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「彼女を泣かせたな!」と婚約破棄されたので、ハンカチを貸しました。乾いたまま返ってきました

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/20

「ポーレットを泣かせたな! イヴェット・ラシュレー、お前との婚約は、今この場で破棄する!」


 王宮の大広間に、第二王子マクシムの声が響いた。


 王立学院の卒業の夜会である。国王陛下は最初の挨拶を済ませて退出され、広間に残っているのは卒業生と、その家族と同伴者ばかりだった。楽団が弓を止め、踊っていた三組が足をもつれさせる。何百という目が、東の壁際に立つイヴェットへ集まった。


 イヴェットの右手、柱一本分離れたところでは、近衛の騎士団長が、いつものように壁を背にして立っている。その人も、こちらを見ていた。


 マクシムの腕の中では、男爵令嬢のポーレット・ヴァロンが肩を震わせていた。蜂蜜色の巻き毛が揺れ、桃色のドレスの胸元を握りしめて、しゃくり上げている。


「ひどい、です……わたし、ずっと、我慢して……」


 さあ、侯爵令嬢はどう出るか。泣くか、青ざめるか、言い返すか。広間の期待が、肌で分かるほど濃くなる。


 イヴェットは、マクシムの前をすっと素通りした。


 そのまま手首に提げた小物入れの口を開け、白いハンカチを一枚取り出して、ポーレットの前に差し出す。


「どうぞ、お使いください」


 広間が、しんとした。


「……何のつもりだ」


 マクシムの声が一段低くなる。イヴェットは小さく首を傾げた。


(泣いている方がいらしたら、まずハンカチ。何のつもりも、ございませんけれど)


 九歳の春、母の葬儀で、イヴェットは泣いた。棺のそばで、大人たちに囲まれて、ずっと泣いていた。誰もハンカチを貸してくれなかった。帰りの馬車で父に言われたのは「侯爵家の娘は、人前で泣くものではない」の一言だけで、イヴェットは袖で顔を拭いた。


 だから決めたのだ。泣いている人がいたら、何も言わずに一枚貸す。理由は聞かない。慰めの言葉もかけない。相手が誰でも、何度でも。


 ポーレットは差し出されたハンカチを見て、一瞬だけ目を泳がせた。それから引ったくるように受け取り、目元にぎゅっと押し当てて、すぐに突き返してきた。


「け、結構です!」


 イヴェットはハンカチを受け取ると、いつもの癖で一度広げ、畳み直した。


 白い細布は、白いままだった。アイロンの折り目まで、ぱりっと立っている。


(あら)


「あら、乾いてるわね」


 イヴェットが胸の中で言ったのと同じ言葉が、すぐ横から聞こえた。


 振り向くと、ブリエンヌ伯爵夫人が葡萄酒の杯を片手に、イヴェットの手元を覗き込んでいた。七十を過ぎた社交界の古株で、今夜は卒業する孫娘の付き添いとして来ている。声を落とすということを、もう何十年もしていない方だった。


「え、乾いてるって、今ので?」


 すぐ後ろの令嬢が聞き返し、その後ろの令息が隣に耳打ちする。囁きが、波のように広間の後ろへ流れていった。


 マクシムには聞こえていないようだった。ポーレットの肩を抱き直し、金の巻き毛を揺らして、イヴェットを指さす。


「お前は陰でポーレットをいじめ、何度も泣かせてきた。ポーレットが全部話してくれたんだ。自分の茶会にポーレットだけを呼ばず、学院の廊下ではすれ違うたびに睨みつけた!」


(わたくし、茶会を開いたことがございませんのに)


 王子の婚約者が茶会を開けば、招いた家と招かなかった家で派閥ができる。だから開くな、と父に言われて、三年間一度も開いていない。学院の廊下にしても、学年の違うポーレットとすれ違った覚えが、イヴェットにはほとんどなかった。


「それだけじゃない。泣いている者を見れば、誰彼かまわずハンカチを押しつけて回る。気味の悪い女だ!」


(押しつけて、は少し違いますわ。お貸ししております)


「ポーレットは、こうして素直に涙を見せてくれる。それに比べて、お前はどうだ。三年間、俺の前で一度も泣いたことがない。笑いもしない。可愛げのない女だと、ずっと思っていた」


