3︰唾液
「単刀直入に言う。君の唾液が欲しい」
「――ングっっ?!??!
ごフッ、ゴホゴホッ」
「おやおやまぁまぁ。これはこれは…」
場は魔王城のある一室、食堂である。
高い天井には芸術的な紋様が描かれ、床は真っ赤な絨毯で敷き詰められ実に快適そうだ。
長い机には白いクロスが敷かれ、その上に見るだけで涎が零れそうな程素晴らしい料理が並んでいた。
これでもかと言うほど広い食堂だが、朝とはいえ少し遅めの時間帯。中にいるのは3人だけだった。
「昨夜は素晴らしい経験をした。
興奮しすぎてなかなか寝付けなかったよ」
「成程流石銀狼ですね。初日から随分とお盛んなようで」
「誤解、凄まじく誤解だよルーカス宰相…」
レオが苦笑いしながらそう話すのは、魔王の補佐役であるルーカスである。
金髪碧眼で柔らかな物腰の、まるで天使の様な彼はインキュバスの一族であり、人心掌握が得意な魔国きっての敏腕宰相だった。
「ですが先程から唾液が欲しいと随分ド直球な催促をされていますよ」
「いや、ソレそのまま文字通りの意味だよ…」
朝からげんなりとした様子で食事を摂るレオ。
そんな彼を済ました顔で相手しているルーカスだが、口元が少し緩んでいる。元がからかい好きの為、楽しくて仕方がないのだ。
「唾液が駄目ならそのフォークをくれないか?もしくはグラス。
レオが口をつけたものなら何でもいいのだが」
「随分と執心されているご様子ですね」
「だからルーカス宰相はどうしてその方向に持っていきたがるの…」
まともな人間…もとい人型生物が自分しかこの場にいない事に、レオは嘆く。
朝食時に突如エリノアが乱入してきたかと思えば、そこからずっとこの調子なのだ。
口裏でも合わせたのかと言いたいくらい、王女と宰相は2人してレオの心を疲弊させていた。
「分かった!何か欲しいものでも言ってみろ。ほら」
「仮にあったとしても言わないし、貰ったとしても唾液はあげないよ?」
「な、何故だ…!」
「逆に君はどうしてそれでいけると思ったのかな」
うんうんと考え込む姿だけ見ていれば微笑ましいのに、とレオは内心呟く。
幾ら夜目が効くとはいえ、昨夜は暗かったせいか気づけなかった彼女の美貌が、日の下でこれでもかと輝いていた。
エリノアは相変わらずのシフトドレス姿だったが、明るいと体の輪郭が透けて見える分余計に危ないのだとこの日レオは学習した。
「…仕方ない、一先ず保留にしておこう」
「あ、うん。またね、エリノアちゃん」
「あぁ、また」
パタパタと食堂を出ていく彼女の白い姿が見えなくなると、レオは大きく息を吐き出した。
「『またね』ですか。
案外あなたも満更でもないということですか?
それにしては溜息など吐いて、お疲れのご様子ですね」
「いや君の影響もあるからね…?」
暗にからかわれたことを非難するも、涼しい顔でスルーする宰相。
予想通りの反応に微笑むと、レオはそう言えば、と思い返す。
「宰相ともあろう君が、彼女が歩き回ってる事に言及しないとは思わなかったな」
「まぁ、サディアスから大体の人格は聞いてありますから」
「あっはは…。そうか、サディアス将軍は彼女の監視役だっけ」
「はい。彼ならいざと言う時間違いは有りませんし」
サディアスの真面目さを想像し、確かにそうだと笑うレオ。
どのようにエリノアの性格を説明したのかは気になる所だが、止めたところで止まらないという事が伝わる程度にはサディアスは上手く説明したらしい。
フォークに刺しっぱなしだった最後の一口を口に押し込むと、彼は椅子から立ち上がった。
「おや、もう何処かへお出掛けですか?」
「うん、城にいるとあのお姫様がやってきそうだからね…」
「成程。厄介な状況に陥った場合は俺も手を貸しますよ。
もっとも、レオの事ですから1人で何とかしそうでもありますが」
「あはは。ルーカス宰相に借りを作るのは流石に後が怖いからね」
