修行編 第23話 いざ、チェンマイへ その1(50)
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1994年8月、大畑健一は、ノンカーイのムーガタ鍋の店に偶然やってきた中堀幸治に会ってからというものの、中堀のいるチェンマイに行くか、そのまま幸せな日々を送れるノンカーイに留まるか、毎日一人で悩み続けたが、中々結論が出せなかった。
ひそかに、夢で亡き妻千恵子が、今回も何らかのメッセージを出してくれる事を期待していたが、3日経っても4日経っても夢を見る事は無かった。
「やっぱり自分から夢を期待するのは間違っていたようだね」
中堀に会ってから5日目の朝になっても、なんら結論が見いだせなかった。
この日は、10日ぶりの休みの日。
健一は、気晴らしに、以前夢で見たのと同じ景色が見えるメコン川のほとりで、何も考えずに、川を見つめていた。
「うん、あれ?大畑君??」日本語で、健一を呼ぶ声がするので振り向くと、突然シャッター音が鳴り響き、健一にカメラを向けた髪を結んでいる人影が見えた。
「あっ、吉野さん!」吉野一也が、健一の振り向いた瞬間をカメラに収めていたのだった。
「いや、やっぱり大畑君。まさかこんなところで会えるとは!」「僕のほうこそ驚きました。吉野さんは撮影旅行ですか?」
「そうなんです。今回はこの大河メコンを河口から上流に向かって旅を続けているんですよ。
ベトナムのメコンデルタを皮切りに、カンボジア、ラオスと旅を続け、ちょうど今タイのノンカーイにやってきました。
この後は、タイから再びラオスに戻り、ミャンマーと中国に行く予定です。
出来れば源流を見る事が出来ればいいのですが、少なくともいけるところまで行くつもりです」
一通り話をした吉野は、かばんから写真を数枚取り出し、健一に見せるのだった。
「これ?本当に川なんですか??まるで海ですよ!」「そうでしょう。私も最初は驚きました。メコン川の河口付近は本当に海のように広い川幅でしたよ」
メコンデルタの写真を何枚か見て驚くばかりの健一。
「やっぱり羨ましいです。ここはタイ国境の町ノンカーイ。
今まで何人もの旅人に会うことが出来て、僕も元気が出てきました」
「ところで、大畑君はここで何しているの?」今度は吉野のほうが尋ねてきた。
健一は、バンコクに来てから5日前に中堀に会ったところまでの経緯を話した。
吉野は、途中から顔が引きつった表情をしながら話しを聞き終わると、
「いやあ、いろいろ大変でしたね。あなたのほうがすごいですよ。
私は単なる旅。でもあなたのやっている事は、人生そのものを旅しているようで」
「ええ?そうですか。人生を旅している!」
健一は、やや照れながら、思わず左の小指を耳の穴に突っ込んだ。
「うん、私が言うのもなんですけど、旅での出会いは大切にしたほうがいいですよ。
そうすれば、次の道が開けるような気がします。
私も旅先で、いろいろな事がありますが、その時は戸惑う事、つらい事があっても、後から考えれば、全て良き思い出です。
こうして、写真を一枚一枚改めて眺めると、『私のその瞬間の記憶が凝縮されているんだ』と感じるんですよ」
そういいながら、メコン川をいろいろな角度から一枚一枚撮影をし続ける吉野。
「では、私はそろそろ次の所に移動しようと思います。
あっ大畑君!ちょっとここに立ってください」
健一が、吉野の言われるままに立つと、シャッター音が鳴り響く。
「日本に戻る前に最後にバンコクの源さんの所に立ち寄ろうと思っています。今の写真は源さんに預けておきますので、バンコクに戻った時には取りに行ってください。では、またどこかでお会いしましょう」
そう言うと、吉野はその場を立ち去るのだった。
「人生の旅かあ。考えて見ればこのメコン川の水も、ゆっくりと旅をしているようなもの。
俺もやっぱりここで留まっている場合じゃないんだ。行こう!中堀部長の待つチェンマイに!」