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私が恋をしない言い訳

私が恋をしない言い訳

作者: 青石めい


 初めて彼氏が出来たのは高校2年生の夏。


 クラス委員で話すことが増えて、そのまま付き合い始める、というよくあるパターン。お互いに特別大好きっ!という訳でもなかったけど人並みに、それどころか普通よりもほんの少し早く、恋愛のスタートを切れたのがその当時は嬉しかった。


 でもその彼とは、浅い関係が災いして半年も続かなかった。


 次に彼氏が出来たのは、社会人になってから。新入社員として入った会社の、これまた先輩後輩という珍しくもなんともない組み合わせ。でも前回と違って仕事が出来て、社内でも目立つ存在だった大人な彼に私はかなり舞い上がっていた。付き合って1年も経たない内に彼との結婚を本気で意識して、彼には内緒で料理教室に通ったりもした。私達の付き合いは社内でも半ば公認の仲になっていて、幸せな将来を疑わなかった。


 私が26歳の誕生日を迎える直前に、彼が元彼女と出来ちゃった結婚をしていたことが判明するまでは。


 私達が付き合っていることを知っていた人事担当の女性社員が、彼から上がって来た姻戚関係変更の書類を見て私とは違う名前があることに気付き、連絡をくれたのだ。


 青天の霹靂とはこういうことを言うのだと、その時思い知った。彼に問い質すと、彼女と籍を入れたのはそれが発覚した2か月も前で、私と付き合っていたほぼ同じ期間、その彼女とも続いていたとのことだった。彼女は勤めていた会社とは全然関係のない人だったから、彼は堂々と私と彼女とで二股をしていたのだ。いくら交友関係が重なっていなかったからと言って、1年以上も気づかない私も私だったけれど。


 その彼は会社に結婚を公表してから、別部署に異動になった。残された私に周囲は同情的だったけれど、図らずも不倫関係になっていたこと、信頼していた彼氏に長く裏切られていたことは私の精神をひどく不安定にさせ、腫物を扱うような同僚達の目線にも耐えきれず結局、私はその会社をすぐに退職した。


 それから早、8年。


 34歳になった私は、今も一人。


 その間に全く出会いが無かったわけでもない。新しい職場の上司、同窓会で再会した大学の元サークル仲間、友達の紹介、エトセトラ……。


 でも手痛い前の恋の後遺症は、自分が思っていたよりも深刻に私を蝕み続けていて、あの人は恋人がいるから、会社の人だから、友達の元カレだから、と私は好きにならない理由ばかり増やしていった。


 私は恋をすることに憶病になっていた。


 転職した先の会社で真面目に働いて、家に帰って一人分の家事をして、本を読むか映画を見るかして一日を終える。


 毎日淡々と同じルーティーンを繰り返していくうちに、いつからか変わらないことが幸せだと思うようになった。


 そしてまた時間が経ち、20代から30代に変わるにつれ出会いそのものが私から遠ざかって行った。親も含め、友達も含め、「まぁ、今の時代お一人様もいいよね」と私に恋愛や結婚の話題を振って来る人も居なくなった。


 そんなぬるま湯のような生活の中で、私は一人でいることに慣れ切ってしまった。


 かつて、私が胸を焦がすほど誰かを好きになっていたことも、恋人との別れに呼吸さえ苦しくなるほど大泣きしたことも、今ではその感覚の片鱗さえ思い出せなくなっている。


 オリンピックよりも間隔のあいた、私の恋愛事情。


 


 ―――もうこの先、私がまた誰かに恋をすることは、きっとない。





 26歳で転職したこの会社は、主に建築資材を建設会社に卸す中規模の地方商社で社員数も300人ほどとこじんまりしていて、アットホームな雰囲気が居心地が良い。


 私の勤める支社は他県の支社に比べてそこそこ大きく、自社ビルを県内の繁華街近くに構えており、3階建てのその古いビルに、営業課と経理、庶務、倉庫管理課、がそれぞれ入っている。


 営業第一課の営業事務をしている私はこの日、年末年始と決算時以外にごく稀に不定期に開催される会社の飲み会に参加していた。


 「白石さん、飲んでる?君結構、お酒強かったよね」

 「はい、十分頂いています」


 既にビールで顔が赤くなっている課長に、私は苦笑いをしながら答えた。


 梅酒ロックのグラスを課長に見えるように持ち上げて、その中身がまだ半分以上入っていることをアピールする。


 近年、中小企業とはいえ我が社もコンプライアンスに厳しくなっているので、無理にグラスを空けるように煽ったり、次の注文をさせるようなことはご法度だ。しかし社員同士のコミュニケーションとの境界線をはっきり引くことは難しい。


 お酒の席が好きな課長は、良くこうやって社員のグラスの空き状況を確認しては遠回しにもっと飲むように勧めるのだ。


 まぁ、お酒が入っていても陽気な課長は社員に慕われている良い上司なのだけど。私がこの会社に入ったばかりの課長は当時まだ独身で、今よりもお腹周りと下顎が引き締まっていて、業務時間中的確に指示を出す姿が傍目にもそれはそれは格好良かったのだけれど、結婚されてお子様が生まれてからは良い意味で見た目も雰囲気も丸くなって行かれている。


 ……年々中年に向かって行っているのは私も人のこと言えないけれどね。


 心の中で独り言ちて、私は梅酒ロックを傾ける。


 「白石さん、ずっと梅酒で大丈夫ですか?ウーロン茶頼みます?」


 そう私に声を掛けてくれたのは、営業第一課の若手有望株、廣澤ひろさわ 哲也てつやだった。社会人3年目25歳になったばかりの彼は、大学時代もサークルの部長を務めていただけに若いのにとても気の利く爽やかな青年である。

 

 「ありがとう、廣澤さん。まだ大丈夫です」


 私はテーブルの端の席で、課員の注文を率先して取ってくれる幹事の彼にお礼を言って、まだ残っている水のグラスを指さした。


 私の勤めている会社では、慣習として男性社員であっても『君』付けはしないし、上司が部下を呼ぶ時も『さん』付けで呼ぶことが暗黙のルールになっている。


 「廣澤さん、私はウーロン茶お願いしてもいいですかー?」 


 私の横に座っていた課の中でも一際若い、今年新入社員として入って来たばかりの女の子、畑山はたやま 真美まみが両手を合わせて可愛く首を傾げた。


 いつもカーディガンにフレアススカートと、ゆるふわのOLファッションに身を包む彼女は、当然うちの支社の花的存在に収まっている。


 畑山さんにも廣澤さんは「はいはーい」と気さくに請け負って、他にも注文したいものがあるか他の課員に聞いて回っていた。


 気付けば新卒で勤めた会社の倍近い時間をここで過ごしているけれど、和気あいあいとして温かく社員同士が気配りし合っているこの会社が、私は気に入っていた。


 ―――3時間の飲み放題の時間も終わり、デザートも食べ終えたところで一次会はお開きになった。

 

