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「マモル」 

◇◇ マモル ◇◇


 思い出そう、僕らの生まれたふるさとを…。


          ◆ ◆ ◆


 6月に入り海の色が青さを増す頃、その海を見下ろすように建っている俺たちの高校では、感心ごとの大半がある方に向けられていた。

「おい、見えたか?」

「まだたよ…ったく、本当に通るのかよ?」

「ほんとうだってば! 今朝のニュースで言ってたんだよ、スペースポート・コウベまで専用コンテナ船で運ぶんだって」

 潮風で痛みが激しい校舎の3階の窓から双眼鏡を片手に、落ちんばかり身を乗り出しているこいつらは、ひと目肉眼でスペースビークル(宇宙航行専用シャトル)を見ようと躍起になって連中だ。


 スペースビークル(以下SV)の開発がNASAから日本へ渡って5年が過ぎ、想定内の宇宙ブームがやっと落ち着いたのは昨年のことだ。

 そして精神的にも肉体的にも宇宙慣れしていない日本人にとって、国内から宇宙飛行士を発掘育成するプログラムは混迷の一途をたどった。

 まず手始めに日本国籍を有する成人の男女から希望者を募ると、たちまち1000人以上の応募者が殺到した。

 もちろん自ら挙手した彼らは知力体力に自信を持つ者ばかりである。しかし、すでに宇宙飛行のための新用語や化学用語が英和辞典に匹敵するくらいの単語数にまで膨れ上がっていたため、専門知識以外にそれらを暗記する学習段階でリタイヤする者が続出。おそらくすべての用語を使いこなせるようになるまで数年はかかるだろうと言われており、その間にも宇宙の新事実が次々と解明され、それに伴う単語や記号が増殖している昨今である。

 そこで政府は遅ればせながら宇宙飛行士の応募規定にある年齢制限をグッと下げて15歳からとした新たな応募要項を全国の高校、大学などへバラ撒き、それはもちろん俺たちの高校へもやって来た。

 そんなわけで宇宙飛行士になるための門戸が広がったおかげで、ましてやそれを夢見る連中にとってはブームとかスイテタスとかいうレベルでひとくくりにされるものではなく、真剣に進路希望欄へ記入するくらい現実味をおびた憧れの職業になっていた。

「アホか、お前。コウベまで航路がいくつあると思ってんだっ」

「やめたやめた、だいたいSV乗せた船がこんなとこ通るわけないンだよな~」

「あ~、一度でいいから乗ってみてぇ!」

日本の都市部に近い海上にスペースポートとなる人工島が造られ、今や都道府県ではなく市町村の間でSVの争奪戦が繰り広げられるようになってからというもの、人々の関心は宇宙にしか無いと言っても過言ではなかった。


「浜崎マモルくん!」

 突然フルネームで呼ばれて振り向くと、そこには男子生徒憧れの的と噂されている(そう言ってるのは一部の男子だけかも知れないが)学級委員の河村奈緒がニッコリ笑顔で立っていた。

 河村は、特に美人というわけでもなければ勉強がズバ抜けてできるというわけでもない。だが彼女には、なぜか人を惹きつける不思議な魅力があるのは確かだった。

「なんか用?」

「浜崎くんて、いつも海に関する本を読んでるのね」

 なるほど、俺の机の上に置かれた本の表紙を興味ありげに見て河村は笑った。表紙には『海洋生物の歴史と神話』と書かれてある。

 普段なら俺がどんな本を読んでいようが気にする奴なんかひとりもいないので、初めてそんな言葉をかけられた俺はなぜだかあわてて本を隠した。

 国民の大半が宇宙に向いている中で、地面より深いところに感心がある高校生がいたとしたら、きっとワイドショーのレポーターがインタビューに飛んで来るくらい珍しい事案に違いない。

「なに読もうと人の勝手だろっ」

「浜崎くんて、ほんと変ってる。今日みたいにSVが見えるかもって時でも、ぜんっぜん興味なさげなんだもん」

 大当たり。俺ハ変人デス。

 どいつもこいつも宇宙に興味を示さなければ正常な男子高校生としてみなされないわけか。

 俺は河村の言葉に少々ガッカリしたと同時に、なぜか期待のようなものを感じて彼女を見た。河村は俺をバカにしているわけではなく、むしろ理解したいと言っているかのように見えたからだ。

「…たぶん、親父の影響だ。それから変人としては、これからも宇宙に興味を持つことは無いね」

「あら、それはわからないわよ変人さん」

「断言できるね。だって宇宙には水が無い」

 河村はバカにされたと思ったに違いない。

 俺が言いたかったのは、宇宙空間には氷はあるが水は存在しない。水が無い場所に人間は存在する意味がない、というのが俺の信条だから。もちろん太陽エネルギーも必要だが、宇宙には無数の太陽が存在するではないか。

 水はこの地球で生きている。そして、俺たちも生かされていることを忘れてはならない。

「聞きたいことはそれだけか? なら読書の邪魔しないでくれ」

「ごめんなさい、そうじゃないの。実は浜崎くんの家が海洋生物研究所だってこと友達に話したら…」

 そう言うと、河村は申し訳なさそうに廊下へ目をやった。そこには確か隣のクラスの女子が三人、今か今かと自分たちの出番が来るのを待っている様子だった。

「なに、あいつら」

「どうしても浜崎くんにお願いがあるんだって。あ、無理ならスルーしてもらってもかまわないから」

「じゃ、そうするわ」

「え、ちょ…話だけでも聞いてあげてよ!」

 河村に促されて入って来た三人組はお互いを突き合った結果、真ん中のリーダーらしき女子が口を開いた。

「あのぉ、お願いっていうのはぁ、なんていうかぁ、そのぉ…」

「はやく言えよ」

「人魚を見せてほしいの!」

「はぁ!?」

河村もまさかこんな突拍子もないお願いが飛び出すとは思っていなかったようで、口をポカンと開けたままフリーズしてる。

「ねぇねぇ、ホントはいるんでしょ? に、ん、ぎょ!」

イッタイナニイッテンダ、コイツラ。

「お前ら、マジで頭だいじょうぶか?」

「お願~い、秘密だってことはわかってるしぃ、誰にも言わないしぃ、マスコミにバレたらヤバイから写メも撮らないしぃ!」

ダメだこりゃ。

「あのな、いくらお願いされたっていないものは見せられねぇっつーの! おとぎ話じゃあるまいし、ンなもんいたら俺が見たいわ!」

一瞬、何かが俺の脳裏をよぎったが、それを捕まえようとした瞬間、三匹の夢見る女子たちによって現実に引き戻された。

「なによ、いるわよ! あたしたちは信じてるもン!」

「SVが飛び交うこの時代に人魚なんかいたら、とっくに発見されて大ニュースになってるよ」

 そうだ、もっと現実的に生きろよ。それは今の俺たちにとって必要なことだ。

「マジひっど~い! あんたって想像力のかけらも無いのねっ」

「だから言ったじゃん、男子は現実バカばっかだって!」

「マジむかつくぅ!」

 俺の態度に激怒した夢見る乙女三人は口ぐちに捨て台詞を残すと、さっさと教室を出て行ってしまった。

「おい、河村。おまえ最初からあいつらの魂胆知ってて連れて来ただろ」

「まぁね、でもまさかあんなドストレートな願い事だとは思ってなかったわ」

「まったく、だいたいあいつら人魚信じてまぁ~すってガラかよ」

「それは言い過ぎよ。人魚、私だって信じてるのに…」

 あれ…なんだ? この感じ。

 俺は河村がそう言うのがわかっていたと同時に「人魚は存在する」と確信したのだ。

 本当に、ハカげたことではあるけれど。

「バカげたことだと思う? でもきっと、この海どこかにいると思うの私」

 確かなのは、さっきの三人組と同じことを言ってるにもかかわらず、河村からその言葉を聞けて俺は嬉しかったということだ。

「ねぇ、浜崎くんさえよかったらだけど、いつか海のこといろいろ教えてくれる?」

ちょ…、それって俺に告ってんの?

