前編
お読みいただきありがとうございます。
なんてことのない話。私は真実の愛の為に使われた、ただそれだけ。
侯爵家の長男と婚約した私は、その婚約者様が真に好いた平民の女と結婚する為に『悪女』にさせられた。お金に困っていた我が家――子爵家に傍若無人な悪女として振る舞うよう依頼が来て、三女であり特筆すべき部分がない私が抜擢されたのだ。
お金が入ったら美人なお姉様達に新しいドレスが着せられると喜んだ父の手前拒否を示すことは出来なくって、あれよあれよという間に私には婚約者が出来た。
「僕には好きな人がいる! 僕から愛を乞うような真似はするなよ!」
最初に婚約者様に言われたのはそんなやっすい台詞だった。ご丁寧に指さし付きだ。
「分かっております、私の役目は『悪女』として振る舞うこと」
頭を下げながらそう告げれば、満足そうに彼は鼻を鳴らした。私が彼に恋に落ちることはないだろう、冷静な頭でそう考えた。
そして、この杜撰な計画は予想に反して順調に進んでいった。
私という婚約者に嫉妬した平民女は婚約者様との仲を深めて、その可愛らしい様子はいつしか社交界で受け入れられていき、慣れない高笑いをしながら平民女を虐める私は『真実の愛で結ばれた二人を引き裂こうとする調子に乗った愚女』として囁かれるようになった。ううん、囁かれるだけではなくて令嬢達に責められた事もあった。集団リンチ怖い。
子爵家でも、私という生贄のお陰で綺麗なドレスを着れている事を知らないお姉様達は「恥知らず」と私を嘲笑った。恥知らずはどっちの方だ。父は私の機嫌を取るように優しくしてきたが幼い頃から「お前は全然可愛くないな」と言い続けてきた彼にどうして心を開けると言うのか。
私に多分な愛情を注いでくれた母は、風邪をこじらせてあまりにも呆気なく死んでしまったのでいない。
それから3ヶ月後、私は断罪されあの平民女が新しい婚約者となった。パーティーで紅茶をかけられながらポツンと立ち尽くす隣で、寄り添いあった二人は拍手喝采を受けている。まるであの二人にだけスポットライトが当たっていて、私は真っ暗闇の中にいるみたい。私の茶色の髪、最近は「排泄物と同じ色」と影で揶揄されるようになった髪に滴った紅茶が、ポタリと私の握りしめた手の上に落ちた。
その雫に便乗して、私の頰にも透明な雫が伝った。
◇◇◇
そして今、私は娼館で働いている。父に「家から出ていってくれ」と懇願されて、少ない手切れ金で辿り着いたのが此処だった。入った直後はてっきり私もそういう事をするのだと思っていたのだけど、元令嬢は異常なプライドを持っているからと人気がないらしい。此処を利用する人が求めているのは『気位』ではなく『従順』だからだそうだ。そんなプライド、もう私には無いのに。今は部屋の片付けや食事の準備をするばかり。
だが、ある日そんな私を指名する好き者が現れた。なんでも、学を持つ者を所望したらしいのだが、予算にあって学がありそうなのが私しかいなかったらしい。私は人気がないから安いらしい。少し複雑。
「まあ君にはわからないと思うけど、」
なんとも偉そうに黒髪を持つ美丈夫は話し始めた。なんでも、彼はこことは違う世界の住人で、三日前にここに来てしまったらしい。わからないと思うけど、と割り切っている言葉の割には饒舌で、私はそういう知識が求められているのかと焦った。
「……私、異世界に帰る方法は知りませんよ?」
そう言ってからハッとした。こういう可愛げのないことは娼婦は言わないだろう。でも初めてなのだから大目に見てくれないだろうか。
一抹の願いを込めてチラリと青年を見ると大目に、を越えて大笑いしだした。お腹を押さえながら肩を震わせ笑っている。さっきまでの傲慢そうな姿は離散したようだった。
暫くヒーヒー笑った後に、青年は涙を拭いながら言った。
「き、君に望んでいるのはそれじゃないよ。単純に僕の話し相手になってほしいんだ」
何がそんなに琴線に触れたのか未だに分からない。青年はようやく肩を震わせるのを止めたかと思うと、ふと切なそうな話をした。
「異世界から来た、こんな話が知られれば僕は捕まるかもしれない、気味悪がられるかもしれない。けど、この不安な気持ちを誰かに共有したくてここに来たんだ」