 飲みにケーションのマナーに厳しくなっている近年は、二次会は行きたい人間だけで内々にやる、というのも社内の暗黙のルールだ。


 そう言った理由で、私や同じ営業事務の畑山さんはいつも一次会で「お先に失礼します」となる。


 「畑山さん、たしか、最近一人暮らしを始めたんだったよね?帰り道、大丈夫?最寄り駅どこ?」

 「三城です。駅から家はすぐなんですけど、最近電車内で酔っぱらいと痴漢が多いって聞くんで、ちょっと心配なんですよね」


 居酒屋の前で課長に声かけられた畑山さんが、後ろ手に持ったかばんを揺らしながら頷いた。


 「福山線かー」

 「あ、俺も福山線なんで、一緒に電車に乗りますよ」

 「お、今日は廣澤さんは二次会来ないのかー残念」

 「すみません、課長の自慢のビーズが聞けなくて。明日朝一で羽山コーポレーションに行かないといけないので」

 「ああ、そうか明日休日出勤の申請出していたよな。先方の都合とはいえ、大変だね」

 「いえ、ちゃんと後日振替休日も頂くんで」


 私は「お先に失礼します」を言うタイミングを失って、少し離れた位置で彼らの会話する様子を何とはなしに遠巻きに見ていた。


 もう10時も回っているし、早く帰ってメイクを落としてお風呂にじっくり浸かりたいんだけどな……。


 そんな風に、会話が途切れるタイミングを見計らっていた私に、突然課長が「白石さん」と声を掛けた。


 「白石さん、たしか君も福山線利用しているよね?廣澤さんが送り狼にならないように、白石さんも畑山さんと一緒に帰ってあげてくれる?」


 課長の言葉に、その場が一瞬しん、と静まり返った。


 課長に悪気は全くない、ただもうすぐ40歳に手が届く課長は、少々空気が読めない人でもあった。


 「か、課長、廣澤さんにそれは失礼ですよ。廣澤さんは我が営業課の誠実爽やかなホープじゃないですか」


 その場の空気を和ますように私はわざと声をワントーン上げた。


 「そうですよ、酷いですよ課長。俺、こんなに清く正しく生きているのに」

 「やだー課長、私に彼氏がいること廣澤さんも知ってるんですからー」


 私の声に続いて、若手二人も上司の昭和ジョークに苦笑いで突っ込みを入れた。


 自分の失言には真面目に気付いていない課長は、「あはは、そうだなー」と笑いながら、先にカラオケ店に向かっている別の社員らに合流しようと歩き出した。「お疲れさん」と頭をぽりぽり掻いて歩き去って行く上司の姿が見えなくなって、後に残された私達3人は最寄り駅に向かった。


 駅までの道を三人で適当な会話をしながら歩いている間、突然廣澤さんがぽつりと言った。


 「……さっきの課長の言葉、白石さんには俺が送り狼にならないとでも思ってるんですかね?」

 「はい?」

 「え?」


 私と畑山さんの声が重なった。


 廣澤さんの言葉の意味が分からず、私達は同時に頭に疑問符を浮かべた。


 「いや、だってさっきの課長の言葉って、畑山さんだけ身の危険があるみたいな言い方だったじゃないですか。何もあんな言い方しなくても、白石さんも女性一人で帰ったら危ないから皆で一緒に帰りなさい、とかでいいじゃないですか」

 「そ、そうですよねー……」


 返答に困った畑山さんがとりあえずの相槌を打つ一方で、私はびっくりしてしまって言葉を失っていた。


 女性扱いされるなんて、いつぶりだろう、と記憶を探ってみる。


 30歳を越えてから、こういう類の心配をされることはめっきり減っていた。まるで痴漢も酔っぱらいも、おばさんにわざわざちょっかいをかけないだろう、という無意識の偏見がコンプライアンスにうるさいこの会社でも当たり前のようにあったのだ。それとは別の問題として、生返事を返したまだ20代前半の畑山さんはコンプライアンス云々というよりも、感覚の問題として30をとうに越えている私は、既に恋愛適齢期からも外れているという認識なのだろう、廣澤さんが突然に投げかけた疑問に、ピンと来ていないようだ。

 

 そして私自身も、その空気にいつの間にか慣れてしまっていて、誰かに心配されたりすることはもう自分には無縁のことのように思っていた。


 「ま、まぁまぁ、課長はちょっとジョークが古いだけで、ちゃんと私のことも心配してくれてると思うよ。気を付けて帰りなさいって、いつも退社時には言ってくれるしね。それより、廣澤さんを送り狼呼ばわりするのもどうかなーって思ったよ」

 「それなんですよ。嫌がる女性に無理やり関係を迫るような最低な男みたいに冗談でも扱われて、俺さっきからそれがショックで」


 私がまたもや変な空気になった場ををフォローするように言うと、廣澤さんもそれに乗ったのか大げさに嘆いて見せた。それを見ていた畑山さんがホッとしたように、大きく笑い声を上げた。


 居酒屋から一番近くの駅から3駅で降りた畑山さんと別れてから、廣澤さんと電車で二人になった私は、彼から少しの間隔をあけて電車のシートに隣り合って座っていた。


 電車内は終電より少し前の時間だからか、週末にも拘わらず思いの外乗客は少なく、それぞれのシートにぽつぽつと座っている人と、入り口近くに立ったままの会社員風の人が数人いるだけだった。


 「白石さん、最寄り駅はどこですか?」

 「大浜だけど?」

 「じゃあ、俺の一つ前の駅ですね。北口よりですか?南口よりですか?」

 「?北口から15分の距離だけど」

 「15分?結構遠いですね」

 「スーパーには近くて、結構便利なのよ」

 

 そんな他愛もない会話をしている内に、電車内のアナウンスが次の停車駅が私の降りる大浜駅だと告げた。


 電車のスピードが緩やかになり、もうすぐ停まるのだな、と察知して私は立ち上がる。


 「じゃあ廣澤さん、月曜日にね、お疲れ様です」


 私がシートの手すりに手を掛けて、挨拶をすると、廣澤青年はすっくと立ちあがった。


 「待って下さい、俺も降ります」

 

 そう言って彼も手すりに手を掛けた。私よりも15センチは背が高い彼の腕が、手すりと電車のドアで私を挟むように伸ばされ、その距離感に一瞬どきっとした。


 「ええ?廣澤さん降りる駅次って言ってたでしょ?」

 「北口からなら俺の家まで30分もかからないですから、家の近くまで送ります」

 

 彼の発言に目を丸くしている私をよそに、停車して機械音と共に開いた自動ドアからさっさとホームに降りた彼は、にっこりと笑った。


 「ほら、白石さん、降りないと」


 そう言って私の肘を掴んで引っ張った彼にそのままつられて私もホームに降りる。


 え?どういうこと?


 軽く混乱している私の顔を廣澤さんは覗き込んだ。


 「ほら、白石さん、行きましょう」

 「え、え、どういうこと?なんで廣澤さん一緒に降りたの?」

 「いや、だから送りますって」

 「なんで?」

 

 訳が分からず私は上ずった声のまま問いを繰り返す。わざわざ送ってもらう理由が無い。まさか、廣澤さん、30代女の方が声かけやすいとか思ってないわよね?


 「だって、街灯も少ないのに、女の人一人でこんな時間に15分も歩くって危ないですよ。あ、もしかして白石さん、マジで俺が送り狼になるかもって心配してます?」

 

 私になんでと繰り返されて、困ったように廣澤さんは頬をポリポリと掻いた。


 彼の指摘に、実際ほんの少し彼の下心を疑ってしまっていた私は、その自意識過剰さに顔が赤くなるのを感じた。 


 「い、いや、まさか」

 「酷いなー白石さんまで俺のことそんな風に見てたんですか。俺、これでも自分のこと紳士だと思っているのに」 

 「いやいや、違うって、ほんと」


 自分の浅はかさを誤魔化すように、私は手を大きく振って否定した。


 結局、自宅に一番近いコンビニの前まで彼は送ってくれた。もちろん、その間身の危険を感じるようなことは何もなかった。


 コンビニの前で廣澤青年に改めてお礼を言って別れた後、私は改めて自分の勘違いに恥ずかしくなりつつも、少しだけ気持ちが高揚していた。


 女性として気遣われたのなんて、随分久しぶりだったから。


 私の中で密かに、廣澤さんの好感度が上がったのは言うまでもない。


 

