あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
クルス伯爵家の長女カミラには、親が決めた婚約者がいた。相手は、ブラッド・デルーカ。デルーカ子爵家の次男である。
信頼関係で結ばれた父たちが決めた相手ではあったが、幼いころより親交があった二人の間には、確かな絆があった。
「お前の息子なら、安心して我が領土を任せられる」
酒の席で、クルス伯爵はよく、デルーカ子爵にそう言っていた。クルス伯爵に嫡男はいないため、クルス伯爵の跡をいずれ継ぐのは、カミラの夫となる者のつとめだったから。
真面目で優しいブラッドをクルス伯爵もたいそう気に入っていたし、カミラはブラッドと一緒になる未来を信じて疑ってはいなかった。
そんな二人に亀裂が入ったのは、二人が共に十六となる年。
地元を離れ、王都にある王立学園に通うようになってからのことだった。
それは、カミラとブラッドが王都にやってきて、ふた月ほど経ったころのこと。王都の街中をデートしているときに、ふと入った雑貨店が、すべてのはじまりだった。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、町娘の店員だった。一つ年下だという彼女はとても可愛らしく、甘い砂糖菓子のような子だった。ブラッドが顔を赤くしながら、店に並ぶ商品の説明を彼女に尋ねていく。
もともと、今日は地元にいるブラッドの妹への誕生日プレゼントを買うのが目的だったため、ブラッドは彼女に勧められるまま、スカーフを購入した。
一緒に選んで、と言っていたくせに、カミラの意見をたずねなかったことも、デレデレしていたことにもムッとして、店を出たあとにカミラが「あの子に鼻の下伸ばしていたでしょ」などと軽く目を吊り上げると、ブラッドは焦りながらも、まさか、と返した。
「どうだか」
「ほ、本当だよ。隣にきみがいるのに、そんなことするわけないじゃないか」
あわあわするブラッドに、カミラがクスリと笑ったので、ブラッドは安心したように大きく息を吐いた。
「やきもちは嬉しいけど、ちょっと焦った」
「ふふ。まあ、仕方ないかな。あの子、確かに可愛かったものね」
「カミラの方が可愛いよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞だなんて、とんでもない」
この会話をしたのが、ひと月前。その日から少しずつブラッドは変わっていっていたのかもしれないが、カミラは気付かなかった。信じていたから、というのが大きかったのだろう。
おかしいな、とはじめて感じたのは、従姉妹──親友とも呼べるバーサの一言からだった。
「そういえば。昨日の夕刻、街の西にある雑貨店に一人で入っていくブラッドを見たわ」
同じ年で、同じクラスとなったバーサは、朝のあいさつを交わしてからそう言い、カミラの隣の席に座った。
「ブラッドが?」
「そう。馬車の中からだったんだけど。あそこ、どちらかといえば女性用の雑貨を売りにしているところだったから、少し不思議に思って。もしかして、あそこで待ち合わせでもしていたの?」
「? いいえ。昨日は、わたしのお屋敷で少しお茶をしたあと、ブラッドは帰ったはずだけれど」
「そうなの。じゃあ、私の見間違いだったかもしれないわね。遠目だったし」
カミラとブラッドの仲を知っているバーサは、少しの疑いも持つことなく、そう結論づけた。でも。脳裏にふっと、一度だけ出会った可愛い店員の顔が浮かんだカミラは、バーサのように軽く流せなかった。
(……よりによって、あの店)
本当に、見間違い?
もしブラッド本人だったら?
(……ううん。そんなはずないわ。もしそうだとしても、きっとなにか理由があるはず。というかそもそも、あの子に会いに行ったとは限らないわけだし)
ぐるぐるしはじめた思考を、カミラは無理やり止め、息を大きく吐いた。
「うじうじするの、わたしらしくないわね。放課後、ブラッドに尋ねてみましょ」
独り言のように呟くと、バーサが小さく笑った。
「余計なことを言ったかもと思ったけど、いつも通りのカミラで安心したわ」
「そう?」
「ええ。まあきっと、見間違いか。それとも──」
バーサの予想に、カミラは目を輝かせたが、その予想は見事に的中する、ことにはなった。
放課後。馬車の中でカミラが「バーサが、あなたが一人で雑貨店に入るところを目撃したんだって」と、正面に座るブラッドにたずねてみたところ、ブラッドは首元に手をあて、あー、と気まずそうに声を上げた。少しドキリとしたカミラに、ブラッドは。
「バレちゃったか」
口元を緩め、鞄から髪飾りを出し、それをカミラに差し出した。
「……これって」
「きみへのプレゼントだよ。本当は、サプライズにしたかったんだけど」
『──それとも、あなたへのプレゼントをこっそり買いに行っていたのかもしれないわね』
頭の中で響いたバーサの声に、あなたの予想は当たっていたみたい、とカミラは頬を緩め、髪飾りを受け取った。
「……嬉しいわ。でも、誕生日でもないのにどうして?」
「日頃の、感謝の気持ち」
「……そんな。わたし、なにもしてない」
「ぼくを愛してくれているだけで充分だよ」
ふふ。嬉しそうに、カミラが笑う。
「やだ、ブラッドらしくない」
「え、そうかな。変? 嫌だった?」
「変でもないし、嫌でもないわ。ただ、いつものあなたは、愛しているを口に出すときはいつも、顔を赤くしていたから」
「そう、だったかな」
「ええ。それにしても、とても可愛い髪飾りね」
「気に入ってくれた?」
「とても」
「そっか。さすがだ。プロが選んだ物に、間違いはないね」
カミラは、はてと首を傾げた。
「プロ? あなたが選んでくれたんじゃないの?」
「残念ながら、ぼくにそういったセンスがないのは知っていたから。イライザさんに選ぶの、手伝ってもらったんだ」
照れながらにやけるブラッドに、カミラは顔を少し、強張らせた。
「イライザ、さん?」
「うん。覚えているかな。雑貨店で働いてる、一つ年下の女の子。きみとはじめて店に行ったとき、商品の説明を丁寧にしてくれた人。あの子の名前、イライザっていってね」
「……そうなの」
「終始笑顔で対応してくれて、接客も知識も最高だっただろ? だからあの子に、ぜひきみへのプレゼントの相談にのってもらいたくて。何度も通っちゃった」
「え、と。一度だけじゃ、なかったの?」
「大切なきみへのプレゼントだよ? そんな簡単に決められるわけないじゃないか」
にこにこと話すブラッドに、カミラは困惑しながらも、自分を恥じた。
(……わたし、心が狭い。よね)
きっと自分のために、一生懸命選んでくれたのだろう。確かにブラッドのセンスは、特別秀でてはいないのかもしれないが、それでもカミラは、ブラッドからのプレゼントをいつも心から喜んでいた。なにより、悩んでくれた気持ちと費やした時間が嬉しかったから。
(……去年のわたしへの誕生日プレゼント。おじさまたちにもっと良い物はなかったのかと小言を言われたこと、気にしていたのかな)
言ったのは、ブラッドの親であるデルーカ子爵とデルーカ子爵夫人だ。そんなことないですよとカミラは返したが、ブラッドは「次は頑張るね」と張り切っていたのをふと思い出した。
「ありがとう……でも、あなたが一人で選んでくれた物の方が、わたし、もっと嬉しかったかも」
