悪役令嬢になったのは、ずっと誰も叱ってくれなかったから
リシェル・オルディア公爵令嬢は、社交界で嫌われていた。
それは嫉妬ではなかった。羨望と憎悪が入り混じるような、華やかな嫌悪でもない。もっと手触りの分かりやすい、もっと扱いやすい種類の拒絶だった。
美しい。成績も良い。舞踏も礼法も隙がない。王太子妃教育も誰より早く飲み込み、政治や財政に関する理解も深い。社交の場での立ち位置も誤らず、どの家にどういう配慮が要るかも把握している。誰が見ても優秀だった。
優秀だったが、好かれなかった。
理由は単純だった。彼女は、人が欲しがる場面で、人が欲しがるものを差し出さなかった。
慰めてほしい相手に慰めを与えない。曖昧に流してほしい失敗に、曖昧さを与えない。気まずさを笑いでほどいてほしい空気に、笑いではなく整頓を持ち込む。
泣いている者に、なぜ泣いているのかを問う。困っている者に、どこで判断を誤ったのかを指摘する。助けを求める声に、まず再発防止の手順を返す。
人はそれを正論と呼ぶ。正しいが、欲しかったものではない言葉をそう呼ぶ。
だから皆、彼女をこう言った。
冷たい人。
息の詰まる人。
正しいだけの人。
王太子殿下の婚約者にしては、可愛げのない女。
本人は、そのどれにも反論しなかった。反論する意味が分からなかったからだ。
春先の茶会でも、それは変わらなかった。
王城の南庭は薄桃色の花に埋まり、白いクロスのかかった丸卓には焼き菓子と磁器のカップが整然と並べられていた。風はまだ少し冷えるが、若い令息令嬢たちは季節のやわらぎに浮き立ち、あちこちで笑い声がこぼれている。侍女たちは静かに歩き、楽師たちは控えめに弦を鳴らし、春の王城らしい、よく整えられた午後だった。
その一角で、小さな悲鳴が上がった。
伯爵家の令嬢が、手にしていたカップを取り落としたのだ。
白い石畳の上に砕ける薄い磁器。散る破片。濃い茶色の染み。熱い液体が裾へ飛んだのか、令嬢は顔を真っ青にして立ち尽くしていた。側にいた侍女が慌てて身を乗り出し、別の侍女も布を持って駆け寄ろうとする。だが通路は細く、数人が同時に動けばかえって危うい。
「申し訳ございません……っ、わたくし、その、手が滑って……」
今にも泣き出しそうな声だった。
そこへ、リシェルが口を開いた。
「謝罪の相手が違いますわ」
やわらかな日差しの下で、その声だけが妙に硬かった。
令嬢がはっと顔を上げる。周囲の視線も集まる。春の空気に、水を差すには十分な冷たさだった。
「え……?」
「この場における問題は、貴女が恥をかいたことではありません」
リシェルは砕けたカップ、通路、足を止めた侍女たち、後ろから回り込めずに立ち尽くしている給仕を順に見た。
「通路を塞ぎ、侍女の導線を乱し、熱い茶で他者を傷つける危険を生じさせたことです。泣く前に、まず下がって足元を空けなさい」
令嬢の唇が震えた。
「ですが、わたくし……」
「怪我は?」
「……ございません」
「裾に熱は残っていますか」
「い、いいえ……」
「では動けますね」
その言葉は事実だった。怪我がないなら退くべきだ。侍女の導線は空けるべきだ。熱い茶が散った場所へ人が集まるのは危険だ。誰が聞いても正しい。
正しいからこそ、その場の数人は反射的に従い、数人は反射的に顔をしかめた。
令嬢は目を潤ませたまま、ほとんど反射で一歩退いた。だが退く途中でドレスの裾を踏みかけ、侍女が慌てて支える。周囲で小さく息が漏れる。
リシェルは侍女長へ向き直った。
「破片は内側から回収を。布は二枚、先に熱を押さえてから拭き取りなさい。向こうの卓を半歩ずらせば通路を確保できます。給仕は左回りへ変更を」
「は、はい」
侍女長は素早く動いた。指示は適切だった。過不足がない。迷う余地がない。現場はすぐに整った。
整ったが、泣きそうな令嬢はその間もそこにいた。恥をかいたまま、居場所をなくしたように立っていた。
リシェルはその姿を一度見たが、特に声をかけなかった。もう問題は処理の段階に入っている。怪我もない。導線も戻った。なら、次に進むだけだった。
少し離れた場所で、それを見ていた若い貴族たちの間に、ひそかな空気が走った。
まただ。
やっぱりああいう人だ。
正しいけれど、今それを言うのか。
