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「聞こえているんだろう?」魔法具で本音がダダ漏れの冷酷宰相の爆音溺愛が止まりません!

「アリシア。この報告書の情報が古すぎる。こんなもので陛下に具申できるか。やり直させろ」

「は、申し訳ありません、閣下。直ちに政務官へ差し戻し、修正させます」


帝国宰相府、重厚なマホガニー製デスクの主、ザイン・ザクソン宰相は、射貫くような眼差しで、私を凝視した。『帝国の氷狼』の二つ名の通り、場を凍らせるような酷薄な声。


だが、私の耳――正確には、胸元につけた赤い宝石のブローチ――魔法具「心の雫」から、全く別の「声」が届いていた。


『ああぁぁあ!アリシアが謝ってる!ごめん、ごめんよアリシア!これは君のミスじゃない、あの無能な政務官の仕事が雑だっただけなんだ!秘書官の君にしか指示を出せない不甲斐ない私を許してくれ!でも、今日も会話できてすごく嬉しい……!幸せ……!』


(……閣下、語彙が死んでいますわよ)

表情筋を必死に殺し、私は平静を装う。

宰相は、無造作に報告書の束を机の上に投げ出す。パサリと乾いた音が室内に響く。


「早急にだ。二度手間を取らすな」染み入るような低い声で告げる。

「は。承知しました、閣下」

宰相付秘書官である、私、アリシア・アファールは机の書類を回収する。

その間も閣下の心の声は響きっぱなしだ。


『ああっ!今、書類を投げつけたように見られなかったか?!直接手渡したいのは山々だが、手が触れでもしたら心臓が耐えられない!あぁ!アリシアが気を悪くしたらどうしよう。嫌われたら終わりだ!私は死んでしまう!』

(気を悪くしてませんし……死にませんから、安心してください)


あまりのギャップに、笑みが浮かぶ。歪む頬を隠すために、慌てて、私は頭を深く下げた。


宰相の冷たい黒い瞳が、頭を下げる私を一瞥し、些事に構いきれぬといった風に、鼻を鳴らす。

「申し訳ありませんでした」

できるだけすまなそうに謝罪の言葉を述べる。

だが、心の中は爆笑一歩手前だ。

そんな私の心に追い打ちをかけるように、宰相の心の声はなおも加速する。


『あっ。アリシアが頭を下げた。しおらしい!なんて健気なんだ!仕事への真剣な態度!そして……あああ!うなじ!白いうなじが最高に綺麗だ!紺のドレスとまとめた髪の隙間の芸術!もう少し、あともう少しだけ深く下げてくれないかな?いや、今の角度も完璧だ。良い!とてもかわいい、きれいだ、アリシア……!」


はしゃぎまくる心の声に、もう耐えられない。

簡素な執務用ドレスからわずかに露出した首筋に、熱い視線を感じる。


色々こらえながら頭を下げ続ける私に対して、『帝国の氷狼』は努めて冷静な声で忠告する。

「無駄に頭を下げるな。秘書官の君の落ち度でもないのに謝罪していては、他の者に示しがつかぬ。政務官に速やかに伝えておけ」

「は、かしこまりました」

(……心の中では「もっと下げろ」と仰っていたくせに)


私は頭を上げ、あくまで平静に、真摯に目を見て、了解の旨を伝える。

目があった瞬間、『帝国の氷狼』のあられもない本音が頭に鳴り響く。


『うわぁぁああアリシア!そんなに真っ直ぐ見ないで!いや、見て!その丸い瞳が愛おしすぎて、動悸が止まらない!少し疲れが見えるが、頑張り屋な君の勲章だ。触れたい、その頬に触れたい……!ほつれ毛を払ってあげたい。頑張ってる!偉いよアリシア!あああああ、視線を合わせ続けると仕事にならない!だめだ、今日のアリシア成分はこれで十分だ。政務に戻れ私!政務だ!』