ぽつりと呟くと、ブラッドはすっと笑顔を引っ込めた。
「──イライザさんがせっかく選んでくれたのに、どうしてそんなこと言うの?」
冷えた空気に、カミラは息を呑んだ。こんな目をしたブラッドは、はじめてだったから。
「そ、そうよね。ごめんなさい……」
怯えたカミラに気付いたのか、ブラッドは、はっとしたように慌てて謝罪した。
「ぼ、ぼくこそごめん。でも、イライザさんは本当に、一生懸命それを選んでくれたんだ。カミラの好きな色とか、宝石とか伝えてさ。それはわかってほしい」
「……ええ」
俯くカミラに、ブラッドは、そうだと手をぱんと合わせた。
「きみも、イライザさんと話してみるといいよ。そしたら、彼女の人柄がよくわかるはずだから」
「……え?」
「善は急げ。そうと決まったら、彼女が働くお店に行こう」
カミラの返事も待たず、ブラッドは背後の壁をとんとんと叩き、馭者に「西の雑貨店に行ってくれ」と命じた。ご機嫌のブラッドになにも言えず。それからイライザがいかに優秀で優しいかを延々に語るブラッドの口は止まらないまま馬車は走り続け、やがて止まった。馭者の「着きました」との声に、ブラッドは顔を輝かせた。
護衛の者が馬車の扉を開ける。先におりたブラッドに手を差し出され、カミラは少し戸惑いながらもその手を掴み、馬車からおりた。
「行こう。カミラが無事にその髪飾りを気に入ってくれたって、報告とお礼をしなきゃいけないし」
「……あっ」
ぐいっと引っ張られ、カミラはブラッドと共に店の中に入った。カランという鐘の音に気付いたようで、商品を陳列していたイライザが手を止め、こちらに駆け寄ってきた。
「ブラッド様!」
「こんにちは、イライザさん。きみが選んでくれた髪飾り、カミラがとても気に入ってくれてね。嬉しかったから、思わずカミラと一緒にお礼にきてしまったよ」
「ほんとですか? それは良かったです!」
明るい笑顔のイライザが、ブラッドの隣に並ぶカミラに視線を向けた。
「ごあいさつが遅れました。あたし、イライザといいます。一度だけ、お会いしましたよね?」
「あ、はい」
ふふ。イライザが口元に手をあて、笑う。
「ただの街娘のあたしに、はい、だなんて。こんなに腰が低い貴族のご令嬢、はじめてです」
「…………」
可愛く笑ってはいるが、なんとなくの棘を感じて黙っていると、イライザが焦ったように顔を上げた。
「あ、誤解しないでくださいね。こんなあたしを見下すこともなく接してくださって、優しい方だなって思っただけで……すみません。怒ってます、よね?」
ちらっと怯えるようにこちらをうかがうイライザに声をかけようとしたとき。
「カミラ、どうして怒ってるの? 彼女、なにかきみの気にさわること言った?」
え。
カミラは目を丸くした。
「……わたし、怒ってないわよ?」
「でも、イライザさんが怯えてるじゃないか。イライザさんがせっかくきみのこと褒めてくれたときも、無視してさ」
「褒めてって……」
頭に疑問符を浮かべるカミラが気に入らなかったのか、ブラッドは目に怒気を宿した。
「腰が低い貴族の令嬢って、親しみやすいって褒めてくれたじゃない。なのにきみは、お礼も言わないで。感じ悪いよ」
目を見張るカミラに構うことなく、ブラッドはイライザに視線を移した。
「ごめんね、イライザさん。カミラは少し、気が強くて。きみの褒め言葉を、なんか勘違いして受け取ったみたい」
「そんな! あたしこそ、誤解させる言い方をしてしまったのかもしれません……平民のあたしが、貴族のご令嬢様に偉そうなこと言って」
二人のやり取りは、カミラが悪者となってしまったかのような内容のまま、しばらく続いた。
帰りの馬車の中。ブラッドは、不機嫌を隠そうともせず、ぶつぶつと小言を続けていた。
「きみがあんなに冷たい人だとは思わなかった」
なんでそんな言い方をされなければならないのか。カミラが「……そんな、わたしはっ」と、自分の意見を述べようとするが、ブラッドは聞く耳を持たない。
「まさか、ぼくと彼女の仲を疑ったわけじゃないよね。ぼくはちゃんと、イライザさんに、婚約者の贈り物を一緒に探してほしいってあらかじめ言ってあったし。そんな目でぼくたちを見るなんて、ぼくにもイライザさんにも失礼だよ」
口を挟もうにも、ブラッドの口は止まらない。そもそも次々に吐かれる言葉がショックで、カミラは徐々に、口を開くのも億劫になっていった。
たとえばこのままブラッドの態度が変わらなければ、カミラも黙ってはいなかったろう。
でも、ブラッドは翌朝。
「昨日はごめん」
と、謝罪してきたのだ。
「なんか、なんかさ。きみがイライザさんに冷たい人だなんて思われたくなくて、つい焦って、きみにつらくあたってしまったんだ……怒ってる?」
捨てられた子犬のような双眸に、カミラはつい、笑ってしまった。安心した、という感情が大きかったように思う。
その様子に、ブラッドが心から安堵しているのが伝わってきて、カミラはもう、なにかを言うことを止めた。ブラッドの言葉を信じることに決めたのだ。
「怒ってないわ」
そう返すと、ブラッドは「よかった~」ともらした。
けれど。
当然のように、棘は残っていて。
「なんか、ブラッドに櫛をもらったのだけど」
あれから何日か経ったころ。
学園の食堂で、ブラッドと一緒に昼食をすませ、教室に戻ってきたカミラ。しばらくすると、同じく昼食を食べ終えたであろうバーサがカミラの目の前に立ったかと思えば、てのひらに載せた櫛を見せてきた。
「日頃、カミラと仲良くしてくれているお礼だって。こんなことされたことなかったから、正直、驚いてしまって。もしかしてこれ、あなたの入れ知恵だったりする?」
小さく笑うバーサに、カミラが沈黙する。バーサは慌てたように、ごめんなさい、と謝罪してきた。
「なんかね、らしくないなって思ってしまったの。せっかくのあなたの婚約者の心遣いだったのに、勘繰ってしまって……本当にごめんなさい」
「……ううん。違うの」
様子がおかしいことに気付いたのか、バーサがうつむくカミラを横から覗き込んだ。
「どうかした?」
「……雑貨店にも、櫛は売っているわよね」
「そう、ね」
「…………」
「ねえ、本当にどうしたの? 顔色も、なんだか悪いみたい」
「……あなたに、軽蔑されるかもしれない。けど」
「うん?」
「……わたしには、もうわからないの。わたしの心が狭いだけなのか……わたしは、冷たい女なのか……だから、聞いてもらっていい?」
もちろんよ。
バーサが力強く頷いてくれたので、カミラは数日前の出来事──ブラッドとイライザに言われたことすべてを、バーサに話した。
「──なに、それ」
話を聞き終えたバーサの怒気を含んだ声色に、カミラは安堵していた。けれどそれに浸る間もなく、バーサに肩を掴まれ、前後に激しく揺さぶられた。
「しっかりしてよ、もう! あなたのどこに落ち度があったっていうのよ!」
大声に、教室にいた生徒たちがこちらに注目するが、バーサはかまわず続けた。
「あなたへのプレゼントを店員に相談するのはいいわよ。でも、何日も通う必要なんてある? あなたのために、だなんて言い訳にしか聞こえないわ。それに、たとえば百歩譲ってそれを許すとしてもよ。婚約者であるあなたの言い分も聞かず、よく知りもしない女の言うことだけ信じて、冷たいだなんて責めるだなんて。怒ってもいいし、傷付いて当然よ!」
「……そうなのね。よかった」
