林間欠陥第六感(後編)
しばらくの間そのあたりをウロウロとしてみて、史緒は現在自分が置かれた状況を、正確に認識した。
──うん、迷った。
間違いなく迷子である。いや、「迷子」という可愛い表現で済めばいいのだが。たかが林間学校のハイキングとはいえ、山は山だ。ここまで登って来るまでに結構な時間を要したくらいには、高さもあれば深さもある山だ。小学生でも登山できるなだらかな傾斜の山でも、ハイキングコースを外れれば、「遭難」という事態だって、大いにあり得てしまう。
そこまで考えが至ったところで、史緒はすぐに歩き回るのをやめた。
近くの太い木の幹にもたれて、根元に座り込む。
こういう時は、じっとしていたほうがいい、ということくらいは知っている。がむしゃらに歩き回って、余計に山の奥深くまで入り込んでしまっては大変だ。今頃は多分、結衣ちゃんが先生に知らせているだろうし、大人しくして誰かが探しに来てくれるのを待とう。正直、疲れて体力もなくなっている。
「…………」
そう思って待ったが、やっぱりそんなに簡単に、助けがやって来るわけもない。
ぽつんと座っていると、一秒二秒が、数十倍も長く感じられた。
あたりの静けさが、史緒の身体を圧迫するように押し寄せてくる。セミの声や、鳥のさえずりや、風が葉っぱをそよがせる音は聞こえるけれど、それらはなんの慰めにもならなかった。史緒が今、切実に聞きたいのは、人間の声、自分の名前を呼ぶ誰かの声だ。
膝を立て、体操座りをして小さくなる。不安と心細さが背中にのしかかって来るようで、史緒はそのまま膝の上に顔を押しつけた。
視界が闇の中で、ぐるんぐるんと様々なことがめぐる。たくさんのことがいっぺんに頭に浮かぶが、どれもこれも、暗い方向にしか進まない。
きっと、先生にものすごく怒られるんだろうな。史緒は今までなるべく目立たない地味な生徒をやってきたつもりだが、これ以降、問題児扱いされるのは確実だ。家にも連絡が行くかもしれない。ママは激怒するだろうし、パパはここまで飛んできちゃうかもしれない。どっちもイヤだなあ。
……それとも、もしかして、このまま誰にも見つけられなかったりして。
その場合、史緒はどうなるのだろう。死んじゃうのかな。こんな山の中で、独りぼっちのまま、お腹が空いたけど食べ物もなくて飢えて死んじゃうのかな。そんで、山の動物たちに食べられちゃったりして、残された骨だけが、あとで発見されたりするのかな。
衝動に任せて短絡的な行動に走ったことを、心から後悔した。あんな子供じみた挑発に乗って、頭に血を上らせた自分が悪かったんだ。結衣ちゃん、心配してるだろうな。
しゅんとして、膝にぎゅっと顔を埋める。
もうこんなことはするまい、と本気で反省した。
──そうして、じっと反省すること一分間で、史緒は飽きた。
よし、もういいや、とぱっと顔を上げる。
やめやめ。大体、二度と同じことはしないでおこう、と自分を戒めたところで、山の中で迷子、なんていうのがそもそもレアケースなのである。こんな事態が、すぐにまた巡ってくるとも思えない。てことは、起こったことをぐちぐち思い返してみたって、得るものは何もないということだ。一応反省はしたことだし、考えるのなら、もっと別のことを考えよう。
素早い切り替えで、史緒はただちに建設的かつ前向きな思考を取り戻した。面倒なことが大嫌いな性分は、長い時間、悶々とし続けることにも、まったく向いていなかった。
たとえこのまま遭難したとしても、とりあえずリュックの中にはお弁当とおやつとお茶が入っている。近くには綺麗な川も流れている。そうそうすぐには餓死なんてしないだろう。オッケーオッケー、何とかなるさ、多分。
考えてみたら、そんなに距離を走ったわけではないのである。問題は方向なのだ。どっちの方角にハイキングコースがあるのか判れば、意外とすんなり戻れるのかもしれない。
川を目指して来たのだから、川を渡った向こう側でないことだけは確かなんだけど。今自分がいるこの場所を拠点にして、方向を探っていくことにしようか。石とか、木の枝とか、目印を置きながら進んでいけば、この地点に戻って来られる。少なくとも、見当違いの山奥まで入り込んでしまうことは避けられるだろう。
そう思い、立ち上がったところで、近くでガサッという物音がして、びくっとした。
「わ……あ、あれ。ウサギだ」
見ると、茂みの中から、真っ黒な体毛のウサギがヒクヒク鼻を動かしてこちらを見つめている。野生のウサギなのかな、と史緒はまじまじと目を合わせた。
