイに必ず豚肉を入れていたのだった。
モンディの指摘に慌てふためく健一。
「すっすみません!これからは注意します」といってモンディに何度も頭を下げる。
モンディは健一の慌てぶりが余りにもこっけいに見えてしまったのか、思わず大笑い。
「ア、ハハハ!わかればいいのよ。でもあなた日本人なのに、わざわざタイまで来て料理の修業に来ているのね。私は来年もまたここに来ますから、これで勉強しなさい」と、一冊のタイ語表記の本を健一に手渡した。
他の調理スタッフにはなく、健一だけのプレゼントだった。「あっありがとうございます」再びギクシャクした表情で、モンディにワイ(両手を合わせる)をしながら、「外国人の私でも修行していいんですね」と頭で思っていたことまでも口走ってしまった。
一瞬室内は、凍りついたように静まり返ったが、直後に、みんな大爆笑となり、「ハハハア大畑、じゃなければここには呼ばないよ。先生からの本を大切にして勉強するんだ。そして早く一人前になれ」ウイチャイの言葉であった。
「ああっはい、ありがとうございます」再び慌てて頭を下げまくる健一に、再び大爆笑。
一気に和やかな空気が部屋全体を覆うのであった。
全ての予定を終え、健一も含めた料理スタッフが退席した後、モンディとウイチャイの2人が残った。
「先生、今年もありがとうございました。当店が急成長できているのも、先生の料理指導があってのことです」ウイチャイが改めて頭を下げる。
「いやいや、私もあなたのように、料理人のレベル向上に励んでいる事は、タイ料理全体にとって大切な事。我が師シーダマンも喜んでおります」
「ところで先生、新人の日本人は如何でしたでしょうか?」「ああ、大畑ね。彼はどんどん伸びるわよ。外国人であることを気にしていたけど、それが負担にならないように見守ってあげなさい。来年の成長振りが今から楽しみだわ」
と、モンディは、小さい赤ちゃんが育っていくのを楽しみにしているかのような
表情をするのだった。
この夜、床についた健一は一人で、千恵子に対してつぶやく。「千恵子、最近夢に出てこないけど、もし近くにいたら適当に聞いてくれ。今日は、パッタイに豚を入れたことを指摘されて、思わず恥をかいてしまったよ。
まあ、タイ料理のことは俺もまだ未熟だって事が改めてわかったけどな。
でも、いい先生に出会えたようだよ。明日からも頑張るからね」
パッタイに豚肉を入れたことを、指摘されたものの、モンディ師に将来の可能性を見込まれた形になった健一は、ウイチャイの意向もあって、徐々に鍋を振るう機会が増えて行った。
逆に、健一がメインで担当する。日本料理の3品のほうは、何人かのタイ人シェフに指導したため、彼らが作る機会も増えて来ていた。食材仕入れの手配など、一応責任者としての健一の担当は続くものの、実質的にその境界線は、曖昧になっていた。
頂いた本を読みながら、時間のあるときには勉強を欠かさない。
基本はタイ料理のレシピ本であったが、非常に細かい記述が所々に見られていて、例えば“モヤシは、1本1本ひげの部分(先の毛のように細い部分)を必ず取りなさい”と言った、注意書きが記載されているのだった。