ほっとしたように呟かれた台詞に、バーサは呆れたように腕を組んだ。
「しっかり者のあなたらしくないわね」
「……しっかり者かどうかはわからないけど。いままで、ブラッドの優しさに甘えていたのかも。だからはじめて責められて、驚いて、なにも言い返すことができなかったんだと思う」
「理不尽に、ね」
「ふふ、ありがとう。なんだか、すっきりしたわ。また同じことがあったら、今度はしっかりと自分の意見を主張するわね」
「今度?」
「まあ、店員にプレゼントの相談をするのはなにもおかしいことではないし。わたしも知らないあいだに、冷たい態度をとっていたのかもしれないから。その櫛も、もしイライザさんって方が選んだのだとしても、それはもう、気にしないことにする」
「いいの? これを口実にして、また何度もあの店に通っていたかもしれないのに」
「とりあえずは、信じてみることにする。ブラッドの言うとおり、ただの店員と客の関係だったとしたら、疑いを持つことは、二人に対して失礼だしね」
「……ただの店員と客の関係じゃなかったら?」
数秒の後、言いにくそうに質問してきたバーサに、カミラは。
「もしそうなったら、婚約を破棄してしまうかもしれないわね」
冗談交じりに、苦笑した。
それでも心に残るモヤモヤを取り除けたのは、他でもない、バーサの力強い言葉のおかげだった。
晴れた日の、朝の教室。鼻唄を歌いそうな勢いで、機嫌良く登校してきたバーサは、カミラに嬉しそうに声をかけてきた。
「ねえ、カミラ。大丈夫よ。ブラッドはあなたのこと、きちんと愛しているわ」
あいさつもなしの、唐突過ぎる台詞に、カミラはキョトンとした。
「突然、どうしたの?」
隣に腰掛けたバーサは、うーん、と教室の天井を見上げた。
「秘密にするって、約束してしまったから言えないわ。でもね、不安になることはないってことだけ、伝えておきたくて」
「それじゃ、肝心な根拠がわからないじゃない。それに、約束って? 誰としたの?」
「わからない?」
「……話の流れから、ブラッドかなって思ったけど」
バーサが「あたり」と悪戯っぽく笑う。長年の付き合いから、カミラはピンときてしまった。
「自分からは話せないけど、わたしがあてるなら、それは約束を破ったことにはならないってこと?」
「ふふふ、正解。でもね、普段はこんなことしないのよ? だって、ブラッドのこれまでの行動は、いき過ぎていたもの。あなたという婚約者がいながら何日も他の女性のところに通いつめたあげく、あなたを責めたのだから。こんなことぐらいじゃ、罰はあたらないわ。それに──」
「それに?」
「もし他の誰かに昨日のことが目撃されて、第三者からあなたにこのことを言われたら、変に抉れてしまうかもとも考えたの」
カミラは「……バーサ。それだけじゃ、ちっともわからないわ」と、困った顔をした。
「ヒントは、次の休日よ。なんの日かわかる?」
ウキウキと、バーサがカミラの顔を覗き込む。カミラは「……ええ、と」と顎に手を当て少し黙考してから、あ、と顔を上げた。その様子に、バーサがニッと口角を上げた。
「思い出した? 私はね、その日のための準備──というか、相談をブラッドから受けていたの。昨日の休日は、ブラッドと一緒に街巡りをしていたのだけれど。ほんと、何時間も付き合わされてヘトヘトよ」
「……それって」
「お察しの通り。ブラッドったら。こっちが笑いたくなるぐらい必死で、本当に真剣だったのよ。あれで愛がないなんて、絶対に言わせないんだから」
片目を瞑って見せるバーサに、カミラは「……そうだったの」と、心から安堵したように息を吐いた。
「ちなみに──なんだったかしら。ブラッドが足繁く通っていた雑貨店の女性店員の名前」
「イライザさん?」
「そう。その子がいる店には、行ってないわ。あなたが私にイライザさんのことを話したって、ブラッドは知ってる?」
カミラは、首を左右に振ってみせた。
「知らないわ。言ってないから」
「私もよ。なら、それを知って避けたわけじゃなさそうね。良かったわ」
「……わたし、あなたみたいな優しい親友がいて、とても幸せだわ」
噛み締めるように呟くと、バーサは、やあね、と照れくさそうにはにかんだ。
「でも、私の前でイチャイチャするのは控え目にしてね。私の婚約者は、遠く離れた地方にいるんだから」
「年が離れていると、そうなっちゃうのね。でも、次期伯爵様はきっと、今日もあなたのことを想っているわ。手紙のやり取りは、頻繁にしているのでしょう?」
「ええ。あの方が私にどんな愛の言葉を記してくれたのか、聞きたい?」
カミラは目を丸くした。バーサは普段、あまり惚気話をしないからだ。よほど胸に打たれる言葉が書かれていたのか。それとも、ブラッドがカミラのために一生懸命なところをみて、なにか思うところがあったのか。
「……聞きたいわ。あの方は詩人のように美しい言葉を紡ぐから」
「やだ、褒めすぎ。ハードル上げないで」
「だって、本当のことだもの」
などという会話をした、数日後。カミラはもとより、まさかこんなことになるとは想像だにしていなかったバーサは、不用意な発言をしてしまったことに罪悪感を覚え、心から悔いることになる。
気にしないことにする。そう言いながらも、ブラッドとイライザのことは、常に頭の片隅にはあったでのだろう。だからこそカミラは、自分の誕生日をすっかり忘れていた。
『ヒントは、次の休日よ。なんの日かわかる?』
バーサに問われ、やっと思い出したぐらいだ。子どものころは、あんなにソワソワしていたのに。
『この日は絶対に、予定を入れないでね』
ブラッドが二週間前に、必死に念を押してきたときも、カミラはどうしてそんなにといまいちピンときていなかったが、バーサのおかげで、その必死さがいまは愛おしく思えた。
休日に、ブラッドとバーサが一緒に街巡りをしていたのは、カミラの誕生日プレゼントを選ぶため。二人が街でいるところを他の誰かが目撃して、なにも知らないカミラがそれを聞いたら、いくら親友とはいえ、どうして、と少しは動揺していたかもしれない。
だからこそ、バーサは本当のことを打ち明けてくれた。カミラを安心させるために。
バーサの気遣いに心から感謝しつつ、カミラはなにも知らない、気付かないふりをしながら、日々を過ごした。
カミラの誕生日の前日の朝。登校する馬車の中でブラッドに「明日の午前九時に、ぼくの屋敷に来てね」と言われたとき、カミラは思わず、頬を緩ませた。
「明日の休日は、外でデートじゃないのね」
「うん。街でデートは、また来週。明日は大切な日だから」
ニコニコと笑顔のブラッドに、そうなのと。なにも知らず、笑っていた自分はさぞや、滑稽だったことだろう。
その日の夕刻。屋敷に帰宅したカミラは、使用人たちに、明日はブラッドの屋敷で過ごすことになったのと、さっそく報告した。
「そうなのですね。明日はちょうど休日ですし、ブラッド様とごゆっくりしてきてください」
メイドが微笑むと、執事は「では、我々との誕生日会は、明日、お嬢様が帰宅してからということで」と、生真面目に告げた。
「そんな、もう子どもじゃないのだから」
「いいえ。旦那様と奥様から送られてきた誕生日プレゼントも、むろん我々からのものも、明日、きちんとお渡しせねばなりませんから」
「え、お父様とお母様から?」
嬉しそうに手を合わせたカミラに、執事はあからさまに、しまったという顔をした。