その鉄面皮と心の声のギャップが凄まじい。

閣下は私を笑い殺すつもりだろうか。

もう限界だ。

閣下の心の爆音溺愛に耐えられなくなってきたので、早々に執務室から退室することにする。

「では、速やかに政務官に伝えます。失礼します」と軽く頭を下げる。

「うむ」

宰相は、私のことにまるで興味ないように、手元の書類に目を落としてる。

だが、魔法具からは心の声が引き続き鳴り響く。

『アリシア、行かないでくれ!君が側にいるだけで、室内の空気さえ甘く色づくというのに。あぁ、まただ。君から漂うジャスミンのような、清廉でいて官能的な安らぎの香り。それが失われるなんて耐えられない!あっ、待ってくれ、ドアに手をかけないで!もう行ってしまうのか?行かないでくれ、ずっと、ずっと私の前に居てくれ!アリシア!行かなッ』


バタン。


私がマホガニーの分厚い扉を閉めると、あれだけうるさかった宰相閣下の心の爆音がピタリと止んだ。この魔法具は心の声を聞くことができるが、壁で簡単に遮られてしまう。

この魔法具の欠点ではあるが、利点でもある。

閣下のあの心の声がいつでもどこでも聞こえたら、私の心が保たないだろう。

「ふぅ……」

私は執務室の扉を背に、廊下で「ふふっ」と肩を震わせた。

閣下の心の声を聞くときはいつもこらえるのに精一杯だ。

あぁ、面白くて可愛らしい。

あんなに美しい顔をして、心の中では、純粋な少年のようにジタバタしているなんて。

しかも私なんかに対して。

「なんで閣下は私にご執心なのかしらね」と思いながら、上機嫌で書類を届けるために政務官の部屋に向かう。



その途中、後ろから声を掛けられる。

私のことを何かと気にかけてくれている、カイル・ケストラ書記官。私の同僚だ。

「アリシア・アファール秘書官。また、閣下に厳しく言われたのか?」

「いえ、そんな。ただの仕事のご指示です。ご心配いただかなくても大丈夫です」

「そうですか……閣下は、首席秘書官の貴女をふだんからないがしろにされているように見えて……貴女も閣下と話すときには、こらえているようだったから、心配しています」

なるほど、同僚の彼の目には、いつも厳しいことを言われて凹んでいるように見えているのか。

確かに「笑い」はこらえている。


「大丈夫です。閣下は部下のことをいつも思ってくださっていますから」

「そうですか……ですが、何かあったら私からも閣下に申し上げることくらいはできると思います」

「えぇありがとうございます」

カイルは一歩私に近寄って熱っぽく「私は貴女のことをお支えします」と告げて去っていった。





魔法具「心の雫」は我がアファール家に代々伝わる魔法具で、ハート型の赤い宝石を中心に彫金が施されたブローチだ。魔法具と伝えられているものの、何に使うものであるかは家族の誰も知らなかった。

ただ、アンティークではあるし、その中心のくすんだ赤いガーネットのような色が好きで、仕事の時に好んで身につけていた。何かストレスがあったときに、ひんやりした宝石に触れるのが私の心を守るルーティンだ。