あの場で泣くなと言われたら、そりゃ泣くしかなくなるでしょう。
声には出さないが、そんな気配がいくつも浮いた。
そこへ、別の令嬢が気まずそうに先ほどの伯爵令嬢へ近づいた。何か囁き、そっと手を握る。肩を抱くほどではない、だが「大丈夫」と伝える仕草だった。それだけで、張っていた空気が少しだけほどける。
その動きを見ていた何人かが、ようやく微笑みを取り戻した。
リシェルはその変化に気づいていたが、意味はよく分からなかった。
処理は済んだ。安全も確保した。あとは各自が戻ればいい。そこでさらに感情の世話をする必要が、彼女には見えなかった。
南庭の端では、第一王子エドガーがその一部始終を見ていた。
隣にはセレナ・フェルミア侯爵令嬢がいる。淡い金髪に春色のドレスをまとった彼女は、いかにも社交界が好む柔らかな美しさを備えた少女だった。場に合わせて表情を変え、人の感情に寄り添うことをためらわない。泣いている相手を見れば、まず傷ついた心へ手を伸ばす類の娘である。
「リシェル様は……お厳しいのですね」
痛ましげな声だった。
エドガーはすぐには答えなかった。婚約者を否定するのも違うと思ったし、かといって肯定もできなかった。
「正しいことを言ってはいる」
ようやくそれだけ言うと、セレナは少し俯いた。
「ええ。ですが、正しさだけでは苦しい時もございますもの」
その言葉に、エドガーは曖昧に頷いた。
彼はそれを何度も見てきた。
学園で成績の振るわない下級生が相談を持ち込めば、励ましではなく勉強計画の誤りを指摘する。夜会で緊張している令嬢には、「姿勢が硬いせいで余計に視線を集めています」と率直に告げる。侍女が失敗すれば、「謝罪より先に、なぜそうなったかを整理しなさい」と言う。
間違ってはいない。だが、間違っていないことが人を救うとは限らない。
リシェルはその限界を、いつもどこかで見落としているように思えた。
庭を抜ける風が、少しだけ冷えた。
その時、リシェルが小さく咳をした。
ごく短く、喉の奥を掠めるような咳だった。彼女はすぐにハンカチを口元へ当て、何事もなかったように姿勢を戻す。顔色はもともと白い。今日に限って悪いのか、いつも通りなのか、少し見ただけでは分からない。
誰も気に留めなかった。エドガーも、その場では。
茶会が終盤に差しかかり、楽師たちが舞踏曲を奏で始めると、若い令息令嬢たちは互いに相手を求めて動き出した。エドガーは義務としてリシェルのもとへ向かう。
「踊ってもらえるか」
「ええ、殿下」
リシェルは完璧な礼で応じた。
淡い群青のドレスは彼女の身体の線を無駄なく整え、装飾は控えめだが高貴で、並び立てば誰の目にも美しい組み合わせだった。だが手を取った瞬間、エドガーは微かに眉を寄せた。
冷たい。
まだ春先とはいえ、少し不自然なくらいに。
「体調が悪いのか」
問いは口から自然に出た。気遣いというより、違和感の確認に近かった。
リシェルは一拍だけ目を伏せた。
「支障はございません」
いつもの答えだった。
困っていない。問題ない。支障ない。彼女はいつもそう言う。
夜会の終わりに足元が少しふらついても。朝から何も食べていないと聞いても。学園で長時間立ち通しの行事があっても。彼女は「問題ありません」と言って、その先を閉ざしてしまう。
エドガーもまた、そこで止まってきた。
彼女は強いのだと思っていた。優秀なのだと思っていた。人に甘えぬ女であり、そういう気質なのだと。だから、それ以上踏み込まなかった。踏み込む必要がない相手だと、どこかで決めていた。
曲が半ばに差しかかった頃、エドガーの視線は不意に別の場所へ向いた。
セレナが、先ほど泣きそうだった伯爵令嬢に囲まれている。何か相談を受けているらしい。相手の言葉を遮らずに聞き、時折困ったように微笑み、それでも責める響きは一切含ませない。相手の背をそっと撫でる。たったそれだけで、あの場で凍りついていた空気が、今はやわらかくほどけているのが分かった。
リシェルとは正反対だった。
エドガーがそれを見つめた瞬間、リシェルの視線が一度だけ彼を捉えた。
何も言わない。責めない。妬まない。悲しげにもならない。ただ相手の関心が別の場所へ向いた事実だけを把握し、そのまま次の動作へ戻るような目だった。