「い、いつかな」

 そして、始業のチャイムが鳴った。


          ◆ ◆ ◆


 今日が週末だということをすっかり忘れていた。どうりで四時間目の授業が終わったとたん学校中の男子生徒の姿が消えてなくなったわけだ。後には理不尽にも掃除を押し付けられた女子達がいつものことだと諦め顔で黙々と箒を動かしている。

 それというのも、毎週土曜日に限り終業ジャストに猛ダッシュで帰らなければ、12時半から始まる情報番組『ネットワーク・コスモスタイム』を見逃してしまうからだ。

 『コスモスタイム』は日本宇宙開発局がメインスポンサーのテレビ番組で、主な内容はSV関連の他に電波障害に関する地球周辺の宇宙気象やスペースポートの建設状況など、宇宙開発に関する情報はもちろんだが、厳しい資格試験に合格し晴れて宇宙飛行士要員となった人達を紹介するコーナーがある。

 みんな特に関心があるのはそのコーナーで、先週など隣の校区の生徒から合格者が出たとかでえらい騒ぎになった。

 今では誰が一番早く宇宙飛行士として宇宙へ行けるかという競争心が、彼らの中には暗黙のうちに芽生えていた。

 そんなわけで、世の男子の頭の中は宇宙漬けと言ってもいい。

 ただし、俺ひとりを除いては。

 そう、どれも俺には関係のないことだ。宇宙もSVもテレビ番組もイカレたクラスの連中も…。


 そんなことを思いながら校門を出てしばらく行くと、見覚えのある車が停まっているのに気付いた。ありきたりの車なら気にもとめないところだが、パールブラックのフェラーリとくれば見間違うわけがない。

 フェラーリのオーナーは親父の助手で、海洋生物のDNAなんかを研究している山村真一という研究員だ。

 まだ27歳の若さだが、海洋生物学会の中ではかなり権威ある学者の一人だと聞いたことがある。噂によると、アメリカの某有名大学に用意されていた教授の椅子を断り、あえてこんなへんぴな所にある無名の研究所へ来ることを希望したのは彼自身だというのだから頭のいい人ってのは何を考えているのかわからない。

 でも、当の本人はそんなことおくびにも出さず、俺の稚拙な質問や疑問に快く答えてくれる優しいお兄さんといった存在なので、俺はめいっぱいの尊敬と信頼を山村さんに寄せていた。

 もちろん研究所内には山村さんの他にも研究員はいたが「スペースサイエンス」とか「スターホール」といった雑誌を愛読している人間とは関わりを持ちたくないのだ。

「山村さん!」

車内に山村さんの姿があったので俺はフェラーリに駆け寄った。

「やぁ、マモルくん学校の帰りかい?」

「はい、今から本屋へ寄って…」

 言いかけて、助手席に誰か居ることに気が付いた。見覚えのない男性だ。

 その男は俺に軽く会釈をすると、車から降りる前に山村さんにひとこと何かをつぶやいて通りの向こうへと消えて行った。

「すみません、俺、会話の邪魔しちゃいましたか?」

「いや、昔の知人だよ。困ったことがあったらしくていろいろ相談に乗ってやってたんだが、どうやら解決するみたいだ。ところで本屋へ行くんだって? きみのことだから参考書じゃないってことだけは確かかな」

「ひどいな、山村さん。でも正解です。風景写真集ですよ。ずいぶん前に注文してたんですけど、いまだに連絡が無いんで他の本を探しに行くついでに聞いてみようかと思って」

「送ろうか?」

「いえ、まだ届いてるかわからないし。それに山村さん、親父にまた何か頼まれたんでしょ?」

 親父はよく山村さんに買い物を頼む。研究所は郊外にあるので日用品や食料が底をついてくると運転免許を持っていない親父は手の空いている者に買い出しを頼むのだ。下校時に俺がスーパーへ寄ってもいいのだが、父子家庭で育った難しい年頃(自分で言うか)の息子としてはできるだけ避けたいスチュエーションではあった。

 それが今では山村さんのおかげでどれほど助かっていることか。

「街へ出るのは楽しいし、ネットでは得られない情報が手に入ることもあるからね」

 山村さんはそう言うと、どんなにくだらない用事を頼まれても嫌な顔ひとつすることなく街へと出かけて行く。パールブラックの愛車フェラーリを駆って。

「親父のやつ、またしょーもないこと頼んだんでしょ」

「うん…いや、水槽のガラスが汚れてきたんでね、デッキブラシを…頼まれたんだ」

「またそんな物を! 山村さんだって暇じゃないのに」

 この時の山村さんに違和感を覚えたのは、なんとなく不自然なセリフまわしと、さっき車から去って行った男の姿が脳裏をよぎったからだ。

「まったく親父のやつ、たまには自分で自転車こいで買いに行けってんだ」

「マモルくん、何度も言うけど父親のことをヤツなんて呼ぶもんじゃない。所長は優秀な学者だし僕なんかよりお忙しい身なんだから。そして僕は街に出るのが嫌いじゃない。これのどこにデメリットがあると言うんだい?」

「へいへい、山村さんのおっしゃる通りですよ」

 確かに山村さんの言うことは正しい。

 親父に対する俺の改善策ではなく、物心ついた頃から親父は多忙な人だった。母は俺を産んですぐ亡くなったと聞かされた。とにかく自宅を兼ねた研究所には毎日人が出入りして、子供が気安く介入できる隙間すら無かった。

 成長してからは親父も俺の生活態度に関してとやかく口をはさんだこともなかったし、そう考えると父子関係がなんとなくギクシャクしているのもわかるような気がする。

「まったく反省の色がみられないなぁ、マモルくんは」

 フェラーリのエンジンをかけると山村さんはあきれ顔でそう言った。

「じゃあもし俺に母親がいたら、ちょっとはマシな子に育ってかも、って?」

「本当のきみは素直でいい子だよ」

 俺の皮肉に対する皮肉だったのか、山村さんは「いい子は早くおうちに帰るんだよ」と言い残して行ってしまった。まるで黒い弾丸のように。


「くそーーーっ、本屋のオヤジ、届いてるなら届いてるってひとことくらい連絡よこせよコノヤロー!」

 山村さんと別れた俺が本屋に寄ると、俺の顔を見るなり店主がご機嫌よろしく手招きするので嫌な予感はしたんだ。

 店主が書庫から台車に乗せて持って来たのは、俺が二ヶ月前に注文していた例の写真集だった。

『オーシャンフォトグラフ大全集』と題されたその書籍は、写真の大全集というだけあって一冊だけで百科事典並みのサイズと重量がある。

 今それが全十巻、俺の目の前に積み上げられた。まさか全巻持って帰れって言うんじゃないだろうな、と思っていたら店主が言い放った。

「いやちょうどよかった! ついさっき届いたとこなんですよ。狭い店なんで全巻持って帰ってもらえますかね? いや~、よかった」

 あんたは鬼か! こっちは全然よくねーよ!

 こんなことなら山村さんに付き合ってもらうんだった…と、悔やんでも後の祭り。

 ベストセラーの品ぞろえが少ない上に店主の趣味を押し付ける書籍ラインナップのため客が寄り付かない寂れた書店のお得意様を失うか、狭い店内の無駄なスペースを写真集のために確保する方が大事かと店主に脅しをかけると、半分の五巻に明日までの宿を提供させることに成功して店を出た。


 この『オーシャンフォトグラフ大全集』は、その名の通り海をテーマにした写真ばかりを集めて編集されたものだが、この写真集のすごいところは1965年に初版発行されて以降も新たに作品が追加され続け、現在の十巻にもなったというわけだ。

 そしてもう一つの特徴は、その作品のほとんどが無名カメラマンの手によるもので、誰がいつどこでどんなカメラを使って撮ったのか記録が無いものも含まれていた。

 また、編集に携わった人も様々で、編集長らしき人物がいるわけでもないらしい。

 ただ、各巻の最初のページに記されている一遍の詩が、この写真集のすべてを表しているように思えた。


   思い出そう

   ぼくらの生まれたふるさとを

   そこは広くあたたかい

   忘れてしまった子守唄を

   もういちど

   歌ってきかせてくれるだろう


 いつか俺の撮った写真が、この写真集に載ることを夢見ている。その頃には何十巻にまで増殖しているだろう。

 いや、宇宙本の発行部数が右肩上がりの昨今、明日にも廃刊になってしまう可能性は高い。願わくば頭上ばかり見上げている人々に生命の源、陸地より広大な海の存在を忘れないでいてほしい。


 研究所の東に広がる雑木林にさしかかった頃には、俺の腕の感覚は消え失せていた。ここへ来るまでに何度フェラーリのテールランプを思い出したことか。

 あと少しで研究所の裏門にたどり着くというところで突然、潮の香りが鼻をついた。海に近いとはいえ、よほどの海風が吹いてこない限りここまで潮の匂いが届くことはめったに無い。

 ほとんど利用する人がいない裏門へ通じる道で、ふと人の気配を感じて振り返った俺が見たのは、果たして理解していただけるだろうか…俺の数メートル先に立っていたのは、12、3歳くらいの女の子だった。

