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銀河の生きもの係  作者: 雨咲はな
小学生編
12/37

天使からの贈り物



 高遠の「召使」発言に憤懣やるかたないのは事実だが、五年三組の教室において史緒の居心地悪さが完全になくなった、というのも、悔しいことながら事実なのだった。

「複雑だよ……」

 史緒はぶつぶつとウサギ相手に不満を零す。

 だってねえ、そもそも史緒が仲間外れにされる原因を作ったのは高遠で、高遠自身は未だにそのことを理解していないのである。理解していないにも関わらず、結果として史緒を救ったのも高遠なのである。アレを「救った」などという美しい言葉で表現していいものかという疑問はさておき。

 ──ここに来て、ふと冷静になってみると。

 高遠が転校してきてからというもの、史緒はずーっと、こいつに振り回されていることになっていやしないだろうか。

 おかしいな。厄介なこと、面倒なことにはなるべく関わらず、地味に平凡に四年間の小学校生活を営んできたというのに。五年生になってからは、高遠のせいで、ひたすら面倒事ばかり背負っているような気がしてならない。

 注目されたり、疎外されたり、対決したりして、結果的にクラス内で目立ってしまっているし。学級会以来、史緒に対する先生の態度も、どこか腰が引けている。不本意だ。

 これでは高遠は、宇宙人というより、疫病神ではないか。初対面の時、史緒は「緑の肌の悪魔の人と同じ名前」と言ったが、実は本当に悪魔の手先なのかもしれない。

「でも、それもあと少しの辛抱だしね」

 と、ウサギに向かってというよりは自分自身に向かって言い聞かせるように、史緒は気を取り直して呟いた。

「なにが?」

 小屋の中の掃除を終えた高遠が、耳ざとく聞きつけて問いかける。最初の頃に比べると手際が良くなってきたのか、近頃は早いうちに当番の仕事が片づけられるようになってきた。だってもう、九月も末だ。高遠は途中からだが、史緒はまるまる半年間、この仕事をこなしてきたわけなのだから、そりゃあ手馴れてもくるというものだ。

「もうすぐ、この当番仕事から解放されるってこと」

 そして、どちらかというとこれがメインだが、SF妄想オタクの相手をすることからも。

「解放?」

 高遠が首を傾げる。よく判っていないらしい。

「係は半期ごとに変わるんだよ。九月末で前期の生きもの係の仕事はお終い。十月になったら、新しい係を決めるから」

「へえ、そうなのか……」

 史緒の言葉に、高遠は少し驚いたように目を見開いた。転校してくる前の学校では、係や委員の任期は一年制だったのだろうか。

「後期、君は生きもの係を選ばないのか?」

「選ばないよ」

 もともと、前期だって自分で選んだわけではなかったのである。ジャンケンで負けて、仕方なくなったに過ぎないのだ。思えば、あれがすべての不幸のはじまりだった。

「高遠君はどうするの? 今度はちゃんと正式な係になれるじゃん。また生きもの係をやるの?」

 と訊ねたのは、別に高遠の選択に興味があったからではなく、切実に自分とは別の係になって欲しかったからだ。係決めの時には、絶対にこいつが決めたのを見届けてから、それとは違う係にしよう、と史緒は固く心に誓っている。

