「彼女を泣かせたな!」と婚約破棄されたので、ハンカチを貸しました。乾いたまま返ってきました
「ポーレットを泣かせたな! イヴェット・ラシュレー、お前との婚約は、今この場で破棄する!」
王宮の大広間に、第二王子マクシムの声が響いた。
王立学院の卒業の夜会である。国王陛下は最初の挨拶を済ませて退出され、広間に残っているのは卒業生と、その家族と同伴者ばかりだった。楽団が弓を止め、踊っていた三組が足をもつれさせる。何百という目が、東の壁際に立つイヴェットへ集まった。
イヴェットの右手、柱一本分離れたところでは、近衛の騎士団長が、いつものように壁を背にして立っている。その人も、こちらを見ていた。
マクシムの腕の中では、男爵令嬢のポーレット・ヴァロンが肩を震わせていた。蜂蜜色の巻き毛が揺れ、桃色のドレスの胸元を握りしめて、しゃくり上げている。
「ひどい、です……わたし、ずっと、我慢して……」
さあ、侯爵令嬢はどう出るか。泣くか、青ざめるか、言い返すか。広間の期待が、肌で分かるほど濃くなる。
イヴェットは、マクシムの前をすっと素通りした。
そのまま手首に提げた小物入れの口を開け、白いハンカチを一枚取り出して、ポーレットの前に差し出す。
「どうぞ、お使いください」
広間が、しんとした。
「……何のつもりだ」
マクシムの声が一段低くなる。イヴェットは小さく首を傾げた。
(泣いている方がいらしたら、まずハンカチ。何のつもりも、ございませんけれど)
九歳の春、母の葬儀で、イヴェットは泣いた。棺のそばで、大人たちに囲まれて、ずっと泣いていた。誰もハンカチを貸してくれなかった。帰りの馬車で父に言われたのは「侯爵家の娘は、人前で泣くものではない」の一言だけで、イヴェットは袖で顔を拭いた。
だから決めたのだ。泣いている人がいたら、何も言わずに一枚貸す。理由は聞かない。慰めの言葉もかけない。相手が誰でも、何度でも。
ポーレットは差し出されたハンカチを見て、一瞬だけ目を泳がせた。それから引ったくるように受け取り、目元にぎゅっと押し当てて、すぐに突き返してきた。
「け、結構です!」
イヴェットはハンカチを受け取ると、いつもの癖で一度広げ、畳み直した。
白い細布は、白いままだった。アイロンの折り目まで、ぱりっと立っている。
(あら)
「あら、乾いてるわね」
イヴェットが胸の中で言ったのと同じ言葉が、すぐ横から聞こえた。
振り向くと、ブリエンヌ伯爵夫人が葡萄酒の杯を片手に、イヴェットの手元を覗き込んでいた。七十を過ぎた社交界の古株で、今夜は卒業する孫娘の付き添いとして来ている。声を落とすということを、もう何十年もしていない方だった。
「え、乾いてるって、今ので?」
すぐ後ろの令嬢が聞き返し、その後ろの令息が隣に耳打ちする。囁きが、波のように広間の後ろへ流れていった。
マクシムには聞こえていないようだった。ポーレットの肩を抱き直し、金の巻き毛を揺らして、イヴェットを指さす。
「お前は陰でポーレットをいじめ、何度も泣かせてきた。ポーレットが全部話してくれたんだ。自分の茶会にポーレットだけを呼ばず、学院の廊下ではすれ違うたびに睨みつけた!」
(わたくし、茶会を開いたことがございませんのに)
王子の婚約者が茶会を開けば、招いた家と招かなかった家で派閥ができる。だから開くな、と父に言われて、三年間一度も開いていない。学院の廊下にしても、学年の違うポーレットとすれ違った覚えが、イヴェットにはほとんどなかった。
「それだけじゃない。泣いている者を見れば、誰彼かまわずハンカチを押しつけて回る。気味の悪い女だ!」
(押しつけて、は少し違いますわ。お貸ししております)
「ポーレットは、こうして素直に涙を見せてくれる。それに比べて、お前はどうだ。三年間、俺の前で一度も泣いたことがない。笑いもしない。可愛げのない女だと、ずっと思っていた」
