修行編 第35話 本格修行開始 その7(62)
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その後は、いつものように大塚の助手として店を手伝ったが、「もうこの日が最後」ということを健一の頭の中で意識していたので、時間がたつにつれて感慨深い想いが深まってきた。
閉店一時間前になった頃。ちょうどお客さんが途絶えた時に、大塚は、「大畑君、今日はもういいよ」「えっ?今日は最後なのでもう少し頑張りたいと」大塚の意外な言葉にやや不快な表情をする健一。
「いや、そうじゃないんだ。今日はもうお客さんもこないだろうし、君とも最後だからカウンターに座ってもらって、酒を飲みながら簡単な壮行会をしようかと思ってね」
大塚の言われるまま、カウンターの席に腰掛ける健一。
「酒は飲めるか?」「ええ」「よしビールを奢ろう」と言いながら大塚は健一にビールを注ぐ。
「あっありがとうございます」
健一は、感激の余り声が涙混じりに乱れる。
大塚も自分のグラスにビールを注ぐと、静かに乾杯し、健一も大塚もビールを一気に飲み干すのだった。
「本当は、僕日本料理人の道も途中から覚悟していました。この国の事情もあるし・・・
でも、当初の夢がかなったので今は嬉しくて仕方ありません」
大塚は、目に少し違和感を感じたのか、手でめがねを直しながら、「いや、いいよ気にするな。夢に向かって突き進め。
実は私も君と同じように未だに夢を追い続けているんだよ」
「大塚さんの夢。どんな夢ですか?」
大塚はやや照れながらも、語り始めるのだった。
「私は生まれが名古屋の近くにある清洲と言うところで、小学生の時に滋賀県の安土と言う所に引っ越したんだ」
「それ、何となく織田信長の足跡みたいですね。大塚さんも名前が信長だし」
「そうだ!大畑君。信長だ!!」
その瞬間。健一には、大塚が戦国武将を思わせるような目に強力な輝きを感じ取った。
「私は、そう言う縁を知って、中学生の頃、彼のことを調べているうちに、どんどん彼の事が好きになり尊敬するようになって、自分もチャンスがあればと思うようになった。
実は本名は一信というのだが、思わず勝手に信長と改名したほどだ。
だが、彼は野望達成の途中、本能寺で倒れてしまったが、もしそのことが無ければと、勝手に想像すると、日本統一はもちろんの事、場合によっては海を渡ってアジアにも進出したのかもしれない。
当時のタイはアユタヤ王朝の頃。後に山田長政というのが活躍したりしたが、もしその前に信長であったら・・・」
大塚は語りながら、完全に自分の世界の中にわが身を置いているようだった。
「私も、そんな彼にあやかったわけではないが、この国に関わり、こうして日本料理の店を出した。だがそれなら大都会バンコクでも構わなかった。
しかし、私はこの北の地を選んだ。何故か?
それは、いくら信長が、アユタヤの地まで何らかの形で関わったとしても、その次はマレー半島のマラッカあたりを目指すはず。
少なくともこの北の地ではないはず。ならば私が代わってこのランナータイの地に来ようと思ったんだ」
健一自身も、学生の頃は中国史の研究をしていたほどの歴史好きであったので、大塚の語りを興味深く聞いていた。しかし、大塚の信長に対する強い憧れと、それにも増して異常なまでの妄想には、驚き以上に畏怖の念を感じてしまった。
「大塚さんて、ひょっとして織田信長の生まれ変わり?」との幻想すら抱くほどであった。
「それで、この店の名前が武士王だったわけですね」大塚は大きくうなづく。
「そう。私はいつかこのチェンマイを拠点に日本料理店のチェーン展開をしたいという夢がある。叶うかどうかわからないが、彼が天下を目指したように、私はこの異国の地で天下を取りたい」
健一は、大塚の野望を聞くにつれ、祖国日本を離れ海外で活躍する人達の強力なエネルギーを感じた。「いつか俺もそんなエネルギーを」そう心に誓うのだった。