昔から、彼女はそうだった。
広い屋敷。磨き抜かれた床。季節ごとに花が入れ替わる応接間。行き届いた使用人たち。オルディア公爵家の屋敷は、どこまでも整っていた。
父は公務に忙しく、母は常に優雅だった。兄は早くから領地経営の補佐に出ており、妹は体が弱くて何かと気にかけられていた。リシェルは手のかからない子として扱われた。泣き喚かない。言えば覚える。癇癪を起こさない。痛みに強い。熱を出しても騒がない。
聞き分けのいい子。賢い子。助かる子。
そういう言葉を、彼女は確かに受け取って育った。
ある日、幼い彼女は飾り棚の花瓶を割った。
まだ片手で持てるものと持てないものの区別が曖昧な年頃だった。母の真似をして花の向きを直そうとし、指を滑らせた。陶器の花瓶は甲高い音を立てて床に砕け、水と花びらと鋭い破片が散った。
驚いて、体が固まった。自分が何かしてしまったことだけは分かる。胸の奥がどくどく脈打って、息が浅くなった。怒られると思った。叱られると思った。そうしたら泣けるのかもしれないとも思った。
やがて母が来た。
砕けた花瓶を見る。水浸しの床を見る。青ざめて立ち尽くす娘を見る。
「リシェル、怪我はないの?」
最初の一言はそれだった。
「……はい」
「そう。なら良かったわ。次は気をつけなさい」
それで終わった。
抱き寄せられることもなかった。どうしてこんなことをしたの、と強く言われることもなかった。高価なものだったのよ、と咎められもしなかった。使用人が呼ばれ、破片は片づけられ、母は別の用事へ戻った。
幼いリシェルは、その場に少しだけ立ち尽くした。
胸の中にはまだ、こぼれたままのものがあった。怖かった、という気持ちかもしれない。驚いた、ということかもしれない。叱られたかったのかもしれないし、抱きしめてほしかったのかもしれない。だが名前はつかなかった。つかないまま、いつの間にか何でもないこととして片づけられていった。
眠れない夜も同じだった。
ひとり寝の部屋で目が冴え、カーテンの向こうの木々の影が怖く見えた夜。廊下に出て乳母を呼ぶと、彼女は困ったように笑った。
「もうお嬢様なのですから、ひとりでおやすみなさいませ」
灯りを弱められ、背を向けられ、扉は閉まる。
怖いと言っていいほどのことではないのだと、その時覚えた。
試験で満点を取った時もそうだった。
教師は満足げに頷き、「当然でございます」と言った。兄が初めて馬を御した時には拍手が起こり、妹が熱を出した時には屋敷中が慌ただしくなった。その横で、自分が何かを成しても、それはできて当然の静けさで受け取られていく。
叱られない。褒められない。心配もされない。
支障がないからだ。
彼女は少しずつ理解していった。失敗とは、責められるものではなく、支障を出さなければ流れていくものなのだと。苦痛も同じだった。眠れなくても、翌朝立てるなら問題ない。熱があっても、字が書けるなら問題ない。胸の内がざわついても、泣かずに済むなら問題ない。
そういう規則だけが、彼女の中にきれいに積み上がった。
だから彼女は、泣く人間が分からなかった。
何がそんなに許されるのだろうと思った。
なぜそこで立ち止まるのかと思った。
なぜ見せるのかと思った。
なぜ処理せず、抱えず、他人に差し出すのかと思った。
分からないものには、厳しい言葉しか返せなかった。
春が過ぎ、季節がいくつか巡り、王城の大広間で婚約破棄が告げられる夜が来た。
王族主催の夜会。燭台の光が壁面の金細工を照らし、磨かれた床には人々の姿がゆらゆらと映り込んでいる。楽の音は華やかで、酒と香水と花の匂いが混ざり合い、誰もがこの場に何かしらの見せ場を期待していた。
その中央で、第一王子エドガーは高らかに声を上げた。
「リシェル・オルディア。私は今日をもって、お前との婚約を破棄する」
ざわめきが波のように広がる。
リシェルは大階段の中ほどで足を止め、まっすぐエドガーを見下ろした。驚きは確かにあった。だがその驚きは、顔の表面まで上がってこない。長い睫毛が一度伏せられ、また上がる。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
よく通る、平坦な声だった。