「あ、いえ。いまのは聞かなかったことに」
「ええ? 無理よ、聞いてしまったからには、明日まで待てないわ」
このときのカミラは、信じて疑わなかった。明日、ブラッドの屋敷で開催されるのは、カミラの誕生日パーティーだと。
カミラだけではない。バーサや、そして地方から王都に出てきたカミラに着いてきてくれた使用人たちも、同じ思いだったろう。
次の日。
約束していた時刻に、カミラの屋敷を訪ねてきたのはバーサだった。バーサもブラッドに招待されていて、ならばと、ブラッドの屋敷に、一緒に行く約束をしていたのだ。
「ブラッドったら。同じクラスで友だちになった貴族令息も一人、このパーティーに招待したらしいわよ。私、面識がないんだけど。カミラは?」
揺れる馬車の中。バーサから聞かされたのは、カミラにとって初耳のことだった。
「それは知らなかったわ。招待したのはてっきり、わたしとバーサだけかと……たぶん、あいさつを何度か交わしたことある人だと思うけど、それだけだし」
「はじめてできた学友だろうし、婚約者のあなたとも、仲良くしてほしいってことかしら」
「うん、きっとそうね」
けれど、ブラッドがその学友を招待したのは、まったく別の理由からだったことを、二人はまもなく知ることになる。
ブラッドの屋敷に着くと、顔見知りのメイドが、カミラとバーサを出迎えてくれた。
「ブラッド様。昨日から張り切っていましたよ」
こそっ。メイドが、カミラに耳打ちする。今日がカミラの誕生日だということは、長年の付き合いがあるメイドは当然把握していたし、カミラもそれは承知していると思っていたのだろう。
だからカミラが「誕生日パーティーだということは、ブラッドから聞かされていないの」と、耳打ち仕返すと、メイドは、まあ、と口元に手を当てた。
「サプライズのつもりだったのですか? 誕生日当日に?」
「たぶん」
「ブラッド様らしいといえば、らしいかもしれませんが……では、先ほど私が申し上げたことは、聞かなかったことに」
わかったわ。
頷くカミラに、メイドはありがとうございますと礼を言い、広間の扉の前で立ち止まると、その扉を静かにゆっくりと開けた。
広間にはすでにブラッドと、ブラッドの学友がいて、テーブルの上には豪華な料理が並べられていた。
「カミラ、バーサ。いらっしゃい。よく来てくれたね」
にこやかに両手を広げながら、ブラッドが近付いてくる。カミラとブラッドの学友は面識があったが、バーサとは初対面だったので、互いにあいさつを交わした。
「これであとは、一人を待つだけだね」
ブラッドの言葉に、カミラが「他には誰が来るの?」とたずねると、ブラッドは満面の笑みで答えた。
「もちろん、今日の主役さ」
え。
身体を硬直させたのは、カミラだけではない。バーサも、控えていた使用人たちも同じだった。
「……主役って、なに? 誰のことを言ってるの?」
小さく声を上げたのは、バーサだった。ブラッドが、それはね、と口を開きかけたところで、カミラたちを出迎えてくれたメイドが、広間の扉を開けた。その顔は少し、困惑しているようだった。
「ブラッド様。イライザと名乗るお方が来られていますが」
「! ああ、広間にお通しして。彼女が今日の主役だから」
その名に、カミラとバーサが目を見開いた。事情もなにも知らないブラッドの学友は「イライザって誰?」と、首を捻っていた。
学友の問いに答えるように、ブラッドが口を開く。
「イライザは、ぼくの知り合いの子。ぼくたちより年は下なのに、毎日一生懸命に働いている頑張り屋さんなんだ。父親が小さい頃に亡くなったらしくて、母親と二人、これまで支え合って、頑張って生きてきたんだって」
「……へえ」
「そしたらさ。これまでお金がなくて、誕生日パーティーとか、ろくにしたことがないって寂しそうに笑ったんだ。そんなの、あまりに可哀想だろ? だからぼくが、盛大に祝ってあげるって約束したんだ」
胸に手を当て、噛み締めるように語るブラッド。呆然とするカミラに代わるように、バーサが声を上げようとしたとき。
「失礼しまーす」
広間に、呑気な声が響いた。
誰よりギョッとしていたのは、メイドだった。
「あの、玄関ホールでお待ちくださいとお願いしましたよね?」
「だって。今日の誕生日パーティー、あたしのために開かれたものですよね? なのにどうして、あんなところで待たされなきゃならないんです? おかしくないですか?」
腰に手を当てるイライザに、ブラッドが駆け寄る。
「ごめん。きみの名前、使用人たちに伝えていなかったかも。誕生日パーティーを開くとしか言ってなかったし」
イライザが「使用人?」と、きゃっと甘い声を出した。
「やっぱりブラッド様って、貴族のご令息様なんですね。さらっと使用人だなんて、かっこいい!」
「そんなことないよ」
デレデレするブラッドを愕然と見詰めるカミラの耳に、バーサの「……は?」という声が響いた。隣に視線を移すと、バーサは、イライザの首元を指差していた。
「……あなた。そのネックレス」
イライザは誕生石が埋め込まれたネックレスを手に持つと「これですか?」と、首をこてんと傾げた。
「あたしの誕生日、本当は二日前だったんですよ。だからこれは、二日前にブラッド様からもらった、誕生日プレゼントです」
「バーサ。この前は、付き合ってくれてありがとう。伝えるのが遅くなってごめん。彼女、とても喜んでくれたよ」
ブラッドの台詞に、カミラとバーサは嫌でも思い知った。バーサが選ばされていたのは、カミラの誕生日プレゼントではなく、イライザの誕生日プレゼントだったということを。
「……あなた! 私にそんなこと、一言も言わなかったわよね!?」
我慢できなくなったのか。バーサが涙目で叫んだ。カミラ以外の者が、びくっと身体を揺らす。
「……? 突然、なに? ぼく、ちゃんと言ったよね……? 誕生日プレゼントを選ぶの、手伝ってほしいって」
「その女のためだなんて、聞いてないわ!」
ブラッドが「その女って」と、眉をひそめた。
「聞かれなかったから答えなかっただけだよ。それ、そんなに怒るようなこと?」
バーサの怒りの理由は、使用人たちも、痛いほどよく理解していた。そもそもが、この誕生日パーティーは誰のために開かれるのですかと、誰もブラッドにたずねなかったのも、同じ理由だったのだから。
重い空気に気付いていないのか。イライザが楽しそうにはしゃぐ。
「ブラッド様の婚約者様。わざわざあたしのために来てくれて、ありがとうございます。それに、あとの二人の方も、ブラッド様と同じ、貴族の子どもさんなんですよね?」
そうだよ。
ブラッドが答えると、イライザはきゃーと黄色い声を上げた。
「あたしのために、本当に貴族令嬢と貴族令息の方を集めてくれたんですね。嬉しい! あたし、お姫様になったみたいっ」
「二日遅れてしまったけど、きみの強い希望だったからね。でもね。休日だからこそ、みんな、きみのために集まってくれたんだ。パーティーの準備も、朝から入念にできたし」
「いいんですよ。誕生日プレゼントは、しっかり当日に貰いましたし、二日遅れたぐらい、ぜんぜんっ」
きゃっ。きゃっ。
二人きりの世界ではしゃぐ、ブラッドとイライザ。
目の前で繰り広げられるあまりにもな展開に、今日がカミラの誕生日だと知る者は、血の気の失せた顔で、呆然と立ち尽くしていた。
「ちょっと待ってくれないか」
