高校入学! ドキッ! 気になるあの娘はルームメイト!?
この春から霧ノ宮学園に通うことになった新高校生、樹愛奈は新しい生活への期待と不安を蹴っ飛ばし、寮から校舎へと続く登り坂を全速力で駆けていった。
入学初日。寮に入ったのが昨日の事で、厳密には入学は昨日だったと言うべきだが、感覚としては今日が初日である。
とにかく、そんな初日に寝坊をやらかした己の愚かさを罵りながら、がむしゃらに足を動かす。
辺りは坂を挟む桜並木で、空白を埋めるように舞う花弁は、本来なら新生活を後押しする祝砲となっただろう。愛奈の体を包む新品の黒いセーラー服も、中学では許されなかったローファーも、肩にかかる長さの髪も。全てはこれから始まる学院生活への実感を確かにする要素となったはずだ。
そうならなかったのは、だから全て寝坊したからで―――。
とにかく急ぐ。入学式には間に合わなくても、クラスの自己紹介に間に合いさえすればいい。もともと愛奈は校長先生の長い挨拶に感情を動かされるような性質では無い。新入生代表に選ばれるほどの才女でも無い。普通に幸せな、一般の域を出ない平凡な女子高生なのだ。
だからか、普通でない物に、敏感に反応した。
時代遅れの黒いセーラー服を似合い過ぎるほどに着こなし、艶やかな黒い長髪を春の薫風に撫でさせる、幽玄の美少女がこの桜並木の坂道に居た。
桜より柳の方が似合うだろう少女。愛奈はしばらく呆然として、そんな彼女の制服に注目した。愛奈と同じ制服で、タイの血のような赤から同じ新一年生であることが分かる。
愛奈は上がる息を整えて、何よりもまず言う。
「遅刻ですよ!?」
それが二人の出逢いである。運命というあまりに陳腐で使い古された、二人のお話し。
鉄のように鈍く光る黒い瞳で愛奈を刺し、少女は言う。
「遅刻は遅刻だろ。別に走ったからって間に合う訳じゃない。だったら走るなんて体力の無駄使いだ」
と、幽玄の美少女(遅刻確定)は言った。見た目に似合わない男口調が不思議と様になっている。愛奈は一瞬息を止め、考える。
走るのは無駄か。
答えは否だ。大切な学園生活のチュートリアルをここですっぽかすわけにはいかない。
「自己紹介とか、ちゃんと出とかないとクラスに馴染めませんよ?」
愛奈の言葉に少女は鼻を鳴らした。
「この学園の生徒は大半が付属の小・中学校からのエスカレーター組だ。クラスに馴染めない、なんて発想が既に学園に馴染めていない証拠だよ」
「はい?」
それは、そうなのか。確かに、言われてみれば正しくその通りだろう。しかし、そうであるなら、昨晩夜なべして掴みの良い自己紹介を考えた自分はどうなるのか。
「ご愁傷様」
なんて、可憐に口元だけを笑わせて言ってくるのが腹立たしい。
「で、あなたは自己紹介の必要がないからこうしてのんびり歩いていたんですか?」
愛奈は皮肉たっぷりにそう言ってやる。ただ、仕返しの効果はあまり期待できなかった。
「いや」
と、少女は言った。
「私も編入組だ。学園に知合いなんていない」
「え?」
じゃあ、歩いている場合ではないだろう。文字通りのスタートダッシュを決め込むべきではないか。
「別に、友達が欲しくて学園に来たわけじゃない。そっちこそ、楽しい学校生活を送りたいだけなら、こんな所に進学しなかっただろ」
この霧ノ宮学園は私立で全寮制。数年前までは生粋のお嬢様学校で、その後は一応、共学の学園となっている。就職にせよ結婚にせよ、卒業生の進路は保障されているという。とはいえ、最近は進学が多い。その進学率も、志望者は百パーセントだとか。
この少女も、愛奈が霧ノ宮学園卒業というステータスのために進学してきたと考えたのだろう。
「そういえば、あなたの名前聞いてませんでしたよね? 同じ編入組として仲良くやって行きましょう。わたしは樹愛奈です。あなたは?」
話を変えたくて、愛奈は強引に話題を切り出した。少女は少し戸惑って、言う。
「……話聞いてたか? 友達が欲しくて学園に来たわけじゃない。他を当たれ」
そう言い捨てて、少女はその制服姿には不恰好に過ぎるブーツで桜の花弁を踏みにじり、立ち去った。その後姿は、少女が桜の花を落としたのではないかと疑うほどに美しく、しばらく愛奈は動けなかった。