「お前の冷酷さだ」
エドガーは言った。
「人を人と思わぬ物言い。弱き者への配慮のなさ。セレナへの執拗な圧迫。王太子妃に必要なのは知識と規律だけではない。慈愛と、民に寄り添う心だ」
セレナが悲しげに首を振る。
「わたくしは、リシェル様を責めたいわけではございません。ただ、もう少し優しい言葉をかけてくださればと……何度も、そう思っておりました」
それに同調するように、周囲の貴族たちが小さく頷く。
茶会の一件。学園での言葉。侍女や下位貴族への厳格な指摘。泣いている相手に向けた冷たい正しさ。小さな不満は以前から積もっていた。皆、薄く感じていた息苦しさに、今ここで名前が与えられたのだ。
「何か言うことはあるか」
問われて、リシェルはほんの数瞬だけ沈黙した。
父母は広間の端で硬直している。母は青ざめ、父は唇を固く結んでいた。だが二人とも前へは出ない。公の場での王族への異議は難しい。そういう事情は分かる。分かるが、それでも立っているのは自分一人だった。
兄は遠征中で不在。
誰も庇わない。
リシェルは静かに裾を整え、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
広間の空気が一瞬止まる。
それだけだった。
抗弁もない。涙もない。取り乱しもない。どうしてですかとすがることも、自分は間違っておりませんと戦うこともない。
「……それだけか」
エドガーの声には、わずかな苛立ちが混じった。ここまで来てもなお、何の感情も見せない相手に対する苛立ちだった。
「ご判断に従います」
彼女は淡々と言った。まるで宴の進行変更を受理するような声で。
そこで初めて、一部の者が薄ら寒いものを覚えた。婚約破棄という人生を揺るがす事態の最中に、どうしてそんな顔ができるのかと。
エドガーは、その無反応に逆に腹を立てた。
「最後までそうか。お前は、人の心が分からぬままだな」
その言葉に、リシェルはほんの少しだけ目を瞬かせた。傷ついた、ではない。考える時の顔だった。
「未熟でございました」
それが、最後の返答になった。
王家の裁定により、リシェルは王都近郊の別邸へ下がることになった。
正式な追放ではない。公爵家への配慮もある。表向きは静養と療養。だが社交界において、それが事実上の失脚であることは、誰もが理解していた。
別邸は湖のほとりに建つ古い館だった。
美しいが、使われることの少ない静かな家。夏は避暑に適しているが、冬は底冷えがきつい。広さのわりに人の気配が希薄で、声を出せば空間そのものに吸われていくような館だった。
リシェルは到着早々、館の管理を見直した。
使用人の人数を減らす。暖房用の薪の消費を絞る。食材の仕入れは最低限にする。客の来訪予定もないのだから、応接室の維持は簡略でいい。廊下の灯りも数を落とせる。浴室の湯を張る回数も減らせる。紙と蝋燭の使用も抑えられる。
書き出された一覧は見事なものだった。無駄がない。感情がない。ひとつひとつの削減理由も適切で、経理上は何の問題もなかった。
「お嬢様、こちらは冬を越すには少なすぎます」
老侍女のマーサが帳面を見て眉を寄せる。
「足ります」
「ですが、薪をここまで削れば、夜はかなり冷えます」
「私が使う部屋は限られておりますから」
「それでもでございます。ご体調を崩されては」
「支障はありません」
やわらかい声だった。言い方は穏やかで、拒絶だけが固かった。
館での生活は規則正しかった。
朝は決まった時刻に起きる。簡素な朝食を摂る。書物を読み、公爵家から届く報告へ返答を書き、別邸の管理簿にも目を通す。午後は少し庭を歩くこともある。日が落ちれば蝋燭を節約し、早めに机を離れる。
乱れはなかった。むしろ、乱れなさすぎた。
食事は少ない。元々大食ではないが、それにしても減らない。肉料理は半分以上残り、スープも器の底を見せない日がある。温かな飲み物を置いても冷めたままになる。咳が出れば白湯で済ませる。夜に熱が上がっても翌朝は机に向かう。針仕事で指先が荒れても軟膏は使わない。ドレスの裾が擦り切れても新調を命じない。寝台のシーツは常に整っているのに、自分の身体だけが目に見えて痩せていく。
最初、使用人たちはそれを気丈さだと思った。
