激突! 獣と女子高校生の放課後の決闘ッ!!
歪な笑みを止め、榛銘は声がした方向を見た。
「なっ――」
何か言おうとした榛銘に、獣が跳びかかる。
愛奈は思うより、考えるよりも先に曲がり角を飛び出した。明らかに間に合わない。榛銘はあの凶悪な爪か牙でズタズタにされてしまうだろう。そう気づいても、足は止まらなかった。
獣は大きく口を開いて、榛銘が咄嗟に出した腕を、肩まで飲み込んだ。飲み込んで、そのまま吐血した。獣は首の後ろ辺りから、榛銘の腕の延長線上から、刀を生やしていた。
もしも榛銘が刀を持っていたなら、切っ先はそこから突き出しただろうと、そんな言い訳を感じるような不自然さで。
榛銘はもう片方の腕を獣の口内に突き入れ、乾いた、愛奈が部活で良く聴いていた銃声を更に大きくしたような轟音がして、獣は力尽きた。
涎よりも血の方が多い液体だらけの口から腕を引き抜いた時、もちろん、榛銘は手に何も持っていなかった。
飛び出した勢いを殺し切れず、愛奈と榛銘は真正面から激突する。
愛奈の体はそのまま榛銘を押し倒し、二人もつれ込むように倒れた。愛奈は榛銘の上になったまま、榛銘の肩に腕が付いていることを確認する。
「大丈夫ですか!? 腕、ある、し、止血しないと!」
とにかく、傷口に手を当てようと榛銘の肩口に触る。じっとりと汗ばんだ掌に布の感触が吸い付く。愛奈は手を動かし、榛銘の肩を撫でた。
そうして、どこにも血の感触などは無かった。
「……え、あ、あれ?」
動揺する愛奈を、榛銘はどかそうと手で押す。
「……退け」
愛奈の剣幕に圧されたように、榛銘の声は小さい。しかし、その冷静さに釣られて、愛奈も幾分かの冷静さを取り戻した。
「あの、け、怪我は?」
榛銘はゆっくりと首を振った。
「何の話だ」
「何の、って……」
愛奈は辺りを見渡した。凄惨な殺し合いの現場が辺りには広がって――。
いない。廊下中に撒き散らされた血痕はなく、獣の死体も、濃密な鉄の生臭さを催す空気すら、あまりに清浄。どこにも、先程までの痕跡が遺されていない。まるで、夢か幻のように。
しかし、あれを幻と思い込むことも、愛奈にはできなかった。でなければ、この手の震えは何だというのか。
榛銘は圧し掛かる愛奈を押し退けて、立ち上がった。
そのまま立ち去ろうとして、床に倒れ込む。
「綾部さん!?」
前のめりに倒れ込んだ榛銘の体をひっくり返し、上体を抱き起こす。血の臭いは何処にも無く、代わりに汗が榛銘の制服を濡らしていた。
「大丈夫ですか? しっかりしてください!」
榛銘は声も返さず、荒い息を吐いていた。
はらりと頬に掛かった髪が汗で張り付く。黒が混じった肌は上気し、荒い息は苦悶の声を加えた。額から首筋まで、肌の見える部分は汗が流れ、榛銘の体に触れる手が吸い付く。濃厚な甘い香りと熱すぎる体温は、女の愛奈の理性すら溶かす蜜酒の様だった。
いや、と思い直す。気の間違いは忘れる。
あまり体を揺らしてはいけない。先生に連絡して担架でも持って来て貰うべきだ。陸上部では、そう教わった。
なのに、榛銘を置き去りにしてここを離れられない。
日は完全に沈み、明かりが点いていない廊下は闇に包まれている。理性は走れと言っているのに、体はちっとも動かなかった。
――だって、ここには獣がいる。
あの光景を忘れられない。あの血の臭いを憶えている。あの恐怖を、身震いを、この体は憶えている!
