起承転結・起「黒猫の誘い」
京都・東山。観光客の喧騒から少し離れた場所で、地元民に愛され、ひっそりと息づいていた街並みがあった。石畳の路地に、町家の軒先から垂れる簾の影が揺れ、秋の金木犀が甘く重い香りを漂わせる。綿貫 蓮は、制服のネクタイを緩めながら、隣を歩く中島 航一をちらりと見た。航一はいつものように無口で、黒い瞳がどこか遠くを見ているようだった。蓮はその瞳に、まるで緩やかに流れる鴨川の水面のような静けさを感じていた。
「なあ、航一、今日の放課後はなんかいつもと違う気がしない?」
蓮は軽い口調で言った。自分の声が路地の石畳に跳ね返るのを聞きながら、彼は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。航一は蓮の問いかけに小さく首を振った。
「気のせいだろ。いつもと同じ道だ」
航一の声は低く、どこか冷たく響いた。でも、蓮にはそれが航一のいつもの「照れ隠し」だとわかっていた。幼い頃から、航一はそうやって心の奥を隠す癖があった。蓮はそんな航一が好きだった。いや、好きだなんて、口に出して伝えるなんて出来ない言葉だ。友達としてそばにいるくらいでいい。たぶん。
二人がいつものように和菓子屋の角を曲がろうとしたとき、黒い影がさっと目の前を横切った。蓮の視線が思わずそれを追う。黒猫だった。しなやかな尾を揺らし、まるで誘うように路地の奥へ消えていく。蓮の心が急に軽く跳ねた。
「お、猫!航一、見た?めっちゃ速かったな!」
蓮は笑いながら航一の肩を軽く叩いた。航一は眉を少し上げ、黒猫が消えた方向をじっと見つめた。
「…あんな細い道、あそこにあったか?」
航一の声には、ほんのわずかな疑問が混じっていた。蓮も目を細めてその方向を見た。和菓子屋と陶器店の間に、確かに細い路地があった。石畳が湿って光り、金木犀の香りがそこから濃く漂ってくる。毎日通っているのに、何故か今まで気づかなかった。
「マジか、こんなとこあったっけ?なんか…面白そうじゃん!」
蓮の声が弾んだ。好奇心がむくむくと膨らみ、蓮は航一の手を思わず掴んだ。
「行ってみようぜ、航一!黒猫が呼んでるっぽいし!」
航一は一瞬、蓮の手をじっと見つめた。その視線に、蓮の胸が小さく締め付けられる。航一の指は細くどこか冷たかった。
「…蓮、誰かの家の敷地だったら、引き返すんだぞ」
航一はそう言いつつ、蓮の手を振りほどかず、二人は黒猫を追い、細い路地に足を踏み入れた。石畳はひんやりと湿り、両側に並ぶ町家の壁は苔の匂いをまとっていた。路地の奥に進むにつれ、日常の音が遠ざかり、まるで時間がゆっくりと流れ始めたようだった。黒猫は時折振り返り、緑色の瞳で二人を見つめる。その瞳は、まるで何か秘密を知っているかのようだった。
やがて、路地の先に小さな横丁が現れた。古い提灯が軒先に揺れ、色褪せた看板が並ぶ。骨董屋、茶道具店、謎めいた薬草の店…。どの店も、どこか現実から浮いているような雰囲気をまとっていた。蓮の心臓が、わくわくと不安の間で揺れた。
「すげえ…まだこんなとこ、京都にあったの?航一、めっちゃ面白くね?」
航一は無言で周囲を見回し、指先で近くの店の木枠をそっと撫でた。
「…凄くレトロだな。こういうの、嫌いじゃない」
彼の声には、ほのかな温かさが滲んでいた。蓮はそれだけで、胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。航一がこんな風に心を開く瞬間は、いつも蓮にとって宝物だった。
黒猫が再び動き出し、二人はその後を追った。横丁の奥、ひときわ古びた店の前に黒猫が座り、じっと二人を見つめた。店の看板には、かすれた文字で「記憶の質屋」と書かれていた。ガラス戸の向こうには、薄暗い光と、ほのかに金木犀の香りが漂っていた。
「航一、ここ、なんか面白そうじゃん!」
「蓮、ほんとに大丈夫か?なんか…変な感じがする」
「変な感じってのが面白いんだろ!ほら、行くぞ!」
航一は黙って店の扉を見つめ、眉を寄せた。蓮は笑いながら勢いでガラス戸に手をかけた。すると、戸が勝手に滑るように開き、二人を吸い込むように店の中へと導いた。
店の中は、まるで時間が止まったような、静けさに満ちていた。棚には古い本やガラス瓶が並び、埃の匂いと金木犀の香りが混じる。蓮が店の中を見回すとカウンターの向こうには、老女が立っていた。白髪をゆるく結い、深い藍色の着物をまとった彼女は、まるでこの店そのもののような雰囲気を漂わせていた。
「ほう、子供が来たか。珍しいねえ」
老女の声は低く、どこか懐かしさを帯びていて、二人は自然と背筋を正し、静かに老女の言葉に耳を傾けた。
「この店は、記憶を扱う店だよ。取り戻したい記憶、捨てたい記憶…大人はそんなもので溢れてる。だが、君たちみたいな子供が迷い込むのは、めったにないことだ」
「記憶を…扱う?って、どういうこと!?」
蓮は普通ではありえない「記憶を扱う店」と言う言葉に目を丸くした。老女は微笑み、黒猫をそっと撫でた。
「この黒猫が君たちを導いたのなら、何か縁があるんだろうね。大切な記憶と向き合う覚悟はあるかい?」
蓮と航一は顔を見合わせた。心当たりなんて無い。なのに、何故か胸の奥がざわついた。蓮は無意識に制服の胸ポケットに手をやった。すると、指先に冷たい金属の感触があり取り出すと、古びた小さな鍵だった。航一も同じようにポケットを探ると、同じ鍵を見つけ、二人の目が驚きと不安で交錯した。
「その鍵は心の鍵だよ。目の前の扉を開けてごらん。君たちの記憶が、待ってるよ」
老女が静かに目の前の扉を指し、その鍵を差し込み、開けるように促した。
蓮の視線が、カウンターの奥の古い木の扉に吸い寄せられた。鍵穴が、まるで二人を呼ぶように光っている。航一が一歩踏み出し、鍵を手に持ち差し込もうとする。その横で、蓮の心臓が大きく跳ねた。何故か航一の横顔が、不安に溶けて消えそうに見えた。
「蓮、行くぞ」
航一の声は静かだったが、どこか決意を帯びていた。蓮は頷き鍵を握りしめた。扉がゆっくりと開き、二人を飲み込むように光が溢れる。