婚約破棄という屈辱を受けても取り乱さず、己を律し、静かに暮らす姿は、ある種の気高さにも見えた。さすが元王太子妃候補。さすがリシェル様。そう囁く声すらあった。
だが冬が深まる頃、違和感は無視できなくなっていく。
暖炉の火があまりにも小さい。
手を取れば指先がいつも冷えきっている。
食事は半分も減らない。
薬箱の中身は動かない。
夜中、押し殺した咳が長く続く。
それでも翌朝には、何事もなかったように書類が整っている。
マーサはある朝、湯気の立つ濃いスープを盆に載せて部屋へ運んだ。牛骨を煮出し、野菜を細かく刻み、滋養がつくよう工夫したものだ。厨房の若い娘が少しでも口に合えばと香草を足した。
「お嬢様、せめてこちらをお召し上がりくださいませ。温まりますから」
リシェルは本から顔を上げた。礼儀として微笑みかけることは忘れない。
「ありがとう、マーサ。でも今の量で足りています」
「足りておりません」
珍しく、老侍女の声が強くなった。
リシェルは少しだけ首を傾げた。
「そうでしょうか。立てていますし、書けてもいます」
その答えに、マーサは言葉を失いかけた。
立てている。書けている。彼女は本気で、それを基準にしているのだ。食欲がないことも、寒さに震えることも、咳で眠れぬ夜があることも、自分が痩せ細っていることも、すべてその下に置かれている。
動けるなら問題ない。
仕事ができるなら問題ない。
外に被害が出ていないなら、なおさら問題ない。
そのものさしがあまりに深く根を張っていて、他の言葉が届きにくい。
ある夜、咳がひどくなった。
寝台に入ってからも止まらず、喉の奥で湿った音が長く尾を引く。マーサは扉の外でそれを聞き、迷った末に独断で医師を呼んだ。
診察を終えた医師は、いつもの穏やかさを消していた。
「どうしてもっと早く呼ばれなかったのです」
リシェルは汗に濡れた髪を額へ貼りつかせたまま、薄く瞼を上げた。
「必要ないと思いました」
「熱がこれだけ続き、肺の音も悪い。食事も足りていない。必要ないわけがないでしょう」
「寝ていれば下がるかと」
「下がらなかったから今なのです」
叱責に近い口調だった。
それでも彼女は大きく表情を変えなかった。怒られていること自体は理解しているが、その怒りがどこへ向いているのかを測りかねているような顔だった。
医師は薬と滋養のある食事、室温の維持、十分な休息を強く指示し、今夜から必ず従うよう念押しした。
「承知しました」
リシェルはそう答えた。
だが翌朝、薬は未開封のままだった。
瓶の封蝋はそのまま。朝食は半分以上残っている。暖炉の火も昨夜よりさらに小さい。
マーサは盆を持ったまま立ち尽くし、やがて震える声で問うた。
「どうして飲んでくださらないのです」
リシェルは少し考えたようだった。
「苦いので」
「それでお身体が良くなるのです!」
「そうですか」
まるで、自分の身体の行く末にだけ関心が薄い人間の受け答えだった。
マーサはその瞬間、初めて本気で怒鳴った。
「お嬢様は、ご自分を壊していらっしゃいます!」
部屋がしんと静まる。
リシェルは本当に分からないという顔をした。
「……壊す、とは?」
その問いに、老侍女は一瞬言葉を失った。
器を落とせば割れる。家具を濡らせば腐る。信用を粗末にすれば失う。そんなことは誰でも知っている。だが目の前の娘は、自分にそれが適用されることを、まるで学ばぬままここまで来たのだ。
自分も物のように壊れる。
いや、物より先に壊れることもある。
使いながら減ることも、手入れを怠れば戻らないこともある。
そういう当然が、彼女の中には抜け落ちている。
「ご自分のお身体でございます!」
マーサは涙声になった。
「寒ければ温まり、痛ければ休み、食べられぬなら食べられぬと仰って、医師の薬を飲んで、助けを求めてくださらねば……それをなさらぬのは、ご自分を粗末にしているのと同じでございます!」
リシェルは黙って聞いていた。
だがその瞳の奥に浮かんでいたのは反省ではなく、困惑に近かった。自分の身体を大事にする、という考え方そのものに、うまく手が届いていないような困惑だ。
その知らせは公爵家にも届き、やがて王都へ流れた。
エドガーが耳にしたのは、年が明けてほどなくのことだった。かつての婚約者が、ひどく衰弱している、と。
