女探偵柚月茜からの挑戦
ある日、名探偵の羽黒祐介は、都内某所にある探偵クラブという探偵たちの秘密の会合に出席して、何人もの名だたる名探偵と、つい最近起きたいくつかの事件に関する重要な意見交換を行った。その後、祐介は羽黒探偵事務所に帰るために、探偵クラブのあるビルの階段を降りていった。
「祐介さん、ちょっと待ってよ……」
後ろから自信たっぷりな可愛らしい女の子の声がした。祐介が振り返れば、そこには弱冠二十歳の売り出し中の女探偵、柚月茜が立っていた。
「どうしたの?」
「祐介さん、すぐに帰ろうとするんですから……」
祐介は、茜なんかのことよりも早く事務所に帰って事件の捜査をしたいところなのだが、茜といったらこの頃、憧れの探偵である祐介と推理勝負がしたいらしく、決まって探偵クラブでの会合の後、祐介に話しかけてくるのだった。
祐介といったら、別に後輩の探偵の教育などに夢中になるような男でもないし、女性として意識しようにも、茜はまだ性格が子供っぽすぎる気がしていて、なんとも中地半端な心地がするのであった。
それでも、やっぱり後輩の探偵のことが可愛いのか、
「そこにある喫茶店に一緒に行きましょうよ。面白い事件の話があるから……」
と茜に言われると、爽やかに微笑んで、決まって付き合ってあげるのだった。
*
喫茶店で、祐介は珈琲を飲みながら、茜の話を聞く。
柚月茜は、とても瞳の大きい可憐な美少女だ。それで巷では、美少女探偵なんて噂されているのだ。祐介には、茜が高校生の頃から知っているので、いつまでたっても親戚の子どものように思えてしまう。それなのに、本人は大人の色気が出てきたなんて大それたことを思い込んでいる。そう言えば、その茜ももう二十歳になるのか。それでも、祐介にはいつまでたっても茜が子どもに見えるのだった。
「今回の事件は、ダイイングメッセージだったんです……!」
「ダイイングメッセージなんだ……」
「はい。この事件はですね、祐介さんにもなかなか分からないかもしれません。私もけっこう手古摺りましたから」
「それじゃあ僕には解けないかもね」
「祐介さんらしくない……もっとテンション上げてくださいよっ……!」
そう言って、茜はわけもなく笑った。祐介は少し困ったような笑顔をした。そして、茜はその事件の一部始終を語り始めたのであった。
「あれは、一週間前のことになります……」
*
柚月茜は、親戚の経営している民宿に呼ばれた。この民宿があるのは、東京から二時間ほどの場所にある温泉地で、親戚の実家があることから、よく茜自身、仕事に疲れてると好んでこの温泉に訪れて、日頃の疲労と仕事でかいた汗を流していた。
ところが、この時、茜は別段、親戚として呼ばれたのでも、観光に訪れたのでもなかった。探偵として呼ばれたのだった。
民宿に泊まった鳩山三郎という四十代の男が客室で何者かに刺殺されたのだった。
そして、死体付近の畳には血文字で「V」のマークが残されていたのだ。
金品が盗まれていたので、物取りの犯行という点はひとまず間違いなかった。物取りだとしても、外部からの侵入した痕跡が皆無であったため、警察は民宿に泊まっていた三人の客を怪しいと考えて、捜査を行った。
せめて、ダイイングメッセージだけでも、解けたら事件解決が早まるだろうと考えた宿の店主は、親戚の茜に連絡を入れたのだった。
「お客さんの名前はなんて言うの? 容疑者が三人いるんでしょ?」
「ちょっと待ってな」
親戚の親父は、今時、古くさい縦書きの宿帳を出してきて、ペラペラめくった。
「一人目は、狭間英輔、確か一人旅好きの大学生だって言ってたよ」
「ふうん、次は?」
「西森雄二、日頃は売れない音楽活動とアルバイトで生計を立てている男性だね。二十代後半くらいかな」
「ふんふん」
「芹沢幸雄、ルポライターかなんからしいよ」
「三人の名前のイニシャルは狭間さんがE・H、西森さんがY・N、芹沢さんがY・Sね」
「Vはないね」
「あるわけないでしょっ」
茜は、そんなことを言って、宿帳をパラパラめくる。三人とも字は下手くそだった。バランスが崩れている。茜は思わず眉をひそめた。
「三人は交流があったの?」
「いやぁ、分からないけど、事件の起こる日の夕方に、一階のラウンジで少し雑談をしていたのを見たよ。それぐらいじゃないかなぁ」
「その時のこと覚えてる?」
「いや、なんか、本当に雑談らしい雑談だよ。自分たちのやってることとか喋ってたかな」