遠慮しておくよ、と手を振ると、彼も食堂を後にした。
残されたルーカスは暫くレオの消えていった扉を見つめていたが、ふと視線を外すと軽く笑った。
「本当に唾液しか見ていませんでしたね、彼女。
ですがまぁ、使いようによっては、あるいは………」
♢
時刻は夜。
悪事を働くのにちょうどいい時間帯だ。
昨夜の件でもまだ懲りずに、エリノアはこの日も行動していた。
「…………錠が無いとは不用心だな」
すっと扉を推し開けると、彼女は静かな寝息を立てる人物の枕元に立った。
息を潜め、しっかりとその人物が眠りに落ちていることを確認する。
片手に持った布を握りしめると、彼女は口を開かせるためにその人物の顎を掴んだ。
「っ!!!!」
「うおっ」
寝ているとは言えやはり狼、触れられた途端レオは飛び上がってその腕を掴んだ。
掛けていたブランケットがふわりと床に落ちる。
エリノアは、初めて見る剣呑な眼差しに息を詰めた。が、すぐに掴まれていた腕は開放される。
頭が覚醒してきたことで、侵入者がエリノアだと気付いたようだ。
彼女もそっと息を吐き出した。
レオは今夜も彼女がシフトドレス姿なことが分かると、ついと顔を背けてボソリと呟く。
「……こんな夜中に男の部屋に来るとか、ホントに君は…」
「レオが唾液をくれないのが悪いだろう。素直に渡していればこんな強硬手段は取らなかったぞ」
「…」
もはや何も言う気力が起きないのだろう、呆れたように彼女を見つめた。それからチラリと窓の外を一瞥し、彼はベッドから降りた。
「兎に角、今日はもう帰ってくれるかな。僕も眠いし」
「いや、だが、唾液が」
「君、本当ブレないね…。今日はダメなんだって」
「レオはいつだってダメだと言うじゃないか」
「ちが、……。
あー…、いいから、ほら。またサディアス将軍に怒られるよ?」
苦笑いしながら帰るよう促すレオだったが、エリノアは渋り続ける。
ブツブツと、「だって唾液…」と呟いている。
「…。なんだってそんなに唾液の提供が嫌なのだ。
少しくらいいいだろう!ケチんぼめ!」
「普通に恥ずかしいからだよ」
「そ、そんな事で私は今日一日避けられていたのか?!」
衝撃を受けた顔で震えるエリノアを見てレオはほんの少し罪悪感を覚える。彼女に絡まれないよう昼間は外出していたのだ。会えるはずもない。
しかしどう考えてもこうなったのは彼女の自業自得である。
「くそ、こうなったら…!えい!」
「?!」
突如エリノアはレオの胸ぐらに掴みかって引っ張った。
ぐい、と引き寄せられたことで2人の顔が近づく。
「な?!」
「そりゃっ!」
驚いて開いたレオの口をめがけてエリノアが布を突き出すが、彼女から距離を取ろうとしていた彼はタイミングよくそれを避けることとなった。身長が足りず、突き出された腕は空を切る。
しかしエリノアは諦めていないらしい。
なおも彼にしがみついたまま、必死にその布を噛ませようと試みる。
「くそ、届け、これを噛むんだ、いい子だから!!!!」
「エリノアちゃん?!ちょ、ほんとに今日はマズイから…!」
「何故そんなに背が高いんだお前は!!!!全く届かないじゃないか!!」
「そんな事言われても男と女だから仕方ないよね?!ついでに言うけど普通に胸当たってるよ?!」
必死になって仕掛けるエリノアと違い、レオの動きは何処か躊躇していてぎこちないものだ。
ウェアウルフなのだから当然簡単に彼女を抑えることもできるのだが、中々本気を出そうとしない。
そのことに気づいたエリノアは今が好機と捉え、ニヤリと笑った。
「ふっふっふ、なにを迷っているかは知らないが、もらっ、ひゃ?!?!」
「ちょ?!」
勇んでさらに踏み込もうとしたものの、床に落ちていたブランケットを思い切り踏んだ彼女はレオ諸共床に倒れ込んだ。
先程までの喧騒が嘘のように部屋は静寂で満たされる。
(…む。やわら、かい?)
