金木犀の景色・起「青春の後姿」
秋の紅葉が彩る日曜日の朝。京都・東山の町家が並ぶ路地は、まるで一枚の絵葉書に書かれたような静けさに包まれていた。
綿貫 蓮は自転車のサドルに腰を下ろし、スマホを手に少しだけそわそわしていた。画面には中島 航一からのメッセージが入っていた。
『明日の朝8時からの勉強会、俺んちでいいか?でも、その前に…出町ふたばの豆餅、時々食べたくなるんだよな。一緒に買いに行かないか?』
メッセージを見て蓮の頬が軽く緩んだ。航一が勉強以外のことで誘ってくるなんて珍しい。いつもクールでちょっとお高く止まった無愛想な顔の、航一が豆餅を食べたいなんて可愛いことを言うなんて。
「7時45分か。よっしゃ、行くぜ!」
蓮はスマホをリュックに直すと、玄関の扉を勢いよく開けた。裏路地の不思議な店から戻って1週間。あの金木犀の香りと黒猫の瞳が、まるで夢だったみたいに頭に残っている。爽やかな風が蓮の頬を撫でる。今朝の空気は冷んやりとした、冬の寒さにはまだ遠い軽やかな涼しさだ。蓮は自転車を引っ張り出し自宅を出発すると、航一の家へと向かった。朝8時前の京都の空は、薄い雲に朝日が滲み、どこか新しい始まりを予感させた。
中島家に到着した蓮は玄関チャイムを鳴らすと、航一がいつものように少し無愛想な顔で出てきた。リュックには星型のチャームが付いたキーホルダーが揺れている。あのキーホルダーを見ると、蓮の胸がちくりと痛む。あの時、航一に返した罪の証。それでも航一がまだつけているのを見ると、ほっとする自分がいる。
「遅えぞ、航一!豆餅、売り切れる前に急ぐぞ!」
「いくらなんでも売り切れる訳ないだろ…」
航一は苦笑すると自転車に乗り、先に進む蓮を追いかけるように、自転車のペダルをこぎ始めた。二人は地下鉄・東山駅近くの三条通りへ出ると、朝8時なのに、ちらほらと観光客の姿を確認し囁き合う。
「平安神宮か、美術館でなんかイベントでもあんのかな?」
「…たぶん。秋だし、京都はそんなもんだろ。」
蓮が首を傾げると、航一が静かに答えた。その声は、まるで鴨川のせせらぎのように落ち着いていた。蓮は航一のそんな声が好きだった。
東山三条の交差点から東大路通を北上し始める。歩道が狭く並走できないので、蓮は航一を先に進ませた。爽やかな朝の風が二人を優しく撫でて通り過ぎていく。蓮は航一と一緒に同じ風を感じる、この瞬間を特別に感じていた。蓮は前を走る航一の後ろ姿をちらっと見た。スマホで撮りたいな、と思ったけど我慢。だって、もっとエモい瞬間で航一の姿を撮りたいから。
街路樹の銀杏がちらほら散り始めていた。東山丸太町の交差点を過ぎると歩道が広くなり、蓮は思わずペダルを強くこぎ航一の横に並んだ。
「航一、遅えぞ!置いてくからな!」
「うるさい。……お前、子供か」
蓮は航一の横顔に宣言して笑うと自転車を飛ばした。航一の自転車が少し遅れて追いかけてくる。航一の声はそっけなかったが、目元がほんの少し緩んでいる。蓮はその横顔に、朝日がキラキラと重なるのを見た。まるで、この道を自転車で駆け抜けるのが、青春そのものを駆け抜けているみたいだった。