 ただ事ではない様子は、その姿を見ただけでわかった。薄汚れた毛布を巻きつけた体はずぶ濡れで、かなり疲れ切ってるように見える。

 そして何より俺が注視したのは、俺を見つめる少女の眼が…エメラルドのような鮮やかな緑色の眼…だがその眼には白眼(はくがん)が無かったのだ_______。


 感情の読めない緑の眼が、瞬きもせずに俺を見ていた。

「き、きみ一人なの?」

 この場合、単数か複数かをたずねるより先に「おまえは誰だ!? どこから来た?」と聞いた方が正しかったのだろう。

 少女は俺のまぬけな問いに答える間もなく、助けを求めるように俺に手を差し出すと突然前のめりに崩折れた。

 俺は抱えていた写真集を投げ出すと、あわや地面と激突というところで少女の体を受け止めた。

 

 そしてわかったのだ。この少女の正体が。


          ◆ ◆ ◆


 倒れる少女の体を受け止めた時、ずれ落ちた毛布の下から現れたのは両腕と下半身を覆う銀色に輝く鱗だった。そして、俺の服をつかんだ小さな手には水掻きが付いていた。

 この世に人魚というものが存在するのであれば、この少女をそう呼んでもかまわないだろう。

 ただ、この人魚の下肢は一般的に描かれているそれとは異なり、人間の脚のごとく二股に分かれていた。鱗が無ければちゃんとした脚のようでもあったが、つま先は魚のヒレ状になっていたので歩くのに苦労したのだろう、ヒレは裂け鱗は剥がれ落ちて痛々しいほどに傷だらけだ。

 人魚は、かなり衰弱していた。


 とにかく、こんなところを誰かに見られてはマズイ。

 人魚を木陰に隠すと、さっき放り出した写真集をかき集めて草むらへと押し込んだ。落とした衝撃で表紙がかなり傷付いたが、今はそんなこと気にしてる場合ではない。

 戻って来ると、人魚は少し落ち着いたのか物言いたげに俺を見上げた。

 潮の香りは、人魚の瞳と同じ色をした緑の髪から漂ってくるのだった。

「えっと、人間の言葉ってわかるのかな…?」

 その問いに答えるかのようにエラのようなものがピクリと動いた。

「…きみは、どうしてこんなところにいるんだい?」

今度は、何か言葉のようなものが突然頭の中に飛び込んできた。

「陸がどんなところか知りたくて来たっていうのか!」

小さくうなづく人魚。驚いたな、水中じゃなくても音波を発信できるのか。

「え、陸に近付いた時に捕まったって…誰に!?」


その時、こちらに近づいてくる数台の車のエンジン音が、俺たちが身を潜めている雑木林の前を通り過ぎると研究所の裏門前で停まった。俺の目は、その中の一台にくぎ付けになった。

 ひときわ目を引くボディラインに光沢を放つパールブラックの車体は、まぎれもない山村さんのフェラーリだ。他の二台には見覚えがない。

 フェラーリのドアが開くと、思った通り山村さんが降り立った。すると、続くように他の車からも次々と男たちが降り、その中の一人がさっき街で山村さんと一緒にいた男だとわかった。

 地味なスーツに身を包んだ男たちは全部で七人、山村さんの話にじっと聞き入っている。話の内容はわからないが、いつになく険しい山村さんの表情からただ事ではない様子がうかがえた。

 男たちがうなづいて、どうやらひととおり話が終わったのだろう。力のこもった山村さんの言葉が俺の耳に届いた。

「海へ向かった形跡はない。まだ遠くへは行ってないはずた。我々以外の者に見つけられる前に、何としても捕まえろ!」

それはいつもの穏やかな山村さんではない、初めて見る顔だった。

 彼らはいったい何を捕まえようとしているのか…。


 俺は腕の中の人魚を見た。

 人魚…明らかに実在しえない伝説の生き物がここにいる。彼らの探しているものが、この人魚ではないとどうして言いきれる。

 人魚はますます弱ってきているようだ。水掻きは乾いてカサカサになっている。緑の目は閉じられたままで、一刻も早く海に帰さなければ死んでしまうかも知れない。

 これじゃSF小説だ。まるで現実味がない。こんなことならもう少し役に立つ本でも読んでおくべきだった。今の俺の頭じゃ人魚を助けるどころか逃げ道すら思い浮かばない。

 海へ出るには研究所を大きく迂回しなければならない。もし山村さんたちに見つかってしまったら終わりだ。

 せめて夜になるまでどこかに…。


 そうだ!


俺は人魚を背負うと雑木林のさらに奥へと向かった。しばらく背丈ほどに生い茂った雑草をかき分けながら研究所と並行するように北へ進むと、けもの道のような細い小道に突き当たる。小道の先には、とっくの昔に家主から見捨てられて廃屋と化したバンガローが佇んでいた。

「よかった、まだ残ってた」

 いったん人魚を下ろし、あたりに神経を集中させながらバンガローの中に人の気配が無いことを確かめると錆びついたドアを開け入った。

 部屋の中はひどいありさまだった。幼いころ遊びに来ていた時より、さらにオバケ屋敷化が進んでいた。

 いや、よく見ると多数の新しい靴跡があり、わざとあたりの物をひっくり返した痕跡があった。

 言葉にならない怒りがこみ上げてきた。きっと山村さんたちに違いない。上品にとは言わないが、もうすこしマシな家宅捜査ができないのかよ!


 狭い部屋の中には忘れ去られた貝の標本や黄ばんだ書物、紙切れが散乱していて文字通り足の踏み場もなかったが、目的のそれは無傷のままそこにあった。

 俺が十歳の誕生日を迎えた時の親父からのフレゼント。研究所のものと同じサイズとまではいかなかったが、あの頃の俺が欲しくて仕方なかった大型の水槽だ。

 特に何かを飼うというわけでもなく、俺は水槽を海水で満たすと飽くことなくいつまでも眺めていた。なぜかそうしていると、学校であった嫌なことや悪かったテストの結果なんかを忘れることができたからだ。


 裏の古井戸から水をくみ上げ、やっとの思いで昔のように水槽を水で満たすと、人魚をその中へ入れてやった。真水だがこの際それは仕方がない。

 人魚は自分を包んでいるものが何であるか、薄れてかけた意識の中で気付いたらしい。ゆっくり目を開けると、まるで身づくろいでもするかのように手の水掻きを水中でヒラヒラと動かした。濡れて体にまとわりついていた哀れな髪は、水の中で広がり緑の花が咲いたかのように乱舞している。

 乾いていた水掻きが再生したことを確認すると、その手を口元へ持ってゆき目を閉じた。

 眠ったのかと思ったその時、両手の隙間から突然細かな泡が吹き出した。そして数分後には水槽全体が泡につつまれたかと思うと、人魚の体を飲み込んでしまったのだ。


 今はただ、白い泡を詰め込んだガラスの箱が俺の目の前にあった。

 しばらくの間、この泡の中で人魚は眠りにつく。これは人魚の治癒行為だ。

 そして再び目覚めた時、くすんだ鱗は青く美しい輝きを取り戻しているに違いない。


          ◆ ◆ ◆


「マジ、取り壊わさなくてよかったよ。このボロ小屋」

 三時間後、人魚は目覚めた。

 草の中へ置いたままにしていた写真集を取りに行き着替えをすませてからここへ戻って来る間に、水槽の中の泡は消え去り静かに横たわる人魚の姿があった。そして再びエメラルド色の瞳を見た時、俺は自分の中で何かが変化しつつあるのを感じたが、それが何であるのかはまだわからなかった。

「ここは俺の小さな研究所さ」

 自宅の部屋から持って来た熱帯魚たちは人魚が仲間だとわかるのか、小さな金魚蜂越しにじっと人魚を見つめている。人魚が水掻きを動かすと、熱帯魚たちも合わせるように尾びれを動かした。どうやら魚類にしかわからないボディランゲージを交わしているようだ。


 ところで人魚の名前だが、人間の言葉では発音できないので直訳すると「小さな金の泡」と言うそうだ。なるほど、俺は泡で満たされた水槽を思い出して笑った。

 元気を取り戻した人魚は捕まった時のことを思い出したのか、窓の外が怖いと言った。

「カーテンを閉めてほしいの? 大丈夫だよ、やつらここはこれでもかってくらい調べて行ったからもう戻って来ないよ」

 俺は思いつく限りの言葉で人魚を安心させようとしたが、よほどひどいめに合わされたのか、外から見えない水槽の隅で身を縮めると、そこから動こうとしなくなった。

 俺は人魚の望み通りカーテンを閉めると、途中まで目を通していた例の写真集を水槽へ近づけてやった。

 人魚は書籍というものがわからない様子だったが、写真の被写体が海だとわかるや大きく目を見開いて近寄って来た。ページをめくってやるとひどく驚き不思議そうに俺と写真集を見比べている。