「――という訳で、今年からこの学園に通うことになった、樹愛奈です! これから一年間、よろしくお願いします!」
愛奈が教室に辿り着いた時には既に顔合わせは終わっていて、愛奈は教壇に立たされ、自己紹介をする運びとなった。
気分は転校生だ。それもそのはず、この教室には転入組は一人しかいなかった。愛奈以外に、一人しか。
「……初めまして。綾部榛銘。よろしく」
綾部榛銘、と名乗ったのは今朝、桜並木の坂道で出逢った少女だった。お辞儀とともに開け放しの窓から風が舞い込み、麗らかなそれは桜の花弁を運んでくる。
クラスの生徒たちは、いや、教師ですら、あまりに現実離れしたその姿に息を呑んだ。愛奈もまた、ぼう、と榛銘を眺める。
そうして、愛奈の一晩考え抜いたエンターテイメントに富んだ自己紹介は完全に喰われた。初日から遅れて来た間抜け、程度の印象すら与えるに及ばなかったのである。
そうして、放課後、愛奈はクラスの誰からも話しかけられず、すごすごと寮に戻った。榛銘は話しかけて来る連中を言葉少なく斬り捨て、あっという間に孤立した。かくしてクラスはエスカレーター組の閉鎖的なコミュニティで確立され、愛奈はますます、そしてほとほと困り果てることとなった。
愛奈は寮の二階にある、自室の扉を陰鬱な気分で開けた。
この霧ノ宮学園の第三女子寮は古い木造建築の建物で、歩けば床はギシギシと鳴り、夜は十時には完全消灯で、トイレに行くことすら難儀する。慣れない内はなんだか楽しいかもしれないが、慣れれば不便だろうな、と愛奈は思う。
唯一素晴らしい点は、窓のほど近くに大きな桜の木が植わっている事で、春はもちろん、夏も、秋も、冬も、愛奈の目を楽しませてくれるだろうことは、容易に想像できたのだった。……むしろ、そうとでも思わなければやってられない。
愛奈は昨日宛がわれたばかりの自室に入り、ベッドに飛び込んだ。制服の皺を気にする親はもう居ない。だからこそ、自分で気を付けなければならないのか、と思い直して起き上がった。
本来二人で使うこの部屋はベッドも机もクローゼットも、全てが二つある。一人では広すぎる、しかし二人では少し狭いこの部屋が、愛奈の城だった。
「……ん?」
制服を脱ぎながら、ふと気付いた。
二人で使う部屋。クラスに二人しかいない編入組。昨日はいなかったルームメイト。
あれ、と愛奈が思ったその瞬間、愛奈の城の扉が開いた。
「……失礼」
侵入者、トランクケースを引きずった綾部榛銘は、着替え途中の愛奈の事など気にも留めず、堂々と使われていないベッドに腰を下ろした。
その姿に妙に気恥ずかしさを憶えた愛奈は脱いだばかりの制服を着なおして、そのまま無言でベッドに座った。
「…………」
「…………」
沈黙のまま、向き合う。気まずい、と愛奈は思う。榛銘はどう思っているだろう。それは、知りたいようで、しかし知ったところでどうなるだろう。榛銘は決して、愛奈と仲良く生活したい訳では無いのだ。
無いのだが。
「あの……」
「なに」
「綾部さんもこの部屋なんですね。これから、よろしくお願いします」
言って、へらっと笑った。まるで、子猫に警戒されない様にする愛想笑いだと思った。
「……よろしく」
「あ、は、はい! よろしくお願いします!」
素っ気なくはあっても、返事をしてくれただけで異様なまでの喜びを感じた。
一方、榛銘はそんな愛奈の反応が不服だったようで、
「なに?」
と聞いた。
愛奈は、今度はくすぐったそうに、心から笑った。
「なんか、嫌われてたと思ってましたから」
「……別に。でもルームメイトだから。こんな狭い部屋で二人で暮らすんだから、不便もあるだろ。なにか文句が在ったら遠慮するなよ」
榛銘が言って、顔を背けた。そのまま横向きにベッドに倒れ込む。そんな何気ない仕草にすら奇妙な色気を感じて、愛奈は俯いた。
「なに?」
その様子に、榛銘はまた聞く。色々と、実は細かい性格なのかも知れなかった。
「ああ、いや、その、靴、脱いだ方が良いんじゃ無いかって……」
榛銘はチラ、と目だけでベッドの下に投げ出したブーツを見た。
「……別に、私の勝手だろ」
お互いに、決まりが悪いと感じている、と確信があった。そうして、昼食を挟むまで、二人はそのまま、無言で互いを見ていた。