 三年前の春、王命で婚約が結ばれてから、夜会のたびにマクシムが踊ってくれたのは最初の一曲だけだった。曲が終わると、彼は「少し外す」と言ってイヴェットを東の壁際に置き、別の令嬢の手を取りに行く。戻ってくるのは、帰りの馬車を呼ぶときだけだった。三年で、そういう夜が三十回あまりあった。


 泣く理由なら、いくらでもあったのかもしれない。けれど、泣いてよい場所はどこにもなかった。


「お前のような女は、北の修道院で頭を冷やすがいい!」


(修道院は、殿下がお決めになれることではないはずですけれど)


 イヴェットは黙って、乾いたハンカチを畳んだまま手に持っていた。


* * *


「マクシム様、それだけじゃないんです……」


 ポーレットが、また声を震わせた。今度は両手で目をこすり、こすり、もう一度こする。


 イヴェットは、小物入れから二枚目を出した。


「どうぞ、お使いください」


「なっ……」


 マクシムが目を剥いた。ポーレットも一瞬固まったが、広間じゅうの目がこちらを向いているのに気づいたらしい。今度は受け取ったハンカチを、ゆっくりと、念入りに、両目に押し当てた。たっぷり十数えるほど押し当ててから、返してくる。


 イヴェットは広げて、畳み直した。


 涙の染みは、どこにもなかった。その代わり、真ん中に頬紅の桃色が、ほんのりと移っている。


「今度は紅が付いてるわ」


 また、老伯爵夫人だった。


 後ろのほうで若い令息が噴き出し、慌てて咳の振りをした。つられた何人かが扇の陰で肩を揺らす。


「何がおかしい!」


 マクシムが怒鳴ると、広間はまた静まった。けれど、もう誰もイヴェットの顔を見てはいなかった。見ているのは、ポーレットの目元だった。


 ポーレットが唇を噛み、マクシムの袖を引く。


「マクシム様。わたし、本当は言いたくなかったんです。でも……七日前の、春の夜会のこと」


「ああ。言ってやれ、ポーレット」


「第五曲が終わったころでした。わたし、休憩室へ行こうとして、西の階段を下りようとしたんです。そうしたら、後ろからイヴェット様が……どんって」


 ポーレットは自分の胸を両手で押さえた。


「踊り場まで落ちて、足をくじいて、三日も泣き暮らしました。怖くて、マクシム様にしか言えなくて。だから、お願いしたんです。こんな方には北の修道院へ行っていただかないと、わたし、怖くて学院にも通えませんって」


 さっきのマクシムの「北の修道院」は、ここから来ていたらしい。


 広間がざわめいた。茶会や廊下の話とは訳が違う。階段から人を突き落とすのは、侯爵令嬢であっても罪になる。「怪我をさせたのなら」「審問ものだぞ」と、さっきまで笑いを堪えていた令息たちの顔が引き締まった。


 イヴェットは、七日前の夜を思い返した。春の夜会。いつものように最初の一曲で置いていかれ、いつものように東の壁際に立っていた。その夜も、何枚かハンカチを貸した気がする。けれど西の階段には、近寄った覚えすらない。


(あの夜は、休憩室には一度も行っておりませんもの)


「それで、落ちたわたしのそばに、これが」


 ポーレットが自分の小物入れから、一枚のハンカチを取り出して掲げた。


 白い細布の真ん中に、三枚の柏の葉の紋が、若草色の糸で刺繍してある。ラシュレー家の紋だった。


 マクシムが、勝ち誇ったように顎を上げる。


「見ろ。お前の家の紋だ。ハンカチなどどれも同じだと思っているのだろうが、紋は嘘をつかん。お前は突き落として、慌てて逃げるときに、これを落としたんだ」


 何百という目が、今度は本気でイヴェットを見た。さっき噴き出した令息も、もう笑っていない。


 イヴェットは、掲げられたハンカチをじっと見つめた。


(確かに、うちのハンカチですわね)


 そして、柔らかく口を開いた。


「ヴァロン様。恐れ入りますが、その隅を見せていただけますか」


* * *


 ポーレットは渋る顔をしたが、マクシムに「見せてやれ」と言われて、角を広げてみせた。


 柏の葉の紋の下、隅のほうに、同じ若草色の糸で、小さく数字が縫い取ってある。


 四十七。


「やはり。ニコル」


 イヴェットが壁際を振り返ると、控えの列から、侍女のニコルが一歩前に出た。手には小さな革の手帳を持っている。夜会のたびに、新しいハンカチ三枚と一緒に必ず持ってくるものだった。


