起承転結・転「罪悪の欠片」
町家の空間は、まるで時間が金木犀の香りに閉じ込められたように静かだった。蓮は、目の前の鏡に映る光を見つめ、胸の奥がざわつくのを感じた。航一の手を握る感触に、確かな温かさを感じられ、勇気が少し湧いてくる。さっきまで鏡に映っていたのは、航一の祖父との記憶だった。静かで、温かく、でもどこか切ない記憶。それが終わった今、鏡の表面が再び揺れ、新たな光が溢れ出した。蓮には、それが自分の記憶だと直感でわかった。何故なら、鏡の向こうに、中学生の自分が見えたからだ。少しやんちゃで、でもどこか不安げな目をした、昔の蓮。
「今度は…俺の番か」
蓮は小さく呟き、航一をちらりと見た。航一は黙って鏡を見つめていたが、その瞳には、まるで星座のような深い光が宿っていた。蓮は航一に自身の記憶を見られるのが、どこか怖かった。でも、航一の手の温もりが、蓮の心を少しだけ落ち着かせた。
鏡が光を放ち記憶が流れ始めた。そこには中学生の蓮がいた。鴨川のほとりで、航一の鞄にそっと手を伸ばす姿。鞄には、星型のチャームがついた革細工のキーホルダーが揺れていた。航一が祖父と一緒に作った、大切なものだと知っていたキーホルダー。なのに、蓮の指は震えながら、それをそっと外した。星型のチャームは、まるで航一の心そのもののように、蓮の手の中で小さく輝いていた。
場面が移り、航一がキーホルダーを探す姿が映った。
「…どこ行ったんだ」
「どっかに落としたんちゃう?ほら、航一ってそういうとこ雑いよな!」
航一の声は低く焦りと悲しみが混じっていた。蓮はその横で平然と笑い、軽い口調でごまかしながら、蓮はポケットの中でキーホルダーを握りしめていた。その感触は、まるで航一の心を盗んだ罪のように、蓮の胸を締め付けた。
鏡はさらに別の記憶を映し出した。放課後の帰宅する時間。二人だけしかいなかった教室で、航一が飲みかけのペットボトルを、机に置いたまま教室を出て行く。蓮はそれを手に取り、迷わず口をつけた。航一の唇が触れたペットボトルと間接キスをする感触に、胸が熱くなるのを感じていると、突然戻って来た航一に見られ、蓮は笑ってごまかした。
「あ、航一のジュース、うまいな!」
「…蓮、勝手に飲むなよ」
航一が眉をひそめ、ペットボトルを奪い返す。その声はそっけなかったが、蓮には航一のそんな小さな反応すら愛おしかった。
記憶は次々と流れ、蓮の罪を暴いていく。航一のノートをこっそり拝借し落書きしたこと。航一が好きな金木犀の木の下で、わざと長く話しかけて時間を引き延ばしたこと。航一の横顔をスマホで撮り、夜中に何度も見返したこと。すべての記憶は、蓮の航一への不器用な好意の表し方を映し出していた。航一のことが大好きで、航一の物が欲しくて、航一と一緒にいたくて。でも、告白する勇気なんてなかった。だから、蓮は小さな罪を重ねていた。航一の心に近づきたくて、でも近づけない自分を隠すために。
鏡の中の蓮は、鴨川のほとりで一人、星型のキーホルダーを握りしめていた。
「航一、ごめん…」
その声は小さく、まるで水面に消える泡のようだった。蓮は鏡の外で、胸が締め付けられるのを感じた。あのキーホルダーは、今も蓮の制服のポケットの中にある。航一には「落としたんじゃ?」と言い続けたまま。
「でも、俺…何も伝えられなかった、このままじゃいけないと、ずっと思ってた。でも──」
鏡の中の蓮の声が、町家の空間に響いた。蓮は自分の心が、まるで鴨川の流れに飲み込まれそうになるのを感じた。航一への思いが、星型のチャームのように輝いて、でも重かった。好きだなんて、口に出せなかった。航一がそんな思いを受け止めてくれるとは思えなかった。だって、航一はいつも少し遠い。クールで、蓮の軽口に笑うことはあっても、心の奥を見せてはくれなかった。
蓮は航一が握ってくれていた航一の手をそっと離そうとした。こんな罪を重ねた自分が、航一のそばにいる資格なんてないと思った。なのに、航一の手が、逆に強く握り返してきた。蓮は驚いて航一を見た。航一の瞳は、鏡の光を映して、まるで夜空の星のように揺れていた。
「蓮…お前、こんなにも俺のこと思ってたのか。お前の気持ち…そこまで見えていなかった」
「航一…俺はただ…」
航一の声は低く、でもどこか震えていた。蓮の胸が鋭く突かれたように痛んだ。言葉が詰まり、蓮は目をそらした。鏡の中の記憶は、まるで蓮の心を暴く刃のようだった。航一への思いは、罪であり、宝物だった。でも、このままじゃいけない。蓮はそう思った。航一を縛るような思いは、捨てなきゃいけない。
町家の空間に、あの老女の声が響いた。
「記憶と向き合ったなら、試練は終わりだ。だが、最後の一歩が残っている。大切な思いを捨てなさい。それが、君たちをこの世界から解き放つ鍵だ」
蓮の意識が星型のチャームに向かった。あのキーホルダーを手放せば、航一への思いを捨てられるかもしれない。でも、そうしたら、自分の心には何が残るのだろう。航一の手の温もりが、まるで答えを求めるように、蓮を強く握っていた。