「うーん……」

 高遠が珍しく迷うように言い淀んだ。

「生きもの係はいろいろと興味深いが、助手の君がいないと不便だな」

「助手じゃないから。ついでに言っておくけど、召使でもないから」

「召使、『みたいなもの』、とちゃんと表現しただろう。君は僕の配慮を何も判っていない」

「そんなの、配慮って言わない」

「助手という言葉を使ったら絶交だ、と君が言うから」

「召使と言われて絶交しないわたしの心の広さを褒めて欲しい」

「下僕のようなもの、と言ったほうがよかったか?」

「殴るよ」

 憤然と言ってから、高遠に向けていた目を、なにげなくウサギたちのいる穴のほうへと戻した史緒は、そこでぴたりと身体の動きを止めた。


 ──あ。


 出来るだけ身動きしないようにじっとして、息をひそめる。何かを言いかけた高遠に、人差し指で唇を押さえて、「しいっ」と合図をした。

 ……ウサギが、餌を食べてる。

 今までずっと、自分たちが小屋の外に出るまでは、用心して穴の中に引っ込んでいた臆病なウサギが。

 いつもびくびくして、何を話しかけても、決して近寄ってくることはなかったウサギが。

 史緒が差し出した餌箱のところまで、最初にやって来たのは灰色ウサギのニンニンだった。ふんふんと鼻をうごめかし、匂いを嗅いで、遠慮がちではあるが野菜の切れっ端に齧りついて、かしかしと食べている。しゃがんでいる史緒が、その気になればすぐに触れられるほどの近距離で。

 そして次に、それを見ていた他の二羽が、おずおずとした様子で、続いて穴の中から出てきた。

 ちらりと史緒を見てから、ぴょんと軽く飛び跳ねて、餌箱までやって来る。

 わあー……。

 口を半開きにした史緒は、動きを止めたまま、三羽のウサギたちの食事風景を見守った。およそ半年間、生きもの係としてウサギの世話をしてきた史緒だが、こんなに近くでそのサラサラでフワフワの毛並みを見るのははじめてだ。

「可愛いー……」

 思わず小さな呟きが口から洩れてしまったが、ウサギたちはぴくりと長い耳を揺らしただけで、逃げることはなかった。三羽でくっつき、変わらず餌箱の野菜を食べ続けている。

 嬉しくなって、胸がどきどきした。

「わたしのこと、信用してくれるようになったのかな?」

 顔だけを上げて、ひそひそ声で高遠に訊ねてみる。えへへーと顔全体が崩れまくりの史緒を見て、高遠は少し呆れるような顔をした。

「下等動物と人間の間に、信頼関係が結べるとは思えない。それに、ウサギが人間の個体をそれぞれ認識しているかどうかも怪しい」

 言うことは素っ気ないが、高遠はその場から動かなかった。声の音量も抑え目だ。ウサギを驚かせるようなことをしたらまた穴の中に逃げ込んでしまう、ということは判っているのだろう。高遠も、これまでの経験でそれくらいは理解するようになったらしい。史緒に言わせれば、そういうのこそを、「配慮」と呼ぶのだ。

「……触ったらダメかな」

 モコモコの身体を見ていると、指の先からうずうずしてくる。史緒はあまり、動物やぬいぐるみなどの可愛い系に対して過度の愛情は抱かないタイプなのだが、この衝動は抑えがたかった。今までずっと冷たくされていた相手だから、なおさら胸が大きくときめくのかもしれない。なるほど、これがツンデレの魅力というものか。

「逃げちゃうかな……」

 おそるおそる手を伸ばして、いちばん最初にやって来たニンニンの背中にそっと触れてみた。ニンニンはすでに警戒心を解いているのか、それとも野菜を食べることに夢中になっているのか、子供の小さな手を気にする素振りもない。

 柔らかな毛並みは、思っていたよりもずっと気持ちよくて、愛らしかった。

 天使の羽みたいに。

「わあー……」

 息とともに感嘆の声を吐き出して、その丸くて温かい背中を撫でながら、史緒は嬉々として再び高遠を見上げた。

「可愛い。ウサギ、可愛いね、高遠君」

 紅潮した頬で、ニコニコしてそう言うと、じっとこちらを見ていた高遠は、うん……と曖昧な返事をした。

「可愛い──かも、しれない」

 よく、判らないけど。

 小さな声でそう続けて、首を捻った。



          ***



 しかし、それからほんの一週間も経たないうちに、事態が急変した。

 そのことを教えてくれたのは、違うクラスの生きもの係の女の子だった。今朝の当番の時に、ウサギ小屋に行ってみたら、その時すでにニンニンはぐったりして、動かなくなっていたという。