「はい、お嬢様」


「四十七番を」


「お待ちくださいませ」


 ニコルが手帳をめくる間に、近くの誰かが「番号?」と呟いた。ニコルは顔を上げずに答えた。


「お嬢様が配りすぎて、お屋敷のハンカチが返ってこないのでございます。二年前から、一枚ずつ番号を縫って、いつどなたにお貸ししたか控えております」


 それから、よく通る声で読み上げる。


「四十七番。二月の十日、ブリエンヌ伯爵夫人のお茶会にて、ヴァロン男爵令嬢様へ。――まだ、お返しいただいておりません」


 ポーレットの顔から、さっと色が引いた。


 ブリエンヌ伯爵夫人が、杯を給仕の盆に置いた。


「覚えてるわ。わたくしの茶会だもの。焼き菓子が自分の分だけ小さいって泣いたのよ、その子」


 誰かが、また噴き出しかけて堪えた。


「イヴェット嬢が黙ってハンカチを貸して、その子が目を押さえて。……あのときも、乾いてたわね」


「ち、違うんです! それは、その、借りたのを返そうと思って持っていたら、イヴェット様が階段で取り返そうとして、それで……」


(お話が、増えましたわ)


「あら。さっきは、落ちたそばに落ちていたって言わなかった?」


 伯爵夫人が首を傾げると、ポーレットは真っ赤になって口を閉じた。代わりにマクシムが前へ出る。


「侍女の手帳など、いくらでも書き換えられる! 主人のために嘘をつくなど、使用人のよくやることだ」


 ニコルの眉がぴくりと上がった。口を開きかけたニコルを、イヴェットは目で止めた。言い返すのは、イヴェットの決まりにはない。それに、確かめられることは、ほかにもある。


 イヴェットはポーレットに向き直り、静かに尋ねた。


「ヴァロン様。七日前の、第五曲が終わったころ、と仰いましたね」


「そ、そうよ。それが何」


「ニコル。七日前の夜会の分を」


 ニコルが手帳をめくる。


「七日前、春の夜会。第五曲の終わりに、東のバルコニーにて、五十二番を……」


 そこで、ニコルが口ごもった。相手の名を言ってよいものか、迷ったのだろう。


 東の壁沿いの柱の陰から、低い声がした。


「うちの従騎士です」


 濃紺の近衛の礼装の男が、一歩前へ出た。黒髪を短く刈った、背の高い男。近衛騎士団長のジルベール・オーランシュだった。


 この三年、イヴェットが壁際に置かれるたびに、すぐ隣の柱のそばに立っていた人だ。夜会の近衛の持ち場が、ちょうど東の壁沿いの柱の列なのだという。交わした言葉は、ほとんどが会釈と、今夜は冷えますね、くらいのものだった。


「トマ」


 ジルベールの後ろから、十六、七の少年がおずおずと進み出た。従騎士のトマは耳まで真っ赤になって、胸の内側から、きちんと畳んだ白いハンカチを取り出した。隅に、若草色で、五十二。


「あ、あの、洗って、お返ししようと思っていて……すみません、ずっと持ってて……」


「七日前、王宮の侍女に振られて、こいつは東のバルコニーで泣いていました」


 ジルベールは、トマの頭に手を置いて淡々と言った。トマが「団長っ」と小さく抗議したが、聞き流された。


「ラシュレー嬢は窓越しにそれを見つけて、侍女を連れて出てきて、黙ってこれを貸して、広間へ戻っていった。第五曲が終わったころです。私は持ち場から、それを見ていました」


 あちこちで、扇の陰の囁きが向きを変えた。今度は、マクシムとポーレットのほうへ。


 マクシムが顔をしかめた。


「……バルコニーから西の階段まで、走れば行けるだろう」


「行けません」


 ジルベールは即答した。


「あの夜、西の階段は絨毯の張り替えで閉めていました。上と下に一人ずつ、立番を置いた。当番の記録には私が署名しています。あの夜、あの階段を上った者も、落ちた者も、一人もいない」


