空を飛ぶという感動
「どうしてアタシなのよ」
空の前に座るシトラが、不機嫌そうに頬を膨らませる。
空とシトラの二人は赤い機体、名称は紅龍、に搭乗して甲板で待機していた。轟龍は片付けられたようで姿がない。
訓練内容は以下の通りだ。
まずGに慣れる。
必要ないと思うが戦闘経験を積みつつ、シミュレーション機で戦術を学ぶ。
そして実際に操縦してみる。
Gに慣れるという段階ではまだ空に操縦は任せられない。Gの衝撃で操縦中に気絶されてしまうと笑えもしないからだ。そのために別の人間の操縦で、まず空を飛ぶ経験を積んでもらう必要があった。
『しょうがないだろう。二人乗りは紅龍だけなんだから』
『せやでシトラ。ウチが代われるなら代わりたいぐらいなんやから』
「好きなだけ代わるわよ」
虚空に向かって答えながら、シトラは一度ため息を吐いた。
紅龍はシトラの専用機だ。当然彼女好みの調整がなされているし、この機体には愛着もある。甲板上の移動なら仕方ないにしても、他人に紅龍の操縦桿を握らせたくない。
訓練に最適な機体が紅龍しかない以上、シトラが訓練に付き合わされるのもまた必然だった。
「誰と話してんだ?」
空は離陸前に頭がおかしくなったら困るぞと心配しながら、シトラに問いかけた。
彼にはシトラの声しか聞こえていない。だから盛大な独り言を漏らしているようにしか見えなかった。頭がおかしいと思うのも仕方がないと言える。
「通信よ。司令官とエン」
「ああ、シナスタジアだっけか?」
「よく覚えていたわね。偉いわ」
「バカにしてんのか」
バカにしているんだろう。空は不機嫌に眉を寄せる。
シナスタジアというのは、共感覚を兵器利用に転用するための装置らしい。通信機器の代わりやミサイルの制御、敵機の索敵も可能なのだそうだ。原理は教えられたような気がするが、九割以上は覚えていない。
そもそも共感覚というものを空は持っていないのだ。興味が出てくるはずがなかった。
『離陸準備完了だ。いつでもいいぞ』
「了解。行くわよ空。歯を食いしばりなさい」
シトラがまた虚空に向かって通信し、コクピット内部のボタンをいくつか操作する。そしてチラリと肩越しに空を捉えて、離陸の覚悟を整えるよう忠告してくれた。いやに親切だ。
「お、おう分か――!?」
空が返事するよりも早く、体を押し潰そうとする感覚が彼を襲った。同時に甲板の光景が後ろへと流れていく。シトラがいきなり発艦したのだとすぐに理解できたが、予想以上の衝撃でろくに声が出せない。背中越しにでも伝わる楽しそうな彼女に、悪態の一つもつけなかった。
無限に続くと思われた苦痛は、予想に反して数秒ほどで解放された。
「……おぉー」
空の口から、感嘆の吐息が漏れる。
窓の外は、青一色に染まっていた。モニターに映る仮想の空ではない。本物の大空。翼持つものにしか許されない、宙を泳ぐという行為を今まさにしているのだと実感がこみ上げてきた。
飛行機での旅行経験がなかった空にとって初めての飛行だ。シトラの操縦じゃなければ、空は溢れ出る感動のあまり大声で叫んでいただろう。
「うるさいわよ。それとも衝撃で残念な頭がさらにおかしくなった?」
「だって空を飛んでるんだぜ!? テンション上がるだろ」
「あっそ」
シトラの嫌味をたっぷり含んだ言葉にいつもなら腹を立てていただろうが、憧れの体験にテンションうなぎ上りの空は気にもとめない。
空の力説を、シトラは冷たく受け流した。
「きっと男の子特有の奴だ。ロボットに憧れるとかそういうの」
「つまり空がまだ子供だってことね」
「るっせぇよ」
シトラのあまりの興味のなさに、いくばくか気持ちの落ち着いた空は声音の熱が収まらないまま分析した。
分析結果を聞いたシトラは簡単に評価する。否定できなかった空は口をとがらせてそっぽを向く。そもそもシトラは空をほとんど見ていないから、ただ一人拗ねている痛い奴になっていた。悲しくなってきたのですぐにやめた。
「さて空、もういいかしら?」
「あん? 何がだ?」
シトラが再度空へと振り返る。その表情は我慢の限界を迎えているように見えた。美少女にその顔をされるとクルものがあるが、空はなんとなく嫌な予感がした。
空はシトラとは分かり合えないと判断している。それは彼女も同じはずで、お互いあまり積極的にかかわり合おうとはしない。ウマが合わず言い争いに発展してしまうからだ。一晩中口喧嘩を繰り広げながらもずっと対戦し続けていたのだから、根幹は似たもの同士なのかもしれない。
「空を飛ぶという感動は十分に堪能したのかってことよ。忘れたのかもしれないけど、今は訓練なのよ?」
鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌な様子で、シトラが可愛らしく小首を傾げた。
前を見て操縦してくれ、とは言わない。大空にあるはずがない障害物なら正面を見ている空が気付けるし、そもそもパイロットとしてのシトラの腕は世界最高クラスだ。少しぐらい注意を別に向けていたとしても大事故は引き起こさない。空は真似しようとは思わないが。
「平衡感覚とGに耐える訓練だったわよね。早く実施したいのだけど」
そわそわとしているように見えるのは、多分気のせいではないだろう。
「なんだか楽しそうだなお前」
「お前じゃなくてシトラって呼びなさい」
「えっ? なんだっ――!?」
言葉の真意を問い質す前に、シトラはエンジンの出力を全開にした。舌を噛んだ空が悶絶する。さらにそこから巧みな操縦桿捌きで宙返り、錐揉み飛行、エトセトラなどパイロットに負担がかかるようチョイスされた変態機動を、シトラはきゃっきゃっと笑いながら次々と繰り出していく。空はほとんど気を失っていた。
その後、訓練という名のシトラの憂さ晴らしを終えた空は、一人紅龍の後部座席を掃除することになったのだが、それはまた別のお話。
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