三年前の春、王命で婚約が結ばれてから、夜会のたびにマクシムが踊ってくれたのは最初の一曲だけだった。曲が終わると、彼は「少し外す」と言ってイヴェットを東の壁際に置き、別の令嬢の手を取りに行く。戻ってくるのは、帰りの馬車を呼ぶときだけだった。三年で、そういう夜が三十回あまりあった。
泣く理由なら、いくらでもあったのかもしれない。けれど、泣いてよい場所はどこにもなかった。
「お前のような女は、北の修道院で頭を冷やすがいい!」
(修道院は、殿下がお決めになれることではないはずですけれど)
イヴェットは黙って、乾いたハンカチを畳んだまま手に持っていた。
* * *
「マクシム様、それだけじゃないんです……」
ポーレットが、また声を震わせた。今度は両手で目をこすり、こすり、もう一度こする。
イヴェットは、小物入れから二枚目を出した。
「どうぞ、お使いください」
「なっ……」
マクシムが目を剥いた。ポーレットも一瞬固まったが、広間じゅうの目がこちらを向いているのに気づいたらしい。今度は受け取ったハンカチを、ゆっくりと、念入りに、両目に押し当てた。たっぷり十数えるほど押し当ててから、返してくる。
イヴェットは広げて、畳み直した。
涙の染みは、どこにもなかった。その代わり、真ん中に頬紅の桃色が、ほんのりと移っている。
「今度は紅が付いてるわ」
また、老伯爵夫人だった。
後ろのほうで若い令息が噴き出し、慌てて咳の振りをした。つられた何人かが扇の陰で肩を揺らす。
「何がおかしい!」
マクシムが怒鳴ると、広間はまた静まった。けれど、もう誰もイヴェットの顔を見てはいなかった。見ているのは、ポーレットの目元だった。
ポーレットが唇を噛み、マクシムの袖を引く。
「マクシム様。わたし、本当は言いたくなかったんです。でも……七日前の、春の夜会のこと」
「ああ。言ってやれ、ポーレット」
「第五曲が終わったころでした。わたし、休憩室へ行こうとして、西の階段を下りようとしたんです。そうしたら、後ろからイヴェット様が……どんって」
ポーレットは自分の胸を両手で押さえた。
「踊り場まで落ちて、足をくじいて、三日も泣き暮らしました。怖くて、マクシム様にしか言えなくて。だから、お願いしたんです。こんな方には北の修道院へ行っていただかないと、わたし、怖くて学院にも通えませんって」
さっきのマクシムの「北の修道院」は、ここから来ていたらしい。
広間がざわめいた。茶会や廊下の話とは訳が違う。階段から人を突き落とすのは、侯爵令嬢であっても罪になる。「怪我をさせたのなら」「審問ものだぞ」と、さっきまで笑いを堪えていた令息たちの顔が引き締まった。
イヴェットは、七日前の夜を思い返した。春の夜会。いつものように最初の一曲で置いていかれ、いつものように東の壁際に立っていた。その夜も、何枚かハンカチを貸した気がする。けれど西の階段には、近寄った覚えすらない。
(あの夜は、休憩室には一度も行っておりませんもの)
「それで、落ちたわたしのそばに、これが」
ポーレットが自分の小物入れから、一枚のハンカチを取り出して掲げた。
白い細布の真ん中に、三枚の柏の葉の紋が、若草色の糸で刺繍してある。ラシュレー家の紋だった。
マクシムが、勝ち誇ったように顎を上げる。
「見ろ。お前の家の紋だ。ハンカチなどどれも同じだと思っているのだろうが、紋は嘘をつかん。お前は突き落として、慌てて逃げるときに、これを落としたんだ」
何百という目が、今度は本気でイヴェットを見た。さっき噴き出した令息も、もう笑っていない。
イヴェットは、掲げられたハンカチをじっと見つめた。
(確かに、うちのハンカチですわね)
そして、柔らかく口を開いた。
「ヴァロン様。恐れ入りますが、その隅を見せていただけますか」
* * *
ポーレットは渋る顔をしたが、マクシムに「見せてやれ」と言われて、角を広げてみせた。
柏の葉の紋の下、隅のほうに、同じ若草色の糸で、小さく数字が縫い取ってある。
四十七。
「やはり。ニコル」