最初は義務感に近いものだった。公爵家との関係もある。婚約を解消した相手があまりに悲惨な状態なら、後味も悪い。責任がないとは言い切れない。そう考え、彼は護衛を伴って別邸を訪れた。
湖の水面は凍りかけ、空は低く沈んでいた。館は静まり返っている。雪こそ積もっていないが、空気は骨へ染みるように冷たい。
通された応接間は驚くほど整っていた。
机上の書類は寸分違わず積まれ、棚に並ぶ本の背も揃っている。花は活けられていたが、少し萎れ始めているのに交換されていない。暖炉の火は弱く、室内は貴族の住まいとしては明らかに寒い。
「薪を足さないのか」
思わず漏れた問いに、出迎えたマーサは深く頭を下げたまま答えた。
「お嬢様が不要だと仰せで……」
寝室へ入った時、エドガーは息を呑んだ。
リシェルは寝台の上で、ひどく痩せていた。
頬の線は削がれ、元から白かった肌は紙のように色を失っている。鎖骨はくっきりと浮き、毛布の下の身体は驚くほど薄い。なのに髪だけはきちんと梳かされ、寝具の皺も少ない。本人の几帳面さが、死にかけた身体の上にまで残っているのが、奇妙で、ぞっとするほど痛ましかった。
彼女は来客に気づくと、反射的に上体を起こそうとした。
「そのままでいい」
エドガーは思わずそう言った。だがリシェルは一度起き上がろうとし、その途中で咳き込み、力尽きるように枕へ戻った。
「……ご足労をおかけしました、殿下」
そんな言葉が先に出る。
「どうして、こんなになるまで」
問いは、叱責にも、責任追及にもなりきらなかった。驚きと嫌な予感と、理解の遅れに対する苛立ちが混ざっていた。
リシェルは少しだけ考えた。
「気づくのが遅れました」
「気づく?」
「支障が出ていないと思っておりました」
マーサが背後で肩を震わせる。
寝台脇の小卓には薬瓶が並んでいた。どれも封が切られていない。運ばれた夕食もほとんど手つかずで、スープの表面には薄い膜が張っている。湯気はとうに消えていた。
「食べていないのか」
「今は、あまり要らなくて」
「薬は?」
「まだ必要なほどではないかと」
エドガーの喉が詰まった。
これは反抗ではない。死にたいわけでも、自分を罰したいわけでもない。ただ本気でそう思っているのだ。まだ必要なほどではない。まだ動ける。まだ人の手を煩わせるほどではない。
彼は初めて、婚約中のいくつもの場面を別の形で思い出した。
夜会の終わり、彼女が壁に手をついた時。
食事会でほとんど口をつけなかった時。
学園で熱を押して行事に出てきた時。
手の冷たさを問い、たった一度の「支障はございません」で引き下がった時。
あれは全部、同じだったのではないか。
強いのではなく。
平気なのではなく。
平気でなければならないと思い込んでいただけではないか。
「……誰も止めなかったのか」
掠れた声だった。
マーサが顔を伏せたまま答える。
「止めようとはいたしました。ですが、お嬢様はいつも『問題ありません』と仰るのです。昔からずっと。怪我をなさっても、熱を出しても、悲しいことがあっても。何も」
そこで老侍女はついに顔を上げた。目は真っ赤だった。
「誰も、本当に叱らなかったのでございます」
その言葉が、部屋へ重く落ちた。
叱らなかった。
怒鳴らなかった、という意味ではない。
もっと踏み込んで、やめなさい、それはいけない、お前は間違っている、と、自分の痛みの扱い方そのものを正さなかったという意味だ。
エドガーは寝台の脇へ進んだ。
「どうして医師を呼ばなかった。どうして食べなかった。どうして休まなかった」
問いは重なるたびに、自分自身にも返ってくる。
どうしてもっと早く気づかなかった。
どうして踏み込まなかった。
どうして“そういう女なのだ”で済ませた。
リシェルは焦点の薄い目で彼を見上げた。
「……皆様に、ご迷惑をおかけするほどではないかと」
「迷惑だと?」
「この程度で、人手を割いていただくのは」
「この程度ではない!」
珍しく感情が爆発した。自分でも驚くほど強い声だった。
リシェルの肩が小さく揺れる。
「お前は自分を粗末にしすぎている。痛いなら痛いと言え。苦しいなら助けを呼べ。寒いなら火を足せ。食べられないなら食べられないと認めろ。そんなのは当たり前だ」
