修行編 第2話 再び目指す道 その2(29)
健一が新しく働き始めるトンブリーレストランはオープンしたものの、当初はタイ人の見習い料理人と意思疎通がうまくいかなかったが、健一の苦労の甲斐もあって徐々に改善していくのだった。
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1週間後、店がオープンした。その3日前にタイ人の料理見習いが到着。
健一が指導する事になっていたが、「例えば黒人の職人さんの下で、日本人の料理見習いがついてくるのだろうか?」と、健一の悩みの種は尽きなかった。
営業は、夜7時からなので、5時前に店に入り仕込み作業。
営業終了は深夜3時で、後片付けを行うと4時を過ぎるので、そのまま待機し、始発の電車で帰るのだった。
オープン当初、早い時間はお客さんの数は少なかったものの、深夜になると必然と忙しくなってきた。
しかし、それらのお客さんは料理を食べるより、店に置いてあるタイのカラオケで歌を歌いながら酒を飲む人のほうが多く、その他には、ウドムの経営するタイ古式マッサージのタイ人女性が仕事の合間にごはんを食べにくるくらいだった。
タイ人の見習いとは、最初予想通り激突した。彼ら曰く、「コンナリョウリ、ミタコトガナイ」「コノチョウミリョウハ、ツカワナイ」など。
彼らは、健一が滞在して学んだ首都バンコクでなく、地方出身者なので、料理が多少なり異なっていた。
ある程度は仕方がないと思うものの、健一もこれまで自分のやり方を確立していたこともあったので、どうしても従わせようとした。
その事が災いしたのか、なかなかうまくコミュニケーションが取れず、しばらく悩んだ。
しかし、健一は冷静に考えてみると、かつて曼谷食堂という自分の店を経営していたとき、まずお客さんが少なかったことで、無意識に日本人向けの味に妥協していたようだった。
その傾向が、実際にトンブリーレストランの料理にも表れてしまい、日本人のお客さんはともかく、料理を食べたタイ人のお客様の反応が余り良くなかった。「自国の物とは違う」=「国が違うから仕方ない」と半ば諦めようにも感じるしぐさをすることすらもあった。
もちろん調達できる食材・調味料には限りがあるにせよ、健一からすれば、少しでも現地の味に近づけたいという考えは常に持っていた。しかし、作っているうちに何かが足りないような気もしてきた。
何日か悩み続けた末、健一が出した結論は、自分の今までのプライドを捨て、タイの見習いに相談する方法を取ることであった。
これは見事に成功した。
今まで距離感があった2人と少しずつコミュニケーションが取れるようになってきた。
彼らは自分たちの祖国タイの食べ物に関しては自国民のプライドとして決して引き下がらないので、健一のほうから教えてもらう低姿勢を見せると喜んで説明をしてくれた。
しかし、ここに来るまで彼らは包丁すらも持ったことがなかったらしく、料理の技術的な面については、健一のことを尊敬していた。
また、休憩の時などに、健一はタイ文字を2人から学んだ。真剣に話を聞き、メモを取る健一の態度も相手に伝わったのか、徐々に彼らも健一のことを尊敬するようになって来たのだった。
健一にとっても、タイ文字を理解する絶好のチャンスであった。
おかげで、このトンブリーレストランにいる間に、タイ文字もほぼ理解する事ができるのだった。
こうして、徐々に厨房内は対立から信頼関係が築かれるように成って来るのだった。
そのことが影響してきたのか、料理の味が自然と向上。
今まで反応が悪かったタイ人たちも、「本場に近くなってきた」とばかりに表情も明るくなり、深夜にはいろいろなところからタイ人たちが店に来るようになった。
それを見た和夫も「大畑君はさすがだなあ。ウドムの連れて来た見習いもしっかり料理を学んでくれているようだ」と、嬉しそうであった。
健一は、「ようやく店の動きが順調に滑り出した」と、ほっと胸をなでおろしたが、
やがて別の問題が表面化してくるのだった。
それは和夫の息子和伸の存在であった。