口を挟んだのは、ブラッドの学友だった。
「今日の誕生日パーティーには、お前の婚約者のカミラ嬢と、カミラ嬢の親友を招待したと聞いた。だからぼくは、そのお二人のどちらかの誕生日パーティーだと思って、招待を受けたんだ。そんな、見ず知らずの平民の女性のために、時間を割いたわけじゃない」
イライザが「……平民」と、ショックを受けたように眉尻を下げたのを見て、ブラッドは目を吊り上げた。
「平民だからと蔑むなんて、最低だな」
「蔑んだわけではないが、そう思ってもらってけっこう。ぼくはなにも事情を把握してないが──お前との付き合いを、考え直す必要があるみたいだからな」
「? なぜ」
「なぜ? お前、婚約者の親友に、他の女性の誕生日プレゼントを選ばせたんだろ? しかも、バーサ嬢はそれを知らなかったみたいだし」
「さっきも言ったけど、それは聞かれなかったからだよ」
「それなんだけど。どうも、お前のそれは確信犯のような気がしてならないんだよ。誰の誕生日かとたずねたぼくの問いにも、お前はカミラ嬢とバーサ嬢を招待したとしか答えなかったし……なにより、誰より大切にしなければならないはずの婚約者のカミラ嬢の顔色にも気付かず、他の女性とはしゃぐお前の神経がわからない」
言われてはじめて、ブラッドはカミラに視線を向けた。
「え、どうしたの? どこか具合でも悪い?」
カミラに近付き、手を伸ばそうとするブラッドに、メイドが震える声で呟いた。
「……ブラッド様。今日は、カミラ様のお誕生日の日です」
バーサと、使用人たち以外の者が目を見開いた。ブラッドは頭の中で、今日の日付を確認した。とたん、ブラッドの顔から、さあっと血の気が引いていった。
「ち、違う! 違うよ! わ、忘れていたわけじゃない! 昼はイライザの誕生日パーティーをして、婚約者のきみの誕生日パーティーは、二人きりで、夜にしようと……っ!!」
「……ぷっ」
耐えきれなくなったように吹き出したのは、イライザだった。
「あーはっはっ! おかっ、おかしい……なんか様子が変だなあって思ってたけど、まさか、婚約者様のお誕生日だったとは。もしかしてみんな、この誕生日パーティーのこと、婚約者様のためのものだと勘違いしてたんですか?」
バーサが「あなたねえ……っ」とこぶしを震わすと、イライザはなおも笑った。
「図星? 図星ですか? このネックレス、もしかして、隣の婚約者様のために選んだものだったんですか?」
仕方ないですねえ。
イライザはネックレスを、首から外した。
「これ、婚約者様にあげますよ。いいですよね、ブラッド様」
「も、もちろん。いや、でも。他にちゃんときみのために用意した誕生日プレゼントもあるからね!」
差し出されたネックレスを、じっと見詰めるカミラ。
『街でデートは、また来週。明日は大切な日だから』
脳裏に浮かんだブラッドの台詞に、カミラは思わず、笑ってしまった。その様子を、ブラッドはどう受け取ったのか。
「あ、ああ。やっぱり、それはきみの方が似合いそうだね。バーサも、きみのために選んだみたいだし」
「ひどーい、ブラッド様。あたしには、あんなに似合うって褒めてくれていたのに」
「ちょ、やめてくれ!」
クスクス。クスクス。
笑うイライザにつられるように、カミラもクスリと笑った。
「──いいえ。これは、あなたのものよ」
ネックレスを持つイライザの手を、カミラはそっと押した。
「いいんですか? やっぱり、他の女に贈られたお下がりのプレゼントなんて、嫌だったんですか?」
「──ねえ、イライザさん。あなた、貴族令嬢をあまりに舐めすぎていません?」
表情はそのまま、にこやかに。カミラが穏やかに吐き捨てると、イライザは固まった。
「あ、あたしそんなつもり……ブラッド様っ」
縋るような声色で、イライザがブラッドに助けを求めるが、ブラッドは青い顔を、さっと下に逸らした。
「あら、どうしたの? 大切なイライザさんを庇わなくていいの?」
冷たいカミラの声に、ブラッドは震えた。
「た、大切なのは、婚約者のきみだ!」
「イライザさんの誕生日を、大切な日だと言っていたじゃない。いまさらそんな嘘、つかなくていいわ」
「そ、そんなこと言ってない!」
「そう? まあ、もうどうでもいいわ。あなたにとって、わたしの誕生日より、その女性の誕生日の方が大切だってことは、よく理解したから」
「違うよ! きみの誕生日の方が大切だ! 信じてくれ!」
無視して、カミラはバーサに目を向けた。
「わたしはもう帰るけど、バーサは?」
「……むろん、私も帰るわ。でも、このままでいいの?」
「いいのよ。ねえ、知ってた? 愛情って、一瞬で冷めてしまうこともあるみたい。わたし、実体験しちゃった」
ひゅっと息を吸い込んだのは、もちろん、ブラッドだった。
「イライザさん。わたし、この男とは別れますから。付き合うなり婚約するなり、お好きにどうぞ」
くるりと優雅にスカートを揺らしながら、カミラはイライザに微笑んだ。イライザは、いいの? という風に口元を緩ませていたが、ブラッドは全身を小刻みに震わせはじめた。
「わ、別れるって……そんな、冗談だよね?」
カミラが真顔で「冗談?」と繰り返すと、ブラッドは涙目になった。
「ぼ、ぼくが悪かった。謝るよ。あまりにイライザが憐れで、そっちばかりに意識がいってしまっていた。でも、この程度のことで別れるなんて、できると思う? 父上やクルス伯爵が絶対に許してくれないよ。貴族の結婚は、平民のそれとは訳が違うんだから。それはきみもわかっているはずだろ? ね、機嫌直して……?」
「──そうね」
答えに、ブラッドは顔をぱっと輝かせた。
「わかってくれてよかったよ。イライザにはもう帰ってもらうから、あらためて、ぼくたちだけで誕生日パーティーをしよう。それとも、二人きりの方がいいかな?」
ヘラヘラと笑うブラッドに、カミラは氷のような双眸を向けた。
「お父様に、あなたとの婚約を解消してもらえるように、手紙を書くことにするわ。それで許しがでなかったら、お父様に直接お願いしに行くつもりよ。でもね、ブラッド。わたしは伯爵令嬢で、あなたは子爵令息なのよ。この意味、わかる?」
爵位が上なのは、間違いなく、ブラッドの父親のデルーカ子爵より、カミラの父親のクルス伯爵だ。つまり、いくらデルーカ子爵が婚約解消を拒否したところで、クルス伯爵に圧をかけられれば、従わざるを得ないということになる。
「……ま、待って、待って! イライザとは、もう二度と会わない! 約束する! だからっ」
「──ねえ、ブラッド。あなた、イライザさんと出会ってから、ずいぶんと成績が落ちていたわよね」
「…………な、なんでいまそんなことっ」
動揺するブラッドを見据えつつ、カミラは続けた。
「一人の女性に入れ込んで、勉強を疎かにしたあげく、婚約者のわたしを一方的に責めたこともあったわね。そんなあなたに、民をまとめる領主になる資格があるのかしら?」
「ど、どうして突然……っ。今までそんなこと、一言も」
「……本当にそうね。わたし、どうかしていたわ。あなたが領主に相応しいかどうか。王都に行ってからは、わたしがちゃんと見ているようにとお父様に釘を刺されていたのに」
ごめんなさい。
憐れみの目を向けられたブラッドは、声を失ったように、口をぱくぱくさせていた。