 息せききって小屋まで走っていくと、確かにその通り、小さな灰色ウサギはほとんど目も開かないような状態だった。先生か誰かが用意したのか、タオルの敷かれた段ボール箱の中に横たわり、ぴくりともしない。

「ど……どうして?」

 だって、ついこの間まで、あんなに元気だったではないか。餌だっていつもと変わらず食べていたし、史緒の近くにまでやって来て、背中を撫でさせてくれた。あの時フワフワだった毛並みが、どうして今は、あんなにも色艶を失ってパサパサして見えるんだろう?

「わかんない。昨日の昼当番の子も、特に変わったところはなかったって」

 今日の朝当番だった女の子は、泣きそうな顔をして言った。ウサギ小屋の周囲には、もう子供たちの人だかりが出来ている。ちらちら見える知った顔は、クラスや学年は違うが同じ生きもの係の子たちだった。みんな一様に、心配そうな表情で身動きしないニンニンを見つめている。

「みんな、もう授業がはじまるから、教室に戻りなさーい」

 若い女の先生が来て、集まっていた子供たちに声をかけた。低学年の子たちは不満そうだったが素直にその場を離れ、生きもの係のメンバーと、その他の動物好きの子供たちが残った。

「先生、ニンニンどうしたの?」

「大丈夫?」

「病気?」

「お医者さんに連れて行く?」

 口々に問いかけられ、先生も少し困惑顔だ。

「多分、病気だと思うけど……」

 詳しいことは判らない。言葉にはしないが、先生の顔にはそう書いてある。

 もしかして、何か悪いものでも食べたのかもしれない。というより、外部の誰かの手によって、毒性のあるものでも食べさせられたのかもしれない。学校のウサギとは、しばしばそういう悪意によって、意味もなく傷つけられたり害されたりするものだ。でも先生としては、まだハッキリしない段階で、それを児童に向かって言うわけにはいかない。そういうことなのだろう。

「病院に連れて行ってくれる? 先生」

 誰か女の子が発したその質問に、先生はますます困惑顔になった。

「校長先生と相談して……でも、もう少し様子を見ましょう」

 もごもごと言葉を濁す先生に、史緒はぎゅっと拳を握った。そんな悠長なことを言っていたら、間違いなくニンニンは助からない。校長先生に相談したって、「もう少し様子を見よう」という結論になるのは目に見えているのに。

 きっと、「大人の事情」で、いろいろと厄介なことがあるのだ。誰が病院に連れて行くのか、とか。治療費はどうするのか、とか。最終的に誰が責任を持てばいいのか、とか。そういった諸々が。


 ──面倒なんだ。


 強く握りしめたせいで、拳がぶるぶると震えた。

 そんなことで、ニンニンは見殺しにされるのか。学校で小動物を飼っているのは、命の大切さ、生きものに対する愛情を育むためなのではないのか。ほとんど何も知らない子供たちに世話を任せて、あとはほったらかし、今まさに死にかけているウサギが目の前にいるのに、大人たちはこの状況を見ないふりでやり過ごそうとする。

「とにかく教室に戻りなさい。早くしないと、授業が始まっちゃうよ!」

 先生は声を張り上げ、強引に子供たちの背中を押した。



 休み時間ごとに史緒はウサギ小屋に見に行ったが、ニンニンの様子にはまったく変化がなかった。

 箱の中で目を閉じたまま、じっとしているだけ。耳はだらりと垂れ下がり、鼻だって動かない。

 小屋の隅っこに置かれた段ボール箱は、ウサギが覗きこめるほど浅くはない。ミンミンとワンワンは、その箱の中にニンニンがいることを知らないのか、どこか不安げに穴の中で身を寄せ合っている。移る病気かもしれないからと、そういう形で隔離されているのかもしれない。