愛奈は榛銘の体を抱え直す。背に負ぶい、慎重に暗闇を歩いていく。三年間鍛え続けた脚は、女の子一人分の体重をしっかりと支えてくれた。
校舎の保健室は閉まっていた。午前中授業だからだろう。愛奈はそのまま帰路に着いた。
校舎から女子寮へ歩く傍ら、その坂を咲く桜に目を向けた。背中には榛銘の温かい重みが乗っている。
日の落ちた通学路は、月の光とそれを反射する桜の花弁のみに照らされている。
背筋が泡立つほどに幻想的な風景は、愛奈を取り巻く環境の変化もあいまって、おおよそ現実的では無かった。
思わずため息を吐く。
だが不思議と、先程の光景については何の感想も浮かばなかった。
校舎を走り回る餓えた飢狼のような獣。獣と揉み合い、絶命させた榛銘。血臭漂う生臭い空間。血を塗りたくられた廊下。
負ぶわれた榛銘は何時しか安らかな寝息を立てている。
榛銘の体温は高く、愛奈もまた人ひとりを背負って坂道を下りていて、じっとりと汗をかいてきた。背中はもう服も溶かして、榛銘の肌とを接着したようですらあった。
満月は優しく夜の桜を照らしていた。
もう一度、ため息を吐く。
ああ、なんて――、
背中の荷物が蠢く。目覚めが近いのかもしれない。愛奈は彼女を歩かせないようにゆっくりと、坂道を下って行った。
榛銘を自分のベッドに寝かせる。女子寮の寮母はあいにくの不在だった。
大分安らかになったとはいえ、榛銘の顔は赤く、体温は愛奈の肉を溶かしそうなほどだ。
榛銘の息は熱く愛奈の頬を撫でる。揺れた髪がくすぐったい。
榛銘の睫毛が震える。顔に掛かった黒い絹髪を退けてやると、驚くほどに表情かおが見えた。少し体を傾ければ唇が触れる距離。
甘い汗のにおいがする。
愛奈は自分が、どうして興奮しているかも分からぬままに心臓を高ぶらせた。
「んっ」
榛銘の口から声が漏れる。その苦しげな声を聴き、愛奈は必死に冷静さを取り戻そうとした。
互いの吐息が当たる距離。愛奈の体温ねつを感じてか、靴を脱がし、ネクタイを外そうとしたところで榛銘は目が覚めた。
至近距離で目が合う。愛奈は慌てて、しかしネクタイはしっかと握ったまま飛びのいた。するりと赤いネクタイは外れる。
榛銘は不機嫌そうに、身動ぎもしないまま愛奈を睨みつける。
「……なにやってんだ、お前」
問われて、ベッドの上で愛奈は首をぶんぶんと振った。
「ちち違いますよ!? ネクタイ閉めたままだと苦しそうだったからで!」
気の迷いなんて忘れて、愛奈は榛銘の顔色を見る。
意識が戻った榛銘は呼吸も乱れていなければ苦しげでもない。まるで悪い夢を見ていただけだった、とでも言うような。
「……大丈夫ですか? 苦しくありません?」
思わず聞く。
「あ? 大丈夫だよ。別に何かあった訳じゃない」
「だって、辛そうですよ。先生を呼んできますから、」
「要らない。私は元気だよ」
榛銘はベッドの上で立ち上がる。同じベッドに座る愛奈の目線の高さでスカートが揺れて、愛奈は慌てて俯いた。
「……そういや、いま何時?」
聞かれて、愛奈はポケットからスマートフォンを取り出す。
「八時過ぎです。あれから一時間以上余裕で経ってますね」
榛銘の感触を努めて忘れようと意識して別の事を考えようとする。例えば、あの黒い獣や、その後の榛銘の様子や……。
「…………」
「なあ、夕飯の時間って過ぎてるよな?」
「……えっ? あ、いや、八時半までじゃなかったですっけ?」
愛奈はベッドから降りて自分の机を漁り、寮の利用時間表を探す。
「八時までだよ。まあ、一食ぐらい構わないか。それよりシャワーが浴びたい」
愛奈はその光景を思い浮かべ、自分の頭に拳骨をくれてやる。
「それよりっ、あの、さっきのあれ、なんですか?」
愛奈は榛銘を振り返る。榛銘はベッドの上に棒立ちしたまま、ふいと目を逸らした。
「……なんのことだよ」
「だから、あの、狼みたいなのと綾部さんが戦って、それで血がいっぱい出てて……」
言葉に詰まる。榛銘が何をしたのかはいまいちわからなかった。だがあの時、何らかの方法で榛銘は獣を殺したはずだ。
「……知らないよ。夢でも見たんじゃないのか」
「そんな訳ないです」
血の臭いを憶えている。
あんな、あんな生々しい感覚が、夢な訳がなかった。
「……だったらなんだ。証拠なんてどこにもないぞ。それを知ってどうするんだよ。どうしようもないだろ? ほっとけよ」