ある休日の夜、王宮魔法具士のエレナに聞かれた。

「前から気になってたんだけど、アリシアがいつもつけてるブローチって、レアなマジックアイテムじゃない?」

「そう?特にいわれは無いけど……」

「ちょっと調べさせてもらっていい?かなり古そうだから興味ある」

魔法具オタクのエレナは、レストランのテーブルに作業道具を広げ、調べ始めた。ルーペでブローチを細かく観察している。

「分かった。これは『他人の心の声』を聞けるマジックアイテムだね」

ものの数分でエレナは断言した。

「人の心の声が聞けるってすごくない?」

エレナから「心の雫」を受け取って、くすんだガーネット色の宝石をレストランの灯に透かす。

「すごいし、珍しい。ただ、色々制約があって、近くでないと聞こえないし、ロックした人の心の声しか聞こえない」

鶏肉のグリルの骨の部分を持ってお行儀悪く食べながら、エレナが説明する。

「それでもすごい。でもなんで家族の誰も知らなかったんだろう?」

襟元の少し下、左鎖骨のラインに沿うように「心の雫」を着ける。いつもの定位置だ。

「かなり古いからじゃないかな。使うのに手順がいるから、それが伝わらなくて、わからなくなっちゃったんだと思う」

「手順って?」

「簡単よ。裏に書いてあった。中心の宝石に触れて「心を通わせ給え(ユンゲ・コルダ)」って唱えればいいの」

「へぇ……「心を通わせ給え(ユンゲ・コルダ)」ねぇ」

いつもの癖で、ブローチに手を当てているのに気づかず、その言葉を口にしてしまった。

「あっ!馬鹿!」

エレナが止めたときは遅かった。「心の雫」のハート型の宝石がパッと光ったかと思うと、キラキラと光の小片を撒き散らした。そして、くすんだガーネットのような色が、鮮やかなルビーの色へと変わっていた。

「これは……」

「あぁ……起動しちゃったか……」

「ええ?!でも特に変わりがないようだけど……」

「特定の人、一人の声しか聞こえないはずだから……すくなくとも私は対象じゃないってことだね」

「特定の人ってどう選ぶの?」

「それをつけていた人が一番長い時間を過ごした人が選ばれる。夫婦とか……家族とか……家族の心の声聞こえたら気まずいからそれで使い方途絶えちゃったんじゃない?」

「そうかも。それにしても対象が誰かわからないのは困るわね……」

「そうね。でも、少なくとも近しい人のはずだから、すぐに分かると思うわよ」

エレナは正しかった。次の日には、誰なのか分かったのだから。




翌朝、宰相府に出勤した私を待っていたのは、いつも通りの「帝国の氷狼」の視線だった。

執務室の主は、両手を組みながら無愛想に私を睨みつける。

「……どうした。定刻を過ぎているぞ」

低く、冷たい声。

だが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、私の頭の中には、津波のような声がなだれ込んできた。


『アリシア、おはよう!!今日も世界で一番かわいくて、きれいだ!ああ、アリシアが私の秘書官で本当に良かった。毎朝顔を合わせられるなんて、奇跡だな。遅刻?構わない、むしろ大歓迎だ!もし今日が休みだったら、私は一日中「アリシア成分」を摂取できずに発狂していただろうからな!』


(ちょっと……待って。何、これ?声?誰の声なの!?)

もしかしたら。ひょっとしたら。あまりの衝撃に、足がすくむ。

考えてみれば当たり前のことだ。

実家を出て一人暮らしをしている私にとって、一日の中で最も長い時間を共に過ごすのは、家族でも友人でもない。この冷酷無比なザイン・ザクソン宰相その人だ。魔法具「心の雫」は、条件に従い、彼を対象としてロックしてしまったのだ。

私は反射的に、胸元の赤い宝石のブローチに手を伸ばす。


『おっ。いつものブローチが、今日は鮮やかな赤だな。いつものくすんだ色もシックでアリシアの知的な雰囲気に合っていて良かったが、鮮やかなルビー色は、一輪のバラのようにアリシアの可憐さをさらに引き立てて素晴らしい……!かわいい、かわいいよアリシア!』


目の前の閣下は、相変わらず氷の彫刻のような無表情で私を見ている。

それなのに、頭に響く心の声は、まるで初恋に浮かれる少年のように騒がしい。

驚きと、それ以上に込み上げてくる羞恥心で、自分の顔がみるみる薔薇のように上気していくのが分かった。

(嘘でしょう……あの『帝国の氷狼』の心の中が、

 こんなに不埒な声で埋め尽くされているなんて……!)