あぁなるほど。私は合点がいった。娼婦なら客の秘密を無責任にバラすような事はしなくて丁度いい、という事なのだろう。どうせ娼婦は『消費』されるだけなのだし。それは今まで役目が回ってこなかった私とて例外ではない。
「左様ですか」
「うん、だからここにたまに来てもいい?」
「……喜んで」
この言葉は、きっと嘘ではない。
令嬢の頃ではありえない、無防備な太ももを擦りながら私は笑うと、青年は照れくさそうに頭をかいた。
「え……っと、僕の名前はアイザック。君の名前は?」
「名前?」
暫く聞くことのなかった単語に思考が一瞬止まってから、「あぁ」と思い出した。
「ガブリエルです。ガブとでもエルとでもお好きなようにお呼びください」
実際、お姉様達が「うふふっ、『悪女』と呼ばれるような子ですもの。何か粗相をしてしまったら名前の通りガブッといかれてしまうわ」と囃し立てているのを聞いたことがある。
「じゃあエルって呼ぼうかな」
呑気に青年は言った。
「そ、うですか」
虚を衝かれてしまった。
「うん、エルは『神様』って意味なんだって。だから僕が早く帰れるようにエルに祈っとこ」
手を合わせて私に祈りを捧げ始めたアイザックに、私は一つ笑みを零した。それが二つ、三つ。いつの間にか私は大笑いしていた。アイザックも釣られたように笑っている。
それからは、彼の故郷の話を聞いた。海がとても綺麗なこと。実は筆頭魔法使い、という不思議な力を起こす凄い人であるということ。図書館にあった本を開いて、そこに描いてあった魔法陣という不思議な力を起こす印に触れたらここに来てしまったこと。ここでは魔法が使えないこと。
今は身につけていた装飾品を売って生活していること。
彼は私にも話をするよう促したけれど、早く国に帰らねば、と闘志に燃えているアイザックをみたら、なんの意思もなく悪女にされ此処まで辿り着いた私を初めて情けなく思えてしまって、とても話せなかった。
「凄いですね」
そう素直に言うと、彼はふるふると頭を振った。
「そんな事ない。僕はもっとしっかりしなきゃいけないのに」
彼の言葉になんて返せば良いのか分からなくて、学があるから呼ばれたのに、とこっそりと自分を恥じた。
そのまま朝まで同じ布団に入って寝た。薄い夜着しか身に着けていなくて少し肩を震わせていると、温かい物に体が包まれた。その感覚は初めてで、私は自分を包む正体が見当つかなかった。だけど本当に、目に涙が滲むほど温かい。
すごく、ホッとした。
朝起きると横で彼はまだ寝ていた。水が欲しくなって、私はこっそりベッドから抜け出した。
井戸に辿り着き水を飲んでいると、ベテラン娼婦であるサナさんが来た。彼女は、私の結う髪をいたく気に入ってくれていて、いつもご指名を受ける。家族からも貶される私にメイド達も従順に働くわけはなく子爵令嬢の時はいつも自分で結わえていたので、それが喜んでもらえているなら嬉しい。
サナさんも水を飲むのかと井戸から水を上げようとする私をサナさんが制した。
「ちょっとマロンと話したいと思っただけだから気にしないで」
この『マロン』というのは私の栗色の髪を見て名付けられた。娼館には過去を捨てたいと願っている人が来るから、名前は勝手に変えられるそうだ。雑だなぁ、と思わなくもないけど、この名前は可愛らしいし、皆に優しく呼んでもらえるから嫌いじゃない。
――そこで、ふと考えた。何故昨日私はアイザックに昔の名前を教えたのだろう。
彼が誰かに自分の境遇を話したように、私も話したかったのだろうか。覚えていて、貰いたかったのだろうか。
そこまで考えて、私は我に返って今の考えを振り払うように頭を振った。
「マロン、楽しそうだったね」
ふと、サナさんにそう言われた。確かに、あんなに大声を上げて笑ったのは初めてかもしれない。
「これからは、私達のことは"姉さん"と呼びなよ」
"姉さん"と呼んで。昔も言われた言葉。でも、まともに客も取れていない私が呼んではいけない、それにお姉様たちの事を思い出すからと拒否してしまった言葉。
「――はい、姉さん」
胸がいっぱいになりながら、私は礼をした後アイザックの元へ帰った。
帰ると、アイザックはもう起きていてオロオロと私を探していたようだった。
「あぁ、良かった。いなくなったのかと思ったよ」
「ふふ、いなくなりませんよ」
そう返せば、彼は照れくさそうに笑った。
そして、私と彼の交流が始まった。