カミラはブラッドの学友に「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。わたしたちはこれで失礼します」と頭を下げてから、広間の出入り口である扉へ、バーサと共に向かった。
「カミラ!!」
追いかけるブラッドを、控えていたカミラの付き人が止めた。離せ、と叫ぶブラッドを、付き人がギロリと刺すように睨み付ける。ぶるりと身体を震わせたブラッドから手を離した付き人は、一礼すると、カミラたちの後に続き、広間から出て行った。
「…………あ」
追いかけないと。
足を動かそうとしたブラッドに、ブラッドの学友が「ぼくも帰るよ」と声をかけてきた。その目には、紛れもない軽蔑が宿っていた。
「違うんだ! ぼく、そんなつもりはまったく……平民に施しを与えるのも、貴族のつとめだろう? まさか今日がカミラの誕生日だなんて思わなくて……不幸な事故だったんだよっ」
「今日がカミラ嬢の誕生日じゃなかったとしても、お前の行動は充分、どうかしていたと思うけど。どちらにせよ、お前との縁はこれまでだ。もう他人なんだから、二度とぼくに話しかけてこないでくれよ」
そう言い捨てると、ブラッドの学友──クラスメイトも、つかつかと広間を出て行った。
ふと見渡せば、ブラッドの身の回りの世話をしてくれている使用人たちはみな、真っ青な顔で、呆然と俯いていた。
「だあれもいなくなっちゃいましたね」
危機感なくぼやいたのは、もちろんイライザで。項垂れるブラッドの顔を覗き込むと、にやっと笑った。
「よかったじゃないですか。あの婚約者と一緒にいると、いつも頑張っていないといけないから疲れるって、あたしといる方が楽だって、もう別れたいって言ってたじゃないですか」
「……やめてくれ……っ」
使用人たちが、頭を抱えるブラッドに軽蔑の眼差しを向ける。爵位を継げる嫡男以外の貴族令息が、領主となれる未来を約束されていることが、どれほど恵まれているか。そんなもの、張本人であるブラッドが一番よく理解しているはずなのに。
「……そんなことを」
ぽつりとメイドが震える声でもらすと、ブラッドは「い、言ってない!」と、声を裏返し、イライザを睨み付けた。
「……もう、帰ってくれ!」
イライザは呆れたように、はあと肩を竦めた。
「あたしの気を引きたくて、頼みもしないプレゼントをくれたり、パーティーを開いてくれたりと思ったら、これですか。いいですよ、帰ります。あんたが貴族令息じゃなかったら、そもそも相手になんかしなかったし。それにあたし、彼氏いますしね」
「…………は?」
「あ、この料理。いらないんだったら持って帰ってもいいですか?」
料理を指差すイライザの腕を、怒りやら屈辱やらで顔を真っ赤にさせたブラッドは力任せに掴んだ。痛いと抗議するイライザを無視して引っ張っていき「全部お前のせいだ!」と、力尽くで屋敷の外に追い出した。
玄関の扉を乱暴に閉めてから、カミラの後を追いかけなければならなかったんだとはっとし、ふたたび取っ手に手をかけようとしたブラッドに、執事が背後から声をかけてきた。
「……ブラッド様。このことは、旦那様にご報告させていただきますので」
「……ご報告って。ぼくがカミラの誕生日をうっかり忘れていたことか? そんなこと、わざわざ父上に報告してなんになる」
「カミラ様は、ブラッド様と別れると、きっぱり宣言しておられました。ことは、ブラッド様が考えておられるより、ずっと深刻なのです」
ブラッドは泣きそうになりながらも、カッと目を見開いた。
「こんな、こんな馬鹿みたいな理由で別れられてたまるか! それに、父上に報告する暇があるんだったら、ぼくと一緒にカミラに謝罪に行くのが主に仕える者のつとめじゃないのか?!」
「──なにか勘違いしておられるようですが、私どもの主は、あくまでデルーカ子爵です。あなたではありません」
「なっ……」
これまで優しく接してくれていた、家族のような存在だった執事の突き放したような言い方に、ブラッドは絶句した。
「──もういい!」
ばんっ。扉を開けて飛び出し、ブラッドは走った。途中でクルス伯爵家の馬車を見つけ、カミラの名前を呼んだがまったく反応はなく、馬車も速度を緩めることなく走り続けた。
「カミラ、ごめん! 謝るからさ!」
街の人からの視線も気にせず、馬車に寄り添うようにして歩き、声をかけ続けるブラッド。そうこうしているうちに屋敷に着いたものの、中には入れてもらえず。それでも屋敷の外で粘るブラッドに、カミラに仕える執事が近付いてきた。
「お嬢様からの伝言です。明日、学園にて、お会いしましょうと」
冷たい眼差しに、カミラから事情を聞いたであろうこの男にいくら縋ったところで時間の無駄だと悟ったブラッドは、仕方なく、その場を後にした。
翌朝。
いつもより早く学園に登校したブラッドは、カミラのクラスの教室の前で、カミラを待ちわびていた。ぽつぽつと生徒が登校してくるが、目的の人物は中々現れず。苛ついたように腕を組んだ指をトントンと揺らしていると、バーサの姿が視界の先に入った。
「バーサ!」
駆け寄るブラッドに、バーサがあからさまに嫌悪感を露わにし、眉を寄せる。そんなことにかまっていられないブラッドは「カミラは?!」と、鬼気迫る勢いで詰め寄った。
「……私、あなたと会話したくないんだけど」
「これで最後にする。二度と話しかけないって誓うから!」
「あんたのことなんか、信用できないわよ──と言いたいところだけど、教えてあげる。カミラはもう、王都にはいないわよ」
ブラッドは一呼吸置いてから「……?」と、首を捻った。
「昨日、あんたがようやく諦めて屋敷の前からいなくなったあと、王都から出立したわ。おじさま──クルス伯爵と直接会って話したいからって」
「……手紙、書くって。クルス伯爵と会うのは、それからだって……」
「そのやり取りの時間が、まどろっこしいと考えたみたい。一刻も早くあんたと婚約解消したいから、行ってくるって」
「……っっ」
ブラッドは顔を引き攣らせ、学園を飛び出した。馬車に乗り、自身の屋敷に向かう。そして屋敷に着くなり、使用人たちに大変だとばかりに口を開いた。
「カミラがクルス伯爵のところに行ってしまった! すぐに追いかけるから、準備をしてくれ!」
「……なにが悪かったのか理解していないブラッド様が行っても、火に油を注ぐようなものです。大人しく、どのような決断が下されるか待つことにしましょう。我々にはもう、それしかできません」
執事が静かに告げるが、ブラッドは「そんなことできるか!」と語気を荒げた。
「ぼくは不貞行為どころか、イライザと口付けすらしたことはなかった! ただ、あの女のために誕生日パーティーを開いただけだ! それがこんなにまで責められるべきことなのか?!」
問うても、誰もなにも答えない。なにを言っても無駄だと悟ったブラッドは、わかったよ、と無理やり怒りを静めた。
「もう同意は求めない。移動の準備だけ頼む」
「──申し訳ありません。今朝方、早馬に旦那様宛の手紙を託しました。お返事が届くまで、勝手な行動は控えさせていただくことになりましたので」
腰を折りつつ、拒否する執事に、ブラッドは愕然とした。
「勝手な行動って……仮にもぼくは、お前たちが仕える父上の息子なんだぞ。そのぼくが、こんなにも頼んでいるのに……あまりに非情すぎないか……?」
玄関ホールに集まってきていた他の使用人たちを見回しても、冷ややかな視線が返ってくるだけで。