信じられず、私は彼の端正な顔を凝視した。

切れ長な瞳、雪のように白い肌。

どこからどう見ても、心の中で「かわいい」を連呼しているようには見えない。

だが、心の声は止まらない。それどころか、ますます勢いを増していく。


『あぁ、目が合った。いけない、またきつく当たってしまった。怖がらせただろうか。私の声は威圧的だからな。ごめんよアリシア、申し訳ない。今日はアリシアの様子がおかしいな。顔がこわばっているし、顔色も赤い。体調を崩しているのか?風邪が流行っているからな。だとしたら、今すぐ休んでほしい。いや、でも。もし同じ部屋で過ごしてアリシアから風邪をうつしてもらえるなら、それはそれで嬉しいかもしれんな……』

「い、いえ、風邪というわけでは……っ」

あまりに一方的で熱烈な心配(と、少しばかり変態的な願望)に、私はついうっかり声に出して答えてしまった。


「……ん?やはり風邪なのか?」

閣下が問い返してくる。

私は凍りついた。

しまった。

心の声に答えを返してしまった。

彼が「やはり」と言ったということは、今のは彼の「思考」だったのだ。

(あぁ、本物だわ。これ、本物の宰相閣下の本音なんだわ……!)

「い、いえ!大丈夫です!遅れてしまい、申し訳ございませんでした!!」

これ以上ボロを出さないよう、マホガニーのデスクに頭をぶつけんばかりの勢いで謝罪した。

「そうか。なら、速やかに仕事を始めたまえ」

閣下は短くそう告げ、視線を書類に戻した。

そこからの時間は地獄……天国……いや、徹底的な混沌だった。仕事中、私がペンを動かすたび、書類をめくるたび、一挙手一投足に「きれいだ!」「指先の動きが素敵だ!」「美しい!」という爆音の溺愛の言葉が脳内を駆け巡るのだ。

この美しい顔と麗しい声で、一日中、休みなく愛の言葉を浴びせられ続けて、正気でいられる人間がいるなら、ぜひお目にかかりたい。

その日の業務が全く手につかなかったのは、私の能力不足のせいでは断じて無い。




その日、混沌の執務時間を終えるなり、私は王宮魔導具師エレナの工房へ、文字通り飛び込んだ。

「ちょっと、エレナ!これ、本物だったじゃない!」

「何言ってんのよ?だから本物だって言ったでしょ……何をそんなに慌ててるのよ」

呆れ顔のエレナを前に、脳裏をよぎる「溺愛爆音」の残響を振り払おうと頭を振る。

あの鉄面皮の宰相閣下から発せられたとは信じがたい熱烈な独白を思い出し、私は耳まで真っ赤にして俯いた。

「誰なのよ。その反応、男でしょ? アリシア、付き合ってる人いたっけ?」

「……いないわよ、そんな人」

「じゃあ、一体誰の声にロックされたっていうの?」

「………………閣下よ」

消え入るような声で絞り出すと、エレナは一瞬、目を見開いた後、納得したように手を打った。

「あぁ、なるほどね! 一番長く一緒にいる人が対象になるなら、アリシアの場合。そりゃあ宰相様になるわよね。で?あの『帝国の氷狼』様、心の中では一体何を考えてるわけ?やっぱり帝国の財政とか、隣国への戦争の準備とか?」

「……っ、言えるわけないでしょう……!!」

まさか、私の一挙手一投足を観察して、思春期の少年のように歓喜しているなんて、いくら親友のエレナ相手でも口が裂けても言えない。

「あらそう? まあ宰相様だものね。知らない方が身のためってこともあるか」

エレナが勝手に良いように取ってくれたので助かった。これ以上追及されなくて済む。

「そんなことより!これ、どうやったら解除できるの?こんなの一日中聴いていたら、私の精神がもたないわ!」

「解除は対象が生きている限り無理ね。でも、ブローチさえ外せば、声は聞こえなくなるはずよ」

「え……?それだけでいいの?」

「当たり前じゃない?呪いのアイテムじゃないんだから」



翌朝。私は意を決して「心の雫」を宝石箱に入れてから出勤した。

胸元が少し寂しいが、あの大音量の愛の言葉に振り回されるよりはマシだ。

宝石箱は鍵をかけた上にカーテンの布でぐるぐる巻きにしておいた。


執務室のドアを開けると、朝早くから書類の山と格闘する閣下がいた。

声は――聞こえない。室内には、閣下がペンを走らせる音だけが満ちている。

(ああ、なんて静かなの……)