 俺は想像してみた。

 本を知らない自分の目の前に、突然四角い別世界が現れるのだ。ページをめくるごとに見覚えのある景色が幻のように変わっていく四角い世界………だか、そこは決して入って行くことのできない世界………。

 色鮮やかな魚が群れるサンゴ礁群が一瞬にして流氷を頭上に見上げる北の海へ、または昼から夜へとくるくる変わる写真の海に、人魚は放心状態で見入っていた。

「きみの海はどれだい?」

 この問いは間違っているのかも知れない。なぜなら、すべての海が彼女のものだからだ。

 その時、人魚がコツコツとガラスをたたいていることに気が付いた。無心にページをめくりつづけていた俺に、もう一度前のページを見せてくれと言う。

 人魚が指定したページの写真は見開きのカラー写真で比較的新しい作品のようだ。日付は二年前だが写真のデータはそれだけでカメラマンの名前も撮影場所も記されてはいなかった。

 その写真は海底から海面を見上げて写したもので、水中に差し込む光と水泡がオーロラのように揺らめき輝いている美しい作品だ。だが、このカメラマンが求めた被写体は水中の光ではなく、光の中を横切ろうとしているウミガメの姿だった。

 逆光のためシルエットだが、それだけで存在感を与えるウミガメの姿は優美で貫録さえ感じさせた。

「このウミガメがどうかしたの?」

 写真のウミガメに向かい人魚は激しく手を振って名前を呼んだ。

 ウミガメの名前は「古い大波」といい、彼女が生まれた時からの友達兼親代わり的な存在だったらしい。

 だが、ほとんど影でしかないこのウミガメをどうして「古い大波」だとわかったのか聞くと、後脚が欠けているからだという。よく見ると人魚の言う通り左脚にえぐれたような跡が見える。

 人魚は言う。

「古い大波」は、長い時を生きてきたので何でも知っている。優しくて勇敢で、いつも私を見守ってくれていた。嵐の時や夜の海で迷子になった時………もう数え切れないほど助けてもらった、と。

『デモ今度ハ、ダメダッタ。「古イ大波」ハ、アレホド陸ニハ近ヅクナト言ッテタノニ…何度モ何度モ、ソウ言ッテタノニ…』

「でもきみは見たかったんだろ? きみの瞳と同じ緑の陸を」


 ウミガメは人魚にたくさん陸の恐ろしさを話して聞かせたらしい。だが、恐怖より彼女の好奇心の方が勝ってしまった。

 人魚は少しだけ、ほんの少しだけ陸を見ようと浅瀬に近づいたその時、突然何かが彼女の脚を捕まえたのだ。あわてて逃げようとしたしたが、いくらもがいても脚に絡みついたものを外すことができなかった。

 やがて麻痺したように身動きがとれなくなり、気が付くと四角い水の中にいたという。最後に見たのは必死に彼女を助けようとする「古い大波」の姿だった。

 以上が人魚が捕まるまでの記憶のすべてだ。

 本来、センサー付き捕獲ネットの使用目的は人間に害を及ぼすサメなどを捕まえるためだが、あいにくこのあたりの海域には人喰いザメも発狂イルカの集団も姿を見せたことはない。だとすると、これは人魚を生け捕りにするために仕掛けられたものなのか?


 山村さん!?


 だいたい山村さんはどうやって人魚の存在を知ったんだ? ネットで? 文献で?

 バカバカしい。いくら山村さんが海洋生物学者だからって、人魚が実在するなんてことを信じるか普通?

 ふと、俺の中に言いようのない不安が広がった。時計を見ると19時を回ったところだ。

「ちょっと家に帰って来るけどすぐに戻るからね。ここでじっとしてるんだよ」

 俺は「古い大波」のページが閉じないように固定すると水槽の前に立てかけてやった。人魚は横たわると、写真を指でなぞりながら目を閉じた。


 辺りを警戒しながら小屋を出ると、再び雑木林沿いに研究所へと向かった。鍵の壊れた小屋は心配だったが、とにかく今はあそこが一番安全な隠れ場所なんだ。

 だが、自分にそう言い聞かせる努力が容易ではないことを俺は知っていた。


          ◆ ◆ ◆


『青ケ崎海洋生物研究所』

 親父が所長を務める、ここが俺の住処でもある。このヘビーな看板のおかげでイジメに遭ったしからかわれもしたが、それらすべてをここのせいにするつもりは毛頭ない。だが俺が全く宇宙に興味が無いのは、やはりここで育った影響が少なからずあるからだと思う。それに父子家庭ということもあり、両親のいる暖かい家庭というものを味わうことが出来なかったのは確かだ。親父が今からでも再婚すれば話は別だが。

 しかし、なんだかんだ言って俺はここが気に入ってる。宇宙研のラボのような人工的に歪められた空間もなければ、人体に得体の知れない宇宙線を照射したり動物たちを無重力の部屋に押し込んで振り回したりするような設備もない。

 研究所の主な仕事は、工場などから吐き出される汚水やスペースポートの建設によって汚れた海水の中で生物がどのように変化し、遺伝子にどんな影響があるのかを調査するといった、宇宙研に比べたら地味な仕事だ。

 だがもうひとつ、年々悪化の一途を辿っている地球環境への警鐘を鳴らすという大切な役割も担っていた。


 俺は自分の部屋へ行くと、今日の出来事を整理しながらこれからの計画を練った。

 ここに人魚が捕まっていたのだとすれば、どこかに監禁されていたはずだ。だとすれば、それを親父が知らないはずはない。まさか、親父も山村さんとグルなのか?

 不安はどんどん失望へと変わっていったが、ここで落ち込んでいる場合ではない。

 手始めに地下から調べることにしよう。地下にはボイラー室の他、不要になったアナログ資料の保管室や倉庫があるだけだが、小説などでは怪しい場所としてポピュラーではないか。

 廊下へ出ると顔見知りの研究員とすれ違った。軽い挨拶はいつもと変わらない。なるべく人目につかないように非常階段を使うことにする。

 地下へ着くと手前の部屋から調べていった。どの部屋も施錠はされていない。それだけ重要なものは保管されていないということだ。

 室内はどこもすえたカビとホコリの臭いが鼻を突き、人が出入りした形跡はなかった。念のため資料棚に隠れている壁もしらべてみたが、すべて異常ナシ。

 やはりという思いと出鼻をくじかれたことで引き上げようとした時、人の話し声が聞こえたような気がして俺は全神経を聴覚に集中させた。

 空耳ではない。俺の他にも地下に誰かがいる!

 だが部屋はすべて調べたはずだし、ゴキブリ一匹見つけることはできなかったのだ。

 俺はふと、廊下の突き当たりの壁を凝視した。行き止まりということもあり、唯一調べていない壁だった。そっと耳を近づけると、話し声はやはりこの壁の向こうから聞こえてくるようだ。確かに複数人が何やら言い争いをしているのか、時々声が荒くなるが言葉の意味は聞き取れない。

 壁の向こうへ行くにはどうすればいいんだ?

 隣接する部屋をもう一度調べ直したが、声のする部屋への入り口らしきものは見当たらなかった。

 待てよ。

 俺は研究所の見取り図を頭の中に描いてみた。確かこの真上は車庫があるはずだ。

 階段を駆け上がると裏口から車庫へ向かった。車庫は研究所の北側にあり、一角には整備や点検をするための作業場が設けられている。

 土曜日ということもあり停めてある車の数は少なかったが、その中に山村さんのフェラーリを発見した。

 作業場から携帯ライトを持ってくると、注意深くあたりを調べた。地面にあるフタはどれも人が出入りできるようなものではなかったし、部屋の位置を思い出しながらその周辺を見て回ったが、やはり手がかりになるようなものを見つけることはできなかった。

 腹が鳴った。そういえば朝から何も食べていない。人魚のことで頭がいっぱいで食事どころではなかったからな。

 とりあえず腹に何か入れてから、もう一度地下を調べてみよう。一から仕切り直しだ。

 そう思ってライトを横に振った時、明りの先に一瞬研究所の軽トラックが浮かび上がった。資材や機材を運搬するための一台だが、普段は表の駐車場に停めてあるのでなんとなく気になったのだ。

 整備のためにあるのかもと思いながら、なぜか不自然な気がしてならなかった。確かあそこには車体の底部を見るための地下ピットがあるはずだ。軽トラは、ちょうどその上に停められていた。

 俺は軽トラの下を照らすとピットの中を覗き込んだ。

 なぜ今まで気付かなかったのだろう。そこには小さな鉄の扉がひとつ、オイルで汚れた壁にへばりついていた。

 扉は胸の高さほどで鍵付きのドアノブが取りつけられている。さすがに開かないだろうとタカをくくってノブを回したらカチャリと音をたてて簡単に開いたので拍子抜けしてしまった。

 背をかがめて中へ入ると、まるで不思議の国のアリス気分だ。あえてライトは点けずに真っ暗闇の中を手さぐりで進んで行くと下へ行く階段で危うく転げ落ちそうになった。

 階段を下りるにつれ次第に天井が高くなってきたが、通路はまだ終わりではないらしい。どうやら方角的に西へ向かって延びているようだ。

「研究所の地下にこんな秘密基地があったなんて驚きだな」

 不思議と恐怖や緊張感は無く、少しわくわくしている自分に呆れた。もし人魚の捕獲に親父が関わっているのだとしたら、目的は何なんだ?

