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海霧の向こう

掲載日:2026/02/08

二月七日、午前六時。根室の海岸は凍てついていた。

「おばあちゃん、寒いよ。車で待ってようよ」

孫娘の美月が、コートの襟を立てながら言った。だが千代は動かない。九十三歳の老婆は、杖をつきながら海を見つめている。

「あの向こうに、色丹島があるんだ」

千代の声は、風に消えそうなほど小さかった。

<回想―1945年>

「千代ちゃん、また明日ね!」

十三歳の千代は、幼馴染の健太に手を振った。色丹島の小さな漁村。潮の香りと、母の作る鮭の匂い。そこが千代の世界のすべてだった。

八月十五日、ラジオから流れた玉音放送。

「戦争が終わった」

父は安堵の表情を浮かべた。でも、それは始まりに過ぎなかった。

八月二十八日、ソ連軍が島に上陸した。

「逃げろ! 今すぐ船に乗れ!」

村中が混乱に包まれた。千代は母に手を引かれ、埠頭へ走った。

「健太くんは!?」

「あの子のことは忘れなさい!」

母の声は絶望的だった。

船が出る。千代は振り返った。埠頭に、健太の姿が見えた。手を振っている。泣きながら手を振っている。

「健太くーん!」

千代の叫びは、波の音にかき消された。

<現在>

「おばあちゃん…」

美月が、千代の肩に手を置いた。老婆の頬を涙が伝っている。

「健太くんはね、あの日から一度も会えなかった。手紙も届かない。生きてるのか、死んでるのかも分からない」

千代は震える手で、コートのポケットから小さな布袋を取り出した。中には、色あせた赤い糸が入っている。

「これ、健太くんがくれたんだ。『必ず迎えに来る』って」

<決意を抱く>

「美月、お前に頼みがある」

千代は孫娘の手を握った。

「私が死んだら、この糸を色丹島に届けてほしい。いつか、島に行けるようになったら」

「おばあちゃん、そんなこと言わないで」

「いいんだよ。私はもう十分生きた。でもね、この糸だけは故郷に帰してあげたいんだ」

海霧が晴れ始めた。水平線の向こうに、かすかに島影が見える。

<エピローグ>

千代は目を閉じた。耳を澄ます。

波の音。カモメの鳴き声。そして――

「千代ちゃん!」

健太の声が聞こえた気がした。

「待っててくれ。必ず迎えに行くから」

千代は微笑んだ。

「私も待ってるよ、健太くん。ずっと、ずっと」

海風が、老婆の白髪を優しく撫でた。

美月は祖母の横顔を見つめた。そこには、十三歳の少女の面影が残っていた。

赤い糸を握りしめた手が、小刻みに震えている。

「おばあちゃん、絶対に届けるからね。約束する」

美月の言葉に、千代はゆっくりと頷いた。

海霧の向こう、色丹島が静かに佇んでいた。

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