馭者も護衛もなしに、城壁に囲われた王都から一人で出るなんて、自殺行為に等しく。
結局。ブラッドはカミラを追いかけることができないまま、執事が言っていた通り、二人の父親がなんらかの決断を下すまで、待つことしかできなかった。
カミラが王都に戻ってくるより早く、ブラッドの元に、デルーカ子爵から手紙が届いた。
それはとても簡潔なもので。すべての使用人と共に、こちらに戻ってこいというものだった。
カミラのことについてなにも書かれていないのがかえって不気味で、ブラッドは王都を出立してからずっと、無言で顔を青ざめさせていた。けれど、一緒にいる使用人たちから、大丈夫ですかと、心配する声が上がることはなく。
デルーカ子爵の屋敷に着いたブラッドは、一人きり──ではなく、使用人たちと一緒に、デルーカ子爵の執務室へと向かった。
「……ブラッドです」
ノックしてから名乗ると、入れ、との声が中から響き、扉を開けた。デルーカ子爵は椅子の背もたれに体重を預けていたが、疲れたようにゆっくり身体を起こすと、執務机の上に手紙を置いた。
「クルス伯爵からの手紙だ。お前とカミラの婚約を解消したいことと、その理由が記されていた。了承するなら、返事をと」
「…………っ」
予想はできた。できたが、たったあれだけのことで、クルス伯爵が本気で婚約解消を申し出てくることが信じられなかった。
「父上、聞いてください! ぼくにも悪いところはありましたが、婚約を解消されるほどのことはしておりません!」
「……ああ。そのために、お前たちをここに呼んだ。なにがあったか、詳しく説明しろ」
重い口調に、けれどブラッドは安堵していた。ちゃんと言い分を聞いてくれることが嬉しくて、ブラッドはあの日の──カミラの誕生日当日のことを詳しく話した。
それに黙って耳を傾けていたデルーカ子爵は、後ろに控えていた使用人たちにも、一人一人、説明を求めた。
ブラッドと違い、ありのまますべてを語る使用人たちに口を挟もうとするも、デルーカ子爵がそれを許さなかった。が。すべて語られたところで、デルーカ子爵が婚約解消に応じるわけがないと信じて疑わないブラッドは、余計なことをと心の中で毒づきながらも、使用人たちの言葉を遮ることは諦め、大人しく待つことにした。
全員の話を聞き終えたデルーカ子爵は、机の上で手を組み、深いため息をついた。
「……お前は自分の立場を忘れ、カミラの好意にあぐらをかいていたのか。どんな扱いをしようと、許してくれると」
「ちがっ」
「違うわけがあるか。いくら旧知の仲の婚約者とはいえ、カミラは伯爵令嬢なんだぞ。よくもまあ、そんな愚かな真似ができたものだ。貴族社会を舐めているとしか思えん。上位貴族の機嫌を損ね、滅びた一族は数えきれんのだぞ」
頭を掻きむしるデルーカ子爵に、ブラッドは、だって、と声を震わせた。
「爵位が上だからと、このようなことで一方的に婚約解消を申し出てくるような真似をするなんて思わなくて……こんな、理不尽な」
デルーカ子爵は徐に立ち上がると、目の前に立つブラッドの頬を打った。
「……娘が虚仮にされて怒ることの、どこが一方的で理不尽だ。お前がここまで馬鹿だとは思わなかった」
呆然とするブラッドに「私はこれから、クルス伯爵のところに行ってくる」と、デルーカ子爵は告げた。
「私が帰ってくるまで、お前は屋敷の私室にいろ。部屋から出ることは許さん」
連れていけ。
命じられた使用人たちは、はい、と頭を垂れた。ブラッドが、婚約解消に応じるのですか、と憔悴しきった顔でたずねると、デルーカ子爵は殺意さえ込められた低い声色で、
「──お前のせいで、応じざるを得ないんだよ。愚か者が」
と、吐き捨てた。
ブラッドは決して、カミラを嫌っていたわけではない。ただ、次期領主としての重圧やら、努力やら。疲れていたのは確かだ。
あまり褒められることのなかった人生で、可愛い女性が、貴族令息というだけですごいと褒めてくれ、なにを言ってもすごいと笑ってくれることが、ブラッドの中の自尊心をひどく満たしてくれた。
もっとそれを味わいたくて、誕生日プレゼントを贈り、誕生日パーティーを開いた。
ただ、それだけ。
それだけで、なぜこんなことになってしまったのだろう。
「お前とカミラ嬢の婚約は、正式に解消された」
クルス伯爵の元から戻ってきたデルーカ子爵は、執務室に呼び寄せたブラッドに、そう告げた。
「カミラ嬢が、婚約解消に応じてくれればそれ以上はなにも望まない。そう言ってくれたおかげで、我が家の損失はない。クルス伯爵は、不満そうだったがな」
そんなこと当たり前じゃないか。ブラッドが胸中で呟く。それを知ってか知らずか。
「だがな。その場には、バーサ嬢だけでなく、他の貴族令息もいたんだろう。お前の愚行が広まれば、我が家の評判はがた落ちだ。本当に馬鹿な真似をしてくれた」
「……申し訳ありません。今後は、このようなことがないようつとめますので」
納得がいかないながら、ブラッドが頭を下げる。デルーカ子爵は、今後か、と呟いた。
「貴族社会は狭い。お前のような愚行をおかした男の婚約者になりたいと思う令嬢が、いると思うか?」
「……努力します」
「なにをどう努力するんだと問いたいところだが、もういい。お前は、好きに生きろ。なんなら、ご執心の街娘と一緒になればいい。誰も止めはせん」
一拍置いてから、ブラッドは「……え?」と頭を上げた。交差したデルーカ子爵の双眸は、恐ろしいほど、冷ややかだった。
「──お前をデルーカ子爵家から除籍する」
言葉の意味を理解するのに数秒時間を要したブラッドは、目を見開いたまま「……意味がわかりません」と呟いた。
「カミラは、婚約解消に応じるだけでよいと言ったのではなかったのですか?」
「言ったな。だが、お前はそれですら、不服に思っているのだろう? 隠しているつもりだろうが、すべて顔に出ておる」
「……そのようなことは」
「嘘をついたところで、決定は覆らんぞ」
デルーカ子爵にじっと見詰められたブラッドは、ぎゅっとこぶしを握った。
「……正直、思っています。親の爵位が上だというだけで、たったこれだけのことで婚約解消などと。あまりに横暴すぎる」
「カミラ嬢を傷付けたつもりはなかったと?」
「誕生日を忘れていたことは、悪いと思っています。でもそれは、そんなに責められることなのでしょうか」
デルーカ子爵は「──だからお前を除籍することにしたのだ」と、諦めの息を吐いた。
「……だから、どうしてそのようなことになるのですか?!」
「まったく反省の色が見られんからだ。何事もなかったかのように、これまで通りの生活を送らせたとする。そしたらお前はカミラ嬢を責めるだろう。あるいは、やり直そうと詰め寄るかもしれない」
「そ、そんなことしません!」
「私はな、もうお前のことが信用できないんだよ。これ以上、クルス伯爵の怒りを買うことだけは避けなければならない」
「……息子より、家が大事だと?!」
「ああ、大事だ。私には、当主として一族を守らなければならないという義務があるからな」
迷いなく答えるデルーカ子爵に、ブラッドは愕然とした。
「もとより、次期領主としての道が断たれたいま、お前はもう、自力で職を探すしかない。それが少し早まっただけだ」
「まだそうと決まったわけではないでしょう? 学園を卒業するまでに、別の令嬢と婚約する可能性だって大いにある。それこそ、クルス伯爵家より、もっとデルーカ子爵家の利益になるような家との繋がりができるかもしれません!」