 箱の中のニンニンは、一人きりでただ死を待っているだけのように、史緒には見えた。


 放課後になっても、史緒は小屋の前で座り込んだまま動こうとしなかった。何人かの子供が、先生たちには治療の意志がないと気づいたのか、「うちに連れて帰りたい」と申し出たが、それも却下されたらしい。先生たちは、自分では何もしないのに、子供たちにこの問題を渡すことも拒むのだ。のちのち、面倒なことになるかもしれないから。それだけの理由で。

 最初のうちは、史緒と同様にニンニンを見守っていた子供たちが数人いたが、それも一時間経ち、二時間経つと、一人欠け、二人欠け、ぽろぽろと減っていった。空が赤く染まりだし、部活動の時間も終わって、最終下校時刻を過ぎた頃、ウサギ小屋の前にいるのは、史緒だけになった。

「塚原さん、もうおうちに帰りなさい」

 何度も先生が入れ代わり立ち代わりやって来てそう言ったが、史緒は黙り込んだきり返事もしなかった。優しく言われても、怒ったように言われても、怖い男の先生に注意されても、そこを動かなかった。口を結び、視線は頑なに、箱の中のニンニンに据えつけていた。

 途中、心配そうな結衣ちゃんや、ウサギが苦手なはずの田中君も来て、史緒に声をかけていったが、それでも何も言わなかった。

 帰ろうよフミちゃん、なあもう帰ろう、という言葉は、史緒の頭の上を、ただ通過していくだけだった。

「お前からも言ってやれよ、高遠」

 という、田中君の声をぼんやり聞いて、高遠もいることを知った。でも、振り返る気にもなれなかった。無視をしようとしていたわけではないし、怒っていたわけでもないのだが、史緒の意識は外部をシャットダウンして、何かを考えられるような状態になかったのである。

「好きにさせてやればいい。どちらにしろ、誰の声も耳に入っていないようだから」

 突き放すような声に、どこかほっとしている自分がいた。

 ……そうなのだ。

 史緒はただ、放っておいて欲しいだけなのだ。



「──史緒」

 周囲が暗くなりかけた頃、穏やかな声がかけられた。

 ようやく瞬きして、顔を巡らし、声のほうを見ると、そこに立っていたのは父だった。

 会社に行く時のスーツを着てる。そうか、困り果てた先生は、とうとう家に電話をして、親を呼びだすことにしたのか。それで会社から帰ったばかりのパパが、学校まで迎えに来たのか。

「史緒、帰ろう」

 差し伸べられた大きな手に、史緒はのろのろと自分の手を乗せた。

 そのまま、ぐんと引き上げられ、父は史緒を抱っこした。「重くなったなあ」と苦笑する。最後に父に抱き上げられたのはいつだっけ。一年生? 二年生? 史緒は平均的な体型だが、体重はもう三十キロを超えている。いくら背の高い父でも、そりゃあ重いだろう。

 広い肩に顔を押しつけ、ぎゅうっとしがみついた史緒に、父は何も言わなかった。顔を動かし、近くにいた誰かに向けたようだったが、史緒はそっちを見なかった。目も強くつむっていたので、視界は真っ暗だ。

「では、連れて帰ります。ご面倒をおかけしました」

「いえ、こちらこそ。わざわざ学校まで足を運んでいただき、恐れ入ります」

 答えているのは教頭先生の声だった。「すみません」と同時に謝っているのは、史緒の担任の声だ。

 父の顔が、また動く。声の方向とは反対を向き、それから戻した。

「──あのウサギ」

 首に巻きついている史緒の腕がぴくりと動いたのを、父は感じたのだろう。そこで一旦言葉を切ったが、間を置いて、再び口を動かした。

「病気のようですね。獣医には診せないんですか」

「いやあ……なるべく、そうしたいとは思うのですが」

 父の問いに、教頭先生の声が困ったように笑った。見えなくたって、苦笑いを浮かべている顔が容易に頭に浮かぶ。声音には、どこかおもねるような、そして共犯者に向けるようなものが含まれている。「同じ大人なら、判るでしょう?」という、声にならない声が聞こえる気がした。