静寂に感謝しながら挨拶をする。

「おはようございます」

安堵して一礼した私に、閣下は鋭い視線を向けた。

だが、その瞳は私の胸元をさまよっているように感じる。

「…………」

閣下は何も言わず、すぐに視線を書類に戻した。けれど、その眉間に刻まれた微かな皺と、不満げに結ばれた唇に何か感じるものがあった。

声が聞こえないはずなのに、彼の気持ちの揺れが分かる。

私はそれを見て、優越感のようなものが芽生えるのを感じていた。



それから、ときどき「心の雫」を着けて出勤した。

閣下の爆音溺愛を聞くのが楽しかったし、たまにちょっとからかうのが面白かったからだ。


ある日は、これ見よがしにジャスミンティーを淹れ『この香り……あぁ、なんて芳しいんだアリシアの匂いなのか、茶の匂いなのかわからん!』という彼の苦悩を楽しむ。


またある日は、書類を渡す時にあえて、少しだけ手に触れて『……っ!!ふ、触れ……あぁ指を絡めて引き寄せたい!』という絶叫を聞いて楽しんだ。


それは、月に一度か二度だけ、自分に許した密やかな愉しみだった。

だが、その愉しみの日に、運命の時は訪れた。


執務時間も終わりをむかえる冬の夕刻。

一日中、閣下の熱烈な爆音溺愛を楽しんで火照った頬の熱を逃がそうと、手のひらでパタパタとあおいでいると、同僚のカイル・ケストラ書記官が血相を変えて執務室へ踏み込んできた。

彼は私を一瞥し、閣下へと抗議の声を上げた。

「閣下、差し出がましいとは存じますが、意見させてください!」

「なんだ?言ってみろ」と不機嫌そうに答える。

「近々行われる隣国との外交会談、アリシア・アファール殿が同席を外されると聞き及んでおります。彼女は閣下付の首席秘書官です。このような重要な場から彼女を排除しては、秘書官としての立場がございません!」

突然の具申に私が硬直する中、デスクの主は興味なさげに、氷の礫のような声を放つ。

「……瑣末なことだ。今回は機密性の高い会談ゆえ、秘書官であっても同席させぬ、それだけだ」

だが、私の胸元の魔法具が拾い上げた「本音」は苛立ちに満ちていた。


『カイルめ……余計な真似を!私だってアリシアにいつも側にいてほしい!だが、彼女が視界にいたら私は外交どころではなくなってしまう!誰よりも、私こそが彼女を隣に置いておきたいと切望しているのに!そもそも、アリシアがいないときに意見すればいいものを、わざわざこの時間に来たということは、彼女の前でいいところを見せようという腹づもりか?』


カイルはなおも追及する。

「ですが、最近の外交の場ではいつも彼女だけが外されているではありませんか!?閣下は彼女を軽んじすぎてはいませんか?!」

それを聞いた宰相はゆっくり立ち上がりながら、食い殺さんばかりの鋭い視線をカイルに送る。


『この私がアリシアを軽んじてると?!アリシアを!!

 私がどれだけアリシアを想っているか!

 どれほどに恋い焦がれているか!

 アリシアへの想いに比べれば、宰相のメンツはおろか、

 立場ごとなげうっても構わないというのに!

 貴様ごときに分かるのか!カイル!

 貴様がアリシアに色目を使っているのは大目に見ていたが!

