仕事始め
管理人になった翌朝、麻衣はアパートの共用廊下に立っていた。
手には、大家から渡されたバケツとモップ。
就職浪人。
家賃滞納者。
そして今日から——管理人。
麻衣「……まずは、掃除、だよね」
誰に言うでもなく呟いて、モップを水に浸す。
廊下の床は思ったよりも汚れていた。古いチラシ、髪の毛、乾いた泥。
しゃがみこんでゴミを拾っていると、背後で階段を下りる足音がした。
遥「……」
202号室の遥だった。
大学へ向かう途中らしく、きちんとした服装をしている。
遥は一瞬、麻衣を見て、すぐに視線を逸らした。
麻衣「あ、おはようございます」
声をかけたものの、返事は少し遅れた。
遥「……おはよう、ございます」
敬語。
昨日までより、明らかに遠慮がちな声だった。
遥はそれ以上何も言わず、足早にアパートを出ていく。
その背中を見送りながら、麻衣はモップを握り直した。
麻衣「……あれ?」
何だろうこの違和感。
———
一方で、102号室のドアは勢いよく開いた。
茜「麻衣さーん!」
制服姿の茜が、目を輝かせて廊下に飛び出してくる。
麻衣「茜ちゃん? どうしたの」
茜「聞いたよ! 麻衣さん、管理人さんになったんでしょ?」
麻衣「う、うん……まあ、一応」
茜「やったー!」
ガッツポーズまで決めて、心から嬉しそうだった。
麻衣「そんなに喜ぶことかな……」
茜「だってさ!」
茜は一歩近づいて、声を落とす。
茜「夜に廊下の電気ちょっと暗いとか、
ゴミ置き場のネットがズレてるとか、
今まで誰に言えばいいかわからなかったんだもん」
麻衣「あ……」
茜「それに、管理人さんが麻衣さんなら、相談しやすいし!」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
麻衣「……そっか。じゃあ、気になることあったら言って」
茜「うん! あ、じゃあさっそく!」
茜は楽しそうに話し始める。
廊下のきしみ、ポストの立て付け、空室の噂。
麻衣はモップを脇に置き、真剣に聞いた。
———
同じアパート。
同じ朝。
遥は、麻衣の姿を「こうならないための未来」として心に刻み、距離を取る。
茜は、麻衣の存在を「頼れる今」として、近づいてくる。
その違いに、麻衣はまだ気づいていない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
このアパートで、
管理人の仕事は、掃除以上に“人との距離”を扱う仕事なのだということ。