「もしよかったら、僕があのウサギを引き取って病院に連れて行き、今後の面倒も見ますけど」

 父の言葉に、教頭先生はますます苦笑いを深くした。お申し出はありがたいんですが、そういうわけにもいかないんですよ、という答えに、史緒の失望は絶望に近くなる。

「学校の動物を第三者に委任するには、またいろいろと手続きがありまして」

「…………」

 史緒の耳元で、父が、ふ、とわずかに嗤う気配がした。

「……なるほど、そんな手続きをとるよりは、このまま放置して死なせたほうが楽ですもんね」

 呟くような小声だったが、その強烈な皮肉はちゃんとあちらにも聞こえたらしい。先生たちの言葉に詰まる気配が伝わってきた。

「ごめんね、史緒。先生たちを説得するには、少し時間がかかりそうだよ。今日のところは諦められる?」

 史緒は返事をしないで、さらに強く自分の顔を父の肩に押しつける。父はオタクだが、ウソはつかない。そう言うのなら、本当にニンニンを引き取るよう、あるいは獣医に診せるよう、先生を説得してくれるかもしれない。父よりきつい性格をしている母も味方になってくれるかもしれない。

 ──でも、遅い。

 ニンニンは、もう救えないだろう。今日一日この小屋の中に置いていたら、きっと明日の朝には冷たくなっている。史緒にだって、そんなことくらいは予想がついた。

 だからせめて、「その時」まで近くにいてあげたかったのに、それさえも出来ない。

「……パパ」

 掠れた呼びかけに、父はちゃんと気づいて、うん? と返事をした。

「ニ……ニンニン、ね」

 顔を押しつけているせいで、こもったような声しか出ない。それでも史緒は、息苦しい喉から言葉を引っ張り出した。

「ニンニン、寂しいんじゃないかな……。あんな箱の中に入ってたら、ミンミンの顔も、ワンワンの顔も、見られない。たった一人で、目が覚めても、だ、誰もいなくて、そのうち真っ暗になって……すごく、寂しい、んじゃないかな」

 たとえ少し具合が良くなっても、病気が治りかけたとしても、その寂しさで、やっぱり死んでしまうんじゃないのかな。


 ──苦しい息の合間、ふと、目を開ける。

 見えるのは、自分を囲む段ボールの無機質な壁と、黒い空だけ。

 ずっと仲良く一緒に過ごしてきたミンミンも、ワンワンもいない。

 いつもくっついていた温かく柔らかな感触が、どこにも存在しない。

 ニンニンは泣くだろう。ぽろぽろと涙を零して。白ウサギのように瞳を真っ赤にして。死の寸前まで。

 寂しいよう。寂しいよう。

 そう思って、遠い星空を見ながら泣き続けるのだろう。

 闇の中、独りぼっちで。


「ふ……史緒が」

 喉が詰まった。瞼が熱い。

「史緒が、悪いのかな。いつも、めんどくさいって言いながら、世話してたから、ニンニンがこんな風になっちゃったのかな。もっと、ちゃんと、生きもの係の仕事をしていれば、ニンニンは、病気にならずに済んだのかな」

 史緒は先生たちとおんなじだ。面倒だなあ、といつだって思いながら当番の仕事をやっていた。その罰として、こんなことになってしまったのか。ニンニンは、近くまで来てご飯を食べるくらい、史緒のことを信用してくれていたのに、史緒はその信用に応えられることは、何ひとつとして、してあげられなかった。