 ―――翌日、近所のスーパーマーケットに一週間分の食材を買いに行くために私は身支度を整えていた。


 地元から離れた場所で一人暮らしをしている上に、同年齢の友人は皆結婚して子供もいる子が大半だから、休日に誰かと約束して会うなんてことは滅多にない。


 土曜日の午前中に買い物や用事を済ませて、午後からはHDDに撮りためていたドラマをまとめて見たり、ビデオオンデマンドで探した昔好きだった映画を時間を忘れて見るのがここ数年の休日の過ごし方だった。お洒落なカフェ巡りをするわけでもないし、一人旅をするわけでもない。根っからのインドア派の私は、こうやって自分の部屋でリラックスした時間を過ごすのが好きだった。敢えて贅沢をするとしたら、スーパーで少し値の張る良い肉や魚をレシピサイトで見つけた、ちょっと手の込んだ料理で楽しむくらいだ。


 「あ、白髪」


 メイクを終え、鏡を覗き込みながら髪を梳かしていると、後頭部からぴょんと飛び出した一本の髪が白くなっているのを発見した。


 もう3年以上染めたりパーマをあてていない黒髪にその白髪はいやに目立つ。抜いたら頭皮に良くないと美容師さんは言っていたけれど、一本だけ白くなっているその髪をそのままにするのも気持ちが悪いので、結局抜いてしまった。まぁ、ずっと同じ髪型の私の頭なんて誰も気にも留めやしないだろうけれど。


 年齢を重ねるのに反比例するように、年々美容にかけるお金は減っていた。洋服も、2ヶ月に一回買っていたのが、3ヶ月に一回、半年に一回となっていた。他人の目を気にしなくなるにつれて、自分自身への興味も期待も薄れて行っているのだろう。


 鏡を覗き込むと、白髪以外にも加齢を感じさせる要素は探せばいくらでもある。


 目元の小じわや、少し痩せこけた頬や、首の横のライン。


 20代の頃とは明らかに変化した鏡の中の自分に、つい苦笑いが漏れる。


 これでよく、廣澤さんに送り狼されるかも、なんて一瞬でも血迷えたものだ。若木のような彼からすれば私は、恋愛対象の外の外にいるに違いないのに。


 とはいえ、それが何だと言うのだ。10近くも年下の男の子に今更異性として見られたいなんて願望も見栄も、私にはない。


 きっと私の人生はこれからゆるやかに終わりに向かって行くだけで、震え上がるほどの喜びを得ることも無い代わりに、身を切られるほどの痛みや苦しみも無い。


 時々寂しさを感じることはあっても穏やかな毎日を送れればそれでいい、それも一つの幸せの形なのだと私は思っている。





 ―――翌月、決算月でもないのに珍しく私は残業をしていた。


 普段営業社員から依頼された取引先に提示する商材資料や、見積書を作成するのが私達、営業事務員の通常業務だ。大抵の営業社員は、たたき台を自分で作成してくれるので私達が実際にやることは価格の変動する商材の売値をチェックして資料や見積書に落とし込んでいくだけである。


 ただ、今日だけは明日朝から商談に行く新規取引先に対しての商談資料を、廣澤さんが一から作り直すのを手伝っていて、いつもなら6時かどんなに遅くても7時前には事務所を出れるのに、既に9時を回っていた。


 「すみません、白石さん、こんな遅くまで付き合って頂いて」

 「全然気にしないで。仕事だし、仕方ないよ」


 やっと纏め上げた商談資料をプリントアウトしてファイリングすると、廣澤さんが申し訳なさそうに謝った。もう既に社内に残っているのは私達だけだ。


 「いや、俺がもっと早く資料の見直しをしてたら良かったんですけど、最近他の営業先に時間かかってて全然手を付けられてなかったんですよね。こんな土壇場になって、白石さんに手伝いをお願いして、本当に申し訳ないです」

 「だからいいって。普段全然手間をかけない優等生の廣澤さんに頼ってもらえて光栄だよ」


 私が帰り支度をしながら笑って言うと、廣澤さんはごめんなさい、とでも言うかのように両手を顔の前で合わせた。


 「じゃ、帰りましょう」


 自分のカバンを手に下げた廣澤さんに促されて、私はうん?となった。


 「ほら、電車あと15分で来ますよ。駅まで急いだら5分で着きますから、行きましょう」

 「あ、うん」


 そうか、方向が同じだから一緒に帰ることになるのか、と私は今更ながら納得した。


 「あ、それとも何か食べて帰ります?お礼にご馳走します」

 

 会社の扉を施錠してから、廣澤さんは思いついたように聞いて来た。


 「ええ?そんな、いいよーお礼されるほどのことしてないし」

 「でも俺腹減っちゃって、この時間だと俺の家の周りコンビニくらいしかないし。白石さんもお腹減ってるでしょ?せっかくだし、食べて帰りましょうよ」

 「そりゃあお腹は減ってるけど……」


 もうかれこれ何年も異性と二人きりで食事なんてしていない私は、一瞬返事に困る。


 でもここで断わるのも意識し過ぎか。廣澤さんの誘いはあくまで会社の同僚、先輩に対してのごく普通の提案だ。断る方が不自然だろう。


 「じゃあ決まりで。駅前の『サキちゃん』って入ったことあります?あそこのお好み焼き、結構いけるんですよね」

 「そ、そうなんだ」


 私が頷くと、もう既に店まで決められて瞬時に二人で夕食を取ることは決定事項になった。


 ―――店に入って、会社帰りのサラリーマンで賑わっている奥から店員が出て来てカウンター席に通され、必然的に隣り合って座ることになる。


 「普通に豚玉でいいですか?俺ビール飲むんですけど、白石さんも何か飲みます?」

 

 メニューを渡され、その思わぬ距離感に内心動揺を隠せない。横に目を向けたら結構な近い距離に、廣澤青年の顔があるのだ。


 「そ、そうね、じゃあ梅酒のソーダ割りにしようかな」

 「了解です」


 私の手からメニューを受け取った廣澤さんの手の甲をちらりと盗み見ると、思ったより骨ばっていて大きく、しかし若々しい触ったらすべすべしていそうな肌だった。


 あー、やだなー……


 私は心の中で呟いた。


 店内のやや薄暗い照明で少しはマシだろうけど、こんな至近距離で私の手とか顔とか見られたらやっぱり20代と30代の違いがはっきり出てしまう。


 別に年相応に見られればそれでいいけど、こんな若い子の隣に座るって、やっぱり何かの拷問のように思える。


 「白石さんって髪綺麗ですよね」


 一人勝手にやさぐれていた私は、突然話しかけられた上にさらに至近距離でじっと見つめられ、思わず椅子をガタッと鳴らして体を反らした。


 「んなっ……なにっ??」

 

 思わず両手で頭を隠すように抑えた。


 「いや、今白石さん全然髪染めてないですよね。いつもサラサラで綺麗にしてるなーって思って」

 「……あ、ありがとうございます」


 ただ単に美容室代にお金をかけてないだけなんだけど。たしかに、染めることもパーマもあてることもしなくなって髪質は多少改善したけど。でも、白髪があるんだよ。


 褒められたのは悪い気はしないが、やはりあまりじっと見つめられたくないのも女心である。


 「白石さんって何でも安定してますよねー仕事の仕方も、服装も、人との接し方も。そう言うのって一緒にいてホッとするし、いいなぁ、って思いますよ」

 「そ、そう?まぁ30代も半ばになればみんなそんなもんじゃない?」

 「年齢関係ないと思いますよー俺の母親とかもう60近いけど今でもヒステリー起こすし。白石さんって、落ち着いてますよね」

 「ありがとう……」


 素直な賛辞にむず痒くなりつつも、嬉しい。こういうことをサラッと言えちゃう辺り廣澤さんはやっぱり好青年だなぁ、と思う。


 顔がニヤニヤしてしまいそうになり、平常心、平常心、と自分に言い聞かせて私は目の前のカウンター越しに見える鉄板を見つめる。


 鉄板の上に店員が手際よく生地を薄く広げて行き、そこにたっぷりのキャベツや豚バラ、揚げ玉を乗せて行く。さらに少し離れたスペースでは、ソバを炒めていた。どうやら広島風お好み焼きの店のようだ。