 なんで今さら……。

 いつの間にかあたりが薄ぼんやりと明るくなってきたのは、突き当たりのドアを照らすライトのおかげだろう。

 やっとたどり着いた。声の出所はここに間違いないが、忌々しいことにこのドアを開けるにはパスワードとIDカードが必要のようだ。ダメもとで自分のパスワードを入力してIDカードを差し込んだ。果たして俺のデータが認識される確率はゼロに等しいとあきらめかけた時、奇跡は起きた。


 入った部屋は通路と同じくらい照明が落とされていたが暗さに目が慣れたのか、周りを見るには十分だった。

 ここにあるのは数台のパソコンと配線が複雑に絡み合った何に使うかわからない機材や装置、そして寝台と巨大な空の水槽が二つ。

 人の姿は無かったが水槽の向こうから隣室の明りが漏れていて、話し声はその部屋から聞こえてくるのだった。 

「だから僕は何度も言いましたよね。捕まえたその日のうちにやっていれば逃げられることはなかったんだ!」

 山村さんの声だ。

 そっと中をのぞくと、そこには山村さんと例の男たちに取り囲まれた親父の姿があった。

「それを所長は、まるで子供が観察日誌でも書くかのようにホモ・アクアティクス……いえ、あえて人魚と呼びましょう。その人魚をただ眺めていただけで、それで何を研究してたと言えるんですか!」

 初めて聞く山村さんが親父を罵る声。だが、親父は黙ってそれを聞いている。

「いいですか、あの人魚が人類にとってどれほどの未来を抱えていたと思うんです。もし水中で生きるすべを手に入れることができたら、もう宇宙へ目を向ける者などいなくなりますよ。そうなれば所長はまた学会の壇上に立つことができるんです。真の科学者として!」

 山村さんはあたりを気にすることなく大声でまくし立てて親父を責めた。科学者という言葉に反応したのか、親父はフッと顔を上げると口を開いた。

「山村くん、君はなにか勘違いしてはいないだろうか。私は所長とは名ばかりの管理人にすぎないんだよ。研究や学会などという大それたものとは無縁の…」

「違う! それは今のあなただ。以前のあなたは海洋生物学界においては世界的権威ある学者のひとりだった。僕はね、あなたを目指していたんですよ。ところがあなたは理由もなく十一年前に学会の名簿から姿を消してしまった。突然なぜ? 十一年前にいったい何があったんですか!」

 親父は何も答えない。山村さんに最後まで喋らせる気でいるのか。

「所長、僕が何も知らないとでも思っているんですか? 僕は知っていますよ。あの頃、あなたは極秘に研究していたホモ・アクアティクス…人魚をついに見つけたんだ! どうですか、その通りでしょう!」

「山村くん、少し冷静になりたまえ」

「……そうですか。あなたが違うと言い張るのならそれでも結構です。だが、僕やここにいる者たちは知っている。確かに見ました。人魚を! あなたが手を出さないというのなら僕がやります。人魚は僕のモノだ!」

「やめるんだ! 彼らから得られるものは何も無い。ただ棲んでいる環境が違うというだけで私たちと同じ人間なんだよ」

「彼ら? ははははっ、そうか人魚はあれ一匹だけじゃないんだな! 今度捕まえたらあなたの許可など受けずに実行しますよ。僕だけの人魚ですからね!」

 完全に理性を欠いたようなセリフを吐き終わると、山村さんと男たちがこちらを向いたのであわてて棚の陰に身を隠した。間一髪、スニーカーの先が完全に見えていたが山村さんたちはそれには気付かず部屋から出て行った。

 ひとり残った親父は疲れ切った様子で椅子に座ると、

「そこにいるのは、マモルか」

 顔を上げずにそう言った。

「今の話、聞いていたんだな」

「うん、山村さんは人魚に何をしようとしているの?」

「愚かなことだ。人魚を解剖したところで何がわかるというのだ。むしろ何もわからないままの方がいいことだって世の中にはたくさんあるんだ」

「でも、水中で生きられる体の構造は山村さんに限らず誰だって知りたいことなんじゃ……」

「魚と同じだよ。ヒトデや珊瑚、他にも水中で暮らす生物はたくさんいる。そうだろ?」

 俺の言葉をさえぎるようにそう言うと、

「心は人間と同じということだ」

 しばらくの沈黙。

「マモル、人魚の居場所を知っているんだな?」

「うん」

「見つけてくれたのがお前でよかった。早く海へ帰してやっておくれ」

 俺は部屋を出る前にどうしても確かめておきたいことがあった。

「人魚、逃がしたの父さんだね」

 答えは無かったが俺にはわかった。親父がただひとこと「早く、な」と言っただけで。そして、俺がいつここへ辿り着いてもいいように俺のパスワードとIDカードを登録しておいてくれたのも親父だということを。



          ◆ ◆ ◆


 人魚は眠れぬ夜を過ごしていた。

『波ガ、イナイ。海草タチノ歌ガ聴コエナイ……』

 人魚は胸の前で手を合わせると小さな輪を描いた。するとそこから光の球が現れて水中を漂いはじめた。人魚は同じ動作を繰り返しながらいくつもいくつも光の球を水中に放すと、ついには水槽全体が光輝く箱と化した。

 人魚は光の球をひとつ手に取り水槽から出ると、あたりに散らばっている本や写真を不思議そうに眺めては片づけるように重ねていく。

 そうしてるうちに、ある物が目に止まった。それは二枚貝を円形に削って組み合わせた物に青い紐が通してあるだけの、首飾りにも見えるモノだった。

 迷うことなく人魚はそれを首にかけると、再び小屋の探索に取りかかった。すでに光の球は人魚の手を離れボゥと宙に浮いている。

 時刻はもうすぐ午後九時になろうとしていた。

 暗闇に包まれた雑木林の中で、その光を見つけるのはたやすいことだった。彼らが探し求めているそれは、鮮やかに発光し闇の中に浮かび上がっていたのだから………。


 すぐに戻ると言っておきながらこんな時間になってしまった。小屋の近くまで来た時、中に明かりが見えたので一瞬火事かと慌てて小屋に飛び込むと、俺の目の前を光の球が通り過ぎていった。周りを見ると同じものが五つ六つ空中に浮かんでいる。

 突然入って来た人間に驚いたのか、人魚は小屋の隅で小さくなっていた。

「ダメじゃないか。灯りなんか…ヤツらに見つかったらどうするんだよ」

 入って来たのが俺だとわかるや、人魚は安堵の表情を浮かべて俺の腕にしがみついてきた。

「ちゃんと水の中にいないと、また苦しくなるよ」

 よほど心細かったのだろう。水槽の中には浮かびそこねた光の球が二つ漂っていた。 

「これはきみの言葉ではなんて言うんだい? 人間は不知火(しらぬい)と呼んでるよ」

 幼い人魚は軽く、水槽に戻すのは容易いことだったが人魚の手が俺を離そうとしなかったので困った。

「俺も水槽へ入れっていうの? 溺れちゃうよ」

 それでも人魚は俺の腕をつかんだままエメラルド色の瞳でじっと見つめてきたので、その物言いたげな目を見た俺はついに降参した。

「……参ったよ。きみには最初からわかっていたんだね。そうだよ、俺は……俺もきみの仲間だよ」

 まっすぐ見つめる瞳の色に惑わされたのかも知れない。気付くと今まで誰にも話したことのない自分の両親の話を目の前にいる小さな人魚に話し始めていた。

「……と言っても人魚は父の方で、母親は陸の人間だった。今の親父は母の実父、祖父だよ。両親は俺が五歳の時に死んでしまったんだ」

 うまく話す自信がない。それはきっと封印していた記憶だからだろう。


「あの日、いつものように母は俺を連れて父に会うために海へ船を出した。でも悪天候で沖はかなり時化( しけ)ていて思うように船の操縦ができなかった母は、近づいてくる父に気付かなかった……」