 今度こそ、広間は静まり返った。


 ジルベールはポーレットのほうを見もしなかった。事実だけを言うと、また柱のそばへ一歩戻る。三年間、いつも立っていた場所へ。


「それにねえ」


 老伯爵夫人が、ポーレットのドレスの裾に目をやった。


「足をくじいて三日泣き暮らしたにしては、今夜は三曲続けて踊ってらしたわね。お若いって素敵だわ。それに、付き添いも連れずに一人で休憩室へ下りる令嬢なんて、わたくし、七十年生きてきて初めて聞いたわ」


 ポーレットが、ひっ、と喉を鳴らした。マクシムの袖を握る手が震え、目元に両手を当て、肩を揺らし始める。けれど、聞こえてくるのは声ばかりだった。


 イヴェットは、小物入れに手をやった。空だった。


(あら、二枚とも、もうお貸ししてしまったわ)


 ニコルが心得たように、新しい一枚を差し出しかけた。そのとき、広間の入口のほうから声がした。


「もうよい」


* * *


 大扉の前に、国王陛下が立っておられた。


 隣には、イヴェットの父、外務卿のラシュレー侯爵が控えている。二人とも、今夜は外国の使節と別室で会っておられたはずだった。


 広間じゅうの貴族が、慌てて頭を下げる。陛下はゆっくりと広間を進み、マクシムの前で足を止めた。


「父上、これは……」


「オーランシュの近衛が、使節との席に駆けこんできた。お前が最初の一声を上げたときにな」


 陛下は声を荒らげなかった。


「大扉の陰で、しばらく聞かせてもらった。マクシム。西の階段が閉まっていたことは、近衛の当番の記録を一枚めくれば分かった。お前は何を見て、ラシュレー嬢を罪人と呼んだ」


「それは……ポーレットの、涙を……」


「その涙は、どこにある」


 広間の目が、一斉にイヴェットの手元へ向いた。


 畳み直したばかりの、乾いた一枚目。紅の付いた二枚目。


 マクシムは口を開け、一度閉じ、それでも言った。


「で、ですが父上、ポーレットは本当に泣いて……俺の前で、何度も……」


「泣いている者がいれば、話を聞いてやるのはよい。だが、確かめもせずに人を裁くのは、王族のすることではない」


 陛下はそれだけ言うと、イヴェットのほうへ向き直った。


「ラシュレー嬢。何か、言うことはあるか」


 広間の目が、またイヴェットに集まる。父の外務卿が、青い顔で娘を見ていた。


 イヴェットはドレスの裾をつまみ、深く礼をした。


「ございません、陛下。わたくしは、ハンカチをお貸ししただけでございますので」


 陛下の口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。


「王命の婚約を解けるのは、余だけだ。お前が今夜何を宣言しようと、効き目はない」


 陛下は広間を見渡し、よく通る声で続けた。


「だが、この婚約は解く。王家の側の過ちによるものとし、王家からラシュレー家へ詫びを出す。マクシム、お前が婚姻の折に賜るはずだった公爵位は、見送る。一年、近衛の見習いとして、オーランシュの下に付け」


 ジルベールが、黙って頭を下げた。


「最初の持ち場は、西の階段の立番だ。あの階段を誰が通り、誰が通らぬか、その目で見て覚えよ」


 マクシムの肩が、がくりと落ちた。


 陛下の目が、ポーレットへ移る。ポーレットはもう、泣く真似もしていなかった。


「ヴァロン男爵令嬢。偽りの訴えで、侯爵家の娘に罪を着せようとした。借りた品を、証拠に仕立てた。慣例により、そなたが相手に望んだ罰を、そなたが負う」


 ポーレットが息を呑んだ。


「北の修道院で、二年。ヴァロン男爵家は、ラシュレー家へ詫び金を出すように。男爵には余から伝える」


「そんな……わたし、そんなつもりじゃ……マクシム様っ」


 ポーレットはマクシムの袖に縋ろうとしたが、マクシムは動かなかった。近衛が二人、静かに彼女の両脇に付き、広間の外へ連れていく。桃色のドレスが大扉の向こうへ消えるまで、誰も口をきかなかった。