学校だけではなく、こんなところでもウサギと遭遇してしまうとは。なんだろう、最近の史緒には、ウサギを引きつける磁力でも備わってきているのだろうか。背後霊がウサギとか。前世がウサギだったとか。頭の上にウサギ星が巡ってきたとか。
「おーい、クロクロー」
天漢小学校における命名法に則って、名前をつけてみる。
「あのね、わたし、迷っちゃたんだよ。誰でもいいから、連れてきてくれないかな。学校では、よくあんたの仲間たちの面倒を見て、可愛がってあげてるんだよー」
ちょっと恩着せがましいことも言ってみる。
「よろしく頼むねー」
史緒の依頼を理解したのかどうかは不明だが、ぴくりと一度長い耳を動かしたクロクロは、またガサガサッと音を立てて、どこかに行ってしまった。ウサギばかりをアテにするわけにもいかないので、史緒も行動を開始した。
拠点から目印を置きながら進んで、しばらく行ったところで「おーい!」と声を張り上げてみる。返事がなく、人の気配も感じられなかったら、すみやかに引き返して、今度は角度を変え、また別の方向で同じことをする。
三回目、同様に、「おーい!」と声を出したら、
「そこを動くな」
という、落ち着いた返事が聞こえた。
鼓動が跳ねあがる。人だ。誰かいるんだ。
よかった助かった、と満面の笑顔を浮かべたのは一瞬で、木々の向こうから現れた人物を見た途端、しゅるしゅると喜びが萎んだ。
「……なんだ、高遠君か」
つい、思ったことを口にしてしまう。
いつもと変わらない悠然とした足取りでこちらに近寄ってきた高遠は、むっとしたように眉を寄せた。生きもの係の仕事をするために、威張りくさってウサギ小屋にやって来る時と、まったく同じ態度だった。
「君、助けに来てくれた人間に対して、第一声がそれとはどういう了見だ。感謝しろ。泣いて喜べ。手をついて礼を言え。わざわざこの僕の手を煩わせたことに、今度こそ誠意ある謝罪をしろ」
「…………」
こういうことを言うから、こいつはイヤなんだ。
「そっちこそ、ここは普通、『大丈夫?』とか『よかった見つかって』とかの言葉が最初に来るもんじゃん」
「どうして僕がそんなことを? まったく愚かで浅はかだな、君は。一人の人間の軽率な行動で、周囲がどれだけ迷惑をこうむると思っている。自分のしたことを胸に手を当てよくよく考えて、じっくりと反省をしたまえ」
「反省したよ」
一分くらい。
「本当か? 本当だな? こんなくだらないことに時間を取らせた僕に、心からの謝意を抱いているな? 今後もより一層の忠誠を捧げ、助手として全身全霊をもって僕に仕える努力をすると誓うな?」
「それは誓わない」
「君はとんでもない恩知らずだ!」
があがあと怒る高遠を放って、史緒は急いで拠点にしていた木に戻り、自分のリュックを取ってきて背負った。
「高遠君、戻りかたはわかる? もしかして、自分も迷ってここに来ちゃったわけじゃないよね?」
「馬鹿なことを言うな。君とは違う」
憤然とした口調でそう言い、行くぞ、と足を踏み出しかけた高遠だが、史緒の顔をちらりと見て、再び動きを止めた。
「え、なに? やっぱり道に迷った?」
「違うと言ってるだろう。……君、顔が赤いぞ」
「わたし?」
別にまったく照れてるわけじゃないけど? と訝しく問い返す。と、いきなり高遠の手が伸びて、するりと史緒の頬に触れた。
ひやりとして冷たい。でも、柔らかくてしなやかだ。触れたのは一瞬だったけど、気持ちがよかった。
手が離れ、高遠の眉が寄った。
「少し体温の上昇がみられるな。日陰で気温も低いのに、汗も止まらないようだし。そのタオル、ちゃんと有効活用はしたのか」
手に持った濡れタオルに視線が向けられていることに気づいて、史緒は首を横に振った。
「これは、結衣ちゃんが手に怪我をしたから、そのために」
「なにを言ってる。本当に馬鹿だな、君は。──貸せ」
舌打ちと共に高遠が史緒の手にあった濡れタオルをひったくり、ごしごしと史緒の顔を拭いた。自分でやれるよと思ったが、意外と繊細で丁寧な手つきが心地よかったので、されるに任せることにする。高遠の手よりもひんやりとしたタオルが、流れる汗を拭い取り、思わず、ふう、と息を吐いた。
──吐いた息と同時に、ぽたりと一つ、涙が落ちた。
あれ。
自分で意識していたよりも、心と体は、ずっと疲れていたらしい。
そのことに、この時になってやっと史緒は気がついた。