 

 「生と梅酒ソーダ割りお待たせしましたー!」


 バイトの女の子の威勢のいい声と共に、二つのグラスが目の前に置かれた。


 「じゃあ白石さん、お疲れ様です」

 「お疲れ様ー」


 かつん、と互いのグラスを合わせて二人して一口飲む。同じタイミングでグラスをテーブルに置いた彼のビールがもう半分も減っているのを見て、うわぁ飲みっぷりがいいなぁ、と感心してしまった。


 「すみません、ペース速くて。すごい喉乾いてたんですよ」

 「そうなんだ」


 とてもいい顔で笑った廣澤さんに思わずつられて笑ってしまう。


 「白石さんって会社の人とご飯行くことってあんまりないですよね」

 「そうだね、いつも家で食べるかな」

 「自炊してるんですか?」

 「してるけど、大したものは作らないよ。いつもお味噌汁と簡単にもう一品作ってご飯と食べるくらい」

 「そうなんですか、俺はほとんどスーパーの総菜かコンビニです」

 「営業は夜遅いもんね」


 そんな風にとりとめのない会話をしている間にも、私達の目の前でお好み焼きが焼きあがって行き、鉄板に落ちたタレがジューっと美味しそうな音を立て蒸気が上がって来た。


 「美味しそう!」

 

 すっかりお腹がぺこぺこになっていた私は、さっきまで異性と二人きりという自分としてはイレギュラーの状況に緊張していたのも忘れ、割り箸を勢いよく割った。


 鉄のへらでザクザクっと一口大にお好み焼きを切って行くと、香ばしい香りが食欲をさらに刺激する。早速口に運び頬張ろうとして、


 「白石さんって彼氏さんと同棲してるんですか?」


 という唐突な廣澤さんの発言に、盛大にむせた。


 「んなっ……げほ、ごほ、急に何?」

 

 熱いお好み焼きに舌をやけどしてしまい、私は涙目で廣澤さんに顔を向けた。


 「いや単に、白石さんいつも家にまっすぐ帰るし、彼氏さんとご飯食べてるのかなって」

 「彼氏なんてここ最近ずっといません!!」

 

 私はお冷で舌を冷やしながら、内心廣澤さんって大物だなって思っていた。


 だって私に恋人がいないことは社内で周知の事実だし、あの課長ですら私が30代になってから恋愛話は一切振ってこなくなったと言うのに。ここまでストレートに尋ねられるなんて、予想もしていなかった。


 「あ、そうだったんですね、俺、デリカシーのないこと聞いちゃいましたか?」

 「いや、むしろそこまではっきり聞かれたら清々しいけど」

 

 すまなさそうに頭を掻いた廣澤さんに、むしろ毒気を抜かれる。嫌味も変な詮索もされない分、嫌な気持ちはしない。


 こういう話題を相手から振られた時、同じように聞き返すのが社会人のマナーというものだろうか?


 「廣澤さんは、彼女いたんだっけ」


 確か、大学時代から付き合っている彼女がいると彼が新入社員の時に聞いたことがある気がする。


 「大学の時に付き合っていた彼女とは、一年目で別れました」

 「え、そうなんだ」


 思わぬ返事にびっくりするも、そもそも私は普段世間話をするほど廣澤さんと親しくないし、プライベートの彼の事など知る由もない。これだけ気配りがきいて、見た目もそこそこイケメンな彼なら恋人も当然いるだろう、くらいにしか思っていなかった。


 「結構知られていることだと思ってたんですけどね。社会人になってたった3ヶ月で彼女がやたら結婚を迫って来るようになって、なんか違うな、って思ってそのまま別れました」

 「えー……そうなんだ」

 

 いつも爽やかな言動が売りの廣澤さんの、意外にイマドキのあっさりとした別れ話に、私はほんの少しがっかりした。結婚を迫られた彼氏の、まだ遊び足りないとか、家族を持つ覚悟が出来ないとか、責任を負わされたくない、とかいう理由で破局するカップルは世の中にごまんと溢れているが、廣澤さんはそこらの若者とは違うのかな、と思っていたのに。


 まぁ、他人様の恋愛に私がとやかく口出せる立場でもない。


 私は改めて箸で持ち上げたお好み焼きの切れ端を、今度は念入りにふぅふぅと息を吹きかけて冷ましてから口に入れた。


 割り勘にするしないで5分ほど粘ったけれど、結局押し切られそして当たり前のように今日も私と同じ駅で降りた廣澤さんが、私の家の最寄りのコンビニの前まで送ってくれた。


 やっぱり彼はいい後輩だと思ったけど、さっきの元彼女との淡泊な話のくだりを思い出してプライベートに関しては一般的な若い男の子と同じなんだな、と認識を改めた。


 別れ際、彼はさも当たり前のように笑顔で言った。


 「じゃあ、また今度会社帰りにどこかで食べて帰りましょ。俺、店探しておきますから」


 今の若い子は10近く年が離れている会社の先輩も、友達に言うような感覚でご飯に誘えるんだな、というのは私にとって結構なカルチャーショックだった。





 ―――それから彼の言葉通り、何故か残業する度に同じくらいの時間に帰宅する廣澤さんと同じ電車に乗り、同じ駅で降りて家の近くのコンビニまで送ってもらう、ということが恒例になった。そのうち三回に一回は前みたいにお好み焼きを食べたり、焼き鳥屋さんに行ったり、休日の前なら深夜までやっている韓国料理屋さんに行くこともあった。


 「俺、一人でご飯食べるの好きじゃないんですよね」


 何回目かのご飯で、彼はぽつりとそう言った。


 「なんか、ただの作業みたいに思えて、味もみんな同じに思えて来るんですよね。だから、課長とか他の営業の先輩とか帰りが一緒だったら俺から誘っちゃうんです」


 少し恥ずかしそうに、彼は頭を掻きながら続けた。


 何でも、3人兄弟の末っ子の彼は社会人になってから実家を出たらしく、一人で食事をするということに今でも慣れないそうだ。


 「だから、最近白石さんが付き合ってくれるので、嬉しいです」


 そう言って屈託のない笑顔を廣澤さんは浮かべた。


 そんな風に意外に甘えん坊な一面を見せられて、キュンとしない女なんているのだろうか?


 不覚にも、素直な彼のお礼の言葉は30代の枯れていた心にも刺さった。


 ああ、ダメダメ、深く考えるな。


 私は自分に言い聞かせた。


 廣澤さんからしたら、ただの親近感なんだろう。彼が声を掛けて来るのは。方向が同じだから、女性一人じゃ危ないから、会社の先輩だから、一人でご飯を食べるより二人で食べる方が楽しいから。きっとそれ以上の意味なんてない。


 その日の帰りの電車内で、おもむろに廣澤さんはスーツの上着ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。

 

 「そう言えば、俺、白石さんの連絡先だけ知りません。ラインやってますか?」

 「アカウントは一応あるけど……、毎日会社で会うし、連絡とる用事もないから別に交換する必要ないんじゃない?」


 私がそう言うと廣澤さんは胸に手を当て、大げさに嘆いて見せた。


 「ううっ……白石さん冷たい。隣駅のご近所じゃないですか。俺、白石さんが何か困った時はいつでも駆け付けますよ!重いものを買わないといけない時とか、高いところの電球を替える時とか、Gが出た時とか!」

 「重い物はネットで買うし、椅子を使えば私一人で電球は替えられるし、そもそもGは出ません。だから却下」

 「いやいや、でも万が一の時のために。何かどうしても仕事のことで連絡を取らないといけないこともあるかもしれませんし。俺はプライベートでも連絡頂いても構いませんが」


 良く分からない粘りを見せられ、結局しぶしぶラインのIDと電話番号を交換させられた。


 私は仕事とプライベートは分けたいタイプだから、本当に緊急の場合以外は連絡をして来ないようにと、よくよく念を押しておいた。廣澤さんは「分かりました!」と、実に爽やかな営業スマイルで返して来た。


 ……絆されるつもりはありませんよ?