イヴェットが壁際を振り返ると、控えの列から、侍女のニコルが一歩前に出た。手には小さな革の手帳を持っている。夜会のたびに、新しいハンカチ三枚と一緒に必ず持ってくるものだった。
「はい、お嬢様」
「四十七番を」
「お待ちくださいませ」
ニコルが手帳をめくる間に、近くの誰かが「番号?」と呟いた。ニコルは顔を上げずに答えた。
「お嬢様が配りすぎて、お屋敷のハンカチが返ってこないのでございます。二年前から、一枚ずつ番号を縫って、いつどなたにお貸ししたか控えております」
それから、よく通る声で読み上げる。
「四十七番。二月の十日、ブリエンヌ伯爵夫人のお茶会にて、ヴァロン男爵令嬢様へ。――まだ、お返しいただいておりません」
ポーレットの顔から、さっと色が引いた。
ブリエンヌ伯爵夫人が、杯を給仕の盆に置いた。
「覚えてるわ。わたくしの茶会だもの。焼き菓子が自分の分だけ小さいって泣いたのよ、その子」
誰かが、また噴き出しかけて堪えた。
「イヴェット嬢が黙ってハンカチを貸して、その子が目を押さえて。……あのときも、乾いてたわね」
「ち、違うんです! それは、その、借りたのを返そうと思って持っていたら、イヴェット様が階段で取り返そうとして、それで……」
(お話が、増えましたわ)
「あら。さっきは、落ちたそばに落ちていたって言わなかった?」
伯爵夫人が首を傾げると、ポーレットは真っ赤になって口を閉じた。代わりにマクシムが前へ出る。
「侍女の手帳など、いくらでも書き換えられる! 主人のために嘘をつくなど、使用人のよくやることだ」
ニコルの眉がぴくりと上がった。口を開きかけたニコルを、イヴェットは目で止めた。言い返すのは、イヴェットの決まりにはない。それに、確かめられることは、ほかにもある。
イヴェットはポーレットに向き直り、静かに尋ねた。
「ヴァロン様。七日前の、第五曲が終わったころ、と仰いましたね」
「そ、そうよ。それが何」
「ニコル。七日前の夜会の分を」
ニコルが手帳をめくる。
「七日前、春の夜会。第五曲の終わりに、東のバルコニーにて、五十二番を……」
そこで、ニコルが口ごもった。相手の名を言ってよいものか、迷ったのだろう。
東の壁沿いの柱の陰から、低い声がした。
「うちの従騎士です」
濃紺の近衛の礼装の男が、一歩前へ出た。黒髪を短く刈った、背の高い男。近衛騎士団長のジルベール・オーランシュだった。
この三年、イヴェットが壁際に置かれるたびに、すぐ隣の柱のそばに立っていた人だ。夜会の近衛の持ち場が、ちょうど東の壁沿いの柱の列なのだという。交わした言葉は、ほとんどが会釈と、今夜は冷えますね、くらいのものだった。
「トマ」
ジルベールの後ろから、十六、七の少年がおずおずと進み出た。従騎士のトマは耳まで真っ赤になって、胸の内側から、きちんと畳んだ白いハンカチを取り出した。隅に、若草色で、五十二。
「あ、あの、洗って、お返ししようと思っていて……すみません、ずっと持ってて……」
「七日前、王宮の侍女に振られて、こいつは東のバルコニーで泣いていました」
ジルベールは、トマの頭に手を置いて淡々と言った。トマが「団長っ」と小さく抗議したが、聞き流された。
「ラシュレー嬢は窓越しにそれを見つけて、侍女を連れて出てきて、黙ってこれを貸して、広間へ戻っていった。第五曲が終わったころです。私は持ち場から、それを見ていました」
あちこちで、扇の陰の囁きが向きを変えた。今度は、マクシムとポーレットのほうへ。
マクシムが顔をしかめた。
「……バルコニーから西の階段まで、走れば行けるだろう」
「行けません」
ジルベールは即答した。
「あの夜、西の階段は絨毯の張り替えで閉めていました。上と下に一人ずつ、立番を置いた。当番の記録には私が署名しています。あの夜、あの階段を上った者も、落ちた者も、一人もいない」
今度こそ、広間は静まり返った。
ジルベールはポーレットのほうを見もしなかった。事実だけを言うと、また柱のそばへ一歩戻る。三年間、いつも立っていた場所へ。
「それにねえ」
老伯爵夫人が、ポーレットのドレスの裾に目をやった。