高遠はその涙を見て、ぱちぱちと不思議そうに目を瞬き、
「これ以上、水分を外に出すな」
と、ものすごく現実的な注意をした。
史緒はそれを聞いて、呆れるのを通り越して、笑ってしまった。
さすが高遠だ、と思う。
こういうところは、わりと、嫌いじゃない。
「何を笑ってる。さあ戻るぞ。お茶をたくさん飲んで、このタオルを首に巻いて、後ろを冷やしておけ」
「うん」
背負っていたリュックを、高遠が代わりに持ってくれた。倒れられると厄介だ、という理由で、手も繋いでくれた。ずっと繋いでいても、高遠の手は不思議と熱を持つということがない。ぽかぽかと火照る身体に、常に冷気を伝える高遠の手は快かった。
人間クーラーの本領発揮だなあ。
史緒はこっそりと、すべすべしたその感触を楽しんだ。
***
高遠の迷いのない先導で歩いてみれば、そう大した距離もなく、あっさりとハイキングコースに戻ることが出来た。
「なんだ、やっぱりそんなに遠くなかったんじゃん」
喉元過ぎれば熱さを綺麗さっぱり忘れてしまう史緒がそう言うと、くるりと振り向いた高遠が、「何を言ってるんだ君は」と、厳しい表情でまた説教を開始した。
「この山の広さと、君というちっぽけな人間を比較して考えてみろ。大したことのない距離でも、考えなしに彷徨う人間を一人探し当てるのに、どれだけの労力が必要とされると思っているんだ。この地球では、まだまだそちらの方面での科学の進化は遅れているんだぞ、だからこそ冬山でも遭難事故が相次いで起こっているんじゃないか。たまには新聞記事でも読んで勉強したらどうだ」
「うん、わかったわかった」
史緒は聞き流した。
「でも、高遠君は、わたしのいる場所がよくわかったね? 大体、どうして高遠君が来たの?」
「今頃その質問か!」
高遠がぷんぷんしながら説明したところによると、ほぼ先頭でハイキングの目的地である集合場所に到着した高遠と田中君は、同じ班の史緒と結衣ちゃんがなかなかやって来ないことに焦れて、リュックだけそこに置き、コースを引き返してきたのだという。
心配して、というわけではなく、昼食は班ごとに食べる決まりなので、班員全員が揃わないとお弁当にありつけないからである。特に田中君が、「腹減った! 待ちきれない! あいつら、何ノンビリ歩いてんだ! 探して急かしてやろう高遠!」と騒いだらしい。
そうしてずいぶんコースを下ったところで、しゃがみ込んで泣いている結衣ちゃんを発見した。
最後尾の先生はまだ追いついておらず、でも、史緒をけしかけた三人はとっとと逃走した後だったようだ。してみると、史緒が山の中に入り込んでから、そんなに時間は経っていなかったのだろう。
結衣ちゃんから事情を聞いた高遠は、二人にその場で待つように言い残し、史緒を探すため自分もコース外に出た。田中君は、俺も行く! とうるさかったが、これ以上迷子が増えると手に負えないから、先生が来たら上手いこと言っておいてくれとだけ頼んできた、と高遠は淡々と言った。
「じゃあ、高遠君だけが、わたしを探してたってこと?」
驚いた。てっきり、すでに先生主導の、大掛かりな捜索に入っていたのかと思っていたのだ。優等生の高遠がそこに巻き込まれ、渋々ながら史緒を探し、たまたま運よく見つけたのだとばっかり。
「僕一人で十分手が足りるのに、教師まで混ぜる必要はないだろう。あの連中がこれを知れば、引率した責任もあることだし、過大に狼狽して騒ぎ立てることは明らかだ。そうなると今後の予定も崩れ、時間も浪費して、地球の子供たちの集団生活を観察するどころの話ではなくなる。林間学校は僕にとってもサンプル採取のための貴重な行事なんだぞ。あやうくそれをフイにしかけた君の迂闊さを地の底まで深く反省しろ」
途中、非常にどうでもいい内容が入っている気がしたので、史緒はすっぱりその部分を聞かなかったことにした。
「なんで僕一人で十分、って断言できるの? その言い方、まるで、わたしのいる場所がわかるみたいだよ」
「大体の位置は把握できる」
「なんで」
「説明すると長くなるが」
「じゃあいいや、別に」
史緒はあっさりと放棄した。自分のいる位置が把握できる、というその言葉が事実だとしたら、なんだかいろいろと気持ち悪いので、深くは考えないことにする。第六感というやつだ、うん。きっとそうだ。
ふと、思いついたように高遠が口を開いた。
「そういえば、途中、黒いウサギを見た」
「あっ、クロクロ!」