 「―――白石さんは、結婚しないんですか?」

 

 また別のある日、入った串焼き屋さんで一通り出された串を堪能し、仕上げに温かいお茶を飲もうとしていた私に、廣澤さんは唐突な質問を投げかけて来た。またもや前後の脈絡もない彼の質問に含んだばかりのお茶を噴き出しそうになった。


 「……っごほっごほっ……また今度は何!?」

 「いや、白石さん普通にキレイだし、気遣いできるし、今まで結婚しないのってそういう主義なのかなって」

 「遠回しに何か問題があるのかって言いたいの?」


 いつもはビールなのに、今日は珍しく芋焼酎をロックで飲んでいた廣澤さんは心なしか眠そうな目を私に向けている。


 酔いのためか、はたまたこのところ頻繁にご飯を一緒に食べていることへの慣れからか、彼は私に対して段々遠慮がなくなって来ていた。


 『子供欲しくないの』『一人で寂しくないの』と並んで独身30代女性が一番聞かれたくない話題トップ3には入るだろうNGワードを堂々と聞いて来た廣澤さんの心臓のタフさに、むしろ呆れてしまう。

 

 はっきり言って余計なお世話もいいところだ。しかも『普通にキレイ』なんて、誉め言葉だと思ってるんだろうか?


 「いや、すみません、変な聞き方しちゃって……」

 「ご縁があればと言いたいところだけど、もう恋愛も結婚もなくても十分幸せだと思ってるから」


 思い切り睨み付けた私にさすがに失言だと気づいたのか慌てふためいた廣澤青年に、私はそれ以上追及することもなく再びお茶を啜った。


 「そうなんですかー……勿体ないなぁ」


 一体何が勿体ないんだろうか。誰か勿体なく思っていたらとっくに結婚出来ていたわ。


 という突っ込みは心の中にしまっておいた。

 

 彼に他意はないのは分かっている。少し親しくなった会社の先輩のことを、彼なりに心配してくれているのだろう。


 でも男と女二人で何度もご飯を食べていて、性的なアプローチなんてまるでないということは、彼からしたら私はやっぱり恋愛対象の範囲外にいるんだろう。


 そこまで考えて、私は自分で、あれ、と頭を捻った。


 性的なアプローチがない、なんてまるで期待しているみたいじゃないか。

 

 あったって困る、だいぶ年下だし、同じ会社の人だし、付き合っていた彼女を結婚したくないって理由で振るような人だし。


 「白石さん?」


 一人で考え込んでお茶の入った湯飲みを両手で強く握りしめていた私に、廣澤さんが声を掛けて来た。まさに目と鼻の先に意外に整った彼の顔があった。


 「うわっ」


 だいぶ酔いが回っているのか、いつになく近い距離で顔を覗き込まれ、私は思わず大きく仰け反った。


 「なにっ!?」

 「いや、急に黙っちゃったんで……大丈夫ですか?」


 そう聞いて来た廣澤さんが、私の手を包み込むように自分の手を重ねて来た。私の手を何度かさするように触って来るその、明らかに私とは違う20代の滑らかでハリのある感触に、堪らずにすぐに手を引っ込めた。


 「ちょっと、廣澤さん酔っぱらい過ぎじゃない?もう帰ろう」


 私が強引に席を立つと、私に合わせて立ち上がった廣澤さんがよろめいた。やっぱりかなり酔っているようだ。


 お勘定を私が済ませると、また店の前で金を出す、出さないの応酬になる。駄目だ、廣澤さん呂律も怪しくなってきている。


 何とか財布を引っ込めさせ駅まで辿り着き電光掲示板を見ると、電車が来るのは回送を挟んで、15分も先だった。


 ホームまで降りて電車が来るのを待っていると、別の酔っぱらいのサラリーマンがフラフラと歩いて来た。それを避けようと私は黄色いラインを一歩外側に踏み出した、その時。


 「危ないっ」


 という廣澤さんの声と共に、私は力強い腕に引っ張られた。


 回送列車が轟音と共に駆け抜けて行く音を聞きながら、すぐ目の前にある白シャツと薄いブルーのネクタイに私は思考を停止していた。


 「大丈夫ですか?」


 ほんの少しアルコールの匂いが香るのと同時に上から降って来た声に驚いて顔を上げると、廣澤さんが心配そうに覗き込んでいた。


 そこで初めて、回送列車がホームに入って来ていたのに、私が停止ラインを越えたのを廣澤さんが引寄せてくれたのだと気付いた。


 「だっ、だっ、大丈夫!ありがと!」


 私は飛び退るように彼から離れた。心臓がバクバク言っていた。


 混乱する頭を何とか取り繕いながら、次に来た電車に乗って、廣澤さんが酔っ払っていることを理由に送らなくていいと何とか断わって、逃げるように大浜駅で自分だけ降りた。


 家に帰って、メイクを落とそうと洗面所に駆け込んで、覗き込んだ鏡に映っていた自分の顔はお酒も飲んでいないのに真っ赤だった。自分でもそうと分かるくらい、女の顔をしていた。


 これは全くのアクシデントだ。廣澤さんに落ち度はないし、むしろ回送列車に不注意だった私が悪い。


 でもこれはまずい。


 引っ張られた腕の力強さだとか、胸板の感触とか、一瞬背中に回された手が明らかに自分よりも大きいとか、そんな生身の人間のインパクトは半端なかった。


 一回り近く年下の男の子だけど、会社の後輩だけど、結婚には興味のない今時の若者だけど、間違いなく成人男性なんだ。


 意識してしまったら、それがもしブレーキの利かないレベルまで行ってしまったら。


 これは本当に困る。今更、実りのない恋愛に悩まされるなんて悪夢でしかない。


 だって、前の彼氏と別れた時、本当に苦しかったのだ。何日も眠れなくて、ご飯も喉を通らなくて、誰にも会いたくなくて。仕事以外の時間をひたすら泣いて、体調もボロボロになってあまつさえ生理まで来なくなって。


 そもそも私は前の失敗を教訓に、会社内で恋愛なんて絶対にしないと決めている。彼氏と別れる度に職を失うなんて御免だ。もう簡単に転職できるほど若くもないし。 


 今の私は、安定した職があって、家賃と光熱費がちゃんと払えて、平和で穏やかで慎ましやかな生活が送れれば、それで十分。あんな若い男の子、好きになっても私にはなんのメリットもない。


 だから今回も、私は恋愛なんてしない、としない理由を繰り返し繰り返し自分に言い聞かせた。





 「―――白石さん、最近やけに急いで帰るんですね」


 私の隣の席の畑山さんが、まだ数値を入れ終わらない画面から目を背けるように私に声を掛けた。


 「うん、本社からも業務効率化と残業時間削減が通達にあったでしょ?」

 「またまたー理由って本当にそれだけですかー?」


 畑山さんが両肘をデスクについてふふん、と何か得意げな顔した。


 「どういう意味?」

 「最近白石さん雰囲気変わったから、何かプライベートでいいことあったのかなって思っていました」

 「はっ?」


 私はギョッとして畑山さんを見た。


 雰囲気が変わったなんて言われる心当たりはない。むしろ逆だ。


 廣澤さんのことを意識していることに気付いてからは、服装はよりいつも通りに、メイクも髪型も意識的に毎日同じように、まるで自分の女の面を否定するかのようにニュートラルを心掛けていた。