「そのような身分の令嬢に婚約者がいないはずはないし、仮にいなかったとしても、お前が選ばれる確率は低いだろうな」
ブラッドは「どうして決めつけるのですか?!」と目を血走らせたが、デルーカ子爵は、もういいだろう、と疲れたように呟いた。
「……このような言い合いは、時間の無駄だ。これまでに蓄えた教養は、貴族令息だからこそ身につけられたもの。仕事には困るまい。荷物をまとめ、今週中にはこの屋敷を出て行け。少額だが、金は渡す。王都に行くなりなんなり、好きにしろ」
──嘘だ。
ありえない。ブラッドはまだ、信じられなかった。だから荷物なんてまとめなかった。けれど迎えた週末、ブラッドは屋敷を追い出された。
ここにきてようやく、これは現実だと、ブラッドは実感した。
『王都に行くなりなんなり、好きにしろ』
デルーカ子爵はそう告げたが、もはや貴族令息でもなんでもない平民のブラッドがここから王都に行くには、護衛をつけた隊商などに同行するしかない。しかし、ブラッドにはそんな伝手も、金もない。
「…………」
ブラッドは何時間も立ち尽くしたあと、デルーカ子爵が所持する領土にある町へと赴き、仕事を探した。小さな商会の事務として雇われたブラッドは、いつか金を貯めて、王都にいるカミラに仕返しに行ってやるという目標を立てていたが、やがて自分は領主となる器ではなかったと。貧しくはあるが、この暮らしもそう悪くないと思うようになり、数年後に所帯を持つことになる。
しかし。
やはりどこかズレているブラッドは、妻子がいながら、別の女性と不貞行為をした。そのことがばれ、泣いて縋ったものの、結局は離婚をされ、さらに慰謝料まで請求されたブラッドは、町の人からは白い目で見られ、肩身の狭い思いをしながら、その後の人生を生きたという。
──一方。
もともと、恋人や婚約者がいる男に気のあるふりをするのが趣味で、しかし相手が本気になりそうになると、そんなつもりはなかったと身を引き、別れるさまを見てほくそ笑む、ということを繰り返していたイライザ。
浮気ではない。不貞行為もしていない。だから悪いことはしていない。このギリギリのラインで遊ぶのが止められなかった。
「……やってくれたわね」
イライザが働く雑貨店の女店長が、出勤したイライザに苦々しく吐き捨てた。なにが、とたずねるイライザに、店長は眉根を寄せた。
「貴族令息と貴族令嬢の婚約を解消させたの、あなたなんでしょう?」
どこからばれたのだろう。あの伯爵令嬢が告げ口したのかと苛ついたが、たかがあれだけのことで本当に婚約を解消したのかと、少し呆れた。
「そんな大袈裟な。あたしはただ、あたしの誕生日を祝いたいっていう貴族の息子のわがままに付き合っただけですよ。というかそれ、誰に聞いたんですか?」
「あなたが子爵令息と親しげにしていたところは何人にも目撃されていたし、私もその一人で、何度か注意したわよね」
「店員として、店の売り上げに貢献していただけですけど?」
「男に媚びて、身体を密着させて?」
イライザは「……酷い言い方」と、店長を睨み付けたが、店長は事の重大さを理解していないイライザに、頭を抱えた。
「……あのね。その辺にいる男と、貴族令息とでは、訳が違うの。そんなこともわからないほど、あなたは馬鹿だったの?」
「あたしはなにもしていません。あっちから勝手に絡んできたんです」
「例えばそれが真実だとしても、世間は、あなたのせいであの二人が婚約解消したと思っているわ。わかる? ただの平民が、貴族の子同士の婚約を解消させたの。プライドの高い貴族が、それをよしとすると思う?」
「わかりましたよ、うるさいな。以後、気をつけます」
店長は「以後なんてあるわけないでしょう」と、ため息をついた。
「貴族に目をつけられるなんて、たまったものじゃないわ。あなたはクビよ」
そんなこと考えもしていなかったイライザは、目を見開き、固まった。
「……クビ? この店の看板娘のあたしを? 本気ですか?」
「あなたは確かに男性客から人気もあるし、仕事もできるわ。これまでクビにしなかったのも、それが理由。でもね。人の男にちょっかいをかけるその癖、何度も店で揉めるたびに、どうにかしなさいって注意してきたわよね」
「だからって、クビは酷くないですか? あたし、不倫したわけじゃないんですよ?!」
「貴族に目をつけられてまで、あなたを雇うメリットは、もうないの」
何年も働き、尽くしてきた店長にきっぱり告げられたイライザは、裏切られたような気分になり、悔しさから涙を滲ませた。
「……ああ、そうですか。いいですよ。こんな店、あたしから辞めてやりますよ。売り上げが落ちて、あとから泣きついてきても知りませんから!」
どうせすぐに、新しい仕事は見つかる。そう高をくくっていたのだが、イライザが貴族令息、令嬢の婚約を解消させたという噂はあっという間に広がり、貴族に目をつけられることを恐れた街の人たちは誰も、イライザを雇おうとはしなかった。
彼氏にも親にも見捨てられ、まわりの人たちからも避けられるようになってしまったイライザは、逃げるように、王都から姿を消した。
──数年後。
義姉からの手紙に、カミラは私室の椅子に座りながら、笑みを浮かべていた。
毎年、誕生日にかかさず贈られてくる手紙とプレゼントに、胸がほんわか温かくなる。
「……ありがとう、バーサ」
手紙を抱き締め、噛み締めるように呟く。
ブラッドと婚約解消してから、しばらくして、バーサからとある人物を紹介された。それは、王宮で文官として働いている、バーサの婚約者の弟だった。
カミラが十六歳になる、数日前。バーサから聞かされた惚気話の真相は、弟が妻に浮気され離縁したと知り、不安になったバーサの婚約者が、手紙に愛を記した、というものだった。
「とても誠実で、いい人よ。私が保証する」
いずれは誰かと結婚しなければならない。ならばと、信頼するバーサにすすめられるまま、バーサの婚約者の弟と会った。
ブラッドと婚約解消した理由を知れば、そんなことで別れたのですかと責められることも覚悟していた。後悔はないが、その程度でと言われても仕方ないという思いもあったから。
でも、責められなかった。どころか、想いに寄り添ってくれた。彼の方がよほど、酷い裏切りにあっただろうに。
単純にそれが嬉しくて、また会う約束を交わした。そうしてカミラは次第に、彼に心を許していった。王宮につとめる彼はとても優秀で、バーサの言ったとおり、誠実で。クルス伯爵も彼のことを気に入り、知り合って一年してから婚約。学園を卒業すると同時に結婚した。
そして、バーサとは義姉妹となった。
「──カミラ、時間だよ」
ドレス姿のカミラが、バーサからの手紙に、過去に想いをはせていると、後ろから声をかけられた。
振り返り、カミラが微笑む。
「ええ、あなた」
「行こう。みんながきみを待ってる」
「はい」
差し出された手に、そっと触れる。屋敷の広間には、カミラのための誕生日パーティーが用意され、カミラのために集まってくれた人たちがいる。
カミラは知っている。
誕生日を祝ってもらえる。それが当たり前ではなく、とても幸福なことなのだと。
だから、心からの感謝を。
たとえ、ありきたりの言葉だとしても。
「みなさま。今日はわたしのために集まっていただき、ありがとうございます」
とびきりの笑顔で。
─おわり─