 母はなぜ荒れた海に船を出したのか。

 そう、あの日は俺の五歳の誕生日だったから。

「そして父は母が操縦する船のスクリューに巻き込まれて死んでしまった。これでおしまい。考えてみれば滑稽な話しだよな」

 時化がおさまり気が付くと俺はひとり、船の上で泣いていた。その時のショックで記憶を無くした俺に、今の親父が両親は俺が生まれてすぐ事故で亡くなったという新しい記憶を与え自分の子供として育ててくれた。

「すべて思いだしたのは、きみに出会ったからだよ」

 人魚は泣いててた。

 誰かが人魚の涙は真珠の涙だと言っていたが、それは間違いだとわかった。人間と同じ涙だ。

「俺は母がどうやって父と出会ったのかは知らない。でも、親父は知っていると思う。両親が死んだ時、親父は学者としての自分の研究をすべて捨てたんだ。今までそのことにどんな意味があるのかわからなかったけど、きみに会えてやっとわかった気がする」

 きっと親父は俺が両親のことを知りたいと思えば話してくれるだろう。でも、今さら知ってどうなることでもない。

「むしろ知らない方がいいと思ってるんだ」

 今は反対に俺が人魚の手を握り締めていた。

「さぁ、ここを出よう。早く海へ帰らなきゃね」

 毛布に水をたっぷり含ませると、人魚の体を包んで小屋を出た。

 もしかしたら小屋の明りを見られたかも知れない。それよりも俺たちの話を聞かれてしまったかも知れない。そして今もどこかで俺たちを見張っているのかも知れない。

 不知火の灯が細くなってきた頃、我に返った俺は焦りのため自分が行くべきルートを見失いかけていた。

 落ち着いて考えるんだ。

 ここから海へ出る最短ルートは人魚と会った道まで戻り、南下して一つめの交差点を西へ向かえば海岸へ出る。

 毛布にくるんだ人魚を背負い、闇の中を研究所の明りを目指して進む。裏門へ続く道に誰もいないことを確認すると、いつでも雑木林に隠れられるよう道の端を歩いた。


 しばらく行くと左右に茂っていた木々が途切れ、前方に点滅信号のある交差点が見えてきた。普通ならあの交差点を左折するのだが、よく見るとハザードランプを点けた車が数台停まっている。おそらくあれは山村さんの仲間だ。このぶんだときっと他の道も封鎖されているに違いない。

 人魚を包んでいる毛布が乾きかけていた。

 しばらくここにじっとしてヤツらが諦めるのを待つか……いや、それまでに人魚の方がもたないだろう。

 そこへ、また一台の車が停まった。シルエットから見てワンボックスカーだとわかる。後部ドアが開いた時、犬の鳴き声が聞こえた。明らかに獲物を狩るために訓練された猟犬たちの勇んだ吠声がここまで聞こえてくる。

 運の悪いことに俺たちはヤツらの風下にいた。

 ヤバいと思ったその時、男の掛け声と同時に一斉に犬が放たれたのだ!

 迷っている暇はない。俺は人魚を担ぎ直すと雑木林の中を必死で走った。枝が手足に当たり痛かったが、犬の餌食になることを思えばなんてことはない。

 はるか後方から吠声が聞こえる。悔しいが追いつかれるのは時間の問題だろう。

 空腹で腕に力が入らない。腕だけでなく全身の体力が低下している。擦り傷に汗が染みて痛み、頭の芯がぼーっとし始めた。もうどこへ向かっているのかすらわからない。

 自分では市街に通じるハイウェイの高架を目指しているつもりだったが見回しても道路照明灯はなく、それどころか家の明りひとつ見えるものはなかった。

 人魚は死んだようにぐったりしていた。もうダメかも知れない……俺が頼りないせいで、人魚を海へ帰すどころか死なせてしまった……みんな俺のせいだ!


 どれくらい逃げて来れたんだろう。犬の声は聞こえなかった。どうやら風向きが変わったらしい。

 ただ暗く静かで、世界に俺と死んでしまった人魚だけが取り残されたかのようだ。

「そこに誰かいるの?」

 どうやってここにたどり着いたのかわからない。雑木林の中を彷徨っているうちに、どこかの家の庭先に座りこんでいたらしい。犬の声ばかりに気を取られていた俺は、突然の人声に心臓が飛び出るほど驚いた。

 だが逃げる目的を失ってしまった今となっては、誰に見つかろうがもうどうでもよかった。

「ねぇ、誰かいるんでしょ?」

 女の子の声だ。それもどこかで聞いたことのある声だったが、思考が錯乱していて思い出せない。

「で、出てこないなら、警察呼ぶわよっ」声の主が近づいてくるのがわかった。決して怪しい者ではありませんと言いたいところだが、世の中に人魚の死骸を抱えた男くらい怪しい者などいないだろう。

「……って、浜崎くん? 浜崎マモルくん!?」

 ほら、やっぱり知り合いだ。明りが点いたので声の主を確かめようとしたが、逆光で顔がよく見えない。

「いったいどうしたの? とにかく入って。その子も具合悪そうだし」

 思い出した。俺をフルネームで呼ぶのは委員長の河村奈緒しかいない。

 俺は立ち上がるのに苦労したが、河村の前で無様な姿は見せたくなかったので棒のように感覚が無い脚の神経をたたき起すと、なんとか人魚を背負ったまま河村の家に上がり込んだ。

 家の中は広いのか狭いのかわからない洋風建築で、俺たちは書斎らしき部屋へ通された。病人の寝床を準備してくると言って立ち上がった河村に、

「待ってくれ、その前に風呂に水を頼む」

「お風呂?」

 河村が振り向いて俺を見た。

「やだ、ほんと! ひどい格好。それに……」

 あまりにも俺の顔をまじまじと見つめるので、そんなにひどい顔をしているのかと情けなくなったが、今は俺の顔なんかどうでもいい。せめて最期くらい人魚を水に入れてやりたいと思ったのだ。

「なんだよ、顔が悪いのは生まれつきだ」

「ううん! イイ顔してるわよ。それより早くその子を寝かせなきゃ」

「だから違うんだって!」

 俺は、人魚のことや俺たちが今おかれている状況を河村にどう説明すればいいのか迷った。なんの関係もない河村を巻き込むわけにはいかなかったし、話したとして怖がらせてしまうかも知れない。

「ねえ、話して。その子は誰なの?」

 俺の迷いを見抜いたように河村が言った。

 人魚はすっぽりと毛布にくるまれているので体の鱗は見えない。それに死んでしまったのであれば、俺の役目も終わったことになる。

「河村は今日、学校で俺に言ったよな? 人魚の存在を信じてるって」

「ええ、言ったわ」

「……彼女が、その人魚だよ」

 俺はそう言うと、静かに毛布を開いた。

 自分のせいで死んでしまった人魚の顔なんか見たくなかったし、人魚を見た河村の顔も想像できたので俺は目を伏せていた。

「たいへん! 早く水に入れてあげないと死んじゃうわ!」

「死んじゃう!? もう人魚は死んでるんだ!」

 全く想定外の言葉が河村から返ってきたので思わずキレてしまった。

「なに言ってるの! しっかりしなさいよ浜崎マモルくん、ちゃんとまだ生きてるじゃない!」

 人魚を前にした河村に恐怖の色は無かった。それどころか叱られたよな今、俺。

「ほらよく見て。首のところの血管、まだ動いてるでしょ?」

 河村が指差したのは顎の下あたりで、それは血管というか筋らしきものだったが確かに動いているのがわかった。

「お風呂の水、淡水でもいいの?」

「ああ」

「うちの風呂場、狭いのよ。苦しいかも知れないけどごめんね。それから夜食でも食べながらこのわけを聞かせてちょうだい。浜崎くんに話す気があればだけど」

 俺は何も言えなかった。河村に感謝の言葉ひとつくらい言わなければと思ったのだが、人魚が生きていた喜びと思ってもみなかった河村の行動が、俺の口を麻痺させていた。


          ◆ ◆ ◆


 いったい何をどこから話せばいいのだろう。両親のことは言いたくなかった。とにかく人魚とどこで会って、誰に追われているかだけをかいつまんで話した。河村は俺の傷の手当てをしながらひと言も口をはさまず聞いている。