 私がアリシアを軽んじてると?!これは!こればかりは許せん!』


怒りだ。こんなにも彼が怒りをあらわにするところは初めて見た。

鉄面皮が歪み、怒りをぶちまけようとしたその瞬間、私は二人の間に割って入る。


「カイル・ケストラ書記官。我々の職務はあくまで閣下の補佐。

 その在り方は、閣下の御意志に従うべきものです」

「……しかし、私は貴女が軽んじられているのが許せず……」

なおも言い訳がましい態度のカイルに、私は凛とした声で断言した。

「私は、閣下に軽んじられてなどおりません!」

そして、右手を左胸の「心の雫」に当て、背筋を伸ばし、自分でも驚くほどの大きな声で宣言した。


「――閣下は誰よりも、私のことを想ってくださっています!」


自信に満ちたその一言に、カイルは毒気を抜かれたように引き下がった。

彼が退室し、黒光りするマホガニーの重いドアを閉めた後、私は冷や汗をぬぐって一息つく。


すでに日は落ち、執務室も暗くなり始めていた。

暗い執務室の中、閣下は黒い瞳を虚空に向け、棒立ちになっていた。

「閣下……?」

異変に気づいた。閣下の「声」が聞こえない。

いや、違う。思考の声があまりに速すぎて、言葉として捉えられないのだ。

私は左胸の「心の雫」に触れ、必死に彼の思念を捉えようとした。

言葉の奔流の中に――ようやく一言を捉えることができた。それは決定的な一言。


『――もしかして――私の心の声が聞こえているのか?』


心臓が跳ね上がった。反射的に、身を強張らせる。

その反応を見た瞬間、呆然としていたザイン・ザクソンの瞳に、いつもの狼のような鋭い光が宿った。


「興味深いな」

『興味深いな』


現実の声と、脳内の声。それが初めて、ピタリと重なり合った。

まずい。バレた。

あぁ、私は今、獰猛な狼に狙われた雛鳥だ。


閣下の思考は、恐ろしいほどの速度で過去を遡っている。

(最初から?スパイの可能性?いや、アファール家は忠義の家系だ。それはない。では、いつからだ?……思い出せ……私はアリシアとの会話はすべて覚えている…………あぁ!ブローチの色が鮮やかな赤へと変わった日か!私がまだ口にしていない「風邪」の話題に、彼女が先んじて答えたあの朝!あの日を境に、アリシアはブローチを外す日が増え……そして、ブローチをつけた日は、私への距離が近かった!)