「足をくじいて三日泣き暮らしたにしては、今夜は三曲続けて踊ってらしたわね。お若いって素敵だわ。それに、付き添いも連れずに一人で休憩室へ下りる令嬢なんて、わたくし、七十年生きてきて初めて聞いたわ」
ポーレットが、ひっ、と喉を鳴らした。マクシムの袖を握る手が震え、目元に両手を当て、肩を揺らし始める。けれど、聞こえてくるのは声ばかりだった。
イヴェットは、小物入れに手をやった。空だった。
(あら、二枚とも、もうお貸ししてしまったわ)
ニコルが心得たように、新しい一枚を差し出しかけた。そのとき、広間の入口のほうから声がした。
「もうよい」
* * *
大扉の前に、国王陛下が立っておられた。
隣には、イヴェットの父、外務卿のラシュレー侯爵が控えている。二人とも、今夜は外国の使節と別室で会っておられたはずだった。
広間じゅうの貴族が、慌てて頭を下げる。陛下はゆっくりと広間を進み、マクシムの前で足を止めた。
「父上、これは……」
「オーランシュの近衛が、使節との席に駆けこんできた。お前が最初の一声を上げたときにな」
陛下は声を荒らげなかった。
「大扉の陰で、しばらく聞かせてもらった。マクシム。西の階段が閉まっていたことは、近衛の当番の記録を一枚めくれば分かった。お前は何を見て、ラシュレー嬢を罪人と呼んだ」
「それは……ポーレットの、涙を……」
「その涙は、どこにある」
広間の目が、一斉にイヴェットの手元へ向いた。
畳み直したばかりの、乾いた一枚目。紅の付いた二枚目。
マクシムは口を開け、一度閉じ、それでも言った。
「で、ですが父上、ポーレットは本当に泣いて……俺の前で、何度も……」
「泣いている者がいれば、話を聞いてやるのはよい。だが、確かめもせずに人を裁くのは、王族のすることではない」
陛下はそれだけ言うと、イヴェットのほうへ向き直った。
「ラシュレー嬢。何か、言うことはあるか」
広間の目が、またイヴェットに集まる。父の外務卿が、青い顔で娘を見ていた。
イヴェットはドレスの裾をつまみ、深く礼をした。
「ございません、陛下。わたくしは、ハンカチをお貸ししただけでございますので」
陛下の口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
「王命の婚約を解けるのは、余だけだ。お前が今夜何を宣言しようと、効き目はない」
陛下は広間を見渡し、よく通る声で続けた。
「だが、この婚約は解く。王家の側の過ちによるものとし、王家からラシュレー家へ詫びを出す。マクシム、お前が婚姻の折に賜るはずだった公爵位は、見送る。一年、近衛の見習いとして、オーランシュの下に付け」
ジルベールが、黙って頭を下げた。
「最初の持ち場は、西の階段の立番だ。あの階段を誰が通り、誰が通らぬか、その目で見て覚えよ」
マクシムの肩が、がくりと落ちた。
陛下の目が、ポーレットへ移る。ポーレットはもう、泣く真似もしていなかった。
「ヴァロン男爵令嬢。偽りの訴えで、侯爵家の娘に罪を着せようとした。借りた品を、証拠に仕立てた。慣例により、そなたが相手に望んだ罰を、そなたが負う」
ポーレットが息を呑んだ。
「北の修道院で、二年。ヴァロン男爵家は、ラシュレー家へ詫び金を出すように。男爵には余から伝える」
「そんな……わたし、そんなつもりじゃ……マクシム様っ」
ポーレットはマクシムの袖に縋ろうとしたが、マクシムは動かなかった。近衛が二人、静かに彼女の両脇に付き、広間の外へ連れていく。桃色のドレスが大扉の向こうへ消えるまで、誰も口をきかなかった。
残されたマクシムは、父王の前でうつむいたままだった。
やがて、その肩が小刻みに揺れ始めた。ぽたり、と磨き上げた床に、水滴が落ちる。
第二王子が、泣いていた。声を殺して、子どものように。
広間の誰もが、目のやり場に困って視線を逸らした。
イヴェットは振り返らずに、右手を後ろへ出した。ニコルが、その手のひらに新しい一枚を載せる。隅に、若草色で五十五。