 残されたマクシムは、父王の前でうつむいたままだった。


 やがて、その肩が小刻みに揺れ始めた。ぽたり、と磨き上げた床に、水滴が落ちる。


 第二王子が、泣いていた。声を殺して、子どものように。


 広間の誰もが、目のやり場に困って視線を逸らした。


 イヴェットは振り返らずに、右手を後ろへ出した。ニコルが、その手のひらに新しい一枚を載せる。隅に、若草色で五十五。


 イヴェットはマクシムの前へ進み、ハンカチを差し出した。


「どうぞ、お使いください」


 マクシムが、ぎょっとして顔を上げた。涙で真っ赤になった目が、イヴェットを見て、ハンカチを見て、またイヴェットを見る。


「お前……俺に、まで……」


 イヴェットは何も言わずに待った。理由は聞かない。慰めの言葉もかけない。相手が誰でも。


 マクシムはハンカチを受け取ると、顔を覆った。長いこと、そうしていた。それから、くしゃくしゃになったハンカチを、おずおずと返してくる。


 イヴェットは受け取って、広げようとして、やめた。


 ぐっしょりと、濡れていた。


「……あら、濡れてるわね」


 伯爵夫人が、しみじみと言った。


 イヴェットは濡れたハンカチを、そっとマクシムの手に戻した。


「そちらは、お返しいただかなくて結構です」


 それから、手に残っていた乾いた二枚を、後ろのニコルに渡した。


* * *


 東のバルコニーには、初夏の夜風が吹いていた。


 広間では、陛下のお言葉で楽団が演奏を再開している。窓越しに、ぎこちなく踊り始めた卒業生たちの姿が見えた。


 イヴェットは手すりに手を置き、王都の灯りを眺めていた。窓の内側には、ニコルが控えている。


 婚約は解けた。冤罪も晴れた。修道院へ行くこともない。胸の内がすうすうと軽くなっているのに、目の奥がひどく熱くて、イヴェットは何度も瞬きをした。


(いけませんわ。侯爵家の娘は、人前で泣かないのですもの)


 広間を出るときに、父が近づいてきた。何か言いかけて、やめて、もう一度言いかけて、ようやく口にしたのは「すまなかった」の一言だった。耐えなさい、とイヴェットに言い続けてきた人だった。父はそれだけ言うと、陛下のもとへ戻っていった。


 足音がした。


 振り向かなくても、誰だか分かった。三年間、同じ足音を壁際で聞いてきた。


 ジルベールは、イヴェットの右隣に立った。柱一本分、離れて。広間の壁際と、まったく同じ立ち位置だった。


「オーランシュ様。先ほどは、ありがとうございました」


「事実を言っただけです」


 ジルベールは王都の灯りを見たまま、低い声で言った。


「それに、礼を言うのはこちらです。トマが世話になった」


「トマさんには、ハンカチは洗わなくてよいとお伝えください。差し上げます」


「伝えます。……喜んで、また泣くと思いますが」


 真顔のまま言うので、イヴェットは少し笑った。


 しばらく、二人とも黙っていた。夜風が、亜麻色の髪の後れ毛を揺らす。


「三年間、見ていました」


 ジルベールが、ぽつりと言った。


「あなたは、泣いている人を見つけるたびに、黙ってハンカチを貸していた。一年目の冬は、盆ごと杯を割って青くなった給仕の少年に。去年の秋は、初めての夜会で誰にも誘われなかった子爵家の令嬢に。振られた令息にも、緊張しすぎて泣き出した楽団の見習いにも。王宮の夜会だけで、私が数えたのは三十一枚です」


「……数えて、いらしたのですか」


「持ち場から動けないので」


 ジルベールは、ようやくイヴェットのほうを向いた。


「その間、あなたが泣いたところを、一度も見なかった。殿下があなたを壁際に置いて行ってしまっても、あなたは背筋を伸ばして、次に泣く誰かを探していた」


 イヴェットは、何も言えなかった。


 覚えていることが、一つだけある。二年前の冬の夜会で、最後の一枚を泣いている令嬢に貸して壁際に戻ったとき、隣の柱から低い声がしたのだ。


「ご自分の分は、残っていますか」


 イヴェットは、わたくしは泣きませんので、と答えた。騎士団長は、そうですか、とだけ言って、それきり天気の話に戻った。三年間で交わした言葉の中で、天気の話でなかったのは、あれだけだった。