その間、僅か二秒。

近隣諸国から「帝国の氷狼」と恐れられる宰相は、その絶大な知力をもって、私との対話のすべてを反芻し、素早く正解へと辿り着いた。


「なるほど。そのブローチか」

『なるほど。そのブローチか』


あまりの頭の回転の速さに、私は戦慄する。

閣下、その知力を、私の観察ではなく、国のために使っていただけませんか。

彼は無言のまま、逃げ場を塞ぐように私の前に立ちはだかった。

その氷の仮面が、見たこともない愉悦の色に歪む。ゆっくりと無言で両手を広げる。


『アリシア……聞こえるんだろう?』


漆黒の瞳に射抜かれたまま、私の脳内には震えるような思念が叩きつけられた。

彼は一言も発していない。それなのに、『心の雫』を通じて流れ込むその「声」は、私の魂を揺さぶるほどの爆音となって荒れ狂っている。

私はもはや抗う術を失い、ただ壊れた人形のように何度も頷くことしかできなかった。

その瞬間、閣下の瞳孔が歓喜と狂気に開き、黒い宝玉のごとき輝きを放つ。


『素晴らしい!』


それは荘厳な大聖堂を埋め尽くす楽団が一斉に祝福の歌を奏で始めたかのような、圧倒的な歓喜の響きだった。天上から降り注ぐ福音か、あるいは甘美な地獄へと誘う旋律か。

彼は一歩、また一歩と、逃げ場を奪うように、私を壁際へと追い詰めてくる。


『今までの私の声も、すべて聞こえていたのだな。あぁ……私の想いを、余すところなく君に伝えられる……!これ以上の奇跡が、この世にあるだろうか!』


脳内に溢れる思念の濁流。

それは、これまでひた隠しにしてきた「帝国の氷狼」の剥き出しの魂そのものだった。


『死ぬまで表に出すことは叶わないと諦めていたこの想いが、アリシア、君に直接届いていたなんて!そして君は、それを受け止めてくれていたとは!ありがとう、ありがとう……!私はもう、今この瞬間に息絶えてもいい。いや、死すら私の喜びを止めることはできないだろう!』


私はごくりと生唾を飲み込んだ。

これまでの爆音溺愛が霞むほどの、熱く、激しく、そして甘い愛の奔流に身を震わせる。


「か……閣下……?」

震える手で『心の雫』を覆い、自らの身体を抱きしめるように身構えるのが精一杯だった。

彼はもう手を伸ばせば触れる距離にいる。


『おお、怯えないでくれ、アリシア!私の秘めたる想いがどれほど熱くとも、君を傷つけることは決してないと誓おう!その美しさ、その可憐な魂……私は、君という魂を!存在そのものを!狂おしいほどに愛してやまないのだ!』


氷像のような端正な顔立ちはそのままに、喜悦に歪んだ口角が、彼の激情を物語っている。

彼は私に覆いかぶさるように距離を詰め、その美しい顔を私の首筋へと埋めた。

彼の甘やかな吐息が私の首筋に触れる。

何人も逃れられない夜のように、彼は重く熱いとばりとなって私を包み込む。


『あぁ……幾度も夢に見た、白銀の世界のようなこのうなじ。……そして、かぐわしいジャスミンの香り……もう逃さない……』


首筋をなぞるような、熱を帯びた吐息。

あまりに圧倒的な情熱の濁流に、私は耐えかねて、『心の雫』を握りしめ、千切るように外して床へと投げ捨ててしまう。


厚い絨毯の上で、軽い音がして宝石が転がる。

次の瞬間、あれほど騒がしかった脳内の声はピタリと止み、ただ暖炉で薪が爆ぜる音だけが室内の静寂を支配した。

私は熱い呼吸を吐き出す。自分の心臓の鼓動が沈黙の部屋に鳴り響いてないかと不安になる。


「……ダメじゃないか。こんな素晴らしいものを、外してしまっては」

彼の顔が、至近距離で、あからさまな落胆の色に染まり、首をゆっくりと左右に振る。


だが、彼はすぐに気を取り直して、艶やかな笑みを浮かべると、私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。

「だが……今は……私の、私自身の『声』で愛を伝える機会をくれたことに感謝しよう」

しまった、と後悔しても遅かった。

魔法具を介さずとも、彼は直接、言葉で愛を伝えることができる。

そんな単純なことすら忘れてしまうほど、私は混乱していた。


彼はここぞとばかりに、甘美な毒を注ぎ込むように愛を告げる。

「君がブローチで聞いた通り、私は君を愛している。何よりも、誰よりもだ。立場も名誉も投げうって求婚しようと考えたことさえある。だが、君はそんな無責任な男は願い下げだろう?だから思いを秘した。職務も全うした。私は今、君という存在によってのみ生かされているのですよ……」