 「あれ?気のせいですか?最近メイクが綺麗にのってるなって思って」

 「……それは褒めてるの、けなしてるの?」

 「あ、すみません、変な意味じゃないんです。でもいつも定時ですぐ帰るから、会いたい人がいるのかなって」


 自分の失言に気付いたのか、畑山さんはまごついた様子で言葉を濁した。


 定時ですぐ帰るのは、逆に帰るタイミングが重なりたくない人がいるからだけどね、と私は心の中で呟いた。


 そう、私はこのところ残業にならないように業務効率化を徹底していた。定時の5時にきっかり仕事が終わるように、3時にはその日に終わらせるもの、翌日に持ち越すものを振り分け、中途半端に時間が掛かりそうなものには手を出さない。


 以前なら、多少の超過業務はあまり気にしなかったし、頼まれれば畑山さんの持ち分を手伝ったりもしていた。元々月当たり大した時間残業はしていなかったから、大抵の人は私が急いで帰っているなんて気付きもしないだろう。私の隣のゆるふわ女子が意外に鋭いことの方が驚きだった。


 「……変な詮索しないで、はやく畑山さんも今やっているやつ終わらせちゃって、帰りなさいね。最近また変質者多いってニュースでもあったでしょ」

 「あ、本当に遅くなったら廣澤さんが送って下さるんで、大丈夫でーす」


 え、と私は一瞬畑山さんをじっと見つめてしまった。


 「え、あ、変な意味じゃないですよ。本当に送ってもらってるだけです、私は彼氏一筋ですから!」


 私の視線を疑いの目と受け取ったのか、畑山さんはスマートフォンの待ち受けにしている彼氏とのラブラブ写真をほら、ほら、とでも言うかのように見せつけた。





 私は会社から駅までの道を歩きながら、ああ、そうだよなーと独り言を漏らした。


 やっぱり廣澤青年にとって、私と晩御飯を一緒に食べるのも、同じ電車に乗って、わざわざ自宅の最寄り駅一つ前で降りるのも、深い意味は無かったんだ。


 それが30代の先輩社員だろうと、新入社員の可愛い後輩だろうと。


 会社の女子社員が遅い時間に帰っていて、同じ方向だから、ただそれだけだ。そこに下心も無ければ、ましてや特別な感情もない。


 私がパンプスのつま先を眺めながら、とぼとぼと歩いているとふいに、つま先に人型の影が落ちて来た。


 「白石さん?今帰りですか?」


 ふいに間近で声を掛けられ、私はびっくりして顔を上げた。目の前にはつい今の今まで考えていた本人が、笑顔で営業カバンを持っていない方の手を振っていた。

 

 「廣澤さん、営業の帰り?」

 「そうです、あー今日も白石さんが帰るのに間に合わなかったな。白石さんと行きたい店を見つけたのに」


 おどけたように笑った彼の顔を見て、私は何だか憎たらしくなった。


 そんな思わせぶりなことを言って、10近くも年上の女が自分に恋愛感情なんて持つはずないと、見くびっているんだろうか。


 「そう、残念ね。でも私、家で食べる方が好きだから」

 「えーじゃあ、今度お邪魔してもいいですか?」

 「……え?」

 「いや、たまに手料理とか、恋しくなるんですよね。白石さんとは家も近いし、いつかお願い出来ないかなって思ってて。あ、もちろん、食材費とか出しますし、片付けとか、手伝いはします」


 予想の斜め上を行く彼の発言に、私は絶句した。


 ちょっと親しくなった会社の先輩だからって、それはいくら何でも遠慮がなさすぎじゃない?母親か何かと勘違いしているんじゃないだろうか。


 異性として見られていないことは重々承知だけど、ここまで気安く扱われる覚えもない。


 「……お断りします!人を家に招くのは好きじゃないので!」


 そう私は吐き捨てると、短く「お疲れ様です」と言って廣澤さんが何か反応を返す前に駅までの道を急いだ。


 家に帰って、冷蔵庫の中にある残り物とご飯だけの夕食をかきこんで、昨日の残り湯を追い炊きしたバスタブに入ってようやく、私はさっきの自意識過剰すぎる自分のリアクションに自己嫌悪が込み上げて来た。何もあんなストレートに反応する必要もなかったのだ、会社の後輩相手に。そうですね、機会があればいつか、とか適当にその場を濁しておけばよかったのだ。大人らしく、社会人らしく。


 あんな、感情的に露骨に嫌がらなくても、廣澤さんだって実際はただのリップサービスで、本当に家まで訪ねて来るつもりなんてなかったかもしれない。もし変な甘えが彼にあるようなら、今まで何回も送ってくれた時にとっくにお願いされていただろうし。ただの軽いジョークだ、営業トークみたいなものだ。


 今更ながら、まるで高校生のうぶな女の子みたいに冗談を真に受けた自分に苛立たしくなる。


 思い違いをしてはいけない、10個近くも若い男の子の恋愛対象になる訳もないし、彼の言動にいちいち意識してもいけないのである。


 「……メイクのり、良くなってるかなぁ……」


 退社前の畑山さんの発言を思い出して、無意識に頬を撫でてみる。特に変わった気もしないけど、たしかに最近産毛の処理はこまめにしていたかもしれない。つまり、自分では意識しないようにしていたけど、見た目を取り繕う部分があったのだ。


 やっぱり、自分が考えている以上に、廣澤さんの存在が私の生活に侵食していたようだ。


 あー、明日、どんな顔で廣澤さんに会ったらいいんだろう……あんな大人げない態度とって、変に思われたに決まってる。


 翌日、恐々と会社で私よりも遅く出社して来た彼の表情を窺ってみたけれど、まったくいつも通りの、いや、いつもよりも元気な挨拶をしてくれた。うじうじ気にしていたのは、私だけだったのかと一気に脱力した。





 ―――極力残業をしないようにしていても、決算期はそうもいかない。


 四半期決算を迎え営業課員は、一つでも多く受注を取ろうと取引先を駆け回る。必然的に見積書、請求書、先方に出す資料を出す頻度は増え、不定期に改定される商品価格にも注意しながらいつもの倍以上の書類作成に私は追われていた。


 とは言え、この時期に忙しいのは営業課だけではなく、庶務も経理も忙しいので皆残業している。しかも営業は定時前であろうと後であろうと時間に関係なく会社と取引先の間を往復しているものだから、残業をしていても、前みたいにたまたま廣澤さんと帰りが一緒になるとか、ましてや二人だけで社内に残るような状況に陥ることもないため、精神的な安定を私は取り戻していた。


 周囲の目がある内は、ただの先輩としての接し方を維持できる。


 「柳さん、いつもたたき台に入っている数字間違い過ぎ!一個一個調べないといけないから、時間かかるんですよ。ちゃんと価格改定される度に自分の手持ち資料も修正して下さい」


 私は作成を終わらせたばかりの資料を、同じ営業第一課の営業社員の机に置きながら苦言を呈した。


 柳さんは廣澤さんより4年先輩の営業だが、仕事の仕方が少し雑で私達に資料作成依頼をする時に出してくれるたたき台がいつも内容が杜撰なのである。営業成績も廣澤さんに昨年から抜かれている。


 「ごめんごめん、次からちゃんとするよ。白石さんが仕事が速くて正確だからつい頼っちゃって……」


 緊張感なく笑う柳さんに私は目を吊り上げる。


 「柳さん、私達は営業第一課の営業全員分の資料と見積もりを作成しているんですよ!柳さんのだけに時間をかけていたら他の営業の仕事も遅れるんです!もっと自覚して下さい!」