 助けることも、最後までそばにいることも。


「ひっく……もっ……もっと、史緒が、ちゃんと……」

 そこで堪えきれなくなって、うわあん、と大きな声を上げて泣いた。

 わあんわあんと大泣きする史緒の背中を、父の大きな手が、ぽんぽんと優しく叩く。

「史緒は悪くないよ。史緒はちゃんと、朝も昼も、毎回ウサギの世話をしてあげただろ? ウサギの嫌がることもしないで、話しかけてあげただろ? だからニンニンたちも、この子は大丈夫だって、史緒を信頼してくれたんだよ。動物が病気になってしまったり、死んでしまったりするのは、悲しいことだけど、自分を責めすぎてはダメだよ。史緒の気持ちは、ウサギたちにも、通じているからね」

「……あの」

 史緒の嗚咽と父の声に、新しい誰かの声がかぶった。ん? と父がそちらに顔を動かす。それは明らかに、下の方向に向けられていた。

「どうして、そこまで泣くのかな。僕、よく判らないんだけど」

 この声、高遠だ。まだいたのか。

 こんな時間になるまで、ずっと帰らず、史緒の近くにいたのか。

「だって、ウサギが病気になったのは、なにも塚原さんの責任じゃないのに」

「そうだねえ」

 父がちょっと笑った。今度のその笑いには、皮肉は混じっていなかった。

「きっとね、ただただ、悲しいんじゃないかな」

「悲しい?」

「大事なものを失うかもしれないというのは、とても寂しくて、悲しいことなんだよ」

「大事なもの?」

 高遠の声には、戸惑いがある。

「でも、塚原さんは、そこまでウサギを大事にしているようには……」

「うん。そういうのは、意外と、自分では気づかないものなのかもね。誰かが喜ぶのを見て自分も嬉しくなったり、誰かがつらそうなのを見て自分の心も痛くなったりして、はじめて気づくのかもしれないよ。それが自分にとって、とても大事なものだということに。愛情っていうのはね、そうやって、いつの間にか自然に湧いているものなんだ」

「心が、痛く……」

「僕も、大事な娘が泣いているのを見ると、自分も泣きそうなくらい、つらいんだ。だから君も、よかったら祈ってやってね。ニンニンが助かりますように、この子の傷が、なるべく早く塞がりますように」

「…………」

 高遠はそれきり、黙り込んでしまった。



          ***



 翌朝、史緒は早起きして、朝ご飯も食べず、誰よりも早く学校に向かった。

「あっ……」

 思わず、歓声が出た。

 箱の中で冷たく固くなったニンニンを半ば覚悟しながら小屋を覗いた史緒の目に映ったのは、いつもと同じように元気に立ち上がり、長い耳をピクピクさせ、ふんふんと鼻を動かして、こちらを見上げている灰色ウサギの姿だった。

「わあっ、元気になったんだ!」

 大声を上げて、何度もぴょんぴょんと飛び跳ねた。穴の中から顔を出しているミンミンとワンワンが、何事かというように、つぶらな瞳をこちらに向けている。

「すごい、すごーい! よかったね、ニンニン!」

 きゃあきゃあとはしゃぎながら、史緒はいつまでもその場でくるくると廻り続けた。



 奇跡的に元気になったニンニンに、子供たちはみんな大喜びをした。

 ……ただ一人を除いて。

 結衣ちゃんも一緒になって喜んだし、ウサギが嫌いな田中君だって、こわごわウサギ小屋まで来て、「元気になってよかったじゃん」と言ったというのに、高遠だけは嬉しそうにもせず、やたらと疲れた顔をしているだけなのだ。

 目の下が黒く、口を開くだけでも億劫そうで、いつもの偉そうな態度もどこかぐったりとして見える。

「苦労したんだ」

「なにが?」

「僕に感謝しろ」

「なんで」

 相変わらず、意味の判らないことを言うし。別にいいけど。もう大分慣れたからね。

 史緒は、以前と同じように仲良く三羽でくっつき合うウサギたちを、にこにこしながら眺めた。

 そして心の中だけで、こっそりと思った。

 ……後期、生きもの係に立候補しようかな。



 それから小学校を卒業するまでずっと、高遠と生きもの係のコンビを組むことになるとは、その時の史緒は考えてもいなかったのである。




次話から中学生編。

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