Mermaid Voice
Mermaid Voice
──私達は相手を声から忘れていくのよ。だから忘れたくない相手がいれば声を覚えておきなさい。
それが、『声を奪う魔女』と恐れられた人魚を育てた母の教えだった。
陽の光が薄らと届く海の底。魔女は独り静かに暮らしていた。
娯楽なんてものは存在しない。ただ揺蕩う海藻や横切る深海魚を眺めるくらいしかすることがなく、時折集めた『声』を鳴らしては溜息を吐く毎日だった。
随分長い間生きた。時間の概念すら曖昧になった頃、魔女のもとへ一人の人魚が訪れた。
確か彼女は末の人魚姫だっただろうか。朧気な記憶を頼りに話を聞くと、どうやら想い人と添い遂げるために人間になりたいとのこと。
尾びれではなく脚が欲しい。それくらいならば容易いが。
魔女はある提案をした。脚が欲しければ代償として『声』を貰うよ、と。
人魚が人間になってもいずれ苦しむだけだ。それを知っていた魔女は諦めさせるために無理難題を提案した。
こんな条件を飲むのは余程の馬鹿か、もしくは想いの強い者だけ。
はたして人魚姫はどちらだったのだろう。声を失った彼女を眺めながら、やがて魔女は関心を失った。
それからまた幾月かが経ち、新しい来客が現れた。
尋ねてきたのは以前訪れた人魚姫の姉達。彼女達は人間を人魚に戻す方法を求めてきた。
因果をねじ曲げた事象を再度改変する。一度塗り替えられた運命を元に戻すには、魔女と言えど相応の対価が必要になる。
今回であれば、対価は末の人魚姫の想い人。
魔女はナイフを取り出した。これで想い人の命を奪えば人魚に戻れる。
ただし、今晩のうちに出来なければ末の人魚姫自身がもがき苦しんだ末、死んでしまう。
これらを説明し、ナイフを渡すと魔女は静かに目を閉じた。
やがて日が昇る。一筋の光が差したその先に、魔女は見た。
息の出来ない海の中、それはまるで我が家に帰るよう、心地良さそうに死にゆく人間を。
そうかい。魔女は光の先の光景に目を細め、やがて一つの魔法をかけた。
それは想いと共に安らかに逝ける魔法。良いものを見せてもらったお礼だ。魔女は目を細めた。
泡となり消えゆく彼女は幸せそうで、だけど儚くて。ふとした瞬間には忘れてしまいそうなくらい、美しかった。
やがて泡は水面に届く。魔女は『声』を取り出し、優しく鳴らす。
──私を人間にしてくれてありがとう。
忘れそうになったらまた『声』を鳴らそう。何年、何十年、何百年経とうと、それだけは忘れないでおこう。
私が覚えている限り、彼女はここに居たのだと証明出来るのだから。