大声をあげて飛び上がった史緒に、高遠が、は? という顔で首を傾げる。
「クロクロ……?」
「わたしがねえ、誰か連れてきてって頼んだんだよ、クロクロに。そうかあ、それで高遠君がわたしを見つけられたんだね。クロクロが導いたんだ」
「待て、それは全然関係な……」
「そうかそうか、やっぱりウサギは律儀だねえ」
史緒はうんうんと頷き、強引に納得した。
わけの判らない理由で高遠が自分の存在を感知できる、なんていう話よりは、ウサギが助けを呼んできた、というほのぼのファンタジーのほうが断然いい。
その後、泣きべその結衣ちゃんに謝ったり、待ち構えていた先生に怒られたり(田中君は、言い訳として「トイレ」というのを選択したらしく、史緒は非常に自尊心を傷つけられた)、それなりにいろいろとあったのだが、それでも大した問題もなく、林間学校のハイキングは滞りなく予定通りに進んでいった。史緒は少し熱中症になりかけていたものの、山の上で風に吹かれて休んでいるうちに回復したので、そのまま自分の足で下山した。
心配そうな結衣ちゃんと田中君、そして知らんぷりの高遠が、史緒と一緒に歩く。その脇を、バツの悪そうな三人組がそそくさと通り過ぎるという場面もあった。
「あいつらだろ、お前を山の中に行かせたの」
結衣ちゃんに話を聞いた田中君が、怒ったように眉を上げて言ったが、史緒はきっちり否定した。
「ううん、そういうわけじゃない。いろいろ言われたのはホントだけど、コースを外れて迷っちゃったのは、わたしのせい」
「だから君は考えなしだと言うんだ」
高遠が前を向いたまま、冷たく言い放つ。それから、少し考えて言った。
「しかしまあ、迷ったと自覚してからの対応は、多少褒めてやってもいい」
「別に褒めてもらわなくても結構だよ」
「結構だろう。光栄に思うがいい」
イラっとする。
「これから、あいつらにイジメられたら、俺に言えよ。怒鳴りつけてやる」
田中君が頼もしいことを言ってくれたが、辞退した。そんなことをされたら、かえって事が紛糾してしまう。
「大体、どうして塚原は、そんなに女子に睨まれてるんだあ?」
元凶その一の田中君は、そう言って、心の底から不思議そうな顔をした。
「子供同士の争いに、いちいち理由なんてあるものか」
元凶その二の高遠は、くだらない、とばかりに気障な仕草で肩を竦めた。
「…………」
史緒が現在この境遇に追いやられていることの経緯と事情を知り尽くしている結衣ちゃんは、二人のその言い草を聞いて、あんぐり口を開けた。
つつつと史緒に寄ってきて、こそっと耳元で囁く。
「……男の子って、バカだね、フミちゃん」
まったく、男なんてバカばっかりだ!
***
──そして、最後の夜のキャンプファイヤーにて。
まだ少し体調の戻っていない史緒は、輪になってフォークダンスを踊る同級生たちから離れて座り、赤々と燃え盛る大きな炎と、頭上の星空を眺めていた。
とにかく明日は家に帰れるわけだ、やれやれ。
と、子供らしくないことを思ってため息をつく。
ちょっとしたハプニングはあったものの、無事に終わってよかった。
「君はあの中に入らないのか」
という声がして、顔を向けると、高遠が暗がりにすらりとした姿勢で立っていた。こいつはどこでも変わらないなあ、とそれを見た史緒は思う。
学校でも、山の中でも、星空の下でも。
「微熱があるからね。面倒だし。高遠君は?」
「僕があんな輪に混じり、あんなバカバカしい踊りが出来るとでも思うか」
鼻先で笑って返された。どうやらひそかに抜け出したらしい。
女の子たち、今か今かとパートナーに高遠が廻ってくるのを待っているんだろうになあ、気の毒に。
音楽が鳴り、炎に照らされ子供たちが踊る。ざわめきから離れて、この場所は静かだ。闇の中で、高遠の白い顔立ちが映えている。
綺麗な顔してるな、と史緒は改めて思った。
……とっても、不本意だけど。
あの時、いつでもどこでも変わらずに動じない高遠のこの顔を見て、本当に安心したんだよなあ。
やっぱり、これだけはちゃんと言っておかないと、きっと後悔する。
「……あのさあ、高遠君」
ぽつりと言葉を出す。
「助けてくれて、ありがとうね。嬉しかった」
遅い、とか、当たり前だ、とか、言い方がなってない、とかのうるさい返しが来るものと思って身構えたが、意に反して、それのどれも相手の口からは出なかった。
高遠は史緒を見ると、ふん、と呟くように一言言って、そっぽを向いた。




