海霧の向こう
二月七日、午前六時。根室の海岸は凍てついていた。
「おばあちゃん、寒いよ。車で待ってようよ」
孫娘の美月が、コートの襟を立てながら言った。だが千代は動かない。九十三歳の老婆は、杖をつきながら海を見つめている。
「あの向こうに、色丹島があるんだ」
千代の声は、風に消えそうなほど小さかった。
<回想―1945年>
「千代ちゃん、また明日ね!」
十三歳の千代は、幼馴染の健太に手を振った。色丹島の小さな漁村。潮の香りと、母の作る鮭の匂い。そこが千代の世界のすべてだった。
八月十五日、ラジオから流れた玉音放送。
「戦争が終わった」
父は安堵の表情を浮かべた。でも、それは始まりに過ぎなかった。
八月二十八日、ソ連軍が島に上陸した。
「逃げろ! 今すぐ船に乗れ!」
村中が混乱に包まれた。千代は母に手を引かれ、埠頭へ走った。
「健太くんは!?」
「あの子のことは忘れなさい!」
母の声は絶望的だった。
船が出る。千代は振り返った。埠頭に、健太の姿が見えた。手を振っている。泣きながら手を振っている。
「健太くーん!」
千代の叫びは、波の音にかき消された。
<現在>
「おばあちゃん…」
美月が、千代の肩に手を置いた。老婆の頬を涙が伝っている。
「健太くんはね、あの日から一度も会えなかった。手紙も届かない。生きてるのか、死んでるのかも分からない」
千代は震える手で、コートのポケットから小さな布袋を取り出した。中には、色あせた赤い糸が入っている。
「これ、健太くんがくれたんだ。『必ず迎えに来る』って」
<決意を抱く>
「美月、お前に頼みがある」
千代は孫娘の手を握った。
「私が死んだら、この糸を色丹島に届けてほしい。いつか、島に行けるようになったら」
「おばあちゃん、そんなこと言わないで」
「いいんだよ。私はもう十分生きた。でもね、この糸だけは故郷に帰してあげたいんだ」
海霧が晴れ始めた。水平線の向こうに、かすかに島影が見える。
<エピローグ>
千代は目を閉じた。耳を澄ます。
波の音。カモメの鳴き声。そして――
「千代ちゃん!」
健太の声が聞こえた気がした。
「待っててくれ。必ず迎えに行くから」
千代は微笑んだ。
「私も待ってるよ、健太くん。ずっと、ずっと」
海風が、老婆の白髪を優しく撫でた。
美月は祖母の横顔を見つめた。そこには、十三歳の少女の面影が残っていた。
赤い糸を握りしめた手が、小刻みに震えている。
「おばあちゃん、絶対に届けるからね。約束する」
美月の言葉に、千代はゆっくりと頷いた。
海霧の向こう、色丹島が静かに佇んでいた。