 「白石さん厳しいなぁ」


 相変わらず覇気に欠ける柳さんにこれ以上言っても仕方ないかと、私はまだ煮えくり返っている腹を何とか納めながら、自分の机に戻った。今日依頼されている資料作成は柳さんので最後だ。書類整理は明日朝一でやればいいし、いつもよりちょっと早いけど今日はこれで帰ってもいいかな。


 もうスーパーに寄るのには遅いから、家に残っている明太子と煮物とお味噌汁だけ作って軽く夕食済ませようかな。


 やっと帰れる、と退社の準備を始めパソコンの電源を落とそうとカーソルを動かしていた時、


 「白石さん!」


 息せき切って廣澤さんが私の席に駆け付けて来た。


 「廣澤さん?」

 

 コートを脱いでいないところを見ると、取引先からたった今帰社して来たばかりのようだ。カバンも自分の机に置いていない。


 「……すみません、柊硝子の価格改定をさっき受け取って、俺今日中に改定資料を三森建設さんに出さなくちゃいけなくて、手伝ってもらえないですか!?」

 「え……っ」


 退社直前に廣澤さんから突然舞い込んで来た資料作成の依頼に、私は思わず隣の畑山さんの席を見た。ついさっきまで私と同じように資料作成をしていたはずの畑山さんの机は既に綺麗に整頓されていて、机の主の姿は事務所内には見えなかった。


 「本当に、このお礼は必ずするんで、お願いします!明日から三森建設さん住宅購入者向けの住宅フェアをするんで、旧価格のまま出せないんです!!」

 

 明太子を食べる気分になっていたのに……。


 「……分かった」


 仕事だから仕方ない、社会人としてやらなければいけないものは、やらなければならない。


 ため息を吐いて私はシャットダウンに合わせていたカーソルをずらした。


 それから廣澤さんが出してくれた柊硝子の価格改定一覧表を見ながら、彼が普段取引先に出している販促資料を全部洗いだした。柊硝子は住宅用の鏡、強化ガラス製の壁据え付けラックや洗面台、と硝子メーカーながら、住宅に関わる幅広い商品を扱っている。


 建設会社や住宅販売会社は、我が社から自社施工の住宅やマンションの建材や設備用に大量に注文してくれるだけでなく、一般の住宅購入施工主向けに度々イベントを行いオプション仕様として協賛会社の商品を販売してくれるのである。


 確かに三森建設が明日から2週間住宅フェアをすることは聞いていた。エンドユーザーに価格提示する可能性があることを考えたら今日中に修正しなければならない。


 他の社員らが次々に帰って行くのを尻目に私達は互いのパソコンにかじりついて地道に作業を続けた。最後まで残っているのは、課長と、他の営業2人と私達だけだ。


 それから2時間くらい経っただろうか、ようやくすべての価格の訂正が間違っていないか確認を終え、作成したデータを廣澤さんが先方にメールで送り、やっと一日の業務が終わった。


 「終わったー……白石さん、本当に、本当にありがとうございました!」

 「いいよもう、とにかく間に合って良かったね」

 「白石さんのお陰です!」


 謝り方も緩い柳さんとは対照的に、拝み倒す勢いで両手を机について頭を下げる廣澤さんに苦笑しながら、私は今度こそパソコンの電源を落とした。


 そして手早く荷物をまとめ、席の近くのパイプハンガーに掛けていたコートを取った。


 「じゃあ廣澤さん、お疲れ様。また週明けに」

 

 そう言い残すと、返事を聞く前に課長にも「お先に失礼します」と言ってさっさと事務所を出た。


 自社ビルを出て足早に駅まで向かっていると、背後にひどく慌てた様子の足音が近付いて来た。


 「白石さん、待って!」

 

 私が気付かないふりでそのままなおも歩みを止めないでいると、勢いよく腕を掴まれ引き止められた。


 「白石さん、ご飯、行きましょうよ!お礼するって言ったじゃないですか!!」

 「廣澤さん……いいよ、お礼なんて、私も仕事でしているだけだし」

 「でも!白石さんもご飯食べてないでしょ?」

 「……ごめん、今日はそんなにお腹すいてないんだ。こんな時間だし、真っ直ぐ家に帰りたいかなって。廣澤さんはお腹減ってるならどこかで……」

 「じゃあ、俺も帰ります!送りますから、一緒に帰りましょう!!」

 

 息が上がったままの廣澤さんは、無意識なのか私の腕を強く掴んだままだ。


 「でも……」

 「同じ電車に乗るんだから、でもも何もないですよね?ほら、行きましょう」


 今度は私の腕ではなく手を握って来た廣澤さんが私の手を引いたまま駅の方向に歩き始めた。驚いた勢いでそのままついて行く形になった私。


 「ねっ、手、手離して!子供じゃないんだから」


 私は彼の大きな手の平から自分の手を抜こうと一生懸命に腕を自分の方に引く。しかし、学生時代運動部だったらしい廣澤さんの力は強く引き抜けない。


 「ねぇっ、まだ課長とか事務所にいたし、誰か会社の人にこんなとこ見られたら、変な風に誤解されちゃうよ」

 「俺は誤解されても構いません!」


 何故か私が食事の誘いを断ったくだりから、不機嫌になっているらしい廣澤さんのいつもとは違う様子に私は困惑を隠せない。普段の彼は、たまに気安すぎる言動をとることがあったとしても、後輩として礼儀を弁えて接してくれるのに。


 会社の最寄りの駅に着いたところでやっと、改札を通るために手を離してくれた。ここまで来たら電車に乗るしかなく、私は大人しく廣澤さんと電車に乗った。


 車内は週末のサラリーマンの帰宅時刻真っただ中で、シートは全て乗客で埋まり、電車の入り口近くで立っていた私達の距離は近い。さりげなくよろけないようにまた私の腕を持って支えてくれる廣澤さんに、私は頭の中が軽くパニックになる。


 さっきから急に何なの?


 不愛想になったり優しくしたり、強引だったり気遣ってくれたり。


 これくらい、廣澤さんには普通なの?年上女をからかってるの?


 こんなの、勘違いしちゃうよ。廣澤さんが何を考えているのか、全然分からない。


 また、大浜駅に着いたら、一緒に降りてくれるのかな。でも、また黙ったまま歩いて行くのかな。


 混み合う電車内なら黙ってても間はもつけど、人通りの少ない暗い道で二人だけで歩いてて、沈黙は辛いな。いっそのこと、今日は自分の駅まで乗ってってくれたらいいのに。でも何だか、支えてくれるこの腕を離して欲しくないな……。


 高速で移り変わっていく窓の外の夜の街並みを見ながら、私はそんなことをぐるぐると考え込んでいた。


 すると電車の自動ドアが開いて、手を引かれた。


 「ほら、白石さん、大浜駅ですよ。降りましょう」


 ごく当然のように手を繋いで私と一緒に降りた廣澤さんを、私は呆然と見つめた。


 「……白石さん?」

 「なんで廣澤さんは、こんな風に先輩を扱えちゃうわけ?こんな年上の、自分でおばさんなんて言いたくないけど、おばさんをなんでいちいち家の前まで送ってくれるの?二人だけでご飯に誘うとか、それを頻繁に繰り返すとか、勘違いさせるとか思わないの?どうしてこんなに簡単に手なんて繋げちゃうわけ?からかってるの?」


 ああ、駄目だ。大人らしく、社会人らしく対応するって決めてたのに。彼の言動にいちいち一喜一憂しないって、意味なんて探らないって思ってたのに。


 一気に溢れ出した言葉は、理性なんて吹っ飛ばしてしまった。


 ホームに降りた途端に微妙な空気を醸し出した私達を、同じように電車を降りた帰宅途中のサラリーマンや学生らが物珍しそうに視線をちらりと向けて来る。彼らが改札に向かって行くのを横目に私は廣澤さんを睨みつけた。