「……で、もうダメかと思った時、河村に助けられたんだ。本当にありがとう。上手く言えないけど」

「どういたしまして。はい、手当て終わったわよ……ちょっとこのまま待っててね」

 俺の話の感想も言わず河村は部屋を出て行ってしまった。

 しばらく経って戻って来た河村は、息をはずませながらいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。

「どこへ行ってたんだ?」

「シッ! 耳をすまして」

 言われた意味がすぐにわかった。

「犬だ!」

 それはまだ近くまで来たとは言えない吠声だったが、とうとう俺と人魚の匂いを嗅ぎつけたのか。

「落ち着いて。犬ならたぶん大丈夫だと思う。さっき家の近所にありったけのコショウとガーリックパウダーを撒き散らして来たから!」

 なんて子だ。

 俺はあらためて河村奈緒という少女を見た。やはりお世辞にも美人とは言えないが、彼女を美しく見せるものが河村の中にある何かだということに、今はっきり気が付いた。

「あのね、映画のワンシーンにあったのを思い出したの。だから私が考えたことじゃないのよ。映画はたくさん観ておくものね」

 と、河村は照れくさそうにそう言ったが、もし上手くいけばかなりの時間が稼げるかも知れない。

「ありがとう。でも、もう行くよ。河村だけじゃなくご両親にも迷惑をかけるわけにはいかない」

「それも大丈夫よ。だって、この家に住んでいるのは私だけだもの」

 そういえばこれだけ騒いだにもかかわらず、河村の家族は誰ひとり現れなかった。本当に彼女は一人で暮らしているのか……それはそれで物騒だな。

「父はめったに帰って来ないわ。一週間ほど前にカナダから絵ハガキが届いたから、今頃は北極圏あたりにいるんじゃないかしら」

「河村のお父さんて……」

「自称、冒険家。でも本当は売れないカメラマンだけどね」

 へぇ、全然知らなかった。

「父に初めて会ったのは五歳の時よ。いきなり知らないおじさんに抱っこされてギャン泣きしちゃったの、私」

 河村はまるで他人事のように笑った。五歳といえば、俺の両親が死んだ歳だ。

「母はそんな父について行けなかったのね。私も一緒に家を出ようって言われたけど……行けなかった。今は時々だけど伯母さんが来てくれるの」

 あっけらかんと複雑な家庭の事情を話す河村を直視できなくて目をそらすと、棚に並べられた本の背表紙が目に入った。そこにはレイ・ブラッドベリやジャック・フィニィといった俺の知ってる著者に混じって、海に関する書籍が数冊並んでいた。さらに本棚の最上段には、まぎれもなく俺の腕が悲鳴を上げた漬物石然り『オーシャンフォトグラフ大全集』が全巻揃って積み上げられていた。

「ああ、あれ? あの写真集に父の写真が載ってるのよ」

 俺の視線に気付いた河村が、写真集の中から一冊を引き抜くと「ほら、これよ」と言って開いたページにあったのは、見開きの海中を横切るウミガメのシルエット! 「古い大波」の写真だ。

「こんなことってあるんだな」

 俺は河村に写真のウミガメと人魚の関係を話して聞かせた。河村はたいそう驚いて感動し、この写真は二年前に父親から自分宛に送られて来たものだと教えてくれた。だがどういう経路で写真集に掲載されることになったのかはわからないという。

「確かにいい写真ではあるけど、父は自分が納得して提供したものじゃないからと掲載料は受け取らなかったの。ヘンに芸術家気質のところがあるから名前を載せなかったのもそのせいだと思うわ」

 なるほどね。

「人魚で思い出したけど、大変なの! さっき人魚の様子を見に行ったら、お風呂の中が泡でいっぱいになってるのよ! 」

「それなら心配いらないよ。人魚はそうやって自分の体を治癒するんだ。あと二、三時間もすれば元気になる」

「そ、そうなんだぁ。よかった、私てっきり人魚が溶けちゃったのかと思った」

 俺たちは顔を見合わせて笑った。あまりにも河村が普通でいてくれるから張りつめていた緊張の糸が緩んだ。その時、玄関のチャイムが鳴った。

 こんな時間に訪ねてくるのはヤツら以外に考えられない。もう少しで追われていることを忘れるところだった。

「浜崎くんはここにいて。絶対に出てきちゃダメだからね」

 ついに終わりか……。自分の心臓の音だけがやたら聞こえる中で、河村が戻ってくるまでの時間が異常に長く感じられた。もしかしたら河村に何かあったのか!?

 そう思って立ち上がりかけた時「御苦労さまー!」という河村の声とドアが閉まる音がした。

「お待たせ。あれはやっぱり人魚を探してる連中に違いないわ。犬を連れた男が二人、浜崎くんの写真を見せて聞き込みしてるみたい」

 しかし河村はそこまで言うと、険しい表情から一変してこらえきれないとばかりに笑い出すとあわてて口を押さえた。

「だ、だって犬のやつったら、ヨダレと鼻水で顔面ぐしゃぐしゃ!……ありゃ、かなりコショウが効いたと見えるわ。もう鼻は役に立たないわね。あ~ダメ、おかしくって我慢できない!」

 河村にとっては涙目になるくらい愉快なことだろうが、俺は笑うことができなかった。

「それで、俺の写真見せてヤツら、なんて言ってた?」

「この少年は非常に致死率の高いウイルスに感染したまま病院から逃げ出した。だから見かけたらすぐ警察に知らせてくれって」

 ははは、その作り話の方がよっぽど笑える。

「人魚のことは何も言ってなかったのか?」

「うん、聞かれたのは浜崎くんのことだけ。だから言ってやったの。うちには私ひとりしかいませんから、誰であれ怪しい人を見かけたら直ちに警察に通報しますって」

 まさかそれぐらいで納得して帰る相手だとは思わない。きっとヤツらはまた来る。そして上品とは言えない家宅捜査をするだろう。

「あいつらがあきらめるまでうちにいればいいわ」

「それはできない。次にヤツらが来て俺たちが見つかったら河村も人魚を見た以上、何をされるかわからない」

 河村は反論したそうだったが、俺の意志が固いことがわかると仕方なく周辺地図を広げて言った。

「浜崎くん、まさか車の運転できないよね?」

「免許は無いけど、できないことはない」

「マジ!?」

 俺は時々、研究所の敷地内で山村さんのフェラーリを運転させてもらっていたのだ。

「じゃ、うちの車を使って」

「でも、それって……」

「自信ない?」

「まさか」

「悔しいけど外の様子じゃ、もう人魚を連れて徒歩で海まで出るのは無理だわ」

 彼女の言う通り、もう徒歩では逃げ切れないだろう。

 風呂場へ行くと人魚はまだ泡の中だったが、来た時と同じように濡らした毛布でくるむとガレージへ向かった。

「これ使って。防水だから水を入れてもしばらくはもつと思う」

 河村が人魚のために貸してくれたのはシェラフだった。

「浜崎マモルくん、約束して。必ず戻って来てくれるって」

「わかった、約束する。無事に人魚を海へ帰すことができたら、このお礼を必ずするよ」

「じゃあ、来週の英語のテストお願い」

「え?」

「うそうそ、さぁ早く行って!」

 車はオートマチックの四駆だった。フェラーリはミッションだったので最初の頃はよくエンストして山村さんに笑われたっけ……それを思えば楽勝だ。

 俺はエンジンをかけると慎重にガレージから闇の中へ車をすべり込ませた。バックミラーごしに河村の家を見たが、暗くて彼女の姿は見えなかった。



          ◆ ◆ ◆


 河村の家を出ると道路に従って北へ進路をとった。本当は南下してから西へ向かった方が海へは近道なのだが、ヤツらの検問を突破する自信は無かったし車という足が手に入ったこちらとしては多少遠回りになっても安全の確率が高い方を選んだ。

 まずはハイウェイと並行して北上し隣街へ行く。途中、海岸へ通じる道は無いので市街を抜けてから国道へ合流すれば早くて二十分、遅くても三十分以内には海へ出るはずだ。人魚は水の入ったシェラフの中だし、時間的に問題はない。

 ハイウェイの高架下に出た。この側道を走り続ければ街へ出る。時計を見ると日付が変わる時刻だった。

 うまくいけば日の出までに人魚を海へ帰すことができるだろう。

 と、そう思った時、ヘッドライトの先に人影をとらえた。さらに数台の車によるバリケードも見えた。

 検問だ。

「チッ!」

 向こうはまさかドライバーが俺だとは気付いていないが、停車の合図を送っているので止まれば結果はわかりきっている。車で築かれた砦は厚い。

 俺は強行突破をあきらめると、思い切りハンドルを左へ切った。こうなったら雑木林の中を突っ切って海へ出るしか道はない。

 ヤツらも事の異常に気付いたのか、しきりにクラクションを鳴らしている。

 確かこの先は青ケ岬あたり。眺めのいい断崖絶壁だ。

「河村には悪いが、このまま海へ突っ込むか」

 五十キロのスピードで木々の間をすり抜けるドライビングテクニックに我ながら感心していると、バックミラーに光が映った。ヤツらもタダ者ではないらしい。俺以上のドラテクで徐々にその差を詰めてきている。 