言い切った瞬間、エドガーは自分の胸が強く痛むのを感じた。
当たり前。
自分はいま、それを当たり前だと言った。だが婚約中、その当たり前を彼女に本気で言ったことがあったか。
休めと言ったことはある。
体調が悪いのかと訊いたこともある。
だが彼女が「支障ありません」と返した瞬間、それ以上踏み込まなかった。彼女の答えを、そのまま受理してしまった。彼女を壊れないものとして扱っていた。
リシェルは静かに彼を見ていた。
やがて、ほんの少しだけ眉を寄せた。何か難しい理屈を理解しようとする時の顔だった。
「……いけないこと、でしたか」
その問いが、刃のように胸へ入った。
エドガーは答えられなかった。
いけないことだ。
当然だ。
だが、その当然をいつ、誰が、彼女に教えた。
リシェルの指先がシーツの上でわずかに動いた。
「いけないことなら……もっと早く、誰かが叱ってくださるものだと……思っておりました」
部屋の中から音が消えた。
暖炉の火がひとつ、ぱちりと小さく崩れる。
マーサが嗚咽を漏らした。医師が顔を背ける。エドガーは立ち尽くしたまま、一歩も動けなかった。
彼女は、本当にそう信じていたのだ。
幼い日の花瓶も。
眠れぬ夜も。
押し殺した熱も。
婚約中の不調も。
食べなくなった身体も。
このままでは駄目なことなら、いつか誰かが止めてくれる。叱ってくれる。だからそれまでは問題ではない。
そうやって、ここまで来た。
そして誰も、止めなかった。
何日かののち、雪が降った。
別邸の窓は白く曇り、湖面の色は空と地の境目を曖昧にしている。リシェルの容態は一時持ち直すようにも見えたが、それは蝋燭の火が最後に細く伸びるのとよく似ていた。薬も、温かな食事も、十分な薪も、今さら彼女の中へ染みていくほどの余力は残っていなかった。
エドガーは王都へ戻らず、館に残った。
できることがほとんどないと知りながら。ここで離れたら、あまりにも遅すぎる自分の理解すら、どこにも置けなくなる気がしたからだ。
寝台の傍らで、彼は何度も思い返した。
婚約を破棄したことそのものは、当時の自分にとって正しい判断だったのかもしれない。王太子として求める資質と、婚約者の在り方が噛み合っていないと思ったのも事実だ。だが正しさだけでは、人は守れない。守られない。
自分は最後まで、彼女を一つの人格ではなく、完成した機能のように扱っていたのではないか。
優秀な婚約者。
隙のない公爵令嬢。
我慢のできる女。
そういうものとして。
昼過ぎ、マーサが温めたスープを運んできた。淡い湯気が立ちのぼる。香りはやさしく、口当たりもやわらかくしてある。
「少しだけでも」
老侍女の声はかすれていた。
リシェルは視線だけを器へ向けた。しばらく見ている。まるで目の前のものが食べ物であることは分かっていても、それを自分が口にしてよい理由が見つからないような目だった。
「……どうぞ」
マーサは必死に笑みを作った。
「お嬢様のためでございます」
その言葉に、リシェルの指先がわずかに動いた。
器へ手を伸ばそうとして、途中で止まる。力が入らないのか、それとも別の何かに躊躇したのか、誰にも分からなかった。
結局その日、スープはほとんど減らなかった。
夜になり、呼吸が浅くなる。
医師は静かに首を振った。もう打つ手は少ない。部屋の隅でマーサが祈るように両手を組む。エドガーは寝台の側へ膝をつき、初めて、心から懇願するように言った。
「リシェル」
瞼がわずかに上がる。
「まだ、間に合うかもしれない。薬を、食事を……」
自分で言っていて、ひどく空虚だった。もう遅いと分かっている。言うべきことは、もっと前にいくらでもあった。
リシェルは薄く息を吸い、彼の方へほんの少しだけ顔を向けた。焦点は曖昧だが、その表情は不思議と穏やかだった。
「殿下」
婚約を解消した後も、呼び方は変わらなかった。
「何だ」
「……お叱り、ありがとうございます」
かすれた、その一言だけ。
エドガーは目を見開いた。何か返そうとして、声にならない。胸が詰まり、喉が焼けるように痛む。
彼女はそこで小さく咳き込み、しばらく呼吸を整えるように目を閉じた。次に開いた時には、もう言葉を結ぶほどの力が残っていなかった。