榛銘は話しは終わりだ、とばかりに備え付けのクローゼットへ歩いていく。汗をかいているのだ。着替えるなり風呂に入るなりしなければ風邪をひく。
愛奈も横で風呂に行く準備をした。絶対に逃がさない姿勢である。
「……なんだよ」
「先生に言います」
「……は?」
目も合わせず、愛奈はクローゼットを引っ掻いてタオルや下着やジャージを集めていく。だから、榛銘がどんな表情をしているかなんて分かる訳が無かった。
「だから、綾部さんが話してくれないと、今日あったこと全部、先生に言いますから」
「いや、お前それ、頭おかしいんじゃねーの? 何も得しないだろ!」
「それでもいいですよ。それに、教えてくれるまで綾部さんの傍を離れませんから。先生にもそう言います」
愛奈は榛銘の手を引いて部屋を出る。真っ直ぐ、一階へ続く階段を目指す。
「ちょ、ちょっと待った! 正気か!? なんの解決にもならないってそれ!」
構わずずんずんと廊下を歩く。擦れ違う生徒たちがこちらを指してざわついているが、そんなことは関係ない。あまり騒ぎになるなら教師が来るだろうが、そんなのは掛かって来いである。
「わ、わかった。わかったから!」
ピタ、と愛奈は立ち止まり、踵でターン。少し身長差がある榛銘の目を下から睨みつけた。
榛銘は珍しく心底困った顔で、手を繋いでいない方の手で頭を掻いていた。
そういえばネクタイは外して、あのごついブーツも履いていない。少し申し訳ないなと思ったが、ここは我慢の子である。
「わかった、とは?」
尋ねる。廊下は徐々に慌ただしくなってくる。入浴に向かう生徒たちもいるのだろう。榛銘にとってはまったくタイミングが悪かった。
「……全部話すよ。信じられないような話だけど、馬鹿にするなよ。お前の方が馬鹿だけど」
「綾部さん……」
愛奈は榛銘の手を両手で握り、ぐいと自分の胸に引き寄せる。
「お、おい」
「……その前に、お風呂行きません?」
「……なんだよお前は」
榛銘はげんなりと、しかし少し嬉しそうに見える顔で頭を振った。
入浴を終えて二人は部屋に戻ってきた。どうも先ほどの言い争いのせいで注目を集めていたようだが、二人ともそれで困るほど、社交的な学校生活を送ってはいない。
「ところで、やっぱりお腹空きますね」
愛奈の言葉に、呆れながらも榛銘は答えた。
「……購買も食堂も閉まってる。寮を抜け出してでも何か食べたいか?」
榛銘の言葉に、愛奈は顎に手を当てて考える。
「うーん、それが見つかった場合、どんな罰則なんですかね?」
「しるか。まあ、校則違反なんだから、良くて反省文、最悪謹慎か?」
「……それは、困ります」
互いに友人が居ないので基本的にこの学校の規則に疎い二人だった。
もしも楽観視して、寮を抜け出して見つかり、謹慎処分にでもなったら不良の烙印を押されるようなものだ。そうしたら今後三年間、友達なんて出来ないかも知れない。それでなくともそこそこ絶望的なのに。
「まあ、今日は早めに寝て、明日朝早くに食べればいいだろ。じゃ、そういう訳でオヤスミ」
「ちょっ、待ってください! 全部話すって約束したじゃないですか!」
榛銘が被った布団を引っぺがす。
薄着で寝ころんだ榛銘に、眼のやりどころが困る。
「……なんだ」
「はい?」
榛銘が突然、ポツリと言った。
「だからさ、私は魔法使いなんだよ」
言って、赤面した顔を枕に埋めた。
「……え、で、続きは?」
もぞもぞしていた榛銘の体が止まる。とにかく目に毒だった。
「……こんな話、信じるのか?」
「でなきゃ聞いてませんよ」
榛銘はゆっくりと体を起こす。
「……そうだな。私は魔法を使える。と言っても、出来るのは武器を出すことぐらいで、箒で空を飛んだり、杖から炎を出したりなんてできない」
「それって、そういう魔法しか無いってことですか?」
榛銘は首を掻きながら頭を倒す。
「いや、どうなんだろうな。ウチの母親は他の事しか出来なかったみたいだが」
愛奈は少しだけ、榛銘に母親が居る、ということに違和感を感じて、同時に自分の母親を思い出して、忘れることにする。
「魔法って、わたしでも使えるんですか?」
榛銘の瞳の温度が急速に下がった。
「……ああ、誰にでも使えるんじゃないか? ただし、条件がある。心を見失うんだ」
「心を、見失う」
「自分がわからなくなるまで見失う。そうして、失った心に別の誰かが細工することで、私の心は魔力を生み出すようになる。だから、魔力ってのは感情なんだ」