 「……すみません」


 私に睨み付けられた廣澤さんはしょんぼりと肩を落とし、私の手を離した。


 「でも俺、からかっているつもりなんてありません。白石さんと一緒にいるの居心地がいいから」

 「私はただの会社の先輩であって、廣澤さんの母親でも、お姉さんでもないのよ。そんな風に言われても困るよ。そう言う役割は、本当の家族か、恋人に求めてよ」


 居心地がいいなんて言われて、この期に及んで勘違いをさせるような言動を繰り返す廣澤さんがいっそ憎たらしく思えて来た。どうして今更、こんな気持ちを私に思い出させるのだ。


 日々波風立てず穏やかに暮らすをモットーに小さな幸せを大事にしているのに。恋愛感情なんて、不安定さの塊で、ジェットコースターのように私を翻弄するだけだ。


 苛々と吐き捨てた私に廣澤さんは、一歩近づいて来て、まるで仔犬のように心細げな表情を向けて来た。


 「……やっぱり俺は、白石さんにとって、恋愛対象外なんですか?ただの後輩止まりなんですか?」

 「…………え?」


 全く想像もしない質問を投げかけられて、私の頭はフリーズした。


 「……最初から俺、そのつもりです。白石さんともっと仲良くなりたくて、いつも一緒に帰れるタイミングを計ってました。白石さんに彼氏がいないことも知ってたし、大浜の近くにも白石さんの生活圏内に入りたかったから、半年前に引っ越して来たんです。白石さんが恋愛を敬遠してるのも薄々感じてたから、まずは警戒されない距離感から段々近づいて行こうって」

 「え、え?待って、どういうこと?」

 「だから、白石さんに俺のことを異性として意識して欲しくて、距離を縮めていたつもりなんです」

 「……それって、まるで、私の事を好きだと言っているように聞こえるんだけど、気のせいだよね?」


 頭を抱えながら聞いた私に、廣澤さんは深く長いため息を吐いた。


 「白石さん、俺が白石さんのことを好きなはずないって思い込んでません?」

 「……そうじゃないの?だって10個近くも離れているんだよ?私が廣澤さんの恋愛対象になるはずないでしょ?」

 「それは偏見です。俺は下心込みで、白石さんをずっと口説いてます」

 「したごころ……!!」


 とんでもないフレーズが出て来て、私の頭は再びフリーズする。混乱し過ぎて情報処理が追い付かない。


 「もちろん、白石さんが心を開いてくれるのを気長に待つつもりでしたけど」


 不貞腐れたように言った、廣澤さんを私は狐につままれたような顔のまま凝視していた。


 「それで、俺は白石さんの恋愛対象に入りますか?どうしても駄目ですか?」

 「……ええっ?」

 「だってもうここまで告ったら返事聞くしかないじゃないですか。安心して下さい、振られても粘りますけど、ストーカーにはなりませんから」

 「粘るって、ストーカーって!!」


 もう彼が何語を喋ってるのか分からず、私は馬鹿みたいにオウム返しをする。


 いつの間にか無人になっていた駅のホームで、廣澤さんが真面目な顔で私を見つめている。その表情から、冗談を言っている訳ではないことは今は信じられる。


 でも、こんな展開は私の予想の範疇をはるかに越えていて、まさか彼から愛の告白を受けるとは考えもしていなかったから、全く気持ちの準備が整っていない。それに、気にかかっていることもあるし。


 「廣澤さん、私ね34歳なの。もう来年には35歳になるんだよ」

 「知ってます」

 「昔前の会社で社内恋愛をして酷い別れ方をしたの。それが原因で、前の会社辞めて、それ以降恋をしていないんだよ」

 「それは知りませんでした」


 そりゃそうだ。会社の誰にも話してないもの。


 「だからもう、終わりの見える恋愛はしたくないの。恋愛でボロボロになって、仕事を失う羽目になるとか、それでなくても精神的に不安定になって仕事に支障が出るようになっても嫌なの」

 「なんで終わりが見えるとか、ボロボロになるとか、ネガティブな方向でばかり捉えるんですか」

 「だって、廣澤さんまだ若いし、結婚とか考えられないんでしょ?前の彼女もそれで別れたって言ってたじゃん。私の歳で、結婚とか抜きで付き合うって終わりしか見えないんだけど」

 「前の彼女はっ……誤解です。元カノと結婚を考えられなかったのは事実ですけど、それは彼女が入ったばかりの会社で仕事が好きじゃなかったから、安易に俺に養って欲しいって言って来て、俺になんもかんも依存する気でいたから、自分の人生だろって断ったんです。そしたら、俺とまだ付き合っている間に会社の先輩と浮気して……って、こんなん、白石さんに細かく言うことでもないですけど、とにかく白石さんに俺が結婚を考えられないような無責任な男だなんて思われたくありません」

 

 早口で捲し立てた廣澤さんの顔は耳まで赤くなっていた。私の顔もつられるように熱が集まって来る。


 「それって、真面目に言ってるんだよね?」

 「マジじゃなかったら、こんな誰に見られるかも分からない駅のホームでこんなこと言いませんよ。だからっ……とにかく、会社の人間だから、とか、年が離れてるから、とかいう理由だけで振るのは止めて下さい。そんなの俺の本質には関係ないんですから」

 「でも、年が離れてるのは事実だよ。私が成人した時、廣澤さんは小学生だったんだよ。やっぱりなんか、違和感があるって言うか」

 「それもたらればの話ですよね!俺達が出逢った時は二人とも成人してるし、セックスも出来れば子供だって作れるんです!」

 「ちょっと、ここ公共の場……!!」


 さっきからちょいちょい出て来る廣澤さんの、いつもの爽やか青年らしからぬ発言に私は赤くなったり青くなったりを繰り返している。


 「も、もう帰ろう!」


 こんな公共の場でいつまでもこんな際どい会話を続けられない。私は焦りながら改札に向かって足早に歩き始めた。

 

 「えっ、返事保留ですか?!」

 「ちょっと今頭混乱してるから、いったん持ち帰らせて!」

 

 早口に言いながら私は改札機に定期をピッと翳し外に出る。その私の後を廣澤さんも駆け足で追って来た。


 「待って下さいよ」


 私に追いついた廣澤さんが、当たり前のように私の手をギュッと握って来た。


 「……」

 「完全に振られるまでは粘るって言いましたから」


 私が横目に睨むと、開き直ったようににっこりと廣澤青年は笑った。


 結局そのままいつものコンビニの前まで歩いた。


 「じゃ、お疲れ様です」


 と、私はいつもの挨拶をして手を離そうとした。


 一瞬私達の手が離れかけた時、廣澤さんがもう一度私の手をグイっと自分の方に引き寄せた。勢い余り、廣澤さんに背中から倒れ込んだ私。その耳元に、


 「由香さん、俺紳士のつもりなんで、気長に待ちますけど、いつでもお誘いお待ちしています」


 という廣澤さんのわざとらしい甘い声が響いた。


 「どこが紳士なの!!」


 私は思いっきり廣澤さんの顎をどつき手を振り払って、家路に着いた。


 翌日、スマートフォンを見るとめちゃくちゃ謝るラインメッセージが何通も廣澤氏から届いていた。そのメッセージを見て、私の頬が緩んだことは否定出来なかった。


 

出て来る会社名、地名は架空のものです。お読み頂きありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして。 恋に臆病になった三十路女子の気持ちがわかりやすく、物語に入っていけました。 廣澤さんとの新しい恋に進むことができるのかを想像させる終わり方がよかったです。
[一言] はじめまして。 すごく現実的な内容で、読んでいてハラハラドキドキが止まりませんでした。10離れているといろいろ考えてしまうということが身に沁みました。 これからの二人の恋愛模様が気になります…
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