雪は静かに降り続いていた。
リシェル・オルディア公爵令嬢は、その夜、眠るように息を引き取った。
苦悶も、大きな別れの言葉もなく。
助けを呼ぶ声もなく。
恨み言もなく。
いつも通り、誰の手も煩わせぬように静かに。
葬儀は公爵家の手で粛々と執り行われた。
王家からも悔やみが届けられ、社交界はしばらく沈んだ色合いを帯びた。生前彼女を悪役令嬢と呼んだ者たちも、死者に対してまで露悪的にはなれない。若くして衰弱した不運な令嬢。婚約破棄の衝撃に心身を病んだ気の毒な女性。そんな、分かりやすい物語へ回収しようとする言葉が、あちこちで囁かれた。
それは都合のよい理解だった。
婚約破棄が原因なら、そこから先は悲恋で済む。気の毒だったね、と言って終われる。けれど本当は違うと、エドガーにはもう分かっていた。
彼女は婚約破棄で壊れたのではない。
もっと前からずっと、壊れ方だけを誰にも教わらないまま、生きていたのだ。
痛みを訴える方法を持たず。
助けを呼ぶ基準を持たず。
自分を守る工程だけが抜け落ちたまま。
人に厳しく、自分にも同じだけ厳しく。
立てる限り大丈夫だと、食べなくても書けるなら問題ないと、寒くても動けるなら支障ないと、ただそれだけで判断し続けてきた。
そして周囲は、それを強さだと思った。優秀さだと思った。そういう気質なのだと受け取った。
父も母も。
教師も使用人も。
婚約者だった自分も。
王城へ戻った後、執務机の上に公爵家から文書の写しが届けられた。別邸から送られていた実務文書だという。どれも簡潔で、無駄がなかった。
冬の薪の使用量に関する確認。
領地会計への的確な指摘。
別邸の使用人に余計な負担をかけぬための整理案。
紙の節約に関する提案。
保管庫の湿気対策の覚え書き。
死の直前まで、彼女の書く文字は震えていない。
その束の中に、私的な書付けは一枚もなかった。
悲しい。
苦しい。
寒い。
怖い。
助けてほしい。
そういうものは何一つ残っていなかった。
エドガーはその事実に打ちのめされた。
最後まで、彼女は自分の感情を誰にも処理させなかったのだ。受け取らせなかった。差し出し方を知らなかったのかもしれないし、差し出してよいものだと思っていなかったのかもしれない。
どれほど遅れて理解しようと、もう受け取れるものはどこにもない。
春先、南庭の花が再び開いた。
去年、令嬢がカップを落としたあの場所で、侍女たちが新しいテーブルクロスを整えている。陽光は柔らかく、風は軽い。世界は驚くほど何も変わらない。王城はいつものように動き、季節は何事もなかったように巡る。
エドガーはしばらくその場に立ち尽くした。
不意に思い出したのは、あの日の舞踏だった。
触れた手の冷たさ。
白い顔。
小さな咳。
そして自分がたった一度「体調が悪いのか」と訊き、彼女の「支障はございません」で満足してしまったこと。
あれは問いではなかったのだ。
確認だった。
彼女の答えを受理し、自分がそれ以上踏み込まないための口実だった。
リシェルは、最後まで大きな問題にはならなかった。
泣き叫びもしない。
暴れもしない。
誰かを責め立てもせず、恨み言も残さない。
静かに弱って、静かに死んだ。
だからこそ、遅れて理解した者にとっては、何より始末が悪かった。
後からなら、いくらでも分かる。
手つかずの食事も。
冷たい指先も。
薬瓶の封も。
小さすぎる暖炉の火も。
無理に整えられた寝台も。
全部が兆候だったと。
だが叱るべき時は、いつも過ぎた後だった。
風が吹き、花弁が数枚、石畳へ落ちた。
エドガーはそれを見下ろしたまま、長く動けなかった。
彼が初めて彼女を理解した時、もう彼女は、理解される側にいなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この話は、誰か一人の悪意ではなく、誰も止めなかったことの積み重ねを書きたくて書きました。
壊れる時に大きな音を立てる人より、静かに機能したまま壊れていく人の方が、周囲には見えにくいのだと思います。
だから気づくのは、たいてい遅すぎます。
叱るべき時には、もう間に合わないこともあります。
読んでくださって、ありがとうございました。