唇が何か柔らかくて暖かなものに触れていると感知したエリノアは、知らずのうちに閉じていた瞼を開けると上体を起こした。
視界には、口も目もぽかんと開けてエリノアを凝視するレオが映る。
次第に赤みを帯びて行くその顔を見て、どうやら自分は彼の何処かに口付けをしてしまったらしいと彼女は悟った。
なんと話しかけたものかとしばし逡巡する。
だが、思考放棄をしたがる彼女の脳みそは目の前の銀色を見て、この男とはどうも押し倒す事に縁があるなと考え始めていた。
そしてそのまま何が起きることも無く時間が流れていく。
流石に沈黙に耐えかねた彼女がじっとレオの顔を覗き込んだ。
「…大丈夫か?」
「あー、うん…」
「本当にか?顔の赤みが中々引かないが…。
あぁ、今日はダメだと言っていたのはもしかして風邪でも引いていたのか」
実際には彼の顔が赤い原因は、倒れ込んだ際に香った甘い香りと頬に触れた彼女の唇の感触を反芻してしまっている事だ。加えて現在も進行形で触れ続けている、女性特有の身体の柔らかさによる。
但しそんな事にエリノアが思い至る筈もなく、熱の心配をしだした彼女はコツりと彼の額に自らの額を合わせた。
「っ、」
「うーん、ウェアウルフの平熱が分からないからなんとも言えないな…」
熱を測ることを諦めた彼女は、脈の速さを調べようと彼の胸に耳を当てた。
その折に、彼女の胸が思い切りレオの上半身に押し付けられた。
思わずレオは喉を鳴らしてしまう。
幸いにも心音に集中しているエリノアは気づいていなかったが、妙に激しい脈拍に首を傾げていた。
「なぁ、明らかに脈が早いのだが、だいじょ……っ?!」
顔を上げた途端、エリノアは自身の体が浮くのを感じた。
レオが彼女を横抱きにして持ち上げたのだ。
言葉を発する間も無く、そのままベッドの上にぼすりと降ろされる。
「一体なんだと――んむっ」
怪訝な眼差しで問い質そうとする唇を、レオは何も言わずに塞いだ。
エリノアは驚愕のあまり硬直し、瞳をまん丸にして目の前の端正な顔立ちを凝視していた。
伏せられていた睫毛がフルリと震えると、レオの紫色の瞳が彼女の姿を写す。
その中にギラりと光るものを感じとった彼女は一気に嫌な予感に囚われ始めた。
こういう場合は撤退に限る、と身動ぎした途端、そうはさせまいとレオが体重をかけてのしかかった。
さらに触れるだけだった唇を割るように舌が侵入してくる。
「んーーー!?んーーー!!!」
流石に慌てた彼女が必死に首を横に振るが、即座に頭を固定されてなされるがままになる。
「……は、君が、悪いんだ。あんなにダメだって言ったのに」
侵入してきた舌は、まるで一つの生き物のように彼女の口内を荒らし始めた。
ただでさえ初めてのキスであった彼女は目を回して最早抵抗の意志など無くしていた。
レオが口を離す度に餌を求める金魚のように必死に息継ぎしては、再び貪られる事を数回繰り返す。
酸素不足で頭がぼんやりとし始めたエリノアの耳に、窓の外から微かに魔物の遠吠えが届いた気がした。
「――、っ?!」
突如ハッとしたように身体を起こしたレオは、自分の下にいるエリノアを見ると気まずそうに視線を逸らした。
掴んでいた手首を離し、彼女を起き上がらせてやる。
「………。…あ…ごめん、僕…」
「…あぁ、いや」
煮え切らない返事をするエリノアの声は少し掠れており、息を切らしてぼうっとしている。
それを見たレオは先程までの熱が嘘のように顔を青くしていた。
なんとも言えない空気感が二人の間に流れてしまう。
すると突然レオが立ち上がり、扉の方に向かっていった。
ドアノブに手をかけると、その空気を払拭するかのように明るくエリノアに声をかける。
「ごめんね、少し頭を冷やしてくるよ。
君はこの後自分の部屋に戻ってもいいし、ここで寝てもいいよ。
どちらにせよ僕は今夜はずっと外に――」
「レオ」
「…なに?エリノアちゃん」