その日は、敬遠されている感のある愛奈と、こちらは完全に孤立している榛銘は一緒に昼食を摂っていた。なんとなく、時間になったから連れ立って部屋を出た、という感じだった。
学校が午前中までしか無かったので、寮内にある食堂だ。昼食の時間になった直後で、あまり生徒の姿は無い。それでも視線を大いに感じるのは、この牡丹の花のように座る美少女が目の前でカレーうどんを上品に食べているからだろう。
何故だか、比較されているようで愛奈は気恥ずかしいというのに、当の本人はまったく気にしていないのである。本当に、友達なんてこれまで一人もいなかったのではないか、と思った。
結局、その日は夕飯も、入浴も、どころか就寝に至るまで、愛奈に気の休まる時が無かった。
次の日も、愛奈は坂道を全速力で駆けあがって行った。朝起きた時には既に榛銘の姿はなく、愛奈は朝食も摂らずに全力疾走する。
その日も午前中までで、昼は校舎内の食堂で榛銘と過ごした。寝坊したのは自分で、愛奈は悠々と一人登校した榛銘を責めるつもりはないし、榛銘は愛奈を起こさなかったことを微塵も悪かったとは思っていないだろう。これで相性の良い二人だった。
そして放課後。
とっとと寮に戻った榛銘と別行動で、愛奈は部活動見学に繰り出した。
中学までと違って、部活動も自由で、榛銘のようにやりたくない人は参加しない。愛奈も、これといってしたいことが在る訳でもなかった。
茶道華道、習字や琴、日舞、合唱、弓道と、中学校には無かったお上品な部活に入る気はなかったし、かといって運動部は何だか寂れている。中学までやっていた陸上も、友達に誘われたから入った程度で、思い入れもない。
そうこうして、目ぼしい部活に心の中でバツを付ける作業が終わった頃には、もう日が暮れようとしていた。
こちらも古い木造建築で、走れば床を鳴らせるだろう校舎。きっと耐震工事なんかはきっちりやっているのだろうが、夕暮れの中だと、安全性よりも古いという事実が怖い。
日はもう完全に沈み、夜の帳が下りる空白。この時間をマジックアワーと言ったか。あるいは、逢魔が時とも。
窓の外を見れば、空は茜色を通り越して薄紫で、そんな暗い光は桜の花弁を妖しく照らしている。見様によっては、牡丹や百合よりもなお不吉な色合いで、しかし目を離させない魅力があった。この光景を、これから三年間、愛奈は見ていくのだろう。
「……部活にも、入った方が良いですよね」
見えない何かに抗うように口にする。声は反響もせず、木材に吸い込まれていった。
部活に入るのは内申のためか、それとも学校生活を豊かで実りあるものにしたいからか。あるいは、そういった理由が強迫観念に訴えて来るのか。
愛奈は自分が弱い人間であると自覚している。この時期に部活に入らなければ、愛奈は卒業するまで帰宅部だと確信できる。入りたい部活もない癖に、入らないという決断も怖い。ともすれば、こんな薄気味悪い校舎よりも、自身の将来を考える方が、よほど愛奈を身震いさせるのだ。
夕焼けは闇色に染まっていく。
榛銘が夕食を済ませる前に、つまり夕食の時間になる前に帰ろうと、愛奈が見えない何かから逃げたその時。無音の校舎に声が上がった。
人では無い。烏でも無い。獣、犬というよりは狼の遠吠え。いや、もっと切羽詰っても聞こえる。
愛奈は思わず駆け出した。内側から湧き出る何かに突き動かされて。
容赦なく鳴る木床を思い切り踏みつけて、体を前に倒し、腕を大きく振る。ここ数か月は練習なんてしていないのに、思いの外上手く走れた。
階段を蹴り上り、愛奈は未踏の四階まで一息に移動する。
声は近い。どうしてここに狼が? という疑問を置き去りに。どうやってここまで侵入したのか? という疑問を振り切って、階段から廊下に続く角を曲がった。
曲がって、見た。
常軌を逸する光景が広がっていた。
狼は、もはや狼とは言えないほどに大きい。愛奈の身長ほどもある黒い、餓えた狼のような黒い獣が、動き回っている。
全身傷だらけで、動くたびに血が噴き出るだろうに、止まらず駆け回る。何故だか鳴らない床は狼の血で赤黒く染め上げられている。
もしも陽が差していたなら、愛奈も悲鳴を堪えられなかったに違いない。
愛奈は、意味のない悲鳴を押し殺して、彼女の名前を叫ぶ。
「綾部さん!?」
周りを回る獣の中心で、榛銘は確かに、嗤っていた。