イヴェットはマクシムの前へ進み、ハンカチを差し出した。
「どうぞ、お使いください」
マクシムが、ぎょっとして顔を上げた。涙で真っ赤になった目が、イヴェットを見て、ハンカチを見て、またイヴェットを見る。
「お前……俺に、まで……」
イヴェットは何も言わずに待った。理由は聞かない。慰めの言葉もかけない。相手が誰でも。
マクシムはハンカチを受け取ると、顔を覆った。長いこと、そうしていた。それから、くしゃくしゃになったハンカチを、おずおずと返してくる。
イヴェットは受け取って、広げようとして、やめた。
ぐっしょりと、濡れていた。
「……あら、濡れてるわね」
伯爵夫人が、しみじみと言った。
イヴェットは濡れたハンカチを、そっとマクシムの手に戻した。
「そちらは、お返しいただかなくて結構です」
それから、手に残っていた乾いた二枚を、後ろのニコルに渡した。
* * *
東のバルコニーには、初夏の夜風が吹いていた。
広間では、陛下のお言葉で楽団が演奏を再開している。窓越しに、ぎこちなく踊り始めた卒業生たちの姿が見えた。
イヴェットは手すりに手を置き、王都の灯りを眺めていた。窓の内側には、ニコルが控えている。
婚約は解けた。冤罪も晴れた。修道院へ行くこともない。胸の内がすうすうと軽くなっているのに、目の奥がひどく熱くて、イヴェットは何度も瞬きをした。
(いけませんわ。侯爵家の娘は、人前で泣かないのですもの)
広間を出るときに、父が近づいてきた。何か言いかけて、やめて、もう一度言いかけて、ようやく口にしたのは「すまなかった」の一言だった。耐えなさい、とイヴェットに言い続けてきた人だった。父はそれだけ言うと、陛下のもとへ戻っていった。
足音がした。
振り向かなくても、誰だか分かった。三年間、同じ足音を壁際で聞いてきた。
ジルベールは、イヴェットの右隣に立った。柱一本分、離れて。広間の壁際と、まったく同じ立ち位置だった。
「オーランシュ様。先ほどは、ありがとうございました」
「事実を言っただけです」
ジルベールは王都の灯りを見たまま、低い声で言った。
「それに、礼を言うのはこちらです。トマが世話になった」
「トマさんには、ハンカチは洗わなくてよいとお伝えください。差し上げます」
「伝えます。……喜んで、また泣くと思いますが」
真顔のまま言うので、イヴェットは少し笑った。
しばらく、二人とも黙っていた。夜風が、亜麻色の髪の後れ毛を揺らす。
「三年間、見ていました」
ジルベールが、ぽつりと言った。
「あなたは、泣いている人を見つけるたびに、黙ってハンカチを貸していた。一年目の冬は、盆ごと杯を割って青くなった給仕の少年に。去年の秋は、初めての夜会で誰にも誘われなかった子爵家の令嬢に。振られた令息にも、緊張しすぎて泣き出した楽団の見習いにも。王宮の夜会だけで、私が数えたのは三十一枚です」
「……数えて、いらしたのですか」
「持ち場から動けないので」
ジルベールは、ようやくイヴェットのほうを向いた。
「その間、あなたが泣いたところを、一度も見なかった。殿下があなたを壁際に置いて行ってしまっても、あなたは背筋を伸ばして、次に泣く誰かを探していた」
イヴェットは、何も言えなかった。
覚えていることが、一つだけある。二年前の冬の夜会で、最後の一枚を泣いている令嬢に貸して壁際に戻ったとき、隣の柱から低い声がしたのだ。
「ご自分の分は、残っていますか」
イヴェットは、わたくしは泣きませんので、と答えた。騎士団長は、そうですか、とだけ言って、それきり天気の話に戻った。三年間で交わした言葉の中で、天気の話でなかったのは、あれだけだった。
「あなたが誰かの婚約者でいる間は、近づかないと決めていました。隣に立っていたのは、そこが持ち場だったからです。けれど、毎回これを入れてきた」
ジルベールは礼装の胸の内側に手を入れ、白いハンカチを一枚取り出した。
紋も番号もない、まっさらな一枚だった。きっちりと四つに畳まれ、角まで糊が利いている。