だから私はね、人より感情が薄いんだよ。と榛銘は言った。
心を見失う。榛銘の過去に、いったいどんな辛い出来事があったと言うのか。想像などしようもない。
「私の家系は代々これをやっている。全員が人でなしなんだ」
榛銘は自嘲気味に笑った。
愛奈には、かけることのできる言葉なんてない。
「……あの、獣は何なんですか?」
「ああ、あいつは敵だ。あいつらを殺しつくすのが魔法使いの悲願さ。そのためになら子供の心なんて狗にでも喰わせるさ」
ずっと、榛銘が笑う時は、どこか儚げだった。全部、自分を笑っているような。
しかし、今の榛銘の笑みには隠しきれない憎悪が見える。凄惨な嗤い。
「じゃ、じゃあ、綾部さんたちはこの世界の平和を守るために戦って来たんですね! あの獣――」
「いいや?」
愛奈の言葉を榛銘が遮る。表情は楽しげですらあるのに、心が冷えてるのがわかる。
「獣は人を襲わない」
「――え?」
「襲われたこと無いだろ? お前。獣ってのはさ、私たち魔法使いが殺したいと願った時に、都合よく現れるモノなんだよ」
榛銘の手にはいつの間にか刀が握られていた。ぞっとするほど、美しい反りを魅せる刀。
「……じゃあ、」
まるで獣は、その武器と同じじゃないか。
その言葉は、咽喉で掠れて出なかった。
榛銘は愛奈の言いかけた言葉を勘違いして続ける。
「ああ、獣を殺さない事ででる不利益なんかない。殺したいから殺す。これまでそうしてきたから殺す。そうしろと教わったから殺す。」
もしも榛銘が楽しそうなら良かった。自分とは住む世界が違うんだと諦められた。
でも、榛銘は笑んでいる。校舎で獣と戦った時も、今も。こんなに悲しそうに、嗤っている。
――心を失うんだ。
それは、きっと間違っている。
上手くは言えないけど、愛奈が生きて来た時間より遥かに長い年月を彼らはそうして来たんだろうけど、それは、否定されるべきではないか?
「……綾部さん」
「なに?」
「綾部さんは、楽しいですか?」
「んな訳ないだろ」
「だったら、そんなの止めた方が良いです。傷付くだけですよそんなの!」
榛銘は愛奈を見た。視線が交錯する。その眼には、何も映していない様にしか見えない。
「……傷なんて付かない。お前も見たろ。理由は分からないけど、獣との戦いは影響力が無いんだ。後を引かない。他の奴に見つかったのだって、お前が初めてなんだ」
薄着の榛銘から覗く肩には、あの獣に噛まれた痕はない。あの血臭もしない。
「でも、心は傷付いています」
「……心は傷付かない。私たち魔法使いに心は無い。そもそも、心なんて物質はこの世には無いんだ」
いつの間にか、手に持った刀は消えていた。
「あります。心は、あります。きっとあの獣にだって、あるんです……」
「……だったら、なんだよ」
「もう止めてください。戦わないでください。そんなの、何の意味もないですよ……っ!」
榛銘はベッドから降り、愛奈に近づく。愛奈は榛銘の顔から眼を離さない。
やっぱり、感情がないなんて嘘だ。
「じゃあさ、戦わないことに意味はあるのか? お前の人生には何の意味がある。お前は何を得て、何のために、どうやって生きてるんだ? なあ、教えてくれよ。魔法使いじゃないお前は、何の為に生きてる?」
「それは、」
咄嗟に反論しようとして、反論の材料なんてどこにも無かった。
将来の夢も、目標も、期待も、希望も。
人に言えるようなものなんて、愛奈は持ち合わせていなかった。
「それは?」
「う……」
「それは、なんだよ」
「…………」
「答えろ」
「……それを、探すために、生きてます」
目を伏せた。卑怯だとわかっていても、榛銘の表情を見ていられなかった。
「ああそうかよ」
榛銘は愛奈から離れて、布団に頭まで入った。
「寝るから、お前も寝るなら電気消せ」
愛奈は立ち上がって、のろのろと電気を消す。
そうして初めて、月明かりが窓から射していることに気付いた。
窓のすぐそばには桜の花が咲いている。
月はなぜ輝くのか、桜はなぜ咲くのか。その答えを、彼らは持っているのだろうか。
久しぶりの運動で疲れていたのか、愛奈の意識はすうっと溶けていく。瞼が外界の全てを遮り、自分だけの夢の世界へ。
ふと、
「……運んでくれて、ありがと」
声が聞こえたのか、それも夢だったのか。愛奈は自信が持てなかった。