氷狼の仮面を脱ぎ捨てた宰相の、熱く、逃げ場のない真実の告白。

その低く、昏く熱い声は、魔法具を通していた時よりも、ずっと深く、鋭く、私の心を貫いた。


ふと、彼が私から身を剥がした。密着していた体温が離れ、二人の間に満ちていた濃密な熱気がふわりと夜の静寂に霧散していく。

ようやく解放された……と、溜まっていた熱い吐息を吐き出した私は、まだ彼の愛の底知れぬ重さをわかっていなかった。

静寂が支配する執務室。閣下はゆっくりと床に転がった『心の雫』を、優雅な所作で拾い上げた。

そして、その鮮やかなルビー色の宝石を、私の右の掌にそっと握らせる。

触れれば崩れる儚い砂糖菓子のようにとても優しく。

指先から伝わる彼の熱、そして冷たい宝石の感触に、私の右手は小刻みに震えた。


「……っ、閣下……?」

震える私の手を、閣下の大きな両の掌が逃がさぬようゆっくりと包み込む。

そのまま、彼は私の右手を導き、私の左胸――激しく波打つ鼓動の源へと、強く押し当てた。

布越しに手に伝わる、狂おしいほどの自らの心音。

耳元からは低く艶やかな「現実の声」が、そして脳裏には色香に満ちた甘い「心の声」が、同時に流れ込んできて、私の心音をさらに速く駆る。


「逃がさないと言っただろう、アリシア」

『逃がさないと言っただろう、アリシア』


鼓膜を震わせる吐息と、脳を直接揺さぶる言葉。

重なり合う二重の愛の告白に、私の思考は白く塗りつぶされ、頭がどうにかなってしまいそうだった。


逃げ場を失った心臓が、彼の掌の下で跳ねる。

微かに身をよじるが、彼の手は重い錨のよう。

もう、どこへも逃げられない。

その甘美な事実が、指先まで痺れさせる。


「魔法具など無くとも、愛は伝わる」

端的な事実を告げるその声とは裏腹に、魔法具が拾い上げる彼の本音は、なおも蕩けるように熱く甘い。

『だが、私の想いを伝えるには言葉では不足すぎる。このブローチは私の想いを余すところなく伝えてくれる。どうか、私のすべてを受け止めてくれ!アリシア!私は君を愛している。誰にも渡したくない、一秒たりとも離したくない!私の愛で、君のすべてを塗りつぶしてしまいたい!』

脳内に溢れ出す、剥き出しの執着。

閣下の長い指が、私の顎を優しく、けれど拒絶を許さない強さで上向かせた。

眼前の黒い瞳は、歓喜と狂おしい情熱に潤んでいる。


「いいだろう?アリシア」

『いいだろう?アリシア』


それは、帝国の重鎮とは思えぬほど、少年のような純粋な熱情を湛えた懇願だった。

私だけが知る、彼の真実の表情。

その無垢な瞳の前に、彼の想いの濁流に身構えていた警戒心が春の雪のようにゆっくりと溶けていく。


私は彼の本心を、とっくに知っていた。

氷の仮面の裏側で、どれほどの激しさが渦巻いていたのかを。

その熱に、このまま呑み込まれてしまいたい。


激流に身を任せるように、私はゆっくりと目を閉じ、かすかに、だが確かに頷いた。


そして「心の雫」を通じて私の頭に流れるのは、もはや言葉の形を成さないほどの、「幸福」という名の圧倒的な交響曲。

彼の唇が軽く重なり、柔らかな熱が触れ合った瞬間、歓喜の音量は耳をつんざかんばかりに跳ね上がった。


「……っ、ん……」


あまりの悦びに、膝から力が抜ける。

執務用ドレスが、汗ばんだ肌にまとわりつき、かろうじて私を支えていた。


私は震える腕を彼の首筋に回し、その広い背中に指を立て、しがみついた。

溺愛の奔流に呑まれ、崩れ落ちてしまわないように。


布を隔てて伝わる彼の激しい鼓動と「心の雫」から伝わる彼の荒々しい衝動。

現実と脳内の双方から降り注ぐ、うるさくも愛おしい溺愛の爆音が、私を甘く、温かく包み込む。


(完)

最後までお読みいただきありがとうございました!


少しでも「面白かった」「宰相の愛が重すぎて怖い」と思っていただけましたら、ブックマークや、広告の下にある【☆☆☆☆☆】で、ぜひ高評価をお願いいたします!

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