「いつか、あなたが泣いたときのために。三年、夜会のたびに入れていました。一度も使われなかった」
「オーランシュ様……」
「お父上には、今しがた、陛下の御前でお許しをいただきました。あとは、あなた次第です」
ジルベールは、ハンカチを持ったまま、まっすぐにイヴェットを見た。
「イヴェット・ラシュレー嬢。私と、結婚していただけませんか」
イヴェットは口を開いた。
「わたくし、泣きませんのよ。ですから、そのハンカチは――」
言い終わる前に、頬を何かが伝った。
一粒落ちると、もう止まらなかった。九歳の春から、一度も人前で落としたことのなかったものが、あとからあとから溢れた。慌てて小物入れに手をやったが、もちろん空だった。乾いた二枚はさっきニコルに渡してしまったし、そのニコルは窓の内側に控えている。
(ハンカチが、ありませんわ)
自分が泣いているのに、貸すハンカチも、使うハンカチもない。そんなことは初めてで、イヴェットはどうしたらいいのか分からなかった。
目の前に、白い一枚が差し出された。
「どうぞ、お使いください」
イヴェットが三年間、ほかの誰かに言い続けてきた言葉だった。
震える手でそれを受け取り、目元に押し当てた。糊の利いた硬い布が、すぐに柔らかく湿っていく。九歳の春の分まで、白い布が吸い取っていくようだった。
ようやく顔を上げると、ジルベールが困ったような顔で、それでも少しだけ笑っていた。
「……ようやく、使ってもらえた」
「はい」
イヴェットは、濡れたハンカチを両手で握りしめたまま、答えた。
「はい。……喜んで、お受けいたします」
手の中のハンカチは、すっかり濡れていた。
借りたハンカチは、洗って返すのが礼儀だ。イヴェットはそれでも、このハンカチだけは、乾かしても返さないことに決めた。
* * *
ひと月が過ぎた。
王宮の西の階段には、近衛の見習いの濃紺の上着を着たマクシムが、毎晩立っている。通る人に頭を下げ、誰が上り、誰が下りたかを、夜明けに当番の記録へ書き込む。字が汚いとオーランシュ団長に三度書き直させられた、という噂が、社交界をひと回りした。
王家からは、陛下の署名の入った詫び状がラシュレー家に届いた。ポーレットは、卒業の夜会の三日後に北の修道院へ発った。ヴァロン男爵が娘の代わりに、ラシュレー家へ詫び状と詫び金を届けに来た。四十七番は、その詫び状に添えて返ってきた。乾いたまま、きちんと洗ってあった。
トマは五十二番を、今も胸に入れているらしい。
その夜、ラシュレー家の自室で、ニコルが手帳を開いていた。
「お嬢様。こちらの一枚は、何番にいたしましょう」
ニコルが指さしたのは、鏡台の引き出しにしまってある、紋も番号もない白いハンカチだった。洗って、アイロンをかけて、四つに畳んである。
「番号は要らないわ」
イヴェットは答えた。
「それは、お貸ししたものでも、お返しするものでもないもの」
ニコルは少し考えてから、手帳の新しい行に、丁寧な字で書きつけた。
番号なし。卒業の夜会、東のバルコニーにて、オーランシュ侯爵様より、お嬢様へ。お返しの予定なし。
明日の夜は、婚約が調ってから初めての王宮の夜会だった。イヴェットは小物入れに、新しい番号のハンカチを二枚入れた。それから、番号のない一枚を、ドレスの胸の内側にそっとしまった。
壁際には、もう立たない。隣に立つ人が、その夜の持ち場を副団長に任せて、最初の一曲から最後の一曲まで、そばにいると言ったので。
お読みいただきありがとうございます。泣いている人にハンカチを貸し続けてきたイヴェットが、初めて一枚受け取るまでのお話でした。壁際で三十一枚を数えていた騎士団長の三年間も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと、下の☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援していただけると嬉しいです。