明らかに無理をしたような笑顔で、早口に話すレオを見ていられなかったエリノアは、心配そうな顔で彼を見つめた。
責められるでもなく、質問されるでもなく、ただただ見つめられる事に耐えられなかった彼は、とうとう困ったように笑うとドアノブから手を離した。
「…済まなかった。レオがダメだと言っていたのに無視してしまって」
「いや、僕の方こそ悪かった。
ごめんね。ちゃんと説明してればよかったんだ」
その言葉にパッとエリノアが顔を上げると、自嘲の笑みを浮かべてレオが立っていた。
「説明、とは、どういう事だ」
眉を顰めるエリノアを見ると、レオは2、3歩歩みを進めて止まった。
一瞬だけ視線を彷徨わせると、もう一度彼女を見た。
「…今日、満月に近いでしょ?僕らウェアウルフが夜になると力を増すのは知ってるよね」
「あぁ。一般市民でも知っている話だな」
真剣な雰囲気を察したのか、エリノアは腕を組んでその続きを促した。
すぅ、と息を吸った後、ニコリと笑ってレオは言う。
「実はそれには続きがあってね。僕らは満月に近づくほど力が増すんだ。
君も御伽噺なんかで聞いたことがあるはずだよ、人喰い狼の話を」
アシュヴィではどんな子供も親から聞かされた事があるだろう。
ある村に住む、幸せな家庭に育った少年が、満月の夜に変身する父親の姿を見てしまう。そして我を失ったように、父親は自らの妻を手にかけてしまうのだ。
「実はそれは本当に起こった事件なんだ。
ウェアウルフの中でも特に魔力の強い者は、ライカンスロープと呼ばれる。
彼らは決まって満月の夜になると、その大きすぎる魔力を抑えきれずに暴走してしまうんだよ」
「………」
何も言わずに真っ直ぐとレオを見つめるエリノアに、ふふっとレオは気の抜けたように笑った。
「うん、君ならもう分かるかな。
僕はそのライカンスロープなんだ。
だから、満月に近い今日は理性がゆらげば暴走することもおかしくない。なのに…」
その先が音になることは無かったが、エリノアには理解出来てしまった。
しばらく沈黙が続いて、2人は視線を合わせることも無く虚空を見つめ続ける。
「…まぁ、そういうわけだから今度からは――」
「満月の日はどうしているんだ」
「え?」
意表をつかれたように口をポカンと開けたレオの前には、変わらず真剣な顔持ちのエリノアが立っている。
「満月の夜は暴走する。それは理解した。
なら、その日はどう対処しているんだと聞いたんだ」
「どうって…。サディアス将軍とか宰相に頼んで鎮めてもらってるかな」
「原因が魔力の量だというなら、それを抑えればいい話なのにか?」
「……それが出来れば苦労してないよ。魔力が増えるのが徐々にならまだしも、一気に増えるからね。
目を覚ます時はいつもボロボロの状態で、鎖にぐるぐる巻きにされて床に転がってるよ」
それがどうかしたの?と視線だけで彼はエリノアに問う。
だが、エリノアは少し俯き気味に一点を見つめて考え込んでいる様子だ。
「――レオ」
「うん?」
「明日の昼頃――そうだな、昼食の後にでも私の部屋に来るといい」
「え…」
疑問符を浮かべてどういう意味だと目線を送るレオに、すっかりいつもの調子を取り戻したエリノアはニヤリと笑いかけた。
「まぁ、来ればわかるさ」
「え…正直、怖いんだけど」
「いいから。じゃ、約束な。おやすみ」
それだけ言うと、あれほど言っても帰らなかった彼女はすんなりと部屋から出ていった。
何処と無く腑に落ちない感情を抱えたまま、レオは扉を見つめていた。
ウェアウルフとかライカンスロープのあたりは、完全に作者の創作設定です。
読んでくれてる方がいるかは分かりませんが、一応補足でした。
読んでくれてるよという方、居るんでしょうか…。居たらいいな…!
いるならこの場を借りて感謝を、ありがとうございます。
とか書いていたら、3話を投稿し終わった時に初めてブクマが3件あることに気がつきました…!!
評価してくれた方々もありがとうございます!
とても嬉しいです( *´꒳`*)