膨らむ妄想
夕方。
共用廊下には、人の気配がほとんどなかった。
麻衣は、ポストの最後のネジを締め終え、工具箱を閉じる。
麻衣「……これで、よし」
そのとき、背後から控えめな足音がした。
遥「……あの」
振り返ると、202号室の遥が立っていた。
いつもの落ち着いた表情だが、どこか硬い。
麻衣「遥さん? どうしました?」
遥は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせる。
遥「……少し、お時間いいですか」
麻衣「はい。大丈夫です」
廊下の隅。
人目につきにくい場所で、二人は向かい合った。
遥は、深く息を吸う。
遥「……謝りたくて」
麻衣「謝る……?」
遥「はい」
遥は、きっぱりと言った。
遥「ここ最近、距離を取っていました。
挨拶も、ちゃんとしなくて……」
麻衣「……」
麻衣は、少し驚いたように目を瞬かせる。
遥「理由は、あなたが悪いわけじゃありません」
そこで、遥は一度言葉を切った。
遥「……私の問題です」
その言葉に、麻衣は首を振る。
麻衣「いえ。私、何かしてましたよね」
遥「違います」
即答だった。
遥「私は……怖かったんです」
麻衣「怖い?」
遥「はい」
遥は、視線を床に落とす。
遥「就職浪人って聞いて、
正直に言うと……自分の未来を見ているみたいで」
静かな廊下に、遥の声だけが落ちる。
遥「だから、距離を置きました。
反面教師にしようとして……」
言い切ったあと、遥は唇を噛んだ。
遥「最低ですよね」
麻衣は、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙のあと、ゆっくり口を開く。
麻衣「……正直ですね」
遥「え?」
麻衣「嫌われてるより、ずっといいです」
遥は、思わず顔を上げた。
麻衣「私も、怖いですから」
遥「……」
麻衣「先が見えなくて。
自分が何者なのか、わからなくて」
麻衣は、小さく笑う。
麻衣「だから、管理人の仕事、やってます」
その言葉に、遥の表情が揺れる。
遥「……ちゃんと、向き合ってるんですね」
麻衣「大家さんから逃げきれなかっただけですよ」
冗談めかして言うが、声は穏やかだった。
遥は、深く頭を下げる。
遥「……すみませんでした」
麻衣「こちらこそ。
気づかなくて、ごめんなさい」
二人の間に、ようやく自然な空気が戻る。
———
その少し離れた場所。
102号室のドアが、ほんの数センチだけ開いていた。
あずさ(……謝罪)
耳を澄ませる。
あずさ(距離を取ってた……怖かった……)
あずさの脳内で、情報が勝手に再構築されていく。
あずさ(管理人×大学生……すれ違い……和解)
心臓が、どくんと跳ねる。
あずさ(重い感情……尊い)
さらに聞こえてきた声。
麻衣「嫌われてるより、ずっといいです」
遥「……ちゃんと、向き合ってるんですね」
——決定的だった。
あずさ(両想いの空気)
あずさは、音を立てないようにドアを閉めると、
その場にしゃがみ込んだ。
あずさ「……はぁ……」
両手で顔を覆う。
あずさ(大人の女性と、知的なお姉さん……
感情の交差点……)
肩が、わずかに震える。
あずさ(これは……)
誰にも見られていないことを確認し、
あずさは一人、静かに悶えた。
———
一方、廊下では。
遥「……これからは、普通に話してもいいですか」
麻衣「もちろん」
何も知らない二人は、穏やかに会話を続けていた。
その数メートル先で、
とんでもない百合妄想が完成していることも知らずに。