「お互いに、名前とかは名乗ってた?」
「さあ、名乗っていた人もいたし、名乗っていなかった人もいたようだけど、どうだろ……」
なんて当てにならない話だろう。
「この宿帳は、どこにあったの?」
「カウンターに出しっぱなしだよ。こんなもん」
「今どき、個人情報の管理はうるさいんじゃない?」
「あ、うん、茜ちゃん、まあ説教は勘弁して、事件の方を捜査してよ」
「もう……」
適当なことを言っている親戚に腹が立ったのか、茜はため息をついた。
*
警察署に行くと、茜は刑事に事件の説明を受けた。当然のことながら、教えてくれない部分も多かったが、上手いこと茜の話術が効いて、マスコミに開示している情報だけでなく、もう少し詳しい事件の情報が得られた。
「死体は動かされてたんですな。つまり、犯人は死体をどこかに移動して、事件をないことにしようにしたものらしいんですね。でも、死体が重くて、諦めたらしいです」
「両足を持って、引っ張るという方法ですか?」
「ううん、まあ、そうなるでしょうね。距離的にはほんの僅かに動かれて、すぐに諦めたようです」
「ふうん」
「まずいなぁ、お嬢さん、さっきから聞き方が上手いから、余計なことまで喋ってしまいそうですよ」
嬉しそうに中年刑事が笑う。
「あと、ひとつお聞きしたいんですけど、宿帳の指紋は調べましたか?」
「ええ」
「被害者の指紋が出てきたでしょ?」
「ええ、えっ、なんでそれを?」
「合ってるなら良いんです。それじゃ、お邪魔しました。ありがとうございます」
「ええ、でもなんでそのことを……」
ポカンとした顔の中年刑事を残して、茜は満足げに警察署を出て行った。
*
ここから先は解決編である。もう一度、ダイイングメッセージについて考えてみてから、推理が整ったら、この次を読まれたし。
*
「さすが君だ。手古摺ったなんて言っていたけど、あっという間じゃないか」
祐介は感心したように言った。
「でも、祐介さんはもう分かってらっしゃるんでしょ?」
茜は少し照れたように言った。 祐介は微笑んで、
「そうだね。ダイイングメッセージの話だけだから、事件全体のことは分からないけど、ダイイングメッセージに関しては分かったよ」
「簡単すぎたかな?」
「そんなことはないよ」
祐介は、じっと茜を見た。
「真相言って良いかな?」
「どうぞどうぞ」
「ダイイングメッセージの「V」は、「V」ではないね。これは「く」だ」
「うんうん、死体が動かれたときに、犯人が死体の両足を持って運ぼうとすれば、死体は回転しますからね。「V」ではなく「く」の可能性が出てくる……。でも、「く」から始まる名前の人なんて、ないんじゃない?」
「くりばやしがいるだろ?」
「そうそう」
「栗林という名前の客は実際にはいない。でも、被害者が、カウンターの上にある宿帳を手にとって、開いて客の名前を見たときには、確かに栗林という名前があるように見えたんだ」
「うんうん」
「ラウンジでの会話の後、恐らく被害者は一人だけ名前を聞き忘れた客がいたことを思い出したんだ。そして、その時にカウンターの上に放置されている宿帳を見つけたんだろうね。それは縦書きの宿帳、そこに書かれていたのは下手くそでバランスの崩れた字。それは確かに栗林という名前に見えた」
「つまり……?」
「犯人は西森雄二だね」
「お見事っ!」
「この時の、西森という字が、栗林という字に見えたという被害者側の誤解が、断末魔に「く」の字を書かせたんだ。ところが「くりばやし」と書ききる前に、たったの一文字で息絶えてしまったんだね」
「最後にひとつお聞きしますけど、もしこれが「Y」を書く途中で息絶えたのだ、という可能性については?」
「それはないだろうね。イニシャルが「Y」の人間は二人もいて、どちらか特定できないし、初対面の人の下の名前のイニシャルを、ダイイングメッセージとして残すとは考えにくいからね」
「やっぱり、今回もわたしの負けですね」
「そんなことはないよ。事件を解いたのは君じゃないか」
*
こうして、用事も済んだので、二人は喫茶店の前でしばしの別れを告げた。祐介が帰ろうと背中を向けると、茜の「待って」の一言。祐介がなんだろうと振り返ると、茜は少し寂しそうな顔をしていた。
「また、付き合ってくださいますか……?」
すると、祐介は微笑んで、
「また、君からの挑戦をお待ちしてるよ」
と言った。