 林が途切れた。

 そのとたん、車が数回ノッキングしたかと思うと急にスピードが落ち始め、岬まであと少しというところで止まってしまった。ここまで来てガス欠とはお約束にもほどがある。

「動けよ! コノヤロー!!」

 数台の車のライトがすぐ近くまで迫ってきていた。

 岬の先端までどれくらいの距離があるのか暗くてよくわからなかったが、俺はシェラフから人魚を出すと抱きかかえて波の音がする方へ走った。

 人魚はすでに目覚めており、必死で車のパウンドに耐えていたらしい。

 前方は追って来る車のヘッドライトによって浮かび上がった俺たちのシルエットがあるだけで、まだ海の気配はない。

「止まれ! 止まるんだ!」

 車から山村さんの声がした。が、もちろん従うわけにはいかない。


 潮の香りが濃くなり、いつの間にか地面が土から岩場へ変わっていた。車はもう追ってこない。

 やっと岬の端にたどり着いたのだ。

「さぁ、マモルくん。いい子だからその人魚をこちらに渡すんだ」

 ヘッドライトの逆光の中には五、六人の人影があった。その中の一人がこちらへ近づいて来た。

「それ以上こっちへ来るな!」

「マモルくん、落ち着いて考えなさい。すべては人類のためなんだよ。いずれ宇宙に見切りをつけた人類が次に目を向けるのは海底だ。そのためには何としてでもホモ・アクアティクスの生態を調査する必要があるんだ。君ひとりのわがままで人類の未来を潰すつもりか? わかったら早くそれを連れて来なさい!」

「嫌だと言ったら?」

 山村さんは背広の内ポケットから何かを取り出すと、さらに一歩こちらへ踏み出した。

「撃てるものなら撃ってみろよ! 俺は人魚をここから突き落とす!」

「ははは、この崖の高さはゆうに百メートル以上はある。そんなことをして人魚を殺す気かい?」

 ある程度の高さは想像していたものの、闇の中で見下ろした波打ち際は黒く果てしない奈落の底へ続いているかのように思えた。だがもう躊躇している場合ではない。

「残念でした。これくらいの高さから飛び込んだって人魚は死んだりしない。どんな水圧にだって耐えられる体だからね」

「ほう、マモルくんはえらく人魚に詳しいんだね……それじゃあ、君はどうかな?」

 また一歩、さらに近づいた山村さんの右手に拳銃が握られているのがはっきりと見て取れた。

「そこから落ちて粉々になるか、体に鉛を撃ち込まれてあの世へ行くか、こちらへ人魚を渡して助かるかよく考えろ! わかったら、さっさとそいつをよこすんだ!」

 なんて汚ない野郎だ。

 人魚にだけ聞こえるように、俺が突き飛ばしたら海へ飛び込めとささやいた。

「大丈夫だよ。岬の下は水深が深くなっているから、きみなら助かる」

 だが、人魚は俺も一緒に行こうと言う。

「俺は無理だ。いくらきみと同じ血が流れていると言っても、この高さじゃ助からないよ」

「どうしたマモルくん、別れを惜しんでいるのか? それじゃあ五つ数えるまで待ってやる。そしたら人魚をこちらへ連れて来るんだ。いいな?」

 一………

 二………

 三………

 四………

 五………

 俺は人魚を抱きしめると、後ろの闇に身を投げた。

「マモル! なんてことを!」

 最期に見えたのは、駆け寄って来る山村さんの姿だった。

 俺たちはどんどん落ちていった。まるで終わりがないように感じられたが、やがて頭部に衝撃があり続いて耳の中に激痛が走った。体の感覚は無かったが、意識はまだ途切れていなかった。

 遠くから人魚の声が聞こえた。

『アリガトウ、海ヘ帰シテクレテ。コレ、モラッテイクネ。一族ノ証トシテ、ミンナニ見セルネ』

 ……それ……貝の首飾り……父さんの形見……一族……みんなって……そうか……きみひとりじゃないんだ……そうか……。

 そして俺は気を失った。


         ◆ ◆ ◆


 

 目が覚めると、そこは自分のベッドの上だった。

 まだボーッとしている頭には包帯が巻かれ体中が痛んだが、どうやら一命は取りとめたようだ。

 窓のそばに誰かいるのがわかったが、眩しくて顔が見えない。まさか、山村さん!?

「おお、気が付いたかマモル」

「親父?」

 いま何時だ? なんだってこんなに眩しいんだ?

「俺、岬から落ちてどうなったの?」

「河村くんという子が来て教えてくれたんだよ。わたしが無力だったせいでマモルを危険な目に遭わせてしまった。許してくれ」

「親父のせいじゃない。人魚とは出会うべくして出会ったんだ。きっと今の俺じゃないと意味がなかったんだよ」

 突然、親父が俺の顔をグイと引き上げた。

「なにすんだよ、眩しいじゃないか!」

「ほぉ……こうして見ると、おまえの父親そっくりだ。これではしばらくの間、学校へ行くのは無理だな」

 そういえば、河村も俺の顔を見て何か気付いた様子だったな。

「親父、鏡!」

 俺は鏡に映った自分の顔を見て愕然とした。そこには白眼(はくがん)のないエメラルドグリーンの目をした少年の顔が映っていたからだ。

「こ、これは……どうなってんだよ!?」

「おそらく先祖がえりだろう。一時的なものと思われるが人魚と接触したことによって変化が起きたとみられる」

「学者口調で言うなよー! 戻らなかったらどうしてくれんだよ!」

「その時は山村に預けるか。いや、すまん。冗談だ」

 ビクッとした。笑えない冗談だ。

「山村さんはどうしたの?」

「あの後、銃刀法違反で逮捕されたよ。山村と行動していた男たちは山村が闇サイトで集めた連中だ。皆そろって人魚を見たと言い張っているが、警察は集団催眠にかかっていると判断して相手にしていないらしい」

「ここも調べられたの」

「いや、山村は拳銃の入手ルートを素直に吐いたそうだ。すべて単独でやったことだと。人魚のことはおそらく口に出してはいないだろう」

 いい人だったのにな……山村さん。

「それより問題はお前だ。無免許運転は見逃されないぞ」

「わかってる」

「だが今のところ、お前がハンドルを握っていたという証言がない。今回は家裁行きを免れたが、次は無いと思え」

「ラッキー!」

「馬鹿もん」

 親父は知っているのだろうか。海へ落ちた時、俺の体を支えてくれた大勢の手があったことを。そのどれもに水掻きがついていたことを……。


 一週間後、俺は学校へ行けるようになった。

「浜崎マモルくん!」

 俺をフルネームで呼ぶのは河村しかいない。彼女のことだから、まさか人魚のことは誰にも話していないと思うが。

「体はもう大丈夫なの?」

「ああ、この通り」

 俺は大げさにガッツポーズをしてみせた。

「あー……えーっと、今回の件ではいろいろとお世話になりました! 本当に感謝してる。河村がいなかったら今頃どうなってたか……」

「やぁね、あらたまっちゃって。気持ちわる~い」

「きも……って、それより気が付いてたんだろ? 俺の……目のこと」

「め? 浜崎くん目がどうかしたの? もしかして花粉症?」

 河村奈緒とはこういう子なんだ。

「了解。もう何も聞かないよ」

 

 その日の放課後。

「は、ま、さ、き、く~ん!」

 誰だ変な呼び方するヤツは! と声のする方を見ると、そこにはいつかのメルヘン三人組がいた。

「今度は何の用だよ。人魚なんかいないって言っただろ」

 河村の前ではバツの悪いセリフだが。

「違うわよぉ。人魚はあきらめたけどぉ、これなら絶対に浜崎くんのところにいると思うのぉ」

「な、何がうちにいるってんだよ」

 誰かこいつらなんとかしてくれ!

「それは、ユニコーンでぇす! あ、もちろん伝説の方じゃなくてクジラの仲間の方だからぁ……」

「どっちにしたっていねーよ!!」

 俺と河村が、同時にその場から逃げだしたのは言うまでもない。


          ◆ ◆ ◆


 今でも時々、鏡をのぞく。

 もしかしたらそこに、エメラルドグリーンの目をした人魚がいるかも知れないと……。




~ 終わり ~














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