反面教師
遥は、アパートの階段を下りながら、背後を振り返らなかった。
廊下でモップを持っていた麻衣の姿が、視界の端に焼きついている。
膝をつき、床を拭く大人の女性。
——ああは、なりたくない。
それが、遥の正直な感想だった。
大学二年。
周囲はインターンや資格の話をし始めている。
将来を「考えない自由」は、もう許されない年齢。
そんな時に、すぐ近くで見てしまった。
就職浪人。
家賃滞納。
そして、アパートの管理人。
遥「……大丈夫なのかな」
誰に向けた言葉でもなかった。
心配ではある。
けれど、それ以上に——怖かった。
——もし、自分も同じ道に進んだら。
大学に通っているだけで、何者かになった気でいた。
だが、卒業した瞬間、その肩書きは消える。
麻衣は、その「先」を生きている人だった。
———
講義中も、遥の意識は上の空だった。
教授「ここ、重要ですよ」
ノートは取る。
けれど、文字が頭に入ってこない。
あの廊下。
モップ。
伏せがちな視線。
遥(ああいうふうに、時間だけが過ぎていくのは……)
想像して、胸がきゅっと縮む。
だからこそ、距離を置く。
親しくすれば、情が移る。
情が移れば、「自分も同じになりうる」という現実を直視してしまう。
それを、今は避けたかった。
———
夕方、アパートに戻ると、共用部は朝よりも明らかに綺麗になっていた。
ゴミひとつ落ちていない廊下。
蜘蛛の巣が張っていた階段の手すりも綺麗に磨かれている。
101号室の前で、遥は足を止めた。
中から、水を絞る音が聞こえる。
麻衣「……よし」
その声は、小さいけれど、どこか前向きだった。
遥は、ドアの前で一瞬だけ立ち尽くし、そして視線を逸らす。
遥(ちゃんとしてる人、なんだよね)
それがわかるから、なおさら厄介だった。
だらしない大人なら、簡単に見下せた。
でも麻衣は、そうじゃない。
社会から少しこぼれただけの人。
遥(……だから、近づかない)
それは冷たい判断で、
同時に、遥自身を守るための線引きでもあった。
階段を上りながら、遥は小さく息を吐く。
遥「私は、ちゃんと進む」
誰に聞かせるでもない宣言。
けれどその言葉は、
アパートの静かな空気に、かすかに溶けていった。
——麻衣はまだ、気づかない。
遥が距離を置いている理由が、
軽蔑ではなく、恐れから来ているということを。