「あなたが誰かの婚約者でいる間は、近づかないと決めていました。隣に立っていたのは、そこが持ち場だったからです。けれど、毎回これを入れてきた」


 ジルベールは礼装の胸の内側に手を入れ、白いハンカチを一枚取り出した。


 紋も番号もない、まっさらな一枚だった。きっちりと四つに畳まれ、角まで糊が利いている。


「いつか、あなたが泣いたときのために。三年、夜会のたびに入れていました。一度も使われなかった」


「オーランシュ様……」


「お父上には、今しがた、陛下の御前でお許しをいただきました。あとは、あなた次第です」


 ジルベールは、ハンカチを持ったまま、まっすぐにイヴェットを見た。


「イヴェット・ラシュレー嬢。私と、結婚していただけませんか」


 イヴェットは口を開いた。


「わたくし、泣きませんのよ。ですから、そのハンカチは――」


 言い終わる前に、頬を何かが伝った。


 一粒落ちると、もう止まらなかった。九歳の春から、一度も人前で落としたことのなかったものが、あとからあとから溢れた。慌てて小物入れに手をやったが、もちろん空だった。乾いた二枚はさっきニコルに渡してしまったし、そのニコルは窓の内側に控えている。


(ハンカチが、ありませんわ)


 自分が泣いているのに、貸すハンカチも、使うハンカチもない。そんなことは初めてで、イヴェットはどうしたらいいのか分からなかった。


 目の前に、白い一枚が差し出された。


「どうぞ、お使いください」


 イヴェットが三年間、ほかの誰かに言い続けてきた言葉だった。


 震える手でそれを受け取り、目元に押し当てた。糊の利いた硬い布が、すぐに柔らかく湿っていく。九歳の春の分まで、白い布が吸い取っていくようだった。


 ようやく顔を上げると、ジルベールが困ったような顔で、それでも少しだけ笑っていた。


「……ようやく、使ってもらえた」


「はい」


 イヴェットは、濡れたハンカチを両手で握りしめたまま、答えた。


「はい。……喜んで、お受けいたします」


 手の中のハンカチは、すっかり濡れていた。


 借りたハンカチは、洗って返すのが礼儀だ。イヴェットはそれでも、このハンカチだけは、乾かしても返さないことに決めた。


* * *


 ひと月が過ぎた。


 王宮の西の階段には、近衛の見習いの濃紺の上着を着たマクシムが、毎晩立っている。通る人に頭を下げ、誰が上り、誰が下りたかを、夜明けに当番の記録へ書き込む。字が汚いとオーランシュ団長に三度書き直させられた、という噂が、社交界をひと回りした。


 王家からは、陛下の署名の入った詫び状がラシュレー家に届いた。ポーレットは、卒業の夜会の三日後に北の修道院へ発った。ヴァロン男爵が娘の代わりに、ラシュレー家へ詫び状と詫び金を届けに来た。四十七番は、その詫び状に添えて返ってきた。乾いたまま、きちんと洗ってあった。


 トマは五十二番を、今も胸に入れているらしい。


 その夜、ラシュレー家の自室で、ニコルが手帳を開いていた。


「お嬢様。こちらの一枚は、何番にいたしましょう」


 ニコルが指さしたのは、鏡台の引き出しにしまってある、紋も番号もない白いハンカチだった。洗って、アイロンをかけて、四つに畳んである。


「番号は要らないわ」


 イヴェットは答えた。


「それは、お貸ししたものでも、お返しするものでもないもの」


 ニコルは少し考えてから、手帳の新しい行に、丁寧な字で書きつけた。


 番号なし。卒業の夜会、東のバルコニーにて、オーランシュ侯爵様より、お嬢様へ。お返しの予定なし。


 明日の夜は、婚約が調ってから初めての王宮の夜会だった。イヴェットは小物入れに、新しい番号のハンカチを二枚入れた。それから、番号のない一枚を、ドレスの胸の内側にそっとしまった。


 壁際には、もう立たない。隣に立つ人が、その夜の持ち場を副団長に任せて、最初の一曲から最後の一曲まで、そばにいると言ったので。

お読みいただきありがとうございます。泣いている人にハンカチを貸し続けてきたイヴェットが、初めて一枚受け取るまでのお話でした。壁際で三十一枚を数えていた騎士団長の三年間も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと、下の☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援していただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
ハンカチの管理がしっかりしていて素晴らしいですね。 「それだけじゃない。泣いている者を見れば、誰彼かまわずハンカチを押しつけて回る。気味の悪い女だ!」 「それに比べて、お前はどうだ。三年間、俺の…
ッ(〃艸〃)リリカル♡
お父さんは自分が過去に娘に何を